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紫陽花( わ )

 梅雨前に独特の、しめり気を帯びた空気が漂う。空はまだ雨を降らせていないが、あらゆるものを煙たげなヴェールで覆い、その輪郭をうすぼんやりと溶け合わせている。


 僕はその世界を壊さないように、ゆっくりと渡り廊下へ降り立つ。すると世界は僕をそっと包み込み、その中へと同化させてくれる。


 遠くからおぼろげに、名前の知らない鳥のくぐもった声が響く。妙に癖のあるその歌声は鳩の一種によるものだと伝え聞くが、僕の中の鳩のイデアとは少々違ったリズムを刻んでいる。その声はまるで、この6月の空気の陰鬱さを演出する舞台装置のようだった。


 でも、この陰鬱さは決して厭うべきものではない。むしろこの暗く重怠い空気こそが、僕たちを現実世界の軛から解放し、深遠で寂莫とした思索の世界へと誘ってくれる。目のくらむような日差しとうららかすぎる風に惑わされる季節は、漸く終わりを迎える。思索と孤独に相応しい、物憂げで情緒に満ちた梅雨の季節は、すぐそこまで近づいている。


 いつの間にか鳥も鳴き止み、あたりは真の静寂に包まれる。まったく、さっきまであの喧騒の中にいたのが嘘のようだ。学校というものはなぜ、知識を広げ思考を深めよと命じておきながら、それにもっとも適さない空間を提供するのだろう。あのような騒々しい場所では、思考も勉学も捗る筈がない。


 だが、学校の中にもひとつだけ、それに相応しい場所がある。騒々しいこの学校の中で唯一といっていい、静謐で高尚な空間だ。それは誰にとっても開かれているようで、限られたごく一部の者だけが扉をくぐる隔絶の場所であり、悠久の時を経て紡がれた先人たちの知恵に満ちながら、刹那に過ぎる青春を送る者たちがその跡を辿ることを許す研鑽の場所でもある――


 図書室だ。


「あら牧野(まきの)くん、早いのね」


 そこへ足を踏み入れると、司書教諭である渡邊(わたなべ)先生は、そう僕に声をかけた。僕はお疲れ様ですと挨拶する。


 ここはなんの変哲もない公立高校で、僕はそこへ通う2年生だ。僕はこの学校の図書委員会に所属しており、今日は僕が放課後の図書当番を務める日である。もっとも、図書室へは当番以外の日も足繁く通っており、司書教諭とも普段から顔馴染みなのだが。


「今日は何か仕事はありますか?」


 僕は司書教諭に尋ねる。図書委員はなにも、カウンターに座って本の貸出を行うだけが仕事ではない。新しく追加された本へのラベル貼りや、本の整理や補修といった業務も任されている。それらは司書教諭の仕事でもあるが、日中に終えられなかった業務は放課後に図書委員が引き継ぐことになっているし、生徒がそうした役割を担うことも委員会活動のひとつの意義である。


「ううん、今日は全部終わっちゃったから、本読んでていいわよ」


 しかし渡邊先生はたいていの場合、必要な仕事は自分ひとりで片付けてしまう。それに限らず、図書便りの作成やお勧めの本の展示なども、すべて喜んで引き受けている。教育上は、生徒に多少仕事を割り振った方が良いのではなかろうか。きっとこの人は家庭では、膝のすり切れた息子のジーンズに喜んでアップリケを縫い付けるタイプなのだろう。


 とは言え、そのお陰で図書委員は、当番のあいだ堂々と本を読んでいることができる。生徒によっては、勉強道具を持ち込んで課題や授業の予習を行う者もいるが、僕は折角この静寂に満ちた図書室という場を司るのであれば、自分の好きな本を心ゆくまで堪能していたいと思う。


「私は村戸(むらと)さんが来るまで待ってるから」


 司書教諭はそう続けた。「村戸さん」というのは、今日のもう一人の図書当番の名前だ。ここに来る前に当番表を確認したばかりだから記憶に残っている。2年4組、牧野想吾(そうご)の名前の隣には、2年7組、村戸和音という文字列があったはずだ。面識のない、知らない女子の名前だった。厳密に言うと、委員会の集まりで同じ空間にいたことはある筈なのだが、別段僕の記憶には残っていない。


 この高校の図書委員はなぜだか、男女ペアで当番を組まされることになっている。図書委員会の担当教諭の山本(やまもと)先生曰く、同性同士だとお喋りがはずみ、厳粛な図書室の運営に支障をきたすからということだそうだ。


 だが僕の読みではそれは建前で、本当は僕のような異性に縁のない図書委員に、異性と接触する貴重な機会を提供してくれているのだと踏んでいる。山本先生はお世辞にも女性に縁があるようには見えず、俺のようにはなるなという切実なメッセージが受け取れる。


 もちろん男女が一緒に当番になったからといって、ロマンスが芽生えるとは限らない。そもそもこれまでペアになった女子は皆、図書委員にしては活発すぎて、僕に興味など示さなかった。僕の方だって、そういう人は願い下げた。


 本を読んでいていいと言われたので、僕はカウンター裏に鞄を置き、これから読む本を選定しにいくことにした。鞄の中には読み途中のライトノベルがある。けれども、それこそ年頃の女子の隣でそれを開くのは気が引ける。もちろんライトノベルも立派な文学作品であり、今読んでいるものも非常に味わい深く示唆に富む作品なのだが、表紙や挿絵の美少女のイラストだけで誤解されては勿体ない。


