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花水木( を )

「よかったですね。口座もカードも無事で」


 電話を切ると、彼女は馬鹿に明るい声で、そう言った。


 私は椅子にもたれ掛かったまま、テーブルの斜向かいに座る彼女を見遣る。


 結局の所、銀行の支店に、山田という人はいなかった。口座が使えなくなるという話も、封筒を送って来たという話も、全くの出鱈目だった。銀行が電話で番号を尋ねるなんて事は、絶対に有り得ないという事だった。


「……ねえお前さん、あれは本当によかったのかい?」


「『あれ』?」


「向こうの人に訊かれて、口座番号やら住所やら答えた事さ」


「ああ、それは、こちらからかけた電話なので、大丈夫ですよ。それこそ悪い人が、中井さんの振りをして問い合わせようとするのを防ぐ為に、必要な事ですから」


「……そうかい。ならいいんだけどね」


「でも銀行の人も言ってましたけど、やっぱり非通知は怖いですね。銀行は必ず番号を通知しているって事でしたし、今後非通知の電話は出ないようにした方がいいかもしれないですね」


 彼女は、悪びれもせずそう言った。こちらはとっくに、そうしていたというのに。彼女が来ている間でなければ、非通知の電話など出ていなかったのに。けれどもそう言った所で、愚かな年寄りのみっともない言い訳に聞こえるだけだ。私は押し黙る。


 すると、彼女は口を開く。


「それじゃあ、次は警察に連絡しましょう」


「警察にも言うのかい?」


 私は、すかさず言い返す。


「勿論です。今回、実際の被害には遭わずに済みましたけど、詐欺グループに中井さんの情報が洩れているかもしれません。今後の被害を防ぐ為にも、警察には連絡しておきましょう」


 彼女は、当然の様に言う。


「そんな、警察の世話になんてなる様な事じゃないさ」


「そんな事ありませんよ。中井さんは実際に、詐欺の犯人とお話してしまったんですから」


「でも……警察になんて言ったら、大事になるじゃない。そうなったら――」


 私はそこまで言ったのち、口をつぐむ。それから、恐る恐る尋ねる。


「娘にも、知らせるんかい?」


「勿論ですよ。娘さんにも、お知らせしないと」


 彼女はまた、至極当然の様に言う。


「いいさ。娘は今、旦那の親の事で忙しいんだから、余計な心配かけさす訳にはいかないさ」


 私は言い返す。でも、それは建前だ。


 本当は、娘に怒られるのが怖いのだ。


 詐欺になんて引っ掛かったと知れたら、何を言われるか分からない。まず、言いつけを破って非通知の電話に出た事だけでも、咎められるに決まっている。その上危うく、暗証番号を口外して、全財産を騙し取られる所だったのだ。怒られるどころの騒ぎじゃないだろう。


「でも、それとこれとは別ですよ。それに会社としても、報告しない訳にはいきませんよ。業務としてお伺いして、お仕事をしている間に起きた事なので、こういう事がありましたよーっていうのは、ご家族にも説明しなきゃいけないんです」


 彼女はまた、四角四面な事を言う。それはそちらの都合じゃないか。言い返してやろうと思ったが、彼女は尚も続ける。


「それに、一度こういう電話があると、いつまた同じ様な電話があるかも分からないじゃないですか。今回はたまたま私がいて、たまたま被害が防げましたけど、今度はお一人の時にかかって来るかもしれませんよ。その時に被害に遭わない様に、ちゃんと警察に伝えて、娘さんとも話し合って――」


「なんだい自分の手柄の様に」


 とうとう黙っていられなくなり、私は口を開く。


「あんたはそうやってねえ、自分が被害を止めたかの様に言うけれど、そもそもあんたがいなかったら、非通知の電話に出る事もなかったんだよ」


 私の言葉に、彼女は目を丸くする。


「そうさ。非通知の電話なんて、危ないから普段なら出てないさ。今日だけあんたがうちにいたから、あんたが気にするかと思って、わざわざ今日だけ出たんだよ。あんたがうちにいなかったら、こんな事にはならなかったよ。それをなんだい偉そうに! こっちの気も知らないで! 大体ねえ――」


