夢恋路 ~青年編~6
【おリョウ】
「はぁ、良かった。無事に渡せたね。」
「喜んでくれて良かったね。」
「えぇ、嬉しいよ。今日は付き合ってくれて本当にありがとう。」
私の言葉に小五郎は笑顔で答えた。
しかし、今日の予定はこれで終わったわけではない。私は、小五郎に約束しているからだ。
約束は果たす、でも、どっちにするかはまだ、決めかねている。
思わず無言になってしまう私に小五郎は何も言ってこない、小五郎ならばきっと、今の私の気配を感じているはず。
だから、何も言わないんでしょうね。
私はある事を決めていた。それは一つの賭けで、小五郎がどう出るかによって、どちらかを選ぶか決めるつもり。
・・・あの橋が見えてきた。
あの日、再会したあの日に落ち合ったあの小さな架け橋、私は少しずつ小五郎の後姿から距離を取り、気配を落として静かにゆっくり歩いた。小五郎はそのまま歩いて行く。
そして、私は橋の袂で足を止めた。
数歩先に行く小五郎。
もし、小五郎が橋を渡りきる前に私に気が付けば全部を話す、しかし、橋を下りてしまったら、貫き通す。
自分で決められなのならいっそ、私は小五郎に賭けた。
「・・・・・・・」
足を止めて、歩いてゆく小五郎の背を見つめてみた。
きちんとした着物を着て、袴をはいて上着を羽織っている。背筋はまっすぐに伸びていて、その大きな背中は頼りがいがあって・・・
時間移動を何度も繰り返しその都度一人で生きてきた自分にとって、自分を知る存在を特別に想ってしまうのは仕方がない事、それが一時的な勘違いなのかそれとも・・・
私は黙って、その背を見続けた。
縁こそあれど板が打ち付けられただけの様な橋の長さは歩数にして数歩程度、あっという間に渡りきれる。
小五郎は、橋の真ん中で、私が止まって数歩で、足を止めた。
「・・・どうしたの?」
小五郎は、振り向いて・・・私を見た。
あぁ、やっぱりこの男は、そう言う男だ。
私は黙って小五郎を見上げた。
「・・・どうしたの、姉さん・・・?」
小五郎が不安そうな顔で私を見ている。私は無意識に、足を進め、小五郎の胸に飛び込んでいた。
「姉さん!?」
小五郎は驚いて一瞬体を固くしたが、すぐに私を優しく抱きかかえてくれた。
どうしてだろう、涙が止まらない。
震えが、止まらない・・・
【桂小五郎】
泣いているの・・・?
姉さんは小さく震えていた。
僕はいつも姉さんがしてくれていたみたいに、姉さんの背中を優しく擦ってみる。
姉さんって、こんなに小さかったんだ。
こんなに細くて小さな体に一体どれだけの事を抱え込んでいるのだろう。
姉さんは強く僕の服をにぎったまま、泣いてしまうほど、心が潰れてしまうほどに辛い思いを抱えているの?
・・・何があったの?
