ザルツベック大空洞⑩
それが落ちて来たのは、俺の側ではなく入り口の側の方だった。
──正直助かった。目の前に落ちてこられたら、多分パニクってまともな反応が出来なかったと思うので。驚きはしたものの、ロア高原とここである程度モンスターにならされた俺は、なんとかパニクらずにそいつが何なのかを認識する事ができた。
それは全身闇のような黒色に覆われた、狼のような獣だった。ただサイズはそれほど大きくはない。元の世界の話になるが、大人の秋田犬くらいのサイズだろう。ここまで遭遇してきたモンスターの中では、大分小型の部類に入る。
──これが普通に森の中とか、別の所で遭遇したのだったらきっと狼かそれに似た魔物の子供とでも認識しただろう。だがさすがにそんな勘違いは起こさない。
ここは、瘴気に侵された場所。普通の生物は存在できないハズ。そして、形状こそは異なるもののその色は温泉で遭遇したものと酷似している。
即ち、瘴気獣だった。
「マジかよ……引き悪すぎるだろ、俺」
遭遇する可能性は考慮には入れていたが、その可能性は低いと考えていた。ここいらは恐らくはまだ瘴気に侵されて間もない場所で、そんな場所で瘴気獣が生じる可能性は低いハズなので。
そもそもコイツは上から起きて来た。となるとこの場で生じたのではなく……別の場所で発生した奴がたまたまわずかな隙間に足をすべらせ、落下して来たのだろう。どれだけの確率だよ、運が悪いってレベルじゃねーぞ。
まぁそもそもこんな異世界転移なんてものを喰らっている時点で、運の引きの悪さは折り紙付きな気もするが。ただやってきた世界であった人間がユマやリズ達という大当たりを引いている事を考えていれば、バランスは取れているのかもしれない。まあリズちょっとべたべたしてき過ぎだけど。こっちはまだ内面男の部分が大分残ってるから手を出しそうになる気持ちになるが、下手に手を出すとそのまま受け入れられたあげく大変な事になりそうなので踏みとどまっている。
それはともかくとして。
俺は即座に腰を落とす。本来であればこれから戦闘が始まるというタイミングで腰を落とすなんて愚策なのだろうが、俺の場合そもそも地面に触れていないと始まらない。だいたい立っていたところで上手く逃げ回れるような体術は修めていないのだから、余計な事は考えずに近寄らせない事を考えるべきだろう。ぶっちゃけ懐にもぐりこまれたら終わりだ。接近させる前になんとかしなければいけない。
奴が動いた方向でタイテンを生み出し、奴を束縛する。束縛してしまえば後はなんとかなるハズ。そう考えて待ち構えていると、瘴気獣が動いた。
俺とは反対側──この場所の入り口に向けて。
「駄目だ!」
次の瞬間、俺は地面を通じてタイテンを生み出していた。入り口を塞ぐように。
ここまでの道は一本道だった。なのでここからアイツが出て行った場合、アイツは確実にユマ達の元へたどり着く。
あのサイズだ、普通の魔物だったらユマ達の敵じゃないだろう。だが奴は瘴気獣だ、その場合彼女達は有効打を持たない。
全くダメージを与えられないわけではないので最終的に倒す事は可能なのかもしれないが、その間に彼女達の周りは瘴気に侵されるだろう。そうしたら彼女達の体に何が起きるかわからない。行かせるわけにはいかなかった。
……そのままコイツがタイテンの蔦に絡めとられれば話は早かったのだが、奴を突破させてはいけないとかなり焦って使用したこともあり、奴は蔦の届かない位置で動きを止めてしまった。そしてゆっくりと体の向きをこちらに向けてくる。俺がタイテンを生やした事を感じ取ったのだろうか。
冷や汗が一つ流れた。
いや、大丈夫だ。あのサイズだ、手持ちの植物でなんとかなる──そう思った瞬間だった。
「うわっ!」
この時、咄嗟に動けた自分の体を褒めてあげたい。
瘴気獣は突然口をカパリと上げたのだ。その行為に嫌な気配を感じ、咄嗟にその開けられた口の直線上から飛びのいた俺の横を黒い何かが通り過ぎていった。それは壁に当たって消えたが……そこまで威力が高いようには見えないが、当たってみる気はない。瘴気獣が吐き出したのものがまともなもののハズはないのだから。
何にせよ躱せてよかった。──そう、躱せた事はよかった。
問題は、躱した後にその黒い何かの行き先を気にしてしまったことだ。俺はそれを目で追い、奴から視線を離してしまった。戦闘に慣れているものならしないようなミス……守られていない状態での戦闘経験は皆無という実戦経験の無さにより犯してしまった致命的なミス。
気付いたときには瘴気獣が、すぐそばまでこちらへ駆け寄ってきていた。牙を剝いたまま。




