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花水木( ぬ )

 五月。


 連休も過ぎ去って、今日は何て事ない日曜だ。


 知らぬ間に季節は一つ駒を進めた様だ。空や草木は青々と色を深め、窓を入る空気は熱を帯びる。鶯が谷渡りを響かせ、時鳥(ホトトギス)が鳴き急ぐ。庭では蜜蜂達が忙しなく花の蜜を集めている。


 お向かいの家では、流行りの曲なのか、学校で習った唱歌なのか、子供達が楽しそうに歌の文句を繰り返している。それを耳にするだけで、年寄りの頬は自然と緩む。


 あすこの下の子は、今年小学校へ上がったという。そうすると上のお兄ちゃんは、もう三年生か、四年生か。まったく子供というものは、筍の様に大きくなる。


 私は老いた肺を押し広げる様に、甘さと青臭さの混じった風を吸い込んだ。


 ◇


 夕方、呼び鈴が鳴る。


 インターホンを出ると、先方はお届け物だと言った。


 そうか、もうお中元の時期か。季節の進むのの早いこと。年寄りになると、もう一々驚くのにも飽きた。


 と、思ってからハタと思い直す。呆けてるねえ、まだ五月じゃないか。いくらなんでも、お中元には早すぎる。


 だとしたら、こんな時期に誰が? と怪訝に思いながら、玄関口へ向かおうとする。けれども私は立ち止まって、もう一度インターホンを覗き込む。


 立っているのは、馬鹿に若い男だ。頭にパーマを当てていて、見ようによっては学生さんか、高校生位の少年にも見える。


 そういえばこの男、制服も制帽も身に着けていない。会社名も何も入っていない、黒い丸首のシャツを被っているだけだ。


「すいませんが、どちらの会社さんで?」


 私が尋ねると、男はよく見知った宅配業者の名を答えた。そうなると、尚更怪しい。その会社だったら、決まった服装がある筈だ。


 東京の方じゃあ、宅配業者を装って年寄りを狙う強盗が出ると聞く。まさかこんな長閑な町にまで、そんな恐ろしい輩がやって来たというのか。


「すいませんけどね、荷物ってはどちらさんからですか?」


 私は恐る恐る尋ねる。


「ええと、山田(やまだ)……様からですね」


 なんだ。それを聞いて、私は拍子抜けする。山田というのは娘の嫁ぎ先の姓だ。しかし、娘が今更、何を送ってきたというのだろう。何の頼み物もしていないし、娘からは何も聞かされていない。


「その山田様が一体、何を送って来たんですか?」


 私は物の序でに尋ねた。


「ええっとですね……」


 すると男は、不自然に言い淀む。おや。やっぱりおかしい。荷物の中身ならば、伝票にきちんと書いてある筈だ。まさか山田という姓も、当てずっぽうが当たっただけじゃあなかろうか。


「お尋ねしますけどね、山田さんってのは、山田何さんですか?」


 私がさらに尋ねると、男はまた言い淀む。


「ええっと…………山田、コウ?」


 やっぱり違った。コウなんて、女の名前ですらないじゃないか。やっぱりこの男は強盗か、さもなくばとんでもない如何様師(ペテンし)だ。


 勝手に娘の姓を使って、人様の事を騙そうとして。私はカッとなって叫んだ。


「そんな人、知らんよ! さては年寄り騙して上がり込んで、金巻き上げるつもりだね!」


「違います、違いますって」


 男は慌てた様に言う。けれども今更もう遅い。騙そうったって、そうは行かない。


「何が違うもんかね! 警察呼びますよ!」


 すると男は、こちらの剣幕に押されたのか、


「分かりました。もういいです」


 と言って、すごすごと引き下がっていった。なんだ今時の若者は。悪さをするにも根性がないんだから。


 けれども私も、後から疲れと恐ろしさがやって来て、その場にへなへなとしゃがみこんで、暫くは動けなかった。


 ◇


 明くる日の晩、娘から連絡があった。


「お義父さん、先週末で退院したから」


 そう言う娘の声は、少しほっとした様子だった。


「そうかい。そりゃあよかった」


 それならこちらも一安心だ。これで漸く、私の順番が回ってくる。


「けど、まだちょっとお世話が必要だから、そっちへ行けるとしたら、来週になるかな」


 なんだ。退院してもなお、私は後回しか。


「来週のいつ頃になりそうだい?」


「うーん、でもお母さん、火・金(かーきん)ヘルパーさんで水曜は整形でしょー? だから行くとしたら月曜か木曜だけど、月曜だともしかしたら、まだちょっと厳しいかもしれないからー」