 言いながら段々と、頭の熱くなるのが分かる。私は堪える様に、奥歯をぐっと噛み締める。だけども言葉は止められなくて、情けない声が外へ出る。


「――あんたが、あんたらがいつも、難しい事ばかり言うからだよ! 年寄りに分からない事ばかり言うからだよ! 介護保険の決まりだとか、個人情報がどうとか、リニューアルがどうとか下請けがどうとか! 訳の分からない事ばかり言って、私らを置き去りにするからだよ!」


 彼女が驚いて、こちらを向いている。もう構うもんか。私は開き直る。彼女とのつき合いも、どうせ今週限りだ。最後に一言、聞かせてやればいいんだ。


 私は息を、目一杯吸い込んだ。


「――年寄りにとっちゃあ、この世の中みんな、詐欺みたいなもんだよ!!」


 それだけ言い切ると、私は、がっくりと肩を落とす。


 年老いた肺がびっくりしている。今日はどうしてこうも、大声ばかり上げさせられているのか。徐々に冷静になってくる頭の隅で、そんな事を思った。


 彼女は別に、何も言って来ない。何もこちらに声を掛けない。


 この人ときたら、こんな時まですましているのか。年寄りの魂の叫びなんて、彼女の心には響きもしないか。


 私はちらりと顔を上げ、彼女の顔を一瞥する。そして大きく目を見開く。


 彼女は、こちらを真っ直ぐ向いて、ハラハラと涙を落としていた。


「あ、いや――」


 少しばかし、言い過ぎたか。或いは、今時の大人しい若者に、怒鳴り声は堪えたか。


 私が狼狽えていると、彼女は、飛び出す様に立ち上がる。


「ちょいと――」


 そして私の隣へ来ると、彼女は止める(いとま)もなく、その細っちい両の腕を、こちらに向けて大きく広げる。座ったままの私の体を、包み込む様に抱き締める。


「そうですよね、そうですよね……!」


 涙交じりの声が、頭のすぐ上から響く。


「だって、そうですよね……そうですよね……!」


 それしか言えなくなったみたいに、彼女はただ、繰り返す。


 余りにぎゅうと抱き締めるから、私はただされるがままに、項垂れる様に縮こまる。そうして私は暫くの間、彼女のいつも履いている黄緑色の靴下を、見つめているしか出来なかった。


 ◇


「お前さん、本当に時間はいいのかい?」


 皺くちゃになった洗濯物を叩きながら、私は尋ねる。


「大丈夫です。次の方の所へは、代わりの人が行ってくれてますから。この後はもう、事務所へ戻るだけですから」


 洗濯物を叩く手を止めて、彼女は答える。


 あの後すぐ、彼女は平静を取り戻した。私も大人しく彼女に従う事にして、彼女が警察へ連絡した。警察はもう慣れっこなのか、特に事を荒立てる事もなく、電話一本で用を終えた。彼女は娘へも連絡したが、電話は留守だった。ほらやっぱり娘は忙しいからと私は言い、それなら間を空けて、事務所に戻ってからまたかけ直しますと彼女は言った。


「中井さんこそ、今日はもうお疲れでしょう。後は私の仕事ですから、お休みになっていていいんですよ」


 彼女はそう言ったが、私は首を振った。少しばかし静寂が流れる。


 私は、タオルを洗濯挟みに留める彼女の背中に、以前から気になっていた事を聞いてみた。


「ねえ、お前さん。お前さんはどうしてこんな、年寄りの相手なんてする仕事に就いたんだい?」


 すると彼女は意外そうに、私ですかと訊き返す。話し相手は、お前さんしかいないだろうに。そして、手を止めてこちらを見ると、ゆっくりと話し出す。


「私、中学生の時に、学校の職場体験で介護施設に行ったんです」


「職場体験?」


「はい。今、中学校でそういうのをやる事になっていて。施設以外にも、保育園だったり、スーパーだったり、それぞれ興味がある職場を選んで訪問して、仕事を体験させて貰うんです」


「へえ、今はそんなのがあるんだねえ」


「はい。それで私は、まあ、正直、保育の方が興味があったんですけど、じゃんけんに負けて介護施設に行く事になって……」


 おやおや。老人施設は外れ(くじ)か。そりゃあそうか。年寄りの世話より子供の面倒を見る方が、ずっといいに決まっている。


「でも、実際に体験に行ってみたら、仕事を教えて下さった職員さんが凄く生き生きとお仕事をされていて、利用者さんとも心から楽しそうに接していて……ああ仕事ってこんなに楽しいものなんだ、私もこの人みたいに働きたいって思ったんです」


