紫陽花( か )
司書教諭は退勤し、図書室のカウンターには僕と彼女の二人が残された。僕は急に心細くなる。後は若い者だけで、と格式高いお座敷に取り残された男女も、同じように不安に思うものなのだろうか。
自己紹介がまだだったことに気づき、僕は口を開く。
「ええと、僕は4組の牧野想吾。今日はその……よろしく」
「私は7組の村戸和音。こちらこそ、よろしく」
彼女も僕に倣ってそう名乗った。当番表で目にしていた文字列が、俄かに鈴の音のような響きを帯び始めた。僕は戸惑いながらも次の言葉を続ける。
「ええと、今日はとくにやる仕事はないってさ」
「うん」
会話はそれ以上続かず、彼女は鞄から教科書とノートを出し始める。しかし途中で手を止め、ちらりと僕の席を見る。僕の席に置かれた、『海辺のカフカ』を見る。
彼女は今出したばかりの教科書とノートを、逆再生するように鞄に戻す。
「私も何か読もうかな。ちょっと、探してくるね」
そう言って立ち上がると、彼女は図書室の奥へと向かった。
彼女が、僕を見て僕と同じ行動を選んだ。その事実を僕は復唱するようにじわじわと噛みしめる。
少しして、彼女は戻ってくる。手に持っていたのは、いかにも毒々しそうな表紙のミステリだった。意外とそういうものが好みらしい。外見からは窺えない彼女の趣味が垣間見れ、僕は得意気な気持ちになる。
それから僕たちは、静かに本を読み、時々来る貸出や返却の手続きを粛々と行った。男女で当番を行うことで図書室の静寂を守るという当初の目的は悲しいほどに達成されていたが、そうした沈黙さえも愛おしく、僕は満たされた気持ちになって、物語に紡がれたひとつひとつのフレーズに思いを馳せた。
彼女を目にした瞬間は、これまで同じ委員会に所属しておきながら、なぜもっと早く彼女の存在に気づかなかったのだろうと悔やみさえした。だがこれでよかったのだ。退屈な委員会の集まりの中で彼女を認識してしまっていたら、今感じている気持ちはもう少し違ったものになっていたかもしれない。
思えば、彼女の登場はあまりに完璧なタイミングだった。彼女は僕が本から目を離し、ちょうど彼女の噂話をしていたところに、息を切らして飛び込んできたのだ。まるで、僕が噂していたのを知っていたかのように。もちろん実際にはそんなこと知っている筈がない。けれどもきっと、そこには何かの意味がある。
そんなことを考えながら僕はページをめくる。そして思い出す。渡邊先生は多少過激な表現のある本でも、お構いなしにお勧めの本に選定する。青少年の教育上、それはあまり好ましくないんじゃないかと思う。だけど、僕はそうしたシーンから目を離せない。そうした単語から目を離せない。その結果自分の身体に起こる変化を止められない。耳はきっと真っ赤になっている。
僕は慌ててページを進める。そして横目で隣を見る。
彼女は僕の様子に気づくことなく、手元の本に集中していた。その姿には隙が無い。ブラウスのボタンは襟元まできちんと留められて、その奥を窺い見ることを許さない。かっちりとした素材のベストは身体のラインを隠し、その先を想像させる余地を挟まない。
その姿は、物語に登場する無防備な「彼女」とも、或いは先程カウンターに訪れたふしだらな装いの女子生徒とも、まったくと言っていいほど異なっていた。その稀有な高潔さに、僕は好感を抱く。尊いとさえ思う。
彼女の指がページをめくる。小さく、少し頼りない指だ。爪はもちろんなんの加工も施されていない。自然のままの爪だ。
僕は彼女から目線を外すと、またぼんやりと図書室を眺めた。そして本に意識を戻し、また活字を辿る。
それからまた静寂の時間が流れたが、ふいにその静けさが、控えめな声でノックされる。
「和音ちゃん」
その声は彼女に向けられたものだった。顔を上げると、一人の女子が彼女の前に立っていた。どことなく彼女と雰囲気の似た女子だ。彼女と違うところは、髪が彼女よりやや短くてうねりを帯びていることと、肌がそばかすだらけであること、かけられている眼鏡が主張の強い黒縁眼鏡であることだった。
「るりちゃん」
彼女は、その女子をそう呼んだ。
「今日、当番だったんだね」
「うん。るりちゃんは?」
「これ返却しに来たんだ」
その女子はそう言って一冊の本を彼女に差し出した。沖縄の歴史に関する本だ。おそらく修学旅行の事前学習か何かで使ったのだろう。彼女と雰囲気の似たその女子は、随分と彼女と親しそうだ。クラスメートだろうか。
「どう? 7組は」
しかしその女子はそう続けた。それに対し彼女は答える。
「全然馴染めないよ。休み時間はいつも寝てるか本を読んでるの。学年末までずっとこのままかも」
「そっかー。7組、チャラい感じの人ばっかりだもんね。違うか。1年8組が大人しかったのか」
