未来の都会の農家
腐ったトマトが手から滑り落ちる。
ブヨブヨした薄い皮が衝撃で破けて中身があふれ出す。
種や果肉と汁があたりに飛び散る。
ひどい匂いがあたりに充満し、鼻孔から侵入し口の中にまであふれだす。
想像するしてみる、口の中の腐ったトマト。
まず、舌の上で転がす。
普段口にするトマトはもっとしっかり形を保っているし、よく冷えていて、噛めば一時の清涼感を与えてくれる。だがこいつはちがう、舌の上で形を保てずに崩れてしまう。
最悪だ、口から吐き出す、地面に種と果肉と汁が飛び散る。
口の中にはまださっきまでの不快感が残っている。
持っていた天然水のボトルをあけて口の中をゆすぎ、吐き出す。
深呼吸する、肺に少し埃が混じった冷たい乾燥した空気が入ってくる。
ほんの少し残った腐ったトマトの残り香も入ってくる。
息を吐く、吐いた息が白く浮かんで消えていく。
やれやれ、これからが大変だ。
いつも後片付けをする間は憂鬱だし、何より一番堪えるのは匂いや重さだ。
糸の切れた人形かできの悪いラブドール、または役に立たない店先のマネキンくらい重い。
外骨格は電波が届かない場所じゃ役に立たない、バッテリーが要らないのはいいが、こういう時は鈍器にするか、かなり割高な漬物石くらいにしかならない。
まぁ、そこら中に人の目や監視ドローンが飛んでいる都会の中で、収穫できる場所となるとこういう場所を選ばなくてはならない。幸いこういう場所では煙が立とうが、つまずいて転んでも誰も手を差し伸べちゃくれないし。消毒して絆創膏を張ってくれる優しいシステムも範囲外だ。
こういうところには、自然から隔離された都会の中で暮らす人間が、ちょっとしたスリルを求めてあいびきに来るくらいだ、バーバ・ヤーガも気の利いた怪談に出てくる妖怪もはるか昔に駆逐されてしまった。いるのは私みたいな、変わり者の農家くらいだ。
毎日毎日生真面目に畑の様子を見に来て、たまに収穫できそうな野菜を見つけたら採る。
だけど、すっかり土壌も悪くなって、農薬漬けになってしまっていて、どこかが悪いか大体は腐ってしまっている。どこかいい土地はないかと旅に出ようかと思ったが、私にも生活があるし、親や友人に余計な心配をさせたくはない、趣味にうつつを抜かして学業や友人関係をおろそかにしては元も子もない。
何事もバランスが大事だ、おいしい野菜を育てるために間引きをするように、全部を収穫しようなんて思ってはいけない、丹精込めていいものを作らなくてはならない。
まぁ、それでもほとんど腐っているのだが。
ドラム缶に収穫したものを適当に押し込み、ガソリンを適当に流し込む。ここからは長いが寒さでかじかむ夜には、暖炉の前でココアでも飲みながら分厚い本でも読めば気分はまぁそれなりによくなるだろう。
夜空には満点とまではいかないが、都会の夜空では見ることのできない星も見えて粋ではないか、ちょっとしたキャンプ気分だ。
すっかり冷めきったテイクアウトの牛丼をリュックから引きずり出してほおばる、重労働した後のすきっ腹にはちょうどいいジャンキーな味だ、今どき不健康な物ばかりになってしまって、健康なんてものは金持ちのステータスになっている。
健康になるために不健康になりそうなくらいの量の薬漬けになって、体が動かなくなったら管につながれて機械につながれてそのまま死ぬまで寝たきりだ。私も今の内から健康に気を使うべきなのだろうが、やはりこういうジャンクな味は癖になって、抜け出すことができない。
コスパ重視の固い肉と気持ち程度に乗っている野菜、山のような調味料を混ぜて水に溶かしていて、想像するだけでげんなりするが、あじはかくべつだ。
空になった容器をドラム缶に放り込む、ごちそうさまでした。
容器は燃えるゴミだったか、いまいち思い出せないが、別に誰もここでは気にしないだろう。
図書館で借りた本をリュックから引きずり出し、落とし物コーナーから拝借した押し花のしてある栞を挟んだページから読み始める。
なんとか賞を受賞したりしなかったりした本らしい、いつだか思い出せない朝に寝起きのぼんやりしながら朝食を食べながら見ていた朝のニュース番組で、特集が組まれていたような気がする。
何やら現代の若者をリアルに描いているらしい、こういうのを読んでるのって、今どきの若者を知った気になっている厄介な大人が読んでいる印象があるせいで、正直なところ好みではない。
こんな本を読むよりも、自分の子供と腹を割って話せるような関係を築くほうが先決ではないだろうか。
みんな表向きは健康そうだが、中身はとっくに腐ってしまっている。
医療が発展して、傷跡も残らないくらい完膚なきまでに治療されるが、心の傷は見えないし心なんて部位はそもそも存在しない、メンタルヘルスも心を開くことをあきらめた人たちにはもう手遅れだし、年々自殺率や自傷が行き過ぎて運ばれる事件も増えている。
実に嘆かわしいばかりだ。
内容もほとんど頭に入ってこない本を閉じて、水筒にいれたコーヒーを口に入れる、鼻孔をコーヒーのいい香りが抜けていく、舌の上をほのかな暖かさと苦みや酸味が埋め尽くす。
食道を通って、じんわり暖かさがにじみ出てくる。
携帯端末の時刻は夜中の一時と表示されている。
ドラム缶の火はしばらくは持ちそうだ、寝袋と下に敷くマットを取り出す、これがないと凍死してしまう。
今日は金曜日。
両親はとっくに寝ているのだろうか、まぁどうだっていい。
オリオン座はどこだろう、一等星のベテルギウスを見つける。
トマトを連想して少し気分が悪くなった。
すっかり感動は失せてしまいまぶたを閉じる。
パチパチというドラム缶の中身が燃える音と腐った卵のようなにおいがする。
もう慣れたものだ、疲れていたからかまぶたを閉じるとすぐ眠気に襲われる。
おやすみなさい。
誰に聞こえるわけでもないだろうが、そこにいた誰かに言ってみる。
返事は帰ってこない、文字通り帰らぬ人になったからだ。
あるのは腐ったトマトのシミだけだった。