僕は黙って、姉さんが落ち着くのを待った。
【おリョウ】
「ごめん、」
「落ち着いた?」
「うん、ごめんね。ありがとう・・・」
「少し、腰かけようか。」
そう言って小五郎は私を橋の縁に座らせる。そして自分もその横に腰を掛けた。まだ少し呼吸の乱れている私の背に小五郎は手を添えてくれている。
情けない、子供に心配をかけて・・・思わず苦笑した。
私は一呼吸おいて空を見上げる。茜色の空は一体あとどのくらいで闇夜へと変わってしまうのだろう。月が出てその輝きさえ明るく感じられるほどの闇は、もうすぐ近くにいる。
「姉さん、あのね、」
小五郎が私を見ながら優しく微笑んだ。
「言わなくても、いいよ?」
「えっ?」
私は思わず聞き返す。小五郎は相変わらず優しく笑っている。
「そんなに追いつめるつもりはなかったんだ・・・。姉さんがどこの誰かわからなくても、例え何も答えてくれなくても、他の誰がなんて言おうと僕は姉さんを信じるよ。」
「・・・小五郎、」
何て良い男に育ったのだろうか、この子は。お母さんとお姉ちゃん達に感謝しないといけない。
「ありがとう、小五郎。」
私は笑って見せた。
「ねぇ、さっき、何で振り返ったの?」
「えっ?」
私の言葉に今度は小五郎が目を丸くした。
「さっきよ。私、橋の手前で立ち止まったでしょ?何で気が付いたの?」
私の問いに、当たり前すぎてその意味さえ分からないと言わんばかりの顔をする小五郎。
「それは、姉さんの足音がしなくなったから・・・?」
「でも私は少し前からかなり足音を気にして消して歩いていたはずよ?」
「そうだね。」
「それでも、わかっちゃうの?」
小五郎は少し照れたような顔をして笑う。
「砂川屋さんを出た後から、姉さんの気配が少しおかしかったから、気にしてたんだ。」
「あら、そんな事もわかっちゃうの?」
「まぁ、ね。」
照れ笑いする小五郎。そんな小五郎に私は微笑むと、再び空を見上げてつぶやいた。
「賭けてたの。」
「賭け?」
顔を戻し、私は小五郎をまっすぐ見る。
「そう、賭けてた。この橋の袂で、小五郎が気付くか。もし、橋を渡りきる前に気が付いたのなら、全部話す。もし、渡り切ってしまったのなら、隠し通す。」
「で、どうだった?」
「何よ、すぐに気が付いたんでしょ?」
小五郎の問いに私は笑った。
「その賭けじゃそもそも僕が負けるわけないよ、だって、姉さんの事・・・気が付かないわけないでしょ?」
「そうよね、だから、話すのよ?」
私は笑う。
「でも、無理はしないで?」
小五郎の優しさは、もう十分にわかっているよ、だから信じるんじゃない。
それに、黙っている方が無理になりそうな気もするもの。
私はできるだけ、深刻にならない様に、口調を変えた。
「そうねぇ、急に全部って訳にはいかないの。いろんな方向のいろんな方々に迷惑がかかっちゃうから、言葉は選ばないといけない。それでも良ければ、話すわ。」
「ぜひ、お願いします。」
小五郎が笑った。
「・・・わからなくていいから、そんな事もあるんだって程度の軽い気持ちで聞いていて欲しい。」
小五郎は黙って頷いた。
「私は、今から200年後の時代から時を流れて来てしまった人間なの。この時代の人間じゃないのよ。」
「えっ・・・?」
そりゃ、そんな顔するわよね。私は苦笑した。
「私は今までも何度も時代の行き来をしているの、自分の意志とは関係なくね。」
「姉さんの意志とは、関係なく・・・?」
「そうよ、私の意志じゃないの。今、現世の私は意識を失った状態にいる。そして私はいつもその最中に、違う時代の違う世界に来てしまっているの。」
「・・・どういう事?じゃぁ、ここにいる姉さんは一体・・・?」
「さぁて、夢か幻か、それは私にもわからない。でも現世に戻るとほんのわずかな時間程度しか意識を失っていない、長州の時も一刻程度意識を失っていただけだったのよ?あなた達とは一年近い月日を過ごしたと言うのにね・・・」
「そんな・・・」
「だから、現世の私が意識を戻せば、私はこの世界から突然いなくなる・・・」
「あの時も・・・?」
「えぇ、多分ね。」
黙ってしまっている小五郎に私は言葉を続ける。
「私を失って、小五郎は辛かったと言ったわよね?」
「はい・・・」
「それは、突然現世に引き戻された私も同じよ。」
「・・・・・・」
小五郎がはたと目を見開いてこちらを向いた。
そうよね、あの時はあなたは子供だったから、いなくなった私のその時の想いなんて考えたこともなかったでしょう。
「だから私は、人知れず静かに暮らしたいの・・・誰かと仲良くなれば、別れは、辛いから。」
泣き暮らすほどのつらい別れはもう二度とごめんよ。突然何の心の準備もなく引き離されて、もう二度と再会は望めない。そんな人たちの話を誰にして、私は気持ちを整理したらいいの?
