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第一章 「粉雪の降る夜に 5」

 ”私たち暫く距離をおこう” 今から一週間前、小夜は二人きりの教室で如月にそう告げた。すると彼はいつもの無表情で、分かったとだけ答えた。たった一言のそっけない言葉……彼には焦りも動揺も全く見られない。まるでこうなることを予測し、そして望んでいたかのようだった。あれから彼とは言葉を交わしていない。勿論、昼食も別々だ。そんな小夜たちに、クラスメイトたちは好奇な眼差しを向けてきた。


「如月と別れたの?」


 数人の男子生徒が尋ねてきた。答えは勿論NOだ。だが私は曖昧に首を傾げてしまう。何故だかはっきり、いいえとは言えないのだ。

 相変わらず如月の背後には、白瀬華純の影がちらついている。彼女は小夜に宣戦布告するかの如く、毎日ように教室に訪れていた。その度に男子生徒たちは華純に、羨望の眼差しを向ける。いい加減、クラスメイトの女子たちもウザがり始めた。言わずもがな、私もその一人だった。




 あの日から早くも10日が経過していた。現在、小夜は担任の菅原からの言い付けで、中等部の校舎を訪れていた。出来ればここには来たくなかった。理由は自明。白瀬華純と顔を合わせたくないからだ。だが得てしてそう思っている時に限って、人は出会ってしまうものなのだ。数メートル先から白瀬華純が教科書を小脇に抱えながら、こちらに向かってくる姿が見えた。


 最悪……。小夜は心の中で呟いた。華純は小夜の存在に気付くと、微笑みを浮べながら会釈をした。するとシャンプーの残り香が彼女の鼻孔を擽ってくる。

 この香り……それは小夜が好んで使っている製品と同じものであった。甘く爽やかなパッションフルーツの香り……長年同じものを使っている。そろそろ飽きたので、別なものに替えようと思った時期もあった。だが如月がこの香りが好きだといっていたので、未だに同じものを使い続けている。


「こんにちは」


「どうも」


 小夜が微笑みを浮かべると、華純も同様に口角を上げて応えた。人の男にちょっかい出してるくせに、随分と余裕なご様子で……。小夜は顔には一切出さずに、心の中で毒づいた。


「こうやって話すのは初めてね」


「そうですね」


「うちのダーリンとは、よく話してるみたいだけど」


「はい、おかげさまで」


 軽く入れたジャブ。だがこの小生意気な後輩は、そんなことなど気にも留めない様子で、微笑みながら軽口を叩いてきた。


「おかげさまで?」


 小夜の眉がピクリと引きつった。


「何か気に障りましたか?」


「ええ。殺人罪がなければ、ぶっ殺してるところね」


 小夜はそう言って作り物の微笑みを浮かべた。そして華純の後方でこちらを窺っていた男子生徒たちに、軽く手を振って応える。すると彼らは歓喜の声をあげた。


「相変わらず人気がありますね」


「貴女だって人気があるでしょ? その脂肪の塊のおかげで」


 小夜は華純の胸元を顎で指した。途端に険悪な雰囲気が二人の間に流れる。そして暫しの沈黙のあと、口を開いたのは華純のほうだった。


「私、如月先輩のことが好きです」


「そうみたいね」


「如月先輩も私のことが好きだ、と言ってくれました」


「嘘はよくないわね」


「どうして嘘だと言い切れるんです?」


「彼はね、そういうことは言わない人なのよ」


「じゃあ、証拠をみせます」


 華純はそう言って制服のポケットから、小さなピルケースを取り出した。それは小夜の見覚えのあるものだった。トクン、トクン……徐々に鼓動が早まってゆく。そんな彼女をよそに華純は微笑みながらケースを開けた。


「嘘よ……」


 小夜はポツリと呟いた。中には如月の宝物である、群青色のビー玉が入っていた。


「……どうしたのそれ?」


 上擦りそうになる声を必死で抑え込んだ。


「貰いました」


 彼がこんな大切なものを、この子に……頭がパニックを起こす。ショックの余り声が出ない。脳が考えることを止める。心は途端に凍てつき、大切な思い出がボロボロと崩れてゆく。


「どうです、これで分かったでしょ?」


 華純は微笑みながら小首を傾げると、すぐに冷淡な表情を作った。


「如月先輩の心の中には、もう貴女はいないんですよ。それじゃ、私は授業があるんでこれで失礼します」


 華純はそう言って小夜の隣を通り過ぎていった。

 数分後、中等部の廊下で呆然としていた小夜に見慣れない教師が声をかけてきた。彼女は途端に我に返る。辺りを見渡すと、もう5時限目の授業が始まっていた。


「教室に戻らなきゃ……」


 小夜はポツリと呟いた。そして訝しげな表情を浮かべる教師に一礼すると、ゆっくりと廊下を歩きだしてゆく。

 体が重い……まるで囚人のように、いたる所に(かせ)でも付けられているようだ。重い足取りのまま小夜は教室を目指し、歩みを進める。宝物のビー玉……これ以上ないほどの証拠。どうやら如月の気持ちは、完全にあの子のもとへ行ってしまったようだ。もう、私にはどうすることも出来ない……。