 そりゃあ生徒の手前、つまんなそうに仕事をする訳にもいかないだろう。彼女は随分と、純粋な中学生だった様だ。だけども子供時代を思い出す彼女の顔は今でも、本当にキラキラとしていて、そんな無粋な事、とてもじゃないが言えなかった。


「しかし、施設がそんなに楽しそうだったんなら、どうして訪問介護をやる事にしたんだい?」


「ああ、それは、実際に就職先を決める時に、施設は一度に何人もの方を見なきゃいけなくて、余りお一人お一人と深く関われないという話を聞きまして……それで、訪問介護の方がもっと、じっくりと時間をかけて皆さんと関われるから、そちらの方が向いているんじゃないかと言われたものですから……」


「へえ、成程ね」


 しかし、そう言う割には、じっくりと時間をかけて客と関わりたいなんて心意気は、失礼だがこのひと月じゃあ、彼女からは余り感じ取れなかった。まあ確かに、お掃除やなんかの仕事ぶりは丁寧だったけれども。


 すると、彼女は、こちらの気持ちを察したのか、続ける。


「でも、実際に仕事を始めてみると、中々思っていた通りには行かなくて……訪問介護も、決まった時間の中で色々な仕事をこなさないといけないので――」


「ああそうだよお前さん、こんなお喋りなんかして、時間はいいのかい? 次の客が待ちくたびれてるんじゃないのかい?」


「えっ? ああ、今日はもう、大丈夫ですから。次の方の所へは、代わりの人が行ってくれているので」


「そうかい。ならいいんだけどね。ああ、話の腰折って悪かったね。続けとくれ」


「ああはい、それで――今日はもう本当に大丈夫なんですけど、普段は中々時間に余裕が持てなくって、仕事をこなすだけで一生懸命になってしまって、思っていた程、皆さんと関わる事が出来なくって……本当は、中井さんとも、もっとお話ししたいと思ってたんですけど……」


「……そうかい。そんな風に思ってくれていたのかい」


「はい。それに、折角頼み事をして下さっても、法律上出来ない事も多くて、断らざるを得なかったりして――ああでも、これは言い訳ですね。そうやって今回も、中井さんの気持ちを置き去りにしちゃった訳ですし――」


「それはもういいんだよ。その事を言うのは止してくれ」


 私は宥めるが、彼女はまた、すっかりしおらしくなってしまった。まったく面倒な子だね。これじゃあどっちがお世話しているか、分からないよ。私は続ける。


「それでもお前さんは、立派じゃないか。思ってたのと違うって言って、投げ出さないで。ちゃんと一つ所に留まって、この仕事を続けてるじゃないか」


 すると、彼女は顔を上げ、言った。


「今はこの職場に、目標とする先輩がいるので」


「へえ、そうなのかい」


「はい。最初の研修の時に、その先輩の担当するお宅へ同行させて頂いたんですけど、その時の先輩の、利用者さんへの対応が、本当に凄くって」


「へーえ、そうなのかい」


「その先輩というのは、実は尾崎さんなんです」


「へえ! そうなのかい」


「尾崎さん、凄いんです。利用者さんお一人お一人のお宅のルールを、細かい所まで完璧に覚えていたり、ご本人の自立を促せる様に、ご本人に出来る事はこちらが全部やってしまわないで、サポートに徹するようにしていたり。だから、私も早くそう出来るようになりたいって、思ってるんです」