 放課後が始まったばかりの図書室には人影もなく、薄暗い室内には無数の本たちだけがひしめき合う。僕のお気に入りは、図書室の中ほどにある日本文学の棚だ。しかし、そこへ向かおうとした僕の足を、何かが引き止める。


 そこには、司書教諭が作成したお勧めの本のコーナーがあった。数冊の本が並べられている。でも、僕の足を止めた主は、きっとこの本に違いない。


 『海辺のカフカ』。村上春樹の作品だ。


 上巻と下巻に分かれていて、僕はそのうちの上巻を手に取った。表紙は日焼けのせいで青みがかっていて、開き癖や補修の跡も見て取れる。きっとこれまで数えきれないほどの生徒たちの手を渡ってきたのだろう。けれども不思議とその本は、ずっと前から僕を待っていてくれたような気がした。


 僕はその本を大事に抱えると、自分自身で貸出手続きを行った。そして、カウンターに座ると、ゆっくりとページをめくった。僕は次第に、その独特の世界観へと引き込まれる。


 いつも思うことだけど、本というものは、なんと不思議な媒体なのだろう。


 本はいつも、ありもしない記憶を呼び起こしてくれる。乗ったこともない夜行バスの車窓ににじむ、見たこともない真夜中の高速道路の明かりを、遠い昔に自分がじっさいに見ていたかのように、ありありと目の前に映し出してくれる。


 それは僕がはじめて目にする世界であり、そしてずっと前から知っていた世界だ。僕がかかえていた孤独が、手のひらの上の紙面に投影される。


「3年9組、吉野(よしの)


 すると、もうあとほんの少しで第1章を読み終えるという間の悪いところで、一人の女子生徒がそう言って僕の前に立ち、一冊の本を無造作に置いた。僕は仕方なしに本を閉じ、伝えられたクラスと名前をもとに、この女子生徒に割り当てられたバーコードを、全校生徒のバーコードが印字された表の中から探す。それを手元のバーコードリーダーでスキャンし、続けて本に添付されたバーコードを読み取ると、貸出の手続きが完了するという流れだ。


 僕が手続きをしている間、女子生徒は退屈そうに、こちらを見下ろしていた。表情は気怠げだが、その顔立ちはひどく整っていた。いわゆる万人受けする美人だ。


 だが問題はその服装だ。この学校では女子にのみ、学校指定のベストの着用が義務付けられている。けれども、スカートと同じ素材の紺色のベストはこの学校の女子から評判が悪く、みな思い思いの好きなベストを着用してきたり、或いはブラウス一枚だけで登校してくる生徒もいる。この生徒もベストを身に着けておらず、ブラウスからはピンク色の下着が透けている。首元のボタンも大胆に開かれ、スクールリボンもゴムが伸び切っている。何重にも折り曲げられたスカートには不自然な皺が入っており、その下の太ももをむき出しにしている。


 僕はそれらに視線を送らないように注意しながら手続きを終えると、返却期日を女子生徒に伝える。女子生徒は返事もせず去っていった。


 僕は気を取り直して第1章の残りに目を戻す。でも、一度現実世界に引き戻された思考はすぐには元に戻らず、僕の両目は空虚にインクの上をなぞった。まだ次の章に進む気にはなれなくて、僕は一度顔を上げ、図書室全体をぼんやりと眺めた。そして、思い出したように時計を見る。隣でPC端末に向かっている司書教諭に声をかける。


「まだ、来ないんですね」


 僕がここに来てから、随分と時間が経っている。けれども「村戸さん」は姿を現さない。もうとっくにHRも終わっている頃だ。


「大丈夫、そろそろ来る頃よ」


 けれど、司書教諭は軽い調子でそう答えた。


「7組の高橋(たかはし)先生はいつもHRを長引かせるの。あの子はさぼるような子じゃないわ」


 別にさぼっていると決めつけた訳じゃない。ただ遅いのでどうしたのかと思っただけだ。だがそれはそれとして、司書教諭がそれだけの信頼を寄せる「村戸さん」とは、いったいどんな女子なのだろう。司書教諭の一言は僕の興味を誘った。新たな出会いへの、仄かな興味を抱かせた。


 すると、司書教諭はこちらへ目配せをして、囁いた。


「ほら、噂をすれば」


 その言葉に僕は顔を上げた。ほとんど反射的に顔を上げた。すると、まさに僕が顔を上げた瞬間――ひとりの少女が、僕の視界に飛び込んできた。


「村戸です。すみません、遅くなって」


 僕はその姿に、目を奪われた。


 その佇まいは子供のように小柄で、それでいて淑やかで楚々とした雰囲気を纏っていた。髪は肩よりも長く、触れば本当にさらさらと音がしそうなくらい、一本一本が絹糸のように真っ直ぐに伸びている。血色の良すぎない肌は陶器のようにきめ細やかで、その上に遠慮がちに乗せられた金属製の眼鏡は、この季節の空気を凝縮したかのように物憂げな青色をしている。制服は、間違いなくこの学校の誰よりも美しく着こなされていた。校則通りのベストと膝下丈のスカートは鎧のように彼女を護り、首元にたゆみなく留められたスクールリボンはまるで羽を休めた蝶のようだった。


 本当に、こんな少女が同じ委員会にいたのだろうか。どうして今まで、彼女の存在に気がつかなかったのだろう。


 彼女はまさに、「図書委員の女子」のイデアだった。



次回は、6月20日(金)16時頃の更新予定です。

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