「時を超えるなんて・・・信じ、られない・・・」
小五郎がぽかんとした顔で言った。
「一番いい証拠が、私の年齢。あなたの年齢は?」
「・・・二十五、だけど、」
「私と別れて、何年?」
「えっと・・・十四年?」
「私はあの時、28とあなたに言った。そうよね?」
「はい・・・」
「今の私の年齢はね、32なのよ。」
「・・・・・・・・」
小五郎が唖然としている。私もあなたの立場ならそんな顔をするでしょうよ。
「あなたには14年、でも私には4年前の出来事なのよ・・・」
小五郎はしばらく言葉が出ない様子だった。当たり前だ、この時代、まだ電気もガスもない、電車も自動車も自転車さえも何もない時代に現世の私達でさえ夢物語だと思っている事を、理解できるわけがない。
小五郎にとっては理解出来る出来ない以前の問題。
私はそんな小五郎を置いて、話を進めるしかなかった。
「私はこの時代にいてはいけない人間、私が何かする事で未来が大きく変わってしまうかもしれない。そうすれば、存在するべき人間が存在しなくなるかもしれないし、逆に、歴史上死すべき人間が残ってしまうかもしれない。過去での人の流れが変われば枝葉の様に未来に伸びている人の流れも、時の流れも大きく変わるかもしれない。だからこそ、私はできるだけ表舞台に立つようなことはしてはいけない。現に、小五郎は私と別れても私との記憶を持ち合わせている。と言う事は、私はその時代に存在してしまったと言う事になる。それは、いい事ではない。でもさすがは江戸ね、私が出会うべきではない有名な人間たちがそこら辺にポンポンいるんだから・・・私は江戸を出た方が良さそう。」
「それはダメだ!姉さんはここにいないと・・・」
小五郎が必死になって私を止めている。
「私の歌もそう、あの歌はまだこの時代には存在しない音楽、無意識とは言え口に出していたことで幼かったあなたはそれを覚えてしまっていた。それこそが、時代が変わってしまった証拠なのよ・・・」
小五郎は再び黙った。
「何でこんな事になってしまっているのかはわからない、私が時代を飛ぶ事にいったい何の意味があるのかなんてわからないわ。でも、意味があってもなくても、私たちが見聞きし教わってきた過去の歴史を、ゆがめる権利は私にはないの。」
「・・・じゃぁ、姉さんはまた、どこかに消えてしまうの・・・?」
小五郎が急に、寂しげな声を上げた。
捨て置かれることに恐怖を感じている子供か動物の様な、この顔をされてしまうと、何でこんなに胸が痛くなるんだろう・・・
「それは、そうでしょうね。未来の私が目を覚ませば、私はここから消える。今回が初めてよ・・・続いている過去に来てしまうなんて・・・」
「続いている・・・?」
「えぇ、幼い日々を過ごしたあなたに、もう一度会ってしまったと言う事・・・」
小五郎は、何か思いつめたかのように目を伏せた。
「とても小さな時から時間を渡っていたの、でも、小さな時は、それは夢だと思っていた。寝ている間のちょっと現実味の強い夢・・・。それが、ある時、日中に意識を失ってしまっている事がわかったのよ。そして、その時間はだんだんと長くなってきている。前回の長州での時間は私の時間移動の中で最長で、帰った私は意識不明で医者の所に入れられていた。だんだんね、現世の私は意識を戻す時間が遅くなってきているのよ・・・」
「それは、どういう事?」
「・・・現世の私がそのまま意識を取り返さずに、死んでしまったら、ここにいる私はどうなるのかわからない、と言う事よ。」
「姉さん、死ぬの・・・?」
「さぁ、わからないわね。」
私は笑って見せる。
「こっちの私が死んだら、現世の私がどうなるのか、そこもわからない所・・・死んでも平気なのか、死なないのか。死んだら現世の私も死ぬのか・・・私にも、良くわかってない事が多いのよ。」
小五郎が呆然としている、もちろん、理解できていないと言った方が正しい。
「わからないよね、大丈夫よ、それが当然だから。」
