モッピ ~優しい灰色うさぎ~
少し古いお話です。オランダの小さな田舎町に、エディアルトという10歳の男の子がいました。
エディアルトには、どうしても欲しいものがありました。それはよく切れる小型ナイフでも、船の模型でもありません。その欲しいものというのは、フイブじいさんの作ったぬいぐるみでした。
フイブじいさんというのは、エディアルトの家からそう遠くないところで仕事をしている職人でした。けれどもフイブじいさんは、ぬいぐるみを作るのが仕事ではありませんでした。本当の仕事は仕立て屋という、服を作る仕事なのでした。ぬいぐるみは、仕事の合間に作るくらいで、売り物ではありませんでした。
『フイブの仕立て屋』
黒ずんだ木枠にガラスをはめたドアに、その看板が斜めに提げてあるのでした。そのドアのガラス越しに、仕事をするフイブじいさんが見えます。フイブじいさんはいつも、しかめ面でした。
フイブじいさんの作ったぬいぐるみは特別でした。フイブじいさんの作ったぬいぐるみは、まるで生きているかのように喋るというのです。フイブじいさんのことを、魔法の職人と呼ぶ人もいました。
自分のことをよくわかってくれて、ずっと仲良しでいられる友達。かわいらしい、家族のような友達。もし、そんな友達がいたらどんなにいいだろう、とずっと思っていました。エディアルトは、自分だけの友達が欲しかったのです。
フイブじいさんは、頑固で人嫌いなことで有名でした。大人たちからも、あまり良く思われていません。エディアルトのような子供が店に入ることさえ、不愉快に思うことでしょう。
『どうせ、売ってもらえやしない』
エディアルトは、『フイブの仕立て屋』を訪ねる勇気がありませんでした。肩をすくめ、フイブじいさんの店のドアを学校の行き帰りに眺めることしかできないのでした。
ある日、エディアルトは友達と喧嘩をしました。エディアルトは、自分が悪くないと思っても、相手は自分が正しいと言います。自分の気持ちをどうしてわかってくれないのか、エディアルトは悔しくて、やきもきした気持ちでいました。
一人で学校から帰る途中、ずっとそのことで頭がいっぱいでした。自分が友達に言った言葉や、相手から言われた不愉快なこと。そればかりが頭の中をぐるぐるしていました。
おもいあぐねて、やがて、ふとある考えが浮かびました。
(友達なんか、いらない。いや、ぼくのことをわかってくれない友達なんか、いらないんだ)
自分のことをわかってくれる友達が欲しい。そう、フイブじいさんの作った喋るぬいぐるみ。もう、どうしてもぬいぐるみが欲しくなりました。
やけになっている気持ちもありました。エディアルトは、フイブじいさんの店の前に立って、少し考えました。
(追い返されるかもしれない。でもだめなら、すぐに店を出ればいいさ)
エディアルトは思い切って、古びたドアハンドルをぐっとつかみ、そしてドアを開けました。
フイブじいさんは、ドアの開く音で仕事の手を止めました。そして、店に入ってきた客がただの子供だと分かると、めんどうくさそうに、
「子供がなんの用だ? この店がなんの店だか、わかっているのか?」
エディアルトは、フイブじいさんのけんまくに押されて、かすれた声を出しました。
「いえ、ちょっと、そういう用事というのではないんですけど」
「じゃあ、なんだね?」
フイブじいさんが厳しい目つきでエディアルトを見ました。エディアルトは思わず目をそらしました。窓際に置かれた、ぬいぐるみが目に入りました。
優しそうな子熊のぬいぐるみ。犬のぬいぐるみ。頑固なフイブじいさんが作ったとは思えないような、可愛らしい人形たちが並んでいました。これこそ、エディアルトが欲しかったものです。エディアルトは少し気持ちが軽くなりました。
「フイブさんのぬいぐるみは、本当に喋れるんですか?」
フイブじいさんはわざと驚いたように目を大きくして、
「おや、君に名乗った覚えはないんだがね。わしはそんなに有名人かね」
「はい、とても。そのぬいぐるみは、売り物ってわけじゃなさそうだけど……なんのために作っているの?」
「なんだお前、ぬいぐるみが欲しいのか?」
フイブじいさんはそう聞きました。
「はい。ぼく、前からずっとフイブさんのぬいぐるみが欲しかったんです。ぼくは、ぼくのことをちゃんとわかってくれる友達がほしいんです!」