 それを聞いて、私は苦笑する。確かに彼女の態度を振り返ってみれば、その心意気だけは感じられた。


「ああでもこんな事、本当は中井さんに話す様な事じゃないですよね。私ったら、つい話し過ぎちゃいました」


「本当だよ、客に手の内明かしてどうすんのさ、まったく」


 私が言うと、彼女は素朴な笑顔を見せて、えへへと頭を掻く。それから、


「そうだ。この事は、尾崎さんには内緒ですよ」


 と、ちょっぴり恥ずかしそうにつけ足した。


「はいはい、分かりましたよ」


 私が言うと、彼女はまた、えへへと笑った。


「さてっ、お洗濯の続きをやらないとですね」


 彼女はそう言うと、タオルを手に取る。そしてそれを力強く振ると、物干しに向かって、大きく背を伸ばす。


 その後姿を見ながら思う。どうやら私は、彼女の事を誤解していた様だ。


 他人行儀の、すました人ではなかった。お上ばかりを気にする、四角四面な人でもなかった。


 憧れの姿に懸命に近づこうとする、素直で素朴なお嬢さんだ。


「――ああ、そうだ」


 彼女は振り向き様に言う。


「この後は、お風呂掃除もちゃんと最後までやっていきますからね」


「ああ、それもあったのか。すっかり忘れていたよ。だけどお前さん、時間はいいのかい?」


「大丈夫ですよ。この後のお宅へは代わりの――」


「そんなのはさっき聞いたから分かってるさ。けど会社へ戻ったって、やらなきゃいけない事があるんじゃないかい? 帰るのがどんどん遅くなるじゃないか。大丈夫なのかい? お前さんとこはちゃんと、残業代は出してくれるのかい?」


「ああ、それなら大丈夫です。うちの会社は、そこの所はしっかりしているので」


「ならいいけども……それはそうとお前さん、お風呂掃除がやりさしなのに、さっきはどうして居間まで戻って来たんだい?」


「あれ? どうしてでしたっけ?」


「おいおい、しっかりしとくれよ。お前さん私と違って、まだ若いんだから」


「あ、そうそう! 思い出しました。シャンプーの容器が空だったので、補充しようと思って、替えの場所を聞きに来たんでした」


「へーえ、あんたもちっとは、気が利く様になったじゃないの」


 私がそう言うと、彼女は少し恥ずかしそうにする。


「シャンプーの替えは脱衣所だよ。だけど、ちょっと低い所に仕舞い込んであってね……説明が難しいから、私も一緒に行くよ。洗濯の残りは、あとどれ位だい?」


「あ、はい。あともう少しです」


「そうしたら先に、それを片しちまおう」


「はい!」


 そうして私達は、また静かに、残りの洗濯物を干す。最後に残った台布巾を干し終えると彼女は、


「やっぱり、二人でやると早いですね」


 と言った。


「まあその分、途中で無駄な口叩いちまったがね」


 私がそう答えると、彼女はまた笑う。


「そうしたらお前さん、先に脱衣所へ行っとくれ。こっちは歩くのが遅いから」


「はい。ごゆっくり」


 彼女はそう言うと、廊下へ続く引き戸を開けた。


 片夕暮れの廊下はもう薄暗く、そろそろ明かりを点ける頃だ。私は先を行く彼女の、白いシャツの背中を、ゆっくりとした足取りで追った。


 ◇


 金曜日。


 時が経つのはあっという間で、初めに思った通り、一ヶ月なんてものは瞬く間に過ぎてしまい、今日は彼女の、最後の訪問の日だ。こうしてみると、何となしに過ぎ去ってしまった日々も、もう少し、噛み締めておけばよかったと悔やまれる。


 その名残惜しさを、今更埋める様に、私は彼女の横で一緒に洗濯物を干す。


「今日はいつもより洗濯物が少ないみたいですけど、大丈夫ですか」


 彼女は、心配する様に尋ねる。


「ああ、昨日娘が、衣替えで出した夏物と一緒に洗ってくれたからね。それで少ないのさ」


 私が答えると、今度は途端に嬉しそうな顔を見せる。


「娘さん、いらっしゃったんですね!」


「そうなんだよ。最初は来週になるとかなんとか言ってたのに、例の一件について聞いた途端、いきなり来るって言い出して。まったくうちの子ときたら、金が絡むと動きが早いんだから」