私の笑い顔に小五郎は苦笑した、それは自分が情けないと言わん気だった。
「そんな顔しないで?」
私のその言葉に、小五郎は当然の疑問をぶつけてきた。
「・・・姉さんは、どうしてその話を、僕にしようと思ったの・・・?」
その言葉に、私は正直言葉に詰まった。
おととい、あんな顔をされなければ、こんな事は話さなかったかもしれない・・・
「なんか、ね・・・小五郎を騙している様な気がしたのよ。」
「・・・えっ?」
そんなに見つめられたらさすがに照れるなぁ・・・
「今まではね、そのぉ、何て言うか、お雪ちゃんにしろおばあさんにしろ、女将さんも晋作君も宗次郎君も初めて会う人じゃない?記憶喪失決め込んでいれば初めて出会う人に自分の事を話さなくても、そんなに気にならなかったんだけど・・・、その、初めて、知り合いって言う人間のいる過去に来て、しかも、自分が大切だと思っていた人に再び出会って、何も話さないって言うのは・・・騙している気がして、胸が、痛かった・・・」
そう、本当に、胸が痛かったの・・・
「それに、小五郎なら、理解してくれるんじゃないかってちょっと思ったのよ?あれほどのクソガキだったなんて思えないほど勉強もしているみたいだしね。」
「またぁ、そうやって昔の事を。」
小五郎が笑う。
私はふぅと息を吐いて、白く登ってきている月を見上げた。茜色の空はもうほとんどなりを潜めて薄く深く青い空に変わっている。その中に浮かぶ白い月はまだ光を放っていないが、その存在を強く誇示しているように見えた。
「な~んでこんな事に、なったかなぁ・・・」
もう溜め息しか出てこない。
思い起こせばきりはなくて、でもほとんどの記憶は消し去ってしまっていて、どの時代に行ったかなんて歴史の教科書でも開かない限り思い出せもしないけれど・・・長州での日々は、忘れた事はなかった。
私が現世に帰る、それだけで、その時代の人々はもう生きてはいない過去の人々。どんなに探したってそんな人間は存在しないのだから。
「仲良くなればなるほど、辛くなるだけなのに・・・」
はぁ・・・
また一つため息が出た。
そんな私を見ていたのか、小五郎がふと目を細めたのがわかった。
「・・・僕が、呼んじゃったのかもしれない。」
「えっ・・・何?」
私は思わず聞き返してしまった、今、この子、何て言った?
「僕が、姉さんを再びこの時代に呼んでしまったのかもしれない・・・」
・・・どういう事、かな?
「どうして、そう思うの?」
私の問いかけに、小五郎は視線を逸らせたまま、何と言うか、もじもじしている。
「その、どうしても、姉さんに再び会いたかったから・・・」
なんだか申し訳なさそうな顔をしている小五郎。
呼ばれる?そんな事、あるのだろうか・・・
そもそも今まで一度も誰一人にも私の事情を話したことがなかったから、こんな発想をされたことは一度もなくて、私もちょっと驚いた。
でも、きっと違うよ・・・
「偶然よ、きっとね・・・」
私は笑った。
そうよ、呼ばれるなんてありえない、だってこの子の人生に、私は何も関係もないのだから・・・
「ねぇ、姉さん。」
「なぁに?」
「この先、この国はどうなうのかな・・・」
そう、この先の未来の話。この子は日本を動かす子・・・晋作君も、宗次郎君も。今の私たちのいる未来を作ったのはここにいるこの子供達・・・
「小五郎は、どうなってほしいの?」
「・・・まだ、良くわからないけど、この国はこのままじゃいけない気がする。浦賀に来たあの船、あんなにすごい武力を持った異国が日本の周りにはたくさんあると教わった。剣術なんかじゃ太刀打ちできない、このままじゃ日本は他国に乗っ取られてしまう。」
「そうね・・・」
「この国は、間違った方向を向いていないだろうか・・・」
私は、この先の事を知っている。でも、そんな事を話してもただ歴史が変わるだけで、この子には何も得はない。
「小五郎?」
「・・・はい。」
