白木蓮( い )
春が来るのは知っていたけど、今日じゃないと思ってた。
昨日まで真冬の装いだったのが嘘のように、澄んだ暖かさにつつまれた3月の朝。
私は急いで化粧を終えると、まだ出番は先だろうとしまい込んでいた春のコートを、これでもかとぱつぱつに詰め込んだクローゼットの中から見つけ出して、本当は外した方がいいと分かっていながらそのままにしてしまったクリーニング屋のカバーをむしり取って、オレンジ色のタグを首元から外して、ベルトからも外して、ベルトはどうするのが正解かいまだにわからないけど適当に結んで、やっと羽織ったところで袖にもタグがあることに気づいて、
春ももう人生で30回目だというのに、どうしてこうも学習しないのだろう。
そんなわけで時間はギリギリになって、満員電車に飛び乗って、会社に着く頃には汗だくになって、なんのために春の格好にしたんだろうと思いながらふらふらと席についた、そんな朝。
彼女は唐突に、私の目の前に現れた。
「本日入社いたしました、内田忍と申します」
私は一瞬なにが起きたのか分からず、ただその姿を見上げてしまった。
彼女は、しわひとつない白のブラウスに身をつつみ、やわらかな笑顔を浮かべていた。丸みを帯びたショートボブの髪に、控えめなナチュラルメイク。柔和な顔立ちからは、人あたりのよさそうな雰囲気と、幼さにも似た若々しさが感じられる。彼女は一体――
そうだった。別に唐突なんかじゃない。私はすべてを思い出す。
うっかりしていた。初対面だというのに、抜けたところを見せてしまった。私は、取り繕うようにさっと立ち上がる。
「貝原です。よろしくお願いします」
彼女は今日から、この株式会社六花本舗の人事部で一緒に働くことになる、中途入社の新人だった。
◇
株式会社六花本舗は、中堅どころの化粧品メーカーである。そしてここは、その本社2階の一角にある人事部だ。私はここで、給与計算や勤怠管理、社会保険の手続きといった労務の仕事を担当している。
人事部の仕事は、労務以外にも多岐に渡る。中でも、優秀な人材を獲得し教育する採用・育成の業務は、会社にとっても大切な仕事だ。
全国に販売店を持つ六花本舗では、BAの新卒採用に力を入れている。BAとはビューティーアドバイザーの略で、販売店でお客にメイクを施しながら、自社の化粧品を販売する専門職を指す。平たく言えば、百貨店やドラッグストアにいる「化粧品売り場のお姉さん」のことだ。
ちょうど今月初めには、来年の春に卒業する学生に向けた広報活動が解禁され、いわゆる就活が始まった。六花本舗でもすでに会社説明会を開始しているほか、大学や専門学校に出向いての学内セミナーも行っている。
来月になると今度は、昨年に採用した新人BAたちが入社をする番になる。彼女たちは現場に配属になる前に、本社で3週間の研修を受ける。実際に研修を行うのは現役のBAや外部のマナー講師だが、研修を差し障りなくとり行うために人事部がやらなければいけないことは多い。
つまり、この時期、人事部の採用・育成担当は、来年春に向けた採用活動と、この春行われる研修の準備を並行して行わなければならないのだ。
しかし、そんな年にいちばんの繁忙期を前に、2人いる採用・育成担当のうちの1人が突然、やむを得ない理由で退職してしまった。残りのメンバーだけでは到底対応できない。私は私で、年度の切り替わりに伴う業務に追われる時期であり、それ以外の仕事を手伝うには限度がある。
そこで、急遽後任として採用されたのが、今ここにいる彼女というわけだ。
「では、たしかに受け取りました」
私は彼女から入社書類を受け取ると、確認するようにそう言った。
入社に伴う手続きも、労務担当者の仕事のひとつである。私は受け取った書類を自分のデスクに置くと、今度はこちらから彼女に渡す書類一式を、昨日用意していたファイルから取り出した。さっきはぼんやりしてしまったが、昨日の自分は彼女を迎え入れる準備を怠ってはいなかった。
私はそれらを彼女に提示しながら、簡単に社内ルールについて説明する。最後に質問がないか確認すると、彼女は元気よく大丈夫ですと返事をする。
「では簡単ですが、入社時の説明は以上になります」
私がそう言うと、彼女は丁寧にお礼を言った。これで労務担当者としての私のターンはお終いだ。ここから先は、同じ採用・育成担当の早手さんが彼女に仕事を教えることになる。