僕は食い入るようにその会話を聞いていた。どうやらその女子は、現在でなく去年のクラスメートだったようだ。そして、彼女は現在のクラスに馴染めていないらしい。それを知って、僕はますます彼女に興味を抱く。親近感に近いものを抱く。
「それこそ修学旅行とか心配だよ」
彼女は憂い気に溜息をついた。
「自由行動は、一緒に回ろうね」
「うん」
「じゃあ、またね」
そう言って、その女子は去っていった。彼女は名残惜しそうにその女子の背中を見つめると、黙って残された本の返却処理をした。
僕は彼女に何か声をかけたい気持ちになって、やはりそれは気持ちのままに留めておくことにした。そして、教室の隅でひとり佇む彼女を想像した。その陰影を想像した。
そこへ、3人の生徒がガヤガヤと話し声を響かせて入室してきた。女子が1人に、男子が2人。1人の女子を取り囲むように、その両脇に男子が立っている。男子のうちの1人と女子の方は、背中にギターケースを背負っている。この高校には軽音楽部がないので、文化祭でバンド演奏をする生徒たちかもしれない。上履きの色から、僕たちと同じ2年生であることが分かった。
「あれー、村戸ちゃんじゃん。そっかー、村戸ちゃん図書委員だったっけー」
女子の方が、彼女を見るとそう言った。知り合いのようだ。しかし、その姿は彼女とは対照的だ。ボブヘアーをカールさせていて、制服の着こなしもだらしない。リボンは緩み、ベストは身に着けていない。
「図書委員とかイメージ通りだわー。似合う―」
その女子はそう続けた。嘲笑するような言いぐさだった。
隣にいる男子2人も、馬鹿にするかのように下品な笑い声を上げた。この2人も彼女と顔見知りのようだった。どちらも整髪料をつけて、ネクタイの結び目を緩めている。
きっとこれがさっきの女子が言っていた「チャラい」クラスメートなのだろう。僕は彼女を守らねばという思いになる。
すると、男子のうち、ギターケースを背負っている方が、僕を一瞥して言った。
「てか、図書委員って本当に男女で当番やってんだね」
「ねー笑える。お似合いじゃん」
女子が重ねるようにそう言った。悔しいことに、冷笑するような言い方だった。男子たちもまた下品な声で笑った。
僕は、馬鹿にされたことが悔しくて、お似合いと言われたことが嬉しくて、顔を赤くする。気づかれるのが嫌で下を向く。そっちなんて男女で音楽をやっているんじゃないか。男女混合バンドなんてどうせふしだらな関係なんだろう。とても口には出せなかったが、言い返してやりたい気持ちだった。
そもそもこの3人はなんの為にここまでやってきたというのか。用もないのに場を掻き乱すのなら、さっさと帰ってもらいたい。
「そうそう」僕の声が聞こえたみたいに、女子の方が鞄から一冊の本を取り出した。「これ返しに来たんだった」
そしてその本を無造作に彼女の前に置く。沖縄の音楽に関する本だった。さっきの女子と同じく、修学旅行の事前学習の本のようだ。そこは音楽で統一されているのかと、その点だけは妙に感心してしまう。
「じゃ、よろしくー。がんばってねー」
目的を済ませて満足したのか、3人はそう言って去っていった。
その場には、僕と彼女の2人が残される。
「えっと」彼女は消え入りそうな声で言う。「ごめんね、うるさくて。うちのクラスの人たちなんだ」
「気にすることないよ」僕は答える。
彼女が気にする必要などない。むしろ彼女も被害者だ。図書室は本来、僕たちのような日陰に生きる者たちのための空間だ。ああいった陽なたに生きる生徒たちから逃れられる唯一の場所だ。それなのに、彼らは彼らの方からのこのことこちらへやってきて、この平穏の場を穢したのだ。
そんなことを思ってからふと、彼女の謝罪は図書室を騒々しくさせたことではなく、僕らに対する「お似合いじゃん」という言葉に対してだったのではないかという考えが浮かんだ。だとしたら僕はどう返せばよかったのか。けれども実際の所それがどちらだったのが確かめる術もなく、僕はただそのことについて思いを巡らせたのだった。
◇
「じゃあ、鍵は私が返しに行くね」
当番の時間は無事に終わってしまい、彼女は図書室の鍵を閉めてそう言った。図書室前の廊下は薄暗く、その陰がどこまでも続いていきそうだった。
「いや」一緒に行くよ、とは言えず、僕は続ける。「僕が行くよ」
すると、彼女は少しきまり悪そうな顔になる。
「大丈夫、今日は私が遅刻しちゃったから」
あんなのは遅刻に入らないよ。脳内に浮かんだ台詞は喉元まで到達せず、よろしくという空虚な四文字だけが口から発せられた。
そうして僕たちはごく簡単に別れの挨拶を交わし、彼女は駆け出すように職員室へと向かっていった。その背中を、僕はずっと目で追った。遠ざかる彼女の姿はどこか儚げで、目を離してしまったら、空気に吸い込まれて消えてしまうんじゃないかと思った。
渡り廊下のドアを開けると、分かっていたみたいに、雨が降り始めていた。
次回は、6月27日(金)16時頃の更新予定です。