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紫陽花( よ )

 梅雨の季節が始まったのは、彼女と運命的な出会いを果たしたその次の日のことだった。


 それからというもの、僕の生活のいろいろなことが、彼女に紐付けられるようになってしまった。2年7組の教室の前を通ればそこに彼女の存在を感じ、ハーモニーを意味する「和音」の文字を小説の中に見つければそこに彼女の息遣いを感じてしまう。


 そして、その度に僕は「偶然の巡りあい」について意識する。彼女と出会ったことの意味について、想いを馳せたくなる。彼女との出逢いが、誰かに、もしくは何かに取り計られたもののように思わずにはいられなくなる。今まで愚直に本と勉学を愛し、誘惑を振りかざす軽薄な女子には目もくれず、ひたすらに孤独な道を歩み続けてきた僕に与えられた、天の配剤のように思えてくる。


 もちろん僕は、神という夢想的な存在を心の底から信じている訳ではない。けれども、日常に起きる様々の偶然に、文学的な意味合いを与えることはできる。世界に散りばめられた符号のひとつひとつを、丁寧に紐解いていくことはできる。


 渡り廊下へと踏み出すと、梅雨寒の空気が僕の肌をそっと撫でた。外は雨が淑やかに降り続いていて、世界を無数の白い絹糸で覆っていた。空は陶器のようにくすんでいて、物憂げな影を世界に落としている。僕は胸を締めつけられるような思いになる。


 今日も名前の知らない鳥が鳴いている。求愛のワルツを奏でている。切なげな半音は虚しく響く。その声は誰にも届かない。とけるように空に昇っていく。それでもその歌声は、幾度となく繰り返される。止むことのないリフレインのように。


 図書室に到着すると、今日の図書当番はまだ来ておらず、司書教諭が僕を出迎える。僕は、手にしていた『海辺のカフカ』の上巻を、返却手続きのために差し出す。


「ああ、それ、牧野くんが借りたのね。どう? 面白い?」


 司書教諭は身を乗り出すように尋ねる。


「興味深いです、中々に」


 僕はそう返す。物語の随所に散りばめられた刺激的な表現については、触れないでおく。


「下巻もあるわよ。借りていく?」


「他の本も見てからにします」


 僕はそう言って、図書室の奥へと進む。見慣れた日本文学のコーナーまで来ると、記憶を頼りに、とある作家の名前を、人差し指で探す。


 これか。僕は人差し指をそっと、本の天部分へと滑らせ、指先に力を込める。本はすっと、僕の方へ引き寄せられた。


 僕は周囲に人がいないことを確認すると、その本を両手に取った。そして、その表紙をじっくりと見る。毒々しいミステリ。


 間違いない。彼女があの日、僕の隣で読んでいたのはこの本だ。すると途端に手のひらに彼女のぬくもりが感じられ、僕はもう一度周囲を見回す。


 しかし、どうだろう。彼女が読んでいたまさにこの本を僕も選ぶというのは、少々狙いすぎではないだろうか。せいぜい同じ作者の別の作品くらいが相場じゃないだろうか。


 僕はその本を元に戻すと、隣にある、似たような雰囲気のミステリを手に取った。でも、どうも腑に落ちずそれも元に戻す。僕はストーカーになりたい訳じゃない。


 ミステリ。別段嫌いではないが、そこまで読み込んでこなかったジャンルだ。僕は頭を巡らせながら、日本文学の棚を歩き回り、外国文学へも足を伸ばす。けれども、やっぱりしっくりこなくて、文庫の方も見始める。


 そしてすぐに、これ以上ないくらい相応しい名前が目に入る。


 江戸川乱歩。言わずと知れたミステリの巨匠だ。知的かつ王道。ミステリに興味のある男子生徒が手に取って不自然のない作家だ。


 さすが名高い作家なだけあって、文庫だけでも複数の作品が並ぶ。僕はそのひとつひとつを手に取り、裏表紙の解説を見て、また棚に戻す。それを何度か繰り返した後、最終的に一冊の本を開き、親指でページをさらさらとめくると、それも棚に戻した。そして満足気に来た道を戻ると、お勧めの本のコーナーから、『海辺のカフカ』の下巻を拾い上げ、カウンターに目をやった。


