初めましてとさようなら 3
悔しい。
奥歯が、キリキリするほどには、悔しい。
さりとて、ナルの言ったことを否定できないことも、わかっている。
婚姻しなければ、セラフィーナは家を出されてしまうのだ。
伯爵令嬢として、何不自由なく生活してきた。
家を出されたら、どうやって生きていけばいいのか、わからずにいる。
セラフィーナには「働く」との発想すらなかった。
周囲に勤め人は多いものの、自分がその立場になるなんて考えもしない。
「待ちなさいよ!」
ナルが、ぴたりと足を止める。
セラフィーナは、むむぅと顔をしかめた。
これは想像だけれども。
(あいつ……私が呼び止めるって思ってたんじゃないの?)
なんだか、そんなふうに感じる。
普通、呼び止められたら、少しくらいは驚くものだ。
そうでなくとも、反射的に振り返ったりはする。
なのに、ナルは、足を止めていても、振り向いてはいない。
「あなたは教育係を任じられたのよね? 勉強する気にさせるのも、あなたの役目でしょ? それを何もせず投げ出すなんて、教育係失格だわ」
振り向かないナルの背中に言った。
「少なくとも、今までの教育係は、努力したわよ? あなたは、とても無責任ね。労せずしてお金を取ろうとするなんて、まるで詐欺師じゃない」
背中を向けたまま、ナルが肩をすくめる。
両手まで広げた、その大袈裟な仕草に、イラっとした。
馬鹿にされている、と感じたからだ。
「辞めたければ辞めればいいし、お父さまに言いたければ言えば? その代わり、私も言うわよ? あなたは、何もしなかったってね!」
イライラして、つい最後は語気が荒くなる。
セラフィーナは、ナルの背中を、じっと睨みつけた。
「いいでしょう」
ナルが、くるりと振り向く。
そして、すたすたと歩いてきた。
フードに隠れていて、表情がよく見えない。
セラフィーナは、唇をとがらせる。
(こっちばっかり見られて、不公平じゃない)
ローブ姿のナルは、外見からは、細身ということくらいしかわからない。
顔の美醜も判断ができないのだ。
それについて、からかったり嘲ったりする気はないにしても、知っておきたくはなる。
彼のほうは、自分を「観察」していたに違いないのだから。
セラフィーナは負けず嫌いで、意地っ張り。
高慢ちきな態度を取ったりもする。
が、それは、気に食わない相手に限られていた。
セラフィーナ付きのメイドのデボラや執事のトバイアスとは親しく、気取りなくつきあっている。
誰彼かまわず、トゲトゲのハリネズミなわけではない。
「ちょ……」
セラフィーナは、大いにムッとした。
ナルが、勧めてもいないのに、向かいにあるイスに座ったからだ。
待てと声をかける暇もないほど、平然と腰かけている。
怒鳴りたくなっているセラフィーナの前で、ナルは小さな仕草を見せる。
とたん、彼の手にティーカップが現れた。
紅茶だろう、湯気を上げている。
「魔術なんて使わなくても、お茶くらい出すわ」
「ですが、ティーポットの紅茶は、冷めているでしょう? 冷めた紅茶を口にするのは、ゾッとしませんからね」
セラフィーナは、新しい教育係をやっつけてやろうと待ちかまえていた。
そのため、人ばらいをしていたのだ。
いつも近くに控えているトバイアスもデボラも、今はいない。
つまり、冷めたお茶を取り換えてくれる者も、いない。
ナルは、セラフィーナの痛いところばかりを突いてくる。
家を出される話にしても、手助けをしてくれる者がいないことにしても。
わかっていてのことなのか、偶然なのか。
(絶対、わかってる……わかってて嫌がらせしてるのよ……)
こいつは、そういう奴だ。
セラフィーナの勘が、そう告げていた。
彼女は、理屈はどうあれ、直感力には優れている。
根拠を示せと言われると困るのだが、たいていセラフィーナの「勘」は正しい。
「正妻が選ばれるまで3ヶ月。この間、私は、あなたを“教育”します。あなたは、逃げてもかまいませんし、私を無視してもかまいません」
言葉に、眉をひそめた。
ナルが、なにか「策略」を巡らせているのは確かなのだが、意図がわからない。
逃げられたり、無視されたりしたのでは「教育」できないはずだからだ。
実際、今までの教育係たちに、そうした手を使ったことも、多々ある。
「私抜きで、私の教育ができるとでも?」
「私は自分の役割を果たすのみです。あなたが、そこにいようといまいと、聞いていようがいまいが、関係ありません」
「そんなの、詐欺じゃない」
「そうした私の“健気”な姿勢に、あなたがやる気になると、思っただけですよ? あなたが来ると信じ、ひたすら誰も座っていないソファを相手に、私は延々と語り続けます」
ものすごく嫌な感じがした。
想像するだけで、気持ちが悪い。
誰もいないとわかっているのに、講釈を垂れ続けるなんて。
「もちろん、私が語っている間、あなたは、そこに居てもかまいません」
「かまいませんって、なに? いてくださいって頭を下げるべきでしょ?!」
「そのようなことは申し上げられませんね。居たくもない、聞く気もないかたに、居てくださいとお願いするのは、心が痛むものですから」
どう考えてもナルの心は痛んでなどいない。
痛むことがあるとも思えない。
いや、むしろ、心を痛ませたことなどない、と断定したくなる。
セラフィーナは、キリキリと奥歯を軋らせつつ、感情をなんとか抑制した。
このままでは、ナルに主導権を握られてしまう。
ナルの言動に動揺しないことが肝心なのだ。
自分の手番に戻すため、セラフィーナは話題を変える。
「それはそうと、あなた、ずっとフードをかぶっているのね。魔術師としては当然かもしれないけれど、ここにいる間は教育係でしょ?」
「確かに、仰る通りです」
魔術師は常にローブを身にまとい、よほどのことがなければフードも外さない。
だから、外さない理由、もとい言い訳をしてくるだろうと思っていたのに。
ふぁさ。
ナルは、こともなげにフードを外す。
そして、にこりともせず、セラフィーナを見て、言った。
「もし、あなたが己を貫き通せたなら、3ヶ月後、私は、あなたに跪きましょう」