「でも、よかったじゃないですか」


「いいもんかね。来たら来たで、面倒臭いんだから。電話機に案内の流れる機械をつけろとかなんとか……」


 私はそこまで言って口をつぐむ。そして尋ねる。


「ねえ、お前さん。あんた、娘にどんな風に言ったんだい?」


「えっ?」


「娘がね、なんだか急に、馬鹿に優しくなっていてさ」


 娘は、私が騙されかけた事を、少しも咎めなかった。それどころか、義父の世話にかまけて私を疎かにした事を詫びたのだ。


 私は、彼女を見上げる。


 彼女は、少し笑って見せるだけで、何も答えなかった。


 娘が余計な事をした所為で、洗濯はあっという間に終わってしまった。私は、彼女を玄関口まで見届ける。


「それでは、短い間でしたが、お世話になりました」


 彼女は神妙な面持ちで、そんな事を言う。


「馬鹿言いなさんな、お世話になったのは、こっちの方じゃないかい」


 私がそう言うと、彼女はこの間の様に、素朴な笑顔を覗かせた。


「来週からは、パワーアップした尾崎さんが戻って来ますから、楽しみにしていて下さいね」


「ああそうだよ、あの子もう、体の具合はいいのかい?」


「えっ? 違う違う。研修ですよ。資格を取るために、授業を受けに行っていたんです」


「なんだ、私はてっきり、具合悪くして休んでるもんだと……」


「そんな事ないですよ。尾崎さんは、元気一杯ですから。尾崎さん、凄いんですよ。国家資格を目指してるんです。その為に、沢山勉強されてて、時間をかけて研修も受けに行って……私も本当に、見習わなくっちゃ」


 彼女は心酔しきった様に、あらぬ方向を見てそんな風に言う。私は見兼ねて、口を開く。これは最後に一言、言ってやらなきゃならない。


「お前さん、こないだから、尾崎さん尾崎さんって言ってるけどね」


 彼女はハタと、こちらを見返す。


「いいんだよお前さんは。無理に尾崎さんにならなくったって」


 彼女は、キツネに摘ままれた様な顔になる。


「確かに尾崎さんは優秀で、非の打ち所のない人だけれども、みんながみんな尾崎さんになっちまったら、なんていうか――」


 私は、少しばかし考えたのちに、言葉を続ける。


「世の中、面白くないだろう?」


「はあ……」


 彼女はまだ、目をぱちくりさせている。


「そりゃあ、目指すものがあるのは結構な事だよ。そうやって高み目指して頑張ってる姿は、年寄りにとっちゃあ眩しい位だ。だけれどね、それとおんなじ位――」


 私は俯いて、また考える。それから顔を上げると、あちこち欠けた歯が見える位に、ニッカリと笑ってやった。


「あんたのその、素直で素朴な所を、生かしていけばいいじゃないの」


 ◇


 また、火曜日。


「中井さん、お久し振りです。私の事、覚えてますか?」


 時が経つのはあっという間で、いつものあの子――尾崎さんが、これまでと何ら変わらぬ調子で戻って来た。


「馬鹿言え。そこまで耄碌しちゃおらんよ」


 私も、これまで通りの調子で、言葉を返す。ひと月の空白が、まるで初めからそんなものなかったかの様に埋まる。


「それはそうとお前さん、体はもういいのかい?」


「ええ? やーだ違うわよ、研修でお休みしてたの! 体はこの通り、ピンピンしてますよ」


「なーんだ、私ゃてっきり、具合悪くして休んでるもんだとばっかり」


「もー、中井さんったらー。でも、そうやって心配してくれて、嬉しいですよ」


「そりゃどーも。ま、心配するのが、年寄りの仕事だからね」


 私がそう言うと、尾崎さんは包み込む様な笑顔を見せる。それから、私の肩をつつくと、冗談めかして言う。


「さては中井さん、私がいなくて寂しかったんでしょー」


 私が何も言わないで誤魔化していると、尾崎さんは少しだけ真面目な顔になる。


「まあでも、あれか。玉川さんがいたから、そんな事もないですよね」


 玉川。そうか。そんな姓だったか。そういえば、碌に名を呼ぶ事もなかった気がする。過ぎ去った日を惜しむ様に、私はこの春を振り返る。


「あの子、よく出来た子でしょう。私より、よっぽどしっかりやっていたんじゃない?」


「いやいや」


 私は首を振る。そして窓の向こうを見上げると、言った。


「あの子はまだまだ、青いね」



(花水木・了)



更新が滞り、申し訳ありませんでした。遅れたにもかかわらず最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

「花水木」の物語は以上となります。


次のエピソードは、6月13日(金)公開予定です。時間は変わって、16時頃の公開となります。引き続きよろしくお願い致します。

※このエピソードの公開時に、次回の公開時間を16時30分頃とお伝えしましたが、16時頃に変更といたします。

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ありがちな孤独感を抱えた独居の老人と介護職員とのやりとり。 やりとりからその背景が浮かび上がる、流れが秀逸でした。 日常の姿と会話、動きの描写から、老女の気持ち(意固地になりがちな老人特有のプライド…
白木蓮からここまで一気読みしておきます。 前章のラストは胸をえぐられました… 今回もか…と思いきや、素敵なラストで涙が溢れました。 前章でも驚いたのですが、ストーリーやキャラクターの描写がリアル過ぎ…
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