 教室に到着すると、既に数学の授業が開始されていた。教科担任の田村は小夜に遅れた理由を尋ねる。だが彼女はそれを無視して如月のもとへと向かっていった。


「キミの席はここじゃないよ」


「あの子と話してきた」


 小夜が静かに如月を見下ろすと、彼は教科書に向けていた顔をゆっくりと上げた。


「へえ、それで感想は?」


「小生意気で嫌なガキだった」


「ふうん、同感だね」


「でも……そんなあの子のことが好きなんでしょ?」


 如月は無言で見つめてきた。メガネの奥の黒い瞳――肯定している。ずるい、最後くらい口に出して言ってよ。じゃなきゃ私は……。


「宝物のビー玉……彼女にあげたんだ」


 その問いかけに彼は珍しく眉を引きつらせた。だがすぐに肯定するように、小さく頷いた。ほんと、最後の最後までツンドラなんだから……。小夜は軽く微笑みを浮かべると更にこう続けた。


「浮気する男は大っ嫌いです。その地味で黒縁メガネな顔なんて、もう二度と見たくありません。だから……」


 そう思えたらどんなに楽だったか……。小夜は俯きながら口ごもった。


「だから……もう解放してあげる」


 束縛ばかりして、ごめんね……。小夜は心の中でそう呟くと、駆け足で教室の出口へと向かった。すると早苗の大声が響き渡る。だがそれを無視して小夜は教室を飛び出してゆく。そして溢れる涙を拭いながら、必死に廊下を駆け抜けていった。

 どうしても、如月には涙を見られたくなかった。最後くらいは笑顔で ”さようなら” をしたかった。だって彼はいつも私には笑っていて欲しい、そう言ってたから……。


 校門を抜けると丁度良くタクシーが停車していた。小夜は乗り込むと適当な場所を運転手に告げる。行先はどこでもよかった。今は一刻も早くこの場からは離れたい、その思いだけだった。




 タクシーを降りると制服姿のまま、当ても無く街中をぶらついた。着の身着のままで飛び出してきていた為、真冬の寒さが容赦なく心と体に襲いかかってくる。取りあえずいまは上着が欲しい……。小夜は適当なショップに入りコートを購入した。すると体の凍えは治まった。だけど心の方は以前、凍てついたままだ。こればかりはどうにもならない。


 懲りもしないで当てもなく街中をぶらついていると、ナンパ男の声が鼓膜から鼓膜へと素通りしてゆく。先程からスマートフォンは引っ切り無しに着信を告げていた。相手は恐らく早苗だろう――ほら、やっぱり……。小夜はスマートフォンをコートのポケットに戻した。


 パフェが絶品な二階堂駅前のカフェ。彼のお気に入りだった古書店。店主の好みでマニアック映画を放映するミニシアター。


「ここにはシネコンにはない魅力がある」


 そう言って彼は珍しく絶賛していたっけ……気が付くと小夜は如月との思い出の場所を巡っていた。思い出すのはどれも楽しいことばかり……そして最後はやっぱりあそこだ。彼女はそう心の中で呟くと、再度タクシーに乗り込んだ。

 



 星の空公園。環境や景観を保持するため、風致地区に指定されているなど、豊かな自然が残っている私立公園である。ここは以前、如月と星を見に訪れた、小夜にとってはとても特別な場所であった。小夜は日の落ちた公園のベンチに、一人寂しく腰を下ろしていた。見上げるとそこには今の気持ちとは裏腹に、綺麗な星空が広がっている。以前訪れた時は、星座の逸話を彼が教えてくれた。相変わらずの博学っぷりで、いつも私を楽しませてくれた。でも今は一人きりだ……。小夜は掌に白い吐息をかける。


 ”男なんて束縛すればするほど、逃れようとするもんなのよ。”


 麻美の言葉が脳裏に蘇ってきた。雁字搦めにされて息苦しくなった彼が、他の女に安らぎを求めたとしても、私が文句を言える筋合いじゃない。結局、口では偉そうなことを言っておいて、私は如月を信用してなかったのだ。そして自分の想いばかりを押し付けて、彼の気持ちを考えようとしなかった。


 いつしか如月といることが、当たり前のようになっていた。その考えは大いに間違っている。何故なら恋愛は一人でするものじゃないからだ。相手のことを察して想い、そしてその上で考えを巡らせる。私はこんな簡単なことが出来なかった。全ては自分の責任。彼の心が私から離れて行ったのは、当然の帰結であった。


 失って初めて気付く。相変わらず学習能力がない……だが気持ちはとても落ち着いている。恐らく彼を失ったことで、客観的に自分を見つめることが出来るようになったからだろう。