 なんだい。こっちの所為にして、ズルズル引き延ばそうとするんだから。


「あのねえ。あんたがそんな事言ってる間にねえ、こっちも大変だったんだから。昨日なんか、危うく強盗へ入られるとこだったんだよ?」


「ええっ、どういう事!? 聞いてないわよ!?」


 流石の娘も、金の話となると途端に喰いついてくる。私は娘にせがまれて、事のあらましを話す。娘は真剣な様子で、ウンウンと相槌を打ちながら話を聞く。


「――それでね、どちら様からですかって訊いたら、『山田』って言うから、最初はおやっと思ったんだけどね、どうも様子がおかしいもんで、下の名前も尋ねてみたら、コウとかなんとか言うんだよ」


「うん?」


 そこまで話した所で、娘の相槌が、ふいに怪訝な声になる。私は構わず続ける。


「まあ聞いとくれよ。それで中身が何かも尋ねてみたのさ。そうしたらやっぱり、妙に口籠って、答えようとしないんだよ」


「うん……」


「それで、格好やなんかもやっぱり怪しいもんでね、だってあすこの会社ならきちっとした制服がある筈だもの。それなのに、真っ黒けな、如何にも悪さしそうな格好してさ。こりゃあ戸を開けるわけにはいかないと思ってね、追い返してやったのさ。そしたら向こうも、あっさりと引き下がってね。やっぱり今時は、悪さをする様な人も、誰か上の人に雇われて来てるのかねえ。昨日は時間も遅かったし、私も疲れちゃったから、警察にもどこにも言ってないんだけど、やっぱり今からでも連絡しておいた方が……」


「ちょっ、ちょっと待ってお母さん」


「なんだい?」


「それ、私よ」


「うん?」


「それ、きっと、私が送った荷物よ」


「なんだって? そんな、荷物だなんて、今更何を送ってきたのさ」


「何って、やだ、こないだの電話で言ったじゃない! 今年は宅配で送るねーって、母の日のお花を!」


 母の日。


 そんなものがあるなんて、すっかり忘れていた。それが、昨日だったというのか。しかし、


「そんな事、言ってたかね」


 私が尋ねると、娘は不服そうな声になる。


「言ったわよー! いつもはゴールデンウィークに直接渡してるけど、今年は行かれないから、代わりに当日指定で送ったって! 突然届いてもお母さんびっくりするだろうし、それこそ怪しむといけないから、ちゃあんと前もって知らせたのにー」


 しかし、本当に、そんな事を言われた覚えなど、全く以てない。この間の電話では、旦那の親が入院して、着替えの世話があるから帰れなくて、トシちゃんもナントカのナントカだから来られなくて、なんていう様な話しか、聞いていない。


「ていうか、山田って言った時点で、私だと思ってよー」


「そりゃあ一番にあんたを思い出したさー。けどその後に違った名を言ったもんだから、姓もどうせ当てずっぽうで言ったんだろうと思ったんだよ。山田なんて、真っ先に思いつく様なありふれた姓じゃないか」


「ありふれた苗字で悪かったわね! 覚えて貰い易いから、今じゃ旧姓より気に入ってるのに。それに、違った名前を言ったっていうのも、単に字が読めなかっただけなんじゃないの? 今の若い人は読めないもの、『孝子(たかこ)』なんて! コウコとでも読もうとしたのよ、きっと」


 捲し立てられる様に反論され、私は押し黙る。それにしたって、そんなに読みにくい名をつけただろうか。こちらはきちんと意味を込めて名づけたというのに。言い返してやりたい気持ちを押し殺して、私は話を元へ戻す。


「でも、だったらどうして、荷物の中身を言い渋ったっていうのさ。あんなの、伝票見りゃあすぐに分かるじゃないの」


「さあ? プレゼントの中身を先に知らせたら悪いとでも思ったんじゃない? そんなに怪しむ事でもないと思うけど?」


 けれど、あの若いお兄ちゃんが、そこまで気を回すだろうか。だって、


「だってね、あのお兄ちゃん、頭にパーマなんて当てて、いかにもチャラチャラしてさ、その上顔は幼いもんだから、どう見たってほんの高校生位にしか思えなかったんだもの」


「だって今の人はみんな若いものー。俊男だってあれで27よ? それにチャラチャラしてるって言うけど、今時配達の人もアルバイトが多いっていうし、アルバイトならそんなもんじゃないの?」