早手さんは元敏腕BAの女性社員。店長、エリアマネージャーを経て、10年ほど前に人事部に配属になったと聞いている。人事部の仕事も、持ち前のコミュニケーション力と要領の良さを武器に推し進めている。
しかし、当の早手さんは、朝礼終了と同時にかかってきた内線を受け、彼女を置いてどこかへ行ってしまった。部長は部長席で部長の仕事をしているし、私の隣の席の田中さんはパート社員なので、新人を教育する立場にはない。
「あのっ、私にもなにかできることはありますか?」
私は彼女に尋ねられ、どうしたものかと考える。
早手さんには早手さんの教え方があるだろうから、あまり余計な口は出したくない。早く自分の仕事に取りかかりたいというのも正直なところだ。今日は月曜日でメールも溜まっているし、今日が締日の仕事もある。かといって、このままなにもさせずに彼女を放っておくわけにもいかない。
「とりあえず早手さんが戻ってくるまで、資料でも読んで待ってて。今取ってくるから」
私はそう言うと、自分の席に戻った。引き出しを開け、なにか彼女の参考になりそうなものがないか探す。
「いーのよ、そんな気ぃ遣わなくたってー」隣から、田中さんの明るい声が響く。「初日なんだから、もっとのんびりしてなさいな」
そう言われて、彼女はほっとしたような笑い声を漏らす。
「いえ、その、お忙しい時期と伺っているので、少しでもなにかできればと思いまして」
「まあー! お若いのにしっかりしてるのね。おいくつだったっけ?」
私は引き出しをあさりながら、なんとなく2人の会話に耳を向ける。
「25歳!? まあー、どおりでお肌もピチピチなわけだわあ」
引き出しには丁度いい資料はなさそうだ。私は、机の奥のブックスタンドに手を伸ばしながら、ちらりと彼女に目をやった。
たしかに田中さんの言うとおり、彼女の肌は若々しく輝いている。白くてみずみずしくてハリがあって、一点の曇りも見当たらない。彼女はメイクは控えめな印象だが、裏を返せば派手なメイクが必要ないということだ。頬だって自然な丸みを帯びていて、チークを重ねる必要もなさそうだ。ナチュラルメイクが映える顔というのは、それだけで特別なのだ。
もちろん、その自然な美しさの裏には、目に見えない努力が隠れているのかもしれない。纏っているしわひとつないブラウスだって、きっと丁寧にアイロンがかけられているはずだ。
コートを直前まで探しあさり、汗だくのまま出社してきた自分が恥ずかしくなってしまう。
「貝原さん、ちょっと悪いんだが」
部長席から呼びかけられ、私は手を止めて部長席に向かう。
「今日中に頼んでいた報告書なんだが、先方から先に内容を確認したいと言われてな、すまないが大至急で作成してくれないか」
部長に申し訳なさそうに切り出され、私はおずおずと答える。
「ええと、報告書でしたら、たしか金曜にメールでお送りしていたかと思うんですが……」
「おお、そうだったか」
部長はそう言って、PCに目を落とす。
「時間はたしか、17時頃だったと思います。件名は――」
「お、あったあった。悪いね。貝原はいつも、仕事が早くて助かるよ」
とんでもないです。私は答える。
仕事が早い。正確で丁寧だ。それがこの職場での私の評価らしい。そんなふうに見てくれている人たちが、プライベートでの私のだらしなさを知ったらどう思うのだろう。
席に戻ると、まだ彼女と田中さんは話していて、早く資料を渡してあげないといけない。もうこれでいいか、と私は手近なファイルを手に取った。
「内田さーん! お待たせしちゃってごめんねー」
するとそこへ、早手さんの声が響いた。顔を上げると、早手さんがスタスタとこちらへ向かってくるところだった。
早手さんは、畳みかけるように続ける。
「この後はすぐ打ち合わせなんだけどー、とりあえず内田さんも、勉強がてら一緒に来てくれるー? 大丈夫、大丈夫、ただ隣座ってるだけでいいからさ」
そして、そう言うと嵐のような勢いで彼女を連れて行ってしまった。
2人が行ってしまうと、人事部のデスクに、しいんと静寂が訪れた。
手に取ったファイルは行き場を失い、私はそれを意味もなく見つめる。
「やれやれ」
田中さんの声で、私は我に返る。
「あの子、こんな時期に大変ね」
「本当ですね」
私はそう返すと、手元のファイルを机に戻した。
オフィスの中は生ぬるくて、私はニットの首元をつまんで風を入れる。明日はコートだけでなく、中の服も春物にしよう。
今年は春が早い。
今後は金曜日の更新となります。次回は、3月7日(金)18時頃に更新予定です。