令嬢劣等生 1
彼は、身なりを整え、鏡に映っている自分を見ている。
後ろに立っている執事のヴィクトロス・コルデアが選んだ服に、不満はない。
ただ「いかにも」といった格好が、好きではないだけだ。
「殿下……嫌そうな顔をなさらないでください」
「嫌なものは嫌なのだから、しようがないだろう、ヴィッキー」
ヴィクトロスが、この愛称を気に入っていないと知っている。
ごく少数を除き、ほかの者たちはヴィクトロスを、ヴィとかヴィクトーと呼んでいた。
ここでは産まれた時からのつきあいである彼だけがヴィッキーと呼ぶのを許されている。
幼い頃、まだ舌足らずで正しい発音ができず、そのように呼んでいたからだ。
彼は、すでに大人になっていたが、変えようとは思っていない。
焦げ茶色の短い髪を後ろに撫でつけ、背筋をピンと伸ばしているヴィクトロスは、常にきちんとしていて執事の見本のような男だった。
深い青色をした瞳には、悩み深そうな色が漂っている。
が、これも、いつものことなので、気にはしない。
“ヴィッキー”は、悩み多き執事なのだ。
その悩みの大半は、彼の素行にあるのだけれど、それはともかく。
彼、オリヴァージュ・ガルベリーは、現国王の甥であり、王位継承第3位という立場にある。
言葉の印象からすると、即位に近い感じがするものの、実際は割と遠い。
現国王は息災で、その息子、つまりオリヴァージュの従兄弟も健康そのもの。
オリヴァージュの順番は、叔父と従兄弟、そして実父が他界しなければ回っては来ないのだ。
実父も健在だったし、彼に出番は見込めない。
さりとて、オリヴァージュ自身、即位したいなどとは微塵も思っていなかった。
ほかの血族と同様、面倒で厄介なだけだと思っている。
即位から逃れるため、さっさと婚姻する王族は少なくない。
通例として、即位前に、正妃選びの儀を行わなければならないからだ。
つまり、婚姻していれば、そもそも正妃は「選べない」ということ。
それくらい「王位」は、人気がない。
現国王が息災な間、彼らは自由気まま、好きに生きている。
突然、王宮に縛られ、窮屈な思いをするなんて嫌に決まっていた。
逃げ出したくもなる。
「即位を意識されておられないのであれば、殿下も、そろそろご婚姻なさっては、いかがですか?」
「よせよ、ヴィッキー。それでは、まるで私が放蕩しているみたいじゃないか」
「放蕩でしょう?」
「考えかたの相違、と言っておこうかな」
オリヴァージュは、現国王とは近しい存在だし、引き受けようとすれば、いくらでも公務はあった。
しかし、彼は、公務には、いっさい手を出していない。
新年の挨拶すら列席していたのは、十歳まで。
15年も前が、最後だった。
9歳上のヴィクトロスからは、口うるさく「公務をしろ」と言われている。
「きみは放蕩と思っているようだが、私にとっては趣味なのさ。趣味に明け暮れるのが、王族の習わしだろ?」
「殿下は趣味がお悪いと、常々、申し上げております」
ヴィクトロスの言葉に、オリヴァージュは、声をあげて笑った。
しかつめらしい顔をして、はっきりと物申すヴィクトロスが、彼は好きなのだ。
ヴィクトロスの母が、オリヴァージュの乳母だったからかもしれない。
彼が、最初に覚えた名も、両親ではなく、ヴィクトロスだった。
「時に、殿下。お聞きおよびになられましたか?」
ヴィクトロスは執事らしく、表情を変えずに言う。
常時、しかつめらしい顔を崩さない。
「なにか大層なことでも起きているらしいねえ。ヴィッキーが貴族のことやなんかに興味を示すのだから」
オリヴァージュは貴族づきあいも、ほとんどしていなかった。
つきあいがあるのは、姉の嫁ぎ先であるウィリュアートン公爵家くらいだ。
ほかの貴族は、まるきり無視している。
そのため、ヴィクトロスも貴族に関することを口にせずにいた。
もとより、ヴィクトロスだって、貴族になど関心はないのだろうし。
「アドルーリット公爵家の話題だったものですから、嫌でも耳に入ります」
「アドルーリットか。女系とはいえ王族の血筋だからなあ」
ウィリュアートン公爵家に比べ、アドルーリット公爵家は「由緒正しい」とまでは言えない家柄だ。
今の代から2百年ほど前、王族の女性が嫁いだことで、ロズウェルド王国建国時には存在もしていなかった家の、格が上がった。
以来、それを鼻にかけているようなところがある。
「このたび、ご長男のネイサン様が家督を継がれることになり、正妻を、お選びになられるそうです」
「選ぶ? とっくに決まっているじゃないか」
「それが、どういうわけか正妻選びをなさるとのことにございます」
どういうわけか、とヴィクトロスは言ったが、本心ではわかっているのだろう。
やや皮肉っぽい口調になっている。
「見栄っ張りも、ここまでくると呆れるより笑えるね」
「どれだけの家が、候補の女性を差し出してくるか、ほかの貴族たちに見せつけるつもりなのでしょう」
ヴィクトロスも、本心を出していた。
どういうわけか、は、そういうわけだ。
「ああ、まいったな。そうか。ヴィッキー」
「さようにございます、殿下」
アドルーリット公爵家は気に食わないが、王族の血筋であることは否めない。
その婚姻ともなれば、オリヴァージュも無視を決め込めないのだ。
とくに、彼は現国王に近いため、なおさら「スルー」できなかった。
「あの鼻もちならないスチュアートのやりそうなことだ。知っているかい、ヴィッキー、奴ときたらサロンで女性に“スチュー、あなたったら、とってもユニークね”なんて言われていい気になっているのだぜ?」
「愛称は、この際、関係ないでしょう」
「あるさ、あるとも。サロンでの言葉が、ほとんどお追従だってことも気づかない馬鹿者だとわかるじゃないか」
スチュアートは、婚姻する当事者であるネイサンの父だ。
ネイサンは、スチュアートが35歳の時にできた正妻の子だった。
今年で32歳になる。
スチュアートは昔から遊び人を気取っており、婚姻が遅かった。
見栄っ張りでもあったため、長く家督を譲らずにきたが、70歳目前になって、ようやく息子に譲る気になったらしい。
結局、そんな“見栄っ張りのスチュー”に、引っ張り出されてしまうはめになるのだから、不愉快にもなる。
正妻選びの話を聞いた時には、そこまで考えが及ばなかった。
オリヴァージュの頭の中は、趣味のことでいっぱいだったので。
趣味に没頭している間、彼は自らの心の声にまで「配慮」する。
そのくらい王族という立場から自分を遠ざけていたかったのだ。
「ところで、殿下」
ヴィクトロスの声音が変わっている。
小さい頃からの経験則で「叱られる」気配を感じ取った。
「サロンには、いつ、おいでになられたのです?」
「あ~……いつだったかなぁ」
「それが放蕩でなくてなんなのでしょう?」
「少なくとも、ここ2日ばかりは行っていないさ」
ヴィクトロスの目が、細められる。
オリヴァージュは小言を言われる前にと、身を翻した。
私室を、さっさと出てから、ふと思い返して、室内をひょいと覗き込む。
腕組みをし、悩み深げなヴィクトロスに言葉をかけた。
「そう、嘆くなよ、ヴィッキー。眉間のしわが取れなくなるぞ」
ギロッとにらまれ、慌てて扉から離れる。
廊下を歩きつつ、オリヴァージュは陽気に笑った。