「しかし、いくらアルバイトだって、制服位着るだろうよ」


「それもほら、今は下請けとか色々あるから、実際に来たのはその宅配業者の人じゃないんじゃない? うちの方だって、色んな業者が回って来てるし」


 娘はまた、何だかよく分からない事を言う。


 私の方も、いよいよ返す言葉がなくなってくる。もし本当に、娘の言う通りだとしたら。娘の送ってくれた花を、私が突っ返したのだとしたら。


「――そのお花ってのは、もう一度送って貰う訳にはいかないのかい?」


「どうなのかしら。もう受取拒否しちゃったんでしょう? 待ってね、履歴を見てみるから」


 そう言って娘は、黙って何かを調べ始める。そうして暫く経ってから、


「あー、もう無理ね。戻って来ちゃって、キャンセルになってる。もう母の日も過ぎちゃったし、今から同じのを注文し直すのも、難しいんじゃないかな。こういうのは、季節商品だから」


 と、諦めた様に言った。


「そうかい、そりゃあ…………折角忙しい中送ってくれたってのに、悪い事したね」


「いいわよ、もう。柄にもない事した私が馬鹿だった」


 娘は、少し投げ遣りな調子で言う。


「――それじゃあまた、行けるが日決まったら、連絡するから」


 そしてあっさりと、電話を終えてしまう。私はツーツーという電話機の音を、暫く恨めしく聞いていたが、やがて電話を置く。


 だって花を送ってくれるなんて話、本当に聞いてなかったんだもの。


 娘だってあの話し振りじゃあ、私の話を聞くまで、自分が贈り物をした事を忘れていたんじゃないかしら。だってもし覚えていたら、電話して開口一番にその事を言う筈だもの。


 大体、もしも私が娘からそんな贈り物を受け取ったなら、その日のうちにお礼の電話を入れるに決まっている。その連絡がなかった時点で、おかしいと思わなくちゃ。昨日のうちに気づけたなら、もう一遍送り直して貰う事だって、出来たかもしれないというのに。


 ああ、それにしても、惜しい事をした。折角娘がこちらを気に掛けて、わざわざ花を選んでくれたというのに。


 これでもう金輪際、娘がこんな風に贈り物をしてくれる事はないだろう。


 私はがっかりと、立ち上がる。


 すると、箪笥の上に置いた封筒が目に入る。


 そうだ。電話が来たら、この封筒の事も言おうと思っていたのに。


 娘は、次はいつ電話してくれるのだろう。


 ◇


 すっかり落胆して、今日はもう、さっさと風呂に入って寝てしまおうと思いながら、脱衣所へ入る。すると、洗面台にシャンプーの空き容器が伏せてあった。風呂へ入る前に、これを詰め替えないといけなかったか。


 私はどっこいしょと一人虚しく掛け声を掛けながら、洗面台の前にしゃがみ込む。そして下の戸棚を開けると替えのシャンプーの袋を取り出し、腕を持ち上げ洗面台の脇に置く。それから両手を床について自分の体を持ち上げ、洗面台のへりにしがみついて体を引き起こす。これだけで一仕事だ。私は息をついて、脱衣所の壁に凭れ掛かる。そして、ある事に気づく。


 洗濯機の脇には、造りつけの戸棚がある。そちらの方が余程、物が取り出し易いじゃないか。シャンプーだって洗剤だって、そこへ仕舞っておけばいいのだ。別にもう、お父さんの寝巻やら湯上げダオルやらを仕舞ってある訳でもなし。


 一体どうして今まで、そんな単純な事に気がつかなかったのだろう。私は半ば呆れながら、戸棚に手を伸ばす。どうせ今は昔と違って、大した物も入れていない筈だ。私は取っ手に手を掛けると、戸を大きく引き開けた。


「…………あれま」


 思わず、間の抜けた声が出た。信じ難い気持ちで、戸棚の中を覗き込む。


 そこには、既に、洗剤やらシャンプーやらの替えが、山と詰め込んであった。狭い戸棚の中にぎゅうぎゅうに、押し込める様に仕舞い込んである。


 私はあんぐりと口を開けながら、その光景を眺める。一体誰の仕業だ?