エディアルトは、胸につかえていた言葉を、どっと吐きだしました。
「欲しいならつくってやらんこともないが、ひとつ条件があるぞ」
「条件って?」
「お前さん、さっき喧嘩をしてきたろう。その友達と仲直りすることだ」
エディアルトは、顔をしかめます。
「それが条件? もっとましな条件かと思ったのに」
「友達を大事にしないような奴が、ぬいぐるみなんぞ大事にするかね。その日のうちに犬にやっちまうのがオチだ。いいか? 人と人との付き合いというのはな、喧嘩したっていいんだ。でも仲直りできなきゃ友達はどんどん減っていくぞ」
「でも……」
エディアルトはどうも納得がいきません。
「できないなら作らん。わしは忙しいんだ。お前の後ろにあるドアからとっとと出ていけ!」
その言葉にエディアルトは折れて、
「わかったよ。でも、本当に約束だからね。それにしても、どうしてぼくが友達と喧嘩したこと、知ってるの?」
「わしは魔法の職人だぞ。お前が見ているものよりも、ずっと色んなものが見えるんだ」
フイブじいさんが威張るように言いました。
「そうなの」
と、エディアルトはあいまいな返事をして、店を出ました。
エディアルトは、フイブじいさんに言われた通り、友達と仲直りすることに決めました。そもそも、エディアルトが友達と喧嘩をするのは珍しいことでした。だから、仲直りのしかたもよくわかりません。でも、エディアルトは勇気を出して友達のフスターフに謝りました。すると、フスターフも謝りました。お互いに気まずそうな顔をしましたが、すぐに二人はいつもの笑顔に戻っていました。仲直りができたので、指にささったトゲが抜けたような、すっきりした気持ちになりました。それに、仲直りすることは、実は大して難しくはなかったのです。
それから、うれしいことがもうひとつ待っています。
(これでフイブじいさんのぬいぐるみがもらえる!)
そう、仲直りの約束を守ったので、フイブじいさんから魔法のぬいぐるみがもらえるはずなのです。
学校の帰り、さっそくエディアルトはフイブじいさんの店に駆け込みました。
エディアルトはフイブじいさんに、友達と仲直りしたことを言いました。するとフイブじいさんは、
「そうか。なら約束は守らんといかんな。ほら。この子を君にあげよう」
ぬいぐるみのひとつを、エディアルトに差し出しました。
差し出されたぬいぐるみを前にして、エディアルトはためらった様子で言いました。
「でも、ぼく、お金なんか持ってないんです。お母さんに頼めば、いくらかもらえるかもしれないけど……」
エディアルトが言うと、フイブじいさんは、
「なんだね、そんなことか。この子は売り物じゃないんだよ。大人にはいくら積まれても売ったりせんわ。わしが作るぬいぐるみは、わしが気に入った子供に、特別にあげるものなんだ。それに、お前がわしのぬいぐるみを欲しいと思っていることを、わしはずっと前から知っておったよ」
フイブじいさんの険しい顔に、はじめて朗らかな表情を見たような気がしました。
「ありがとう。きっと大事にするよ」
エディアルトは心からそう言いました。それから、そのぬいぐるみを抱きかかえて、家に帰りました。
フイブじいさんの作ってくれたぬいぐるみは、ネザーランド・ドワーフという種類のうさぎでした。毛並みは灰色でふさふさとしています。目は真っ黒のまんまるです。
エディアルトは、ぬいぐるみをそっと窓際に置きました。
(本当に喋るのかな)
エディアルトはそう思いました。ぬいぐるみをしばらく見つめていましたが、やがて、ぬいぐるみに話しかけることにしました。
「こんにちは。ぼく、エディアルト」
すると、ぬいぐるみが、
「エディアルト! なんて優しそうな、なまえ。君にぴったり」
と、言ったのです。
エディアルトは、飛び跳ねたくなるほど喜びました。こんな可愛らしいぬいぐるみが喋って、自分の名を呼んだのですから、無理もありません。そのぬいぐるみの声もまた、とても可愛いものでした。
「ぼくたち、友達になれるかな?」
エディアルトが言うと、
「もちろん。君は、ぼくの最初のともだちだよ」
とぬいぐるみが言いました。
それからエディアルトと灰色うさぎは、毎日たくさん、話をしました。
灰色うさぎの名前はモッピーにしました。オランダ語で『大切な人』という意味の言葉でした。
