紫陽花( た )
今日の渡り廊下の空は茶色くて、空気自体が汗臭く濁っていて、僕の脳みそまでもが、体育の後の数学のときみたいに、のったりと停滞している。
僕は欠伸を噛み殺しながら渡り廊下を進む。すると後ろから、揃いのニットのベストを着た女子生徒二人が、仲睦まじく話しながら歩いてきて、僕のことを追い越していった。家だとサボっちゃうもんね、そんな声が耳に届いた。
僕はその背中を、諦めの混じった気持ちで眺める。
青春の風が、図書室に持ち込まれる。テスト期間が近づいているのだ。部活動は休みとなり、みなテスト勉強にレポート作成にと、こぞって図書室にやってくる。この時期ばかりは図書室も、思索と孤独の場所ではなくなる。図書委員の当番も、テスト明けまではお預けだ。
僕はぼんやりと、屋根に遮られた空を見上げる。今日は雨も休みだ。
こうしてみると、幻想的だった梅雨の季節も、彼女との運命的な出会いも、夢まぼろしだったんじゃないかと思えてくる。
◇
図書室に到着すると、図書当番の代わりに残業対応中の司書教諭が出迎えた。図書室の中はいつもより混雑していて、閲覧席にも多くの生徒が座る。
残念ながら僕も、今日ばかりは日本文学の棚ではなく、レポート作成の資料を探しに政治や経済の棚へ向かう。
すると、やはりみな考えることは同じらしく、目的の棚にはすでに先客の男子生徒が立っていた。両手をポケットに突っ込んで、顎を突き出して本棚を眺めている。ネクタイは緩み、髪にはパーマがかけられている。
僕はその生徒を目障りに思いながらも、向こうの邪魔にならないように行儀よく資料を探す。しばらくしてその生徒が立ち去ると、僕はほっとして、もう一度始めから、ゆっくりと棚を吟味し直す。
やはり図書室に人が多いのは慣れない。特に、普段図書室と縁遠そうな生徒で溢れ返っているのには。
落ち着いたと思ったのも束の間、今度は僕の視線の先、並んだ本の向こう側に、一人の生徒が立っているのが目に入る。
この図書室の本棚には、背板と呼ばれる、本の後ろを支える板がなく、並んだ本の上部と、上の段の棚板との隙間から、向こうの景色が見えるのだ。ちょうど同じタイミングで裏側の棚を見ている人がいれば、本棚越しに目が合ってしまうこともある。そんなときは、妙に気不味い空気になるものだ。
だが今僕の向かいにいる生徒は非常に小柄な女子生徒で、目線は僕よりもかなり低く、目が合うことはなさそうだ。僕は背丈は平均より低い方なのだが、その僕と比べてもかなり身長差がある。僕は少し安堵した。
さっきの男子生徒とは違い、こちらは落ち着いた雰囲気の生徒だ。きっと図書室にも通い慣れているに違いない。青く細いフレームの眼鏡をかけていて、それがよく似合っている。その姿は、まるで――
次の瞬間、僕は心臓が止まるかと思った。
その姿はまるで彼女のようだ。僕は呑気にもそんなことを思いかけた。しかし、今、目の前に、本棚を境にして立っているのは、間違いなく彼女本人だった。あの日図書室で見た、手元の本に集中しているときと同じ表情で、僕の向かい側の棚を見つめていた。
どうする。突然の展開に、僕の身体は硬直する。すぐ目の前に彼女がいる。けれど僕の両足は竦んでしまって、一歩として踏み出すことができなかった。
僕がそうしているうちに、彼女は一冊の本をその手に取る。そして満足気な顔をすると、くるりと僕に背を向けた。僕は手を伸ばそうとするけれど、僕と彼女との間には、一架の本棚が堅牢な壁のように立ちはだかっていて、彼女は僕に気づかない。そうして僕はひとり、その場に取り残された。
ふと気がつくと、先程とは別の男子生徒が、邪魔そうにこちらを見つめていた。僕は我に返り、後ろへ下がって男子生徒に場所を譲った。みな考えることは同じらしく、この生徒もレポートの資料を探しに来たのだろう。
僕はだんだんと、冷静さを取り戻す。いま起きたことを解釈する余裕を取り戻す。すると次第に、悍ましい気持ちが込み上げてきた。
あれは、どうしたって、どう考えても、彼女に話しかける絶好の機会だった。ひょっとしたら、僕と彼女を出合わせた何かが、再び僕たちを引き合わせてくれたのかもしれない。だとしたら僕はその機会を、人ならざる何かが与えてくれたまたとない機会を、完全に無下にしてしまったことになる。
僕は自分が情けなくて、恥ずかしくて、それをどうしていいか分からなくて、しばらくそこを動くことができなかった。できることならずっとその場に留まって、自分の失敗を悔やんでいたかった。けれど、その間にも何人かの生徒が僕の前や後ろを通っていって、僕はだんだんと現実に心を引き戻されざるを得なかった。僕は仕方なく、適当な本を一冊だけ手に取ると、カウンターへ向かいに、政治経済の棚を後にした。