 いや、そんなの私しかあるまい。娘が戸棚の中をいじるとも思えないし、ヘルパーさんが頼みもせずにこんな事をするとも思えない。けれども、そんな事をした覚えなど微塵もない。こうなるといよいよ、自分が恐ろしくなってくる。年相応に呆けているのは、分かっていたつもりだったけれど、こうまで耄碌していたかと、自分に自信がなくなってくる。


 それにしたって、どうしてこんなにも沢山溜め込んだのだろう。私は洗剤に手を伸ばす。洗剤の袋は、六つもあった。さらに、その絵柄を見て驚いた。六つある内の二つの袋は、この間彼女が買ってきた「リニューアル」のと全く同じ絵柄をしていた。


 結局、これで合っていたのか。てっきり買い物に慣れていない彼女が、別の物を買ってきたのだと思っていた。いつものあの子が買ってきてくれた時には、そんな事は疑いもせず、そのまま仕舞い込んでいたという事か。或いはあの子とも、先日の彼女とのやり取りと、同じ様な問答をしていたのだろうか。どちらにしても、この老い耄れた脳味噌には、全く記憶に残っていない。


 どちらにせよ、彼女が正しかったのだ。代わりの人だからとハナから疑っていたが、どうにかしていたのは私の方だったのだ。


 彼女には悪い事をした。あの宅配のお兄ちゃんだってそうだ。勝手に勘ぐって追い返してしまうなんて、本当に酷い事をした。


 勿論、娘にも。


 きっと、話を覚えていなかったのは、この私の方なのだ。


 私はまた、冷たい脱衣所の壁に凭れ掛かる。そして誓う。


 もう、年寄りは黙って、若い人には従おう。何だって大人しく、ハイハイとだけ言っておこう。


 余計な疑いなど、掛けるだけ無駄だ。


 ◇


「今日はなんだか、お元気がなさそうですね」


 そのまた明くる日。彼女にそんな事を言われた。


 今日は火曜。彼女の訪問の日だ。今日も彼女はソツなく掃除機をかけ終え、何て事なく次の仕事に取り掛かるものだと思っていたら、珍しくこちらの機嫌を窺っている。


「そりゃあ年寄りだもの、元気な日なんてありゃあしないさ」


 私は、はぐらかす様に答える。すると彼女は、


「いえ、そういう事でなく……」


 と、何か言いかける。けれど、そこまで言って口を噤むと、


「いえ、すみません。お部屋のお掃除、終わりましたので、次はお風呂の掃除をしてきます」


 とだけ言って、風呂場へ向かって行った。私はその後姿を見遣る。


 彼女の訪問は、今日で数えて七回目。次が最後になる。


 結局の所、初めに思った通り、そんなのはあっという間に過ぎてしまい、特に打ち解ける事も、世間話が弾む事もなく、ここまでやって来てしまった。彼女は最初から今日まで変わらず、すました様な調子だったし、私ももう彼女に話し相手を期待するのは止めていた。


 それなのに、今更そんな事を言うなんて。私はそんなにも、元気のなさそうな面をしていたかしら。確かに、昨日おとついと色々あって、気が塞いでいたのも事実だけれど。


 そんな事を思いながら、私は茶を啜る。


 すると、ふいに電話が鳴る。私は湯飲みを置き、立ち上がる。娘が早速、来られる日を知らせにかけてくれたのかもしれない。


 けれども、急いで見に行った電話機には、「ヒツウチ」とだけ表示されていた。なんだ。娘ではなかったか。


 非通知の電話は出るな。娘からそう、口酸っぱく言われている。どうせ変な宣伝か、詐欺に引っ掛かるだけだという。だから私はいつも、きちんとその言いつけを守っている。


 けれどもこの電話、中々に鳴り止まない。只の宣伝にしては、しぶと過ぎないだろうか。早く止んでくれないと、彼女が戻って来てしまう。今日元気のなさそうなこのバアさんは、電話を取る事さえままならないのかと、心配をして来てしまう。


 どうせ宣伝なら、要りませんと言って切ればいいだけの事か。私は電話に手を伸ばす。或いは娘が、義父の入院先の公衆電話からかけて来たのかもしれないじゃないか。


 私は受話器を取って、耳へ当てる。


 すると先方は、こう名乗った。


「銀行協会の山田と申します」


次回は、5月16日(金)18時頃の更新予定です。

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