「たとえ紆余曲折あったとて、あなた達の志は決して間違った方向を向いていないわ。志を高く、強く持ちなさい。今後、あなたの周りにはたくさんの同じ志を持つ者達が現れる、心を常に開き、その者達の話をしっかり聞きなさい。あなた達が描かんとしている未来はあなた達の手によって導かれるものなのよ?」
「姉さん・・・?」
「大丈夫よ、少なくともあなたは正しい方向に向いている。あなた達のその志が、未来を作っているわ・・・これから先、あなた達の時代は目まぐるしく変わって行く、少なからず争いも起こるわ、でも決して志を曲げてはいけない。前を見ていなさい。そうすればきっと、日本は変わるから。」
私達はしばらく無言で身を寄せていた。
小五郎の手はずっと私の背を支えてくれていて、ざわついていた心はいつの間にか落ち着いて、心強かった。
「この話・・・」
「え?」
「私の話・・・・」
「姉さんの話・・・?」
「あなたが、心から信じている人になら、話しても構わないよ?」
「・・・・えっ?」
「一人で何かを抱える事はとても辛い事だわ。師でも友でも、あなたの信じている人になら話して構わない。あなたが信じている人なら、私も信じるから。」
【桂小五郎】
姉さんの言葉に浮かんだ人間は二人だった。
一人は投獄されていて姉さんを会わせる事は適わないけれど、もう一人は常に僕の周りにいる。あいつの自由な思想がもしかしたら姉さんを救うかもしれない。
「晋作に、話してもいい?」
「晋作君?もちろん。」
姉さんは笑う。その笑顔に僕は少しほっとした。
「でも、晋作君だなんて、少し意外ね。仲がいいのね。」
「晋作は、とても柔軟な考えを持っているんだ。新しい考えを持っている。彼の考え方はきっと、この先の日本に必要になるはずなんだ。」
「確かに。」
姉さんは笑った。
晋作は常に自由だ、何にも捕らわれない発想は時に周囲を唖然とさせる。まだまだ子供だけれど奴はきっと何かをする。僕はそう思っている。そして僕はそんな晋作と共にこの先を歩んでいくのだろうと思っている。
僕は晋作を補佐していくのだろうと。
姉さんの言っている事を全て理解するのは難しいかもしれない。でも、僕は姉さんを信じると決めたんだ。晋作が言ったように、僕しか、姉さんを信じてあげられないのだから。
・・・そうだよ、きっと。
僕が姉さんを呼んじゃったんだ。あんなにずっと想っていたから、姉さんは来てしまったんだ。
だったら、それは僕の責任だ。
僕が姉さんを、守る。
姉さんが再び、元の世界に帰る事が出来るまで・・・
【おリョウ】
「大丈夫だよ、姉さん。僕は、姉さんを信じるから。」
小五郎の言葉に私は苦笑する。
「・・・複雑な心境よまったく、言って良かったのやら。これであなたの歴史が変わってしまっていたら私の責任ね。世の歴史教育者達に怒られるわ。」
笑って逃げる私に、小五郎は静かに言葉を発した。
「僕はね、偶然って言うのはないと思ってるんだ。全ては何らかの意図があって、それによって導かれる答えもまた意図があるんだと思ってる。だからきっと、姉さんがこの時代に来たことにも意味はあるんだと思う。姉さんの一言一句挙動も含めてすべてが、僕や晋作や、他の誰かに何かを与えるんだと思う。」
小五郎の言葉に私はちょっとポカンとした。私が何かを与える?それはちょっと、良くないかもしれない。でも、そう考えてもらえると、私の存在意義がある気がして嬉しかった。
「そんなに大層なものかしら。」
私が逃げようとすると小五郎はまたすぐに笑顔になって返してきた。
「少なくとも僕には、たくさんのものを与えてくれているよ。晋作や、宗次郎君にもね。だからみんな姉さんのところに集まるんだよ。」
「それは大人気ね。」
私が笑うと小五郎も笑う。
「はぁ、少し楽になったかな。巻き込んじゃってごめんね。」
「僕が無理矢理言わせたようなものだよ、僕でよければ、何でも言って。」
「頼もしいわね。」
本当に、頼もしくなった。