モッピーが家にきてから、ひと月が経ちました。モッピーとエディアルトは、もうすっかり兄弟のように仲良くなりました。
「モッピ! 新しい本を買ってきたよ。今日は船の冒険の本だ」
エディアルトは、本を抱えて帰ってきました。このところ、エディアルトとモッピーは夢中で本を読み、二人で、物語の中に入り込むのが一番楽しい遊びになっていました。
ふたりの楽しい空想の世界では、モッピーはもう、ただのぬいぐるみではありません。本物のうさぎのように跳んだり、走ったりできるのでした。ふたりで草原を走り回って、木でふたりだけの秘密基地をつくって遊びました。
エディアルトはこのところ、モッピーではなく、少し縮めて『モッピ』と呼ぶようになりました。その方が、この灰色ウサギに合っているような気がしたからです。
それから一年が過ぎました。
エディアルトは、履いている靴が小さくなったので、お母さんに新しい靴を買ってもらいました。
エディアルトが、新しい靴を箱から取り出していると、
「この前よりも、大きな靴だね。どうしてなの?」
モッピが不思議そうにたずねました。少年が成長するなんて、思ってもみなかったからです。
「え? それは、ぼくの体が大きくなってるからだよ。いつまでも子供じゃないからね」
「エディアルトは、いつか大きくなって、大人になるの?」
「そうだよ。大人になって、それから、いつかの物語に出てきた、ひげの長いおじいさんになるんだ」
「そう」
とだけモッピは答えました。
「どうしたの、モッピ?」
「ううん。なんでもない」
モッピの様子がいつもと少し違うように感じられましたが、エディアルトは気にしませんでした。だって、自分が大人になっても、おじいさんになっても、モッピとずっと一緒にいることには変わらないと、エディアルトはそう思っていたからです。
ある日、学校の友達5人がエディアルトの家の前にやってきました。家にばかりいるエディアルトを心配したのです。友達は、二階でモッピと遊んでいるエディアルトに向かって、
「おーい。生きてるか? ずっと家に閉じこもってばかりで、かびが生えてるんじゃないのか? 出てきて背中を見せてみろよ」
と言いました。その友達の声を聞いて、エディアルトはむっとしました。
「一体どうしたんだよ。なあ、たまにはあそぼうぜ。みんな、お前がいないとつまらないって言ってるよ。いつものところで待ってるからな!」
と、友達が誘いました。
「行かなくてもいいの? きみの友達でしょ?」
モッピが言いました。するとエディアルトは、
「どうせからかわれるにきまってる。ぼくは、君と遊ぶ方が楽しいんだよ」
そう言って、友達のところへは行きませんでした。それからエディアルトの友達は何度も家にやってきましたが、エディアルトは友達と遊ぼうとしませんでした。友達は、そんなエディアルトからだんだん離れていきました。
一年が経ち、季節がめぐって、エディアルトの次の誕生日がきました。
「モッピ! モッピ! お母さんに図鑑を買ってもらったよ! 見てごらん!」
エディアルトは階段を駆け上って、自分の部屋に飛び込みました。はやく、モッピと図鑑を一緒に見たかったからです。
「モッピ! 動物の図鑑だよ。君の仲間がいっぱい出てるよ!」
いつもなら喜びの声を上げるのですが、モッピは、何も言いません。
「どうしたんだ、モッピ?」
機嫌でも悪いのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。だって、今まで一度もケンカをしたことなんかないのですから。
エディアルトが話しかけても、モッピは何の言葉も返してくれませんでした。一体、どうなってしまったのか、エディアルトには分かりません。時間が経てば話をしてくれるのかと思って待ってみましたが、夕方になってもモッピは言葉を話しませんでした。
モッピが話さなくなってから、三日たちました。エディアルトはあきらめず、毎日モッピに話しかけました。それでも、モッピは返事をしてくれませんでした。ただの置き物のように、静かにそこにいるだけでした。エディアルトは、胸に空洞ができたような気持ちになりました。