 司書教諭はすでに退勤したようで、図書委員の男女が話しながら当番をしていた。僕はそれを見て、少し眉を寄せる。


 男の方はネクタイをだらしなく緩め、女の方はリボンを緩めニットのベストを着ている。そして、なんとか先生がどうとか、当番の仕事とはまったく関係のないことをべらべらと喋っている。図書室の静寂を守るために男女ペアで当番を担うという本来の目的はどこへ行ったのだろう。


 今日の当番はどちらも1年生だ。上履きの色を確かめなくとも、当番表は何度も見ていたから知っている。僕は同じ委員会の上級生なのだから、注意したって構わない。だけど、そんなことはせずに、僕は仄かな軽蔑の視線を向けながら、貸出手続きを依頼する。


 本を差し出された男子学生は、お喋りを中断させられたのが不満なのか、むすっとした顔で手続きを済ませる。僕は本を受け取ると、再開したお喋りを背にしながら、図書室を出る。


 ◇


 当番表を何度見返しても、僕と彼女の名前は遠く引き離されていて、その名前が再び隣に並ぶなんてことは、天文学的確率なんじゃないかと思う。


 そうなると、僕が彼女と接触できる可能性があるのは、彼女が図書室へやって来て、カウンターに座っていることが確約されている日、つまり彼女の当番の日しかない。その日が今日、ついに訪れた。


 今日の雨は、窓を閉め切っていても、その音を教室中に響かせている。昼休みの教室の喧騒に負けじと、その轟音を響き渡らせている。


 僕は弁当も出さずに、立ち上がる。彼女は今日、昼休みの当番になっている。放課後ほどの時間の猶予はない。かといって、あまり早く行きすぎては、まだ彼女がカウンターに座っていない可能性もある。僕は、タイミングを充分に見計らいながら、教室を出る。


 渡り廊下のドアを開けると、雨音の轟きは存在感を増し、生々しく泥臭いにおいが鼻をつく。僕は、恐る恐る先へ進む。


 天は太さの様々な糸を乱れるように地に落とし、そのいくつかが手すりに当たると、白いしぶきとなって弾け飛ぶ。跳ねたしぶきは冷たい針となり、僕の皮膚を刺激する。


 そして、無数のその糸は、鋼の粒へと形を変え、渡り廊下の天井を叩き付ける。不規則な音が一心不乱に、僕の頭上で打ち鳴らされる。


 天井から吊り下げられた蛍光灯は、急に存在感を増し、等間隔に並ぶ柱の、金属の塗装を煌々と照らし、そのひとつひとつに光の輪郭を作る。


 僕は五感のほとんどを奪われて、思索から最も遠い場所へと運ばれる。いつもの鳥も今日ばかりは、この雨で鳴りを潜めている。


 僕はこのまま進むべきか、それとも後戻りすべきか、恐怖にも近い不安に襲われる。けれどもそうしているうちに、渡り廊下をほとんど進み切っていて、その事実が僕を前へと向かわせた。


 果たして彼女はそこにいた。図書室のカウンターの、入り口から遠い方の椅子に、ちょこんと行儀よく座っていて、静かに教科書とノートを開いていた。


 この前と同じ、長い髪に、青い眼鏡。制服は今日もきちんと着こなされている。その姿に僕は、一気に五感を取り戻す。


 彼女は僅かに目線を上げ、僕の存在に気づいたようだ。僕は目線を合わせすぎないように気をつけながらそちらを見やり、「ああ、いたんだ」というような反応を残した。


 彼女がそれに対してどうリアクションしたのか、僕は確かめる間もないくらいに一瞬で目線を離してしまい、それを背中で後悔しつつ、図書室の中へ入っていく。


 そういえば彼女の隣の男子が、どんな奴か確かめるのを忘れていた。でも彼女が静かに勉強道具を開いていた様子からして、きっと積極的に彼女に話しかけにいくような奴ではないのだろう。それに今日の当番の男子は1年生だ。わざわざ知らない先輩にちょっかいを出すようなこともないだろう。


 いや、そもそも彼女は、たとえ隣から話しかけられたって、図書室の静寂を乱すようなことはしないのだった。そのことが確認できて、僕はちょっとだけ安心する。


 僕は気を取り直して日本文学の棚へと進み、本を選定するような仕草をしながらその辺りを適当に巡り、何を借りようか決めかねている調子で外国文学の棚へと進み、文庫の方へも目をやって、「なんとなく」江戸川乱歩の本を手に取った。それから「まあ、これでいいか」という調子で裏表紙を眺め、カウンターへ向かって歩き出した。