藩邸の警護と言う職にあると言った小五郎、ただの警護にしてはずいぶんと責任ある物の言い方をするものだ。いうなれば、人の上に立つ人間の物腰、そんな物を小五郎からは感じられる。それは剣の師範と言う位のせいだけではなさそうだ。
「ねぇ、姉さん・・・」
「なぁに?」
なーんて思っていた矢先に賭けられた小五郎の声は、ちょっと幼く思えて、笑いそうになった。
「姉さんは、その、未来には伴侶となる人はいるの?」
は~ん、そうきたか。
私はちょっとからかってみたくなってしまった。
「あらぁ、どーして?」
私の言葉にちょっと赤い顔をしてそわそわし始める。う~んやっぱりまだまだかわいい。
「だって、姉さんはもう大人だし・・・その、」
抱きつきたいぐらいにかわいい事を言う小五郎、あんまりいじめるのはかわいそうかな?
「いないわ、作るつもりもない。」
「どうして?」
その言葉に私は思わず小五郎を凝視してしまった。
自分もあんなに痛い目を見ているってのにわからないのか、その辺はやっぱり子供だなぁ。
「どうして?その理由は小五郎が一番わかるんじゃない?なんたって経験者なんだから。」
その言葉に小五郎はハッとした顔をした。通じたかな。
「まぁねぇ・・・」
私はそう前置きをして、ため息を吐いた。
「現世は現世で、突然意識を失ってそのまま二度と目覚めないかもしれない。こっちはこっちてで、誰かに想いを寄せて添い遂げたいと想っても、突然消え去らなければならないかもしれない。そんな状況で、伴侶なんて持てると思う?」
「それは・・・、」
小五郎が眉をしかめた、昔の事、思い出させちゃったかな。
「あ~あっ!もうっ!できることなら山奥で一人ひっそり時が動くのを待ちたいわよ。それが一番、誰にも迷惑をかけない最良の方法なんだけどな~。出家でもするかな?あっ、こっちで髪剃ったら現世ではどうなるのかな?」
もうやけっぱちですよ。
【桂小五郎】
姉さんの言葉が、とっても投げやりで、自分なんてどうでも良いと言っているようで、少し、哀れに思えた。
かわいそうなんて言ったら怒られるかな・・・
「ねぇ、姉さん・・・」
「なぁに?」
「辛くなったら、言ってね。」
僕の言葉に姉さんは僕をじっと見て数度瞬きをした。
「僕が絶対に、姉さんを守るから・・・」
姉さんの手が僕の頭に伸びて来て、僕の頭を胸に抱えて、その上から姉さんの顔が、僕の頭にすり寄った。
僕はされるままに、姉さんの胸の中に顔を埋めて、姉さんのぬくもりを感じた。
幼い時こうしてもらって、よく抱きしめてもらって、励まされたり、慰められたり、時には叱られたりしたものだ。
「・・・ありがとう。」
姉さんの言葉が、体の中に響いた。
「帰ろうか。」
「そうだね。」
姉さんの言葉に僕はゆっくり体を起こして姉さんを見つめた。時と言うのは無限ではない事を知っている、茜色だった空には月が登り辺りは無情にも暗くなっていた。
名残惜しいと思ってもこれ以上ここにいればまた以前の様に姉さんを危険にさらす可能性があるだけ。
本当は藩邸でかくまいたいけれど、姉さんの話がすべて本当なら、不特定多数の人間に接触させるのは姉さんが辛いだけ。姉さんがよりたくさんの嘘を付かなければならないだけだ。
姉さんには自由であってほしい、長州でのあの時の様に自由で強い姉さんで。
僕は立ち上がり姉さんに手を差し出す、姉さんは僕の手を取って立ち上がった。すぐに離れてしまうその手に名残惜しさを感じつつ、僕は姉さんの前を歩いた。
「姉さんあまり離れて歩かないでね、夜道は物騒だから。」
「はい、わかりました。」
背後で姉さんが微笑んでいるのが声色でわかる。
もう絶対にあんな目には会わせないけれど、視界にその姿が入っていないと言うのはいささか不安を覚えるものだ。ここから江戸川屋までそんなに距離はない、早く無事に、姉さんを連れ帰そう。
僕は懐にそっと手を当てる。
・・・喜んで、くれるのかな・・・?