そして何か月も何年も経ちました。エディアルトは大人になり、仕事をするようになって、遠いところに引っ越しました。心の中にモッピへの思いはありましたが、それでももう、ずっと家で遊んでいるわけにはいかなくなったのです。
それからまた年月が経ち、エディアルトは久しぶりに自分の暮らした町へ帰ってきました。
子供の頃に暮らした町は懐かしく、街の建物や、山や小川は、昔のままでエディアルトを迎えてくれました。エディアルトは、一気に子供のころに戻ったような気持ちになりました。
エディアルトは、街の風景を心に刻み付けるように、家に帰る道をゆっくりと歩きました。
フイブの仕立て屋の前を通り過ぎようとしたときです。お店の中に、フイブじいさんの小さな背中が見えました。フイブじいさんはすっかり年老いていましたが、まだ仕立て屋の仕事を続けていたのです。
エディアルトは、フイブじいさんと話をしてみたいと思いました。エディアルトは、フイブじいさんの店に入りました。
店に入ると、フイブじいさんが仕事の手を止めて、エディアルトのほうを見ました。
「お前か。大きくなったもんだ」
フイブじいさんは、エディアルトのことをちゃんと覚えていました。
「あのぬいぐるみは、まだ大事にしておるか。それとも、もうなくしちまったか」
エディアルトは、モッピが喋らなくなったことを話しました。
「そうか。なるほどな」
フイブじいさんは、しわだらけのアゴを撫でながら、それだけ言いました。
「どうして話さなくなったんだろう。魔法が解けちゃったのかな」
「いいや。そんなことはないはずだ」
フイブじいさんが腕組みをしながらゆっくり首を振りました。
「じゃあ、ぼくのことが嫌いになったのかな」
「それもちがうと思うがな。まあ、ちょっとそこへ座らんか」
フイブじいさんは、壁際に置いてある丸イスを指差しました。それから、お茶を入れる支度をはじめました。エディアルトは、黙ってその丸イスに座って待ちました。
「人間の子供はいつか大人になる。大きくなっていくお前を見て、モッピは君の未来のことを考えたんじゃなかろうか。そうは考えなかったか?」
エディアルトは、その言葉の意味がわからず、フイブじいさんを見つめました。
「あの子はな、お前が立派な大人になれるようにしてくれたんだ。ぬいぐるみと遊んでいるだけでは、お前のためにならないとモッピは気づいたんだろう」
エディアルトは、そこで声を上げました。
「それって、どういうことなの? モッピは、ぼくといっしょにいないほうがいいと思ったということ?」
「あの子はまだ家にいるのか?」
フイブじいさんが聞きました。
「ぼくの部屋に、まだそのままになってるはずだけど。たしか、窓際に座ってるはずだ」
「それなら、すぐ家に帰ったほうがいいと思うがな。心優しいあの子が、君が一生懸命話しかけるのに、その言葉を聞こえないふりをするのがどんなにつらいことだったか。友達をずっとひとりにさせちゃだめだろう。ここで話をするより、モッピに直接聞いたらどうなんだね。お前たちは、そういう仲だったはずだろう」
「じゃあ、まだモッピは喋れるんだね?」
フイブじいさんは片目をつむってみせて、
「お前が子供のころの気持ちを忘れていなければ」
エディアルトは、はじかれたように表へ飛び出しました。久しぶりの我が家に帰ると、お母さんにただいまを言うのも忘れて、自分の部屋へ続く階段を駆け上がりました。
エディアルトが少年だったあのころと同じように、モッピは窓際にちゃんと座っていました。
エディアルトは、もう夢中で話しかけました。
モッピも懐かしさに負けて、ついに口を開きました。もう、エディアルトはちゃんとした大人になっていて、知らんふりをする必要がなくなったのです。
それに、モッピもやっぱり寂しかったのです。そして、エディアルトが帰ってきてどれだけ嬉しかったことでしょう。自分はもう、すっかり忘れ去られてしまったとばかり思っていたところへ、大人になったエディアルトが、昔と同じように目を輝かせて部屋に飛び込んできたのですから。
二人は夢中で語りあい、そして最後に、エディアルトはモッピを抱きしめました。ずっと一緒だよ、という気持ちは言葉では表せなかったのです。大人になっても、エディアルトは子供の頃の気持ちを忘れていませんでした。
エディアルトとモッピがどんな話をしたか、ですって?
それはふたりだけの秘密にしておきましょう。