すると、次の瞬間、僕はまたしても心臓が止まるかと思った。
僕の向こう側から、一人の女子生徒が、こちらに向かって歩いてくるのが見える。初めは僕の欲望が見せた幻想かと思った。けれど間違いない。小柄な背丈、長く真っ直ぐな髪、正しく身につけられたベストと膝下のスカート、まさしく彼女だった。
でもどうして。とっくに帰ってしまったと思っていたのに。なぜ今になってまたこちらへ向かってきているのだろう。
いや、今度こそ声をかけるチャンスだ。このままお互い進んでいけば、必ず途中ですれ違う。やはり運命が味方しているんだ。この機会、今度こそ逃すものか。
僕は胸を張って前を見る。けれど彼女は俯きがちに歩いていて、まだこちらには気づいていない。
どうする。どのタイミングで声をかければいいのだ? 今話しかけるとなると、距離的に、かなり声を張り上げないといけない。図書室においてそれは避けたい。やはり、お互いがすれ違うその瞬間まで待つべきだろうか。
いや、それより先に彼女がこちらに気づいたらどうすればいいのだろう。そうしたら、すれ違うまでの数秒間が気不味いのではないだろうか。それなら彼女がこちらに気づくまで様子を観察して、彼女が気づいた瞬間に声をかければいいか? ううむ、それも不審ではないだろうか。そもそもこういった、対向で行き遭うときというのは、いつ話しかけるのが正解なのだ。予め決めておいてくれ。
こうなったら、ここはいったん目線を反らせてみるか。あと数歩は目線を反らせたまま進んで、ある程度近づいたところでパッと顔を上げるんだ。きっとその頃には、彼女もこちらに気づいているだろう。そうすれば、自然な形でお互いに声をかけ合える筈だ。
結論を得た僕は、あえて彼女から目線を斜めに反らし、もう一冊何か借りていこうかと逡巡するように、僕の右側に並ぶ本棚たちに視線を送る。彼女の気配が次第に近づいてきているのが分かる。そろそろだろうか。いや、まだ早い。もう少し――よし、今だ。
僕は決心し、顔を上げた。
すると、僕が顔を上げたその瞬間、彼女はその身体を、くるりと半回転させてしまった。
予想外の事態に僕は困惑し、声を失う。
彼女はそのまま、左側に並ぶ閲覧席の方へ進んでいく。そして、テーブルとテーブルの狭い隙間を、すり抜けるように通っていく。
待ってくれ。そう思ったけれど、彼女の姿はあっという間に遠ざかる。閲覧席を通り抜け、向こう側にある雑誌の棚の影に、その身をすっかり隠してしまう。
待ってくれ。僕は心の中で叫ぶ。違うんだ。僕は今、本当に声をかけようと思っていたんだ。本当だ。今度こそ声をかけようとしていたんだ。怖じ気づいたんじゃない。彼女が行ってしまうのを望んでいたんじゃない。信じてくれ。あと1秒、あと1秒タイミングが違っていたら、僕は彼女に話しかけていたんだ。本当だ。
僕は心の中で、空虚な弁明を繰り返す。それは彼女に向けたものなのか、それとも人ならざる何かに向けたものだったのか、自分自身でも分からなかった。ただ、二度も与えられたチャンスを自ら放棄したと思われるのが、僕には耐えられなかった。
いつしか雨が降り始め、それは瞬く間に激しさを増した。やがて僕を戒めるように、雷の音が鳴り響き、暗い空に稲妻が光った。
その日を境に、雨はすっかり様相を変えてしまった。梅雨と聞いて想起される淑やかな雨は息を潜め、ざるの目を抜け落ちるような雨が幾日にもわたって降り続いた。
僕は僕から、この空から、美しい梅雨の季節を奪ってしまった。
◇
そういえば、『海辺のカフカ』は最後まで読めなかった。
それは決して、その内容が難解だったからではない。読むに堪えなくなったからだ。
途中まで、その物語は確かに、僕の孤独と恋心に寄り添ってくれた。だがいつからか、登場人物の口を借りて表出された、若者を諭すような文言が目につくようになっていく。
その度に僕は、熱血教師に理想論を振りかざされているような、むず痒い居心地の悪さを感じた。それでも僕は信じて、物語を読み進めた。だがあるとき気がついた。
この本は元は「おすすめの本」のコーナーに置かれていたものだった。おすすめの本を選んだのは、他でもない司書教諭だ。司書教諭とは言え教師に変わりない。
つまり、僕が運命を感じて手に取ったこの本は、運命を信じて読み進めてきたこの本は、一人の教師が生徒の心の成長を願って選定した、「教育上相応しい物語」に過ぎなかったのだ。
僕は諦めて本を閉じ、何も言わずに早朝の返却ボックスに投げ込んだ。
大丈夫。僕は自分に言い聞かせる。
僕の周りにはまだ、いくつもの符号がある。運命はきっと、次なるチャンスをくれる筈だ。
次回は、7月11日(金)16時頃の更新予定です。