【おリョウ】
先を行く小五郎の背を追って私は歩いていた。
横に並んで歩けたらもう少し会話もできるんでしょうけれど、この時代では仕方がない事か。ましてや小五郎の身分は武士、町人になる私とは並んで歩くことはできない。本来なら私がもっと敬うべきなんでしょうけれど・・・どーしても子供のころの小五郎を見ているせいかそんな気になれなくて、思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
小五郎が不思議そうにこちらに笑顔を向けてくる。
「いや、ね。ちょっと昔の事を思い出しちゃったの。」
「昔の事?」
「あなたが私に怒られていた時代の事よ。」
「またぁ?」
小五郎が笑う。
帰りはいつでも早く感じるもので、江戸川屋の建物はもう目の前で、私たちは裏の従業員専用の勝手口に回った。
「今度、私がこっちの世界に持ち込んじゃった物、見せてあげる。あなたが興味ありそうな異国の物ばかりだと思うわ、晋作君なんかが見たら大騒ぎしちゃいそうな物ばかりよ。」
「想像するのは簡単だね。」
小五郎が笑う。
「今日は本当にありがとう。」
「僕の方こそ、話してくれてありがとう。」
「・・・気を付けて帰ってね。」
そう言って帰ろうとする私を、小五郎が呼びとめた。
「なぁに?」
小五郎は少し赤い顔をして胸元から何かを取り出した。
「姉さん、これ・・・」
無地の、淡い緑色のふくさに何かがつつまれている。小五郎はそれを私に渡した。
「ん・・・?どうしたの?」
「開けてみて?」
そう言われて、私はそのふくさを開けて・・・二、三度瞬きしたと思う。
「これ・・・・」
目の前にあるのはあの鼈甲のクシ、私はしばらくそれを見つめてから、小五郎を見上げた。
「姉さんの髪がもう少し伸びて、きちんと結えるようになったら付けてほしいと思って。」
「えっ、これ、えっ!?」
ちょっと理解が出来なくなっていて言葉が上手く出て来なくなっていた。だって、まさかこんな展開になるとは思っていなかったから。
私が呆然と見上げていたら、小五郎が急に寂しそうに目を伏せてしまう。
・・・あれ?どうした?
「その、嫌・・・だった?」
「嫌・・・・?」
嫌なわけないでしょ、嬉しくて驚いていると言うのに。そもそも、いらないとか、好みじゃないならわかるけれど、嫌ってどういう表現よ。
「嫌って・・・、嬉しくて驚いてるんじゃない。」
「もらってくれる?」
だから、その表現は何なの?
「もちろん。とっても嬉しいよ!ありがとう!」
その言葉に小五郎の表情がぱっと明るくなった、そして何やら笑いながら私を見ている。
「姉さん、意味、分かる?」
・・・意味?
鼈甲のクシに、何か意味があるのだろうか?
この細工に意味があるの?
花言葉の様に?
「意味?」
小五郎は私の表情を見て、やっぱりと言う顔をしてケラケラと笑った。
「ううん、なんでもないよ。大切にしてくれると嬉しい。」
「な~にぃ?その言い方は。もちろん、大切にするに決まってるでしょ?小五郎がくれた物なんだから。」
「良かった。」
小五郎の表情が安堵の表情に変わった。
「また明日ね、小五郎。」
「はい、また明日。」
私はクシを胸に抱えて階段を上がった。