 勿論、如月のことが吹っ切れた訳ではない。この先、すーっと引きずっていくかもしれない。でも後ろばかり見てはいられない。祝福こそ出来ないが、あの二人の邪魔だけはしないであげよう。それが唯一、私が出来る彼への罪滅ぼしと恩返しだ。小夜はそう思いながら、星空を見上げた。


「でも、やっぱり辛い……、嫌だよー、こんな終わりかた」


 小夜の瞳から大粒の涙が溢れだした時だった、スマートフォンが着信を告げてきた。相手は自明だ。小夜は画面をスライドさせると、静かに耳に押し当てる。すると受話口からは早苗の怒号が飛び込んできた。耳痛ッ! 彼女は途端に耳からスマートフォンを離した。


「もしもし? 聞いてんのっ!」 


 受話口からは相変わらず早苗の怒号が漏れ聞こえてくる。小夜は鼻を啜りながら再度、スマートフォンを耳に押し当てた。


「……声デカいわよ」


「あんた、何やってんのよっ!」


 早苗は先程と同様に叫んだ。鼓膜が破れそうだ。でもそれだけ心配をかけたんだ、これくらいの罰は甘んじて受けよう。


「ごめん、心配かけて……」


「それを言うのは私にじゃないでしょうがっ!」


「……でも、もう彼とは――」


「あんたのパッチリお目々は節穴なの? その可愛いらしいお耳は笊耳(ざるみみ)か? まだ分かんないの? 全部……全部、あんたの為に如月が仕組んだことなのよっ!」


 私の為にダリ―リンが仕組んだ? 早苗の言っている意味が全く理解できなかった。


「……どういうこと?」


 受話口からは早苗の溜め息が聞こえてきた。そして暫しの沈黙の後、彼女は事の顛末を語り出した。

 日増しに強まる嫉妬心、度を越した独占欲。小夜の精神状態が急速に不安定に、そして危うくなってきていることに、如月はいち早く気付いたという。このまま放っておけば、彼女は自分の心に押し潰されてしまう。病み始めた小夜を救う方法――彼は必死に考え、思い悩んでいたという。そして一つのショック療法を思いついた。それは大切な人、拠り所にしている場所を失わせて、精神を一度リセットさせるというものだった。


 確かに今の私には病的な嫉妬心や独占欲はなく、心はとても穏やかだった。小夜はここ最近の如月の挙動を思い起こす。事の発端――それは彼が白瀬華純と廊下で会話していたところから始まった。私の目の届くところでそんなことをすれば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。頭の良い彼がそんな単純なことを分らない筈はないのだ。意図的に見せた――普段の小夜なら当然気付いていたことだった。


 ”言えないじゃなくて、言わない” 彼はあの時そう言った。 ”言えない” というのは自分もしくは他者に強制されている、ということだ。そこには自らの選択意志は存在しない。逆に ”言わない” というのは自分で選択して出した答えだ。要するに彼はこう言いたかったのだ。 ”僕は自分自身の考えでこの選択を選んだ、だから絶対に言わない” いつものことながら何と回りくどい、そして驚くほどに分かりにくい。


 小夜は小さく微笑んだ。その時、一つの疑問点が彼女の頭の中に浮かんできた。ということは、あの小生意気な後輩女子こと、白瀬華純は如月の協力者? 小夜の問いかけに早苗が出した答えはNOだった。彼女は詳しい話は避けたが「今回の一番の被害者は間違いなく白瀬華純よ」とだけ言った。勿論、如月との関係も皆無だそうだ。そして最後に早苗はこう付け加えた。


「如月は私に言ったよ、 ”彼女にされる嫉妬や詮索なら、別に嫌でも鬱陶しいとも思わない。でもそのことで彼女が辛い想いをするのだけは勘弁だ。彼女の悲しそうな顔は僕の心臓と精神にもよくないからね” って」


 ダーリン……小夜は心の中で呟いた。すると自然に涙が溢れてくる。言わずもがな、今回のは嬉し涙だ。


「流石にちょっと妬けたわ。あの朴念仁にそこまで言わせるんだからね。ほんと、大したもんだわ……」


 早苗はそう言って一呼吸間を開けると更にこう続けた。


「それじゃ、今どこにいるのか知らないけど、そこを動くんじゃなわいよ。恐らくもうすぐ、あんたのダーリンが見つけてくれるから」


「えっ、どういうこと?」


「小夜が教室を飛び出してすぐに、あいつも血相変えてあんたを追いかけたのよ。文化系だから追いつけなかったみたいだけどね……ほんと、似た者カップルだわ」


「似た者カップル?」


「あいつに会えば分るって。それじゃあね」


 早苗は意味深な言葉を残して、一方的に通話を終了させた。

 親友から告げられた事の真相――彼がどれだけ私を気にかけ、察して思いやり、そして悩みながら考えを巡らせてくれていたのか……そう思うと胸の奥が熱くなった。お願い、ダーリン早く私をみつけて……。小夜は一人きりのベンチで静かに瞼を閉じた。

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