 ここまでは計画通りだ。事前に下見しておいた通りだ。あとはこれを、彼女の座るカウンターに差し出して、貸出の手続きを依頼するだけだ。すると彼女は、自然とこの本を目にすることになる。一目でミステリと分かる暗々しい表紙と、誰もが知る作者の名前を、どうしたって視界に収めることになる。彼女はそれに興味を示す。僕はそれに応えればいい。


 大丈夫だ。僕は震える手を抑えようと努める。カウンターに向かってからのやり取りは、何度もシミュレーションしてある。僕は繰り返し、大丈夫だと言い聞かせる。やがてカウンターは目の前に迫り、僕は本を持った手を伸ばし、口を開く。


「2年4組、牧野想吾……です。ええと、お疲れ様」


 信じられないほど掠れた声だった。僕の声帯はシミュレーション通りの仕事をせず、焦りがさらに、発する言葉を頼りなく弱々しいものにしてしまう。


 それでも彼女は小さく「あっ」と喉を鳴らした後、はにかんだように「お疲れ様」と返してくれた。それだけで僕は体が弾け飛びそうな気持ちになりながらも、その表情をきっと僕は何度も反芻することになるんだろう、と妙に冷静な僕がそう思った。


 彼女はすぐに目線を落とし、手元のファイルから僕に割り当てられたバーコードを探す。その作業を邪魔するべきではないと思い、僕はぐっと押し黙る。そして、彼女は該当のバーコードをスキャンすると、僕が差し出した本に手を伸ばしたと思ったら、表紙には目もくれずに、すぐさま本をひっくり返した。


 今度は僕の方が「あっ」と声を漏らしそうになる。折角吟味して選んだ一冊。ミステリとすぐ分かる表紙と、作者の名前。


 彼女はそんな僕の様子にも気がつかないまま、本の裏面に貼り付けられたバーコードに、手にしていたバーコードリーダーを当てる。ピッという音が無機質に響く。


「返却日は、6月30日です」


 彼女はそう僕に告げた。それは、貸出の手続きが――僕と彼女の接触の機会が――これで終わったということの宣告だった。


「どうも――……それじゃあ……」


 僕はそう返すのが精一杯だった。そして、動こうとしない足をなんとか引きずって、ひとり図書室を後にした。


 ◇


 渡り廊下の外気を吸って、しばらく呼吸をしていなかったことに気づく。この数分間か十数分間か、僕の心はいろいろな方向に曲がりくねって飛び散って、でもそのひとつひとつを振り返って回収する気には、今は到底なれなかった。


 ついさっきまであんなに僕の心を乱していた大雨は嘘のように小降りになっていて、ひんやりとした空気だけが置き土産のように残されていた。


 僕は霞がかった空を眺める。僕は何を期待していたのだろう。実際のところ、僕が何を期待していたのか、僕にも分からない。ただ、僕の中の彼女は、きっと興味を示してくれる筈だった。


 あの状況で、あれ以上どうすればよかったのだろう。僕の頭は無意味なシミュレーションを始め出す。僕はそれを振り払う。考えたところで仕方のないことだ。このミステリだって、彼女が興味を示してくれないのなら、読んだところで仕方がない。


 一度はそう思ったのだけど、今後万が一にでも彼女とこの本の話題になったときに、自分が借りた本を読んでいないとなると不自然だし、ミステリの巨匠にも失礼な気がして、仕方なく読み始めることにしたのだけど、これが読み始めると恐ろしい。この文庫本は、乱歩の短篇やら中篇やらを、複数作収め刊行されたものなのだが、ひとたび一つの篇を読み出そうものならば、蟻地獄のようにじりじりと、物語の核心へと引き込まれ、オセロのひっくり返し合いのような、息もつかせぬ展開に、手に汗握らされたかと思いきや、最後の最後の結末だけは、存外あっけないもので、読者は置いてけぼりをくらった心持となり、心の穴を埋めるように次の篇に手を出したら最後、読者はまた、次の篇を読み通すまではもう、この本から目を離せないのである。


 そうしているうちに僕はもう、最後の篇の終盤の畳みかけるようなやり取りに、青白く儚げなひとりの女が、肌にまっ赤な血をにじませるみだらで狂った陰獣へ、みるみる変貌する様に、我を忘れてのめり込んでいたのである。

次回は、7月4日(金)16時頃の更新予定です。

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