エマージェンシー
狗の面をつけた少女が、日本刀を俺と琴音に向けている。一人でいる時は恐怖で頭が真っ白になっていたというのに、隣に琴音がいるおかげか冷静な自分がいた。
明るい夏の日差しを受ける少女の姿はやはり蘭にそっくりだ。最初に見た時は暗い校舎内だったので見間違いの可能性もあった。しかし対峙してみると疑う余地はない。風紀の腕章に、緑のスカーフ、刀に込められた気。文化祭の時、不良と戦っていた姿と寸分違わない。拒絶と排斥を前面に押し出した構えだ。
「春葵……」
「静かに」
琴音の声には不安や恐怖が入り混じっている。黒い感情が膨らむ前に俺が落ち着かせよう。琴音を黒板の方へ押し、一歩前に出る。
狗が一歩進んだ。それに合わせて後ずさる。一瞬でも目を離したら死ぬ気がした。
教室の出入り口は二つ。後方から狗は来た。ならば黒板のある方の出入り口を目指そう。
一定の距離を保ちながら移動する。狗は俺たちが移動するのを横目で確認しつつも、開いた窓の方へ進む。視線は無くとも刀が常に俺たちを睨んでおり、一瞬たりとも気が抜けない。
ふと、狗はどうして右手に刀を持っているのだろうと疑問が湧いた。屋上で見た蘭は確か左手だったような……。
そんなことを思っている間に窓際に到着した狗が窓に手を掛けた。
「今だ!」
教室前方の扉に手を伸ばす。が、ピクリとも動かない。この感覚は窓が開かなかった時と同じだ。琴音が俺の手の上から力をかけてくれるがそれでも開かない。逃がすつもりはないという狗の意思を感じた。
ピシャリと音がし、教室が再び闇に包まれる。狗が窓を閉め鍵をかけると、こちらを向いた。
見開かれた狗の目は墨を流したように暗く、感情を読み取れない。けれど向けられた刀が何よりも雄弁に語っている。何人たりとも寄せ付けない拒絶。鬼と対峙した時の心のざわつきとは別物だ。俺達をこの空間から追い出したくて仕方ないらしい。
「春葵。私の力が宿っているモノなら多少の効果はあるはずなの」
琴音がそっと耳打ちをする。
慎重に教室にある物を確認すると手を伸ばせば届く所に一つ、そして一番効果がありそうなのは琴音の机だと判断できる。だが琴音の机は廊下側の列寄り中央。狗ともそこそこ近い。あまり考えている時間もないだろう。
「俺があいつの気を逸らすから琴音はダッシュして自分の席へ。可能ならあの机をブン投げてくれ。そしたら狗が入ってきた方の扉から逃げろ。俺もすぐに追う」
「そんなことしたら春葵が――!」
「行け!」
琴音に考える暇を与えてはいけない。琴音は優しいから、俺が囮になると言ったら拒否するに決まっている。
だからすぐに行動を開始した。琴音の背を押し走らせる。俺は手近にある光を宿した黒板消しへ手を伸ばし迷わず狗へと投げつける。淡い光を帯びた黒板消しを狗は容易く切り捨てた。だがそれでいい。琴音が席に置いてあった自分の鞄を投げようとすでに構えている。俺もすぐに走り出す。
鞄が中身を散らばせながら狗へと向かうのを見ている余裕は無い。すぐさま琴音が走り出し後方の出入り口へとたどり着く。俺もあと数歩で追いつく。イケる。
一瞬だけ狗の方を振り返ると、鞄の中身をことごとく断ち切るべく刀を振るっていた。淡く放たれる光がことごとく消えていく。どうやら素手で触ることも避けることもできないらしい。
俺が心の中でガッツポーズしていると琴音の悲痛な叫びがこだました。
「春葵! こっちも開かない!」
「なっ!?」
琴音に追いつき扉を掴む。確かに動かない。今更になってこの扉を閉めたのは狗なのだからともっともらしい理由が俺の頭の中で叫ばれる。畜生。今更おせーよ!
とっさに振り返り、狗を確認する。狗は残り一枚となった光るプリント用紙に刀を振り下ろすところだった。
プリント用紙が一際大きな光を放つ。
目の前で花火が爆発したかのような強烈な光が弾けた。何も見えなくなるほどだが何故か目が痛くない。これも琴音の優しさなのだろうか。
教室の闇を塗り替える程の光はほんの一瞬だけで、効力を失ったプリント用紙がはらりと床に落ちた。
驚くべきことに、狗の姿が消えている。
「な……んで?」
ただのプリント用紙に何故これほどまでの力が込められていたのか疑問に思いつつ、再度教室を見回す。空間はすでに闇で満たされているが扉は容易に動いた。狗が来る前と変わらない状態だ。
おそるおそる狗がいた所へ歩み寄り、プリント用紙を拾い上げる。その瞬間堪えようない笑いが込み上げ思わず吹き出してしまう。
「なるほど。コイツは確かに効果的だ」
「あ……それは……」
プリント用紙の見出しには『残留届』と記してあった。あの狗は下校時間を過ぎても教室に残っていた俺達を追い出そうとしていたのだろう。きちんと届け出がある為納得したのだ。実に蘭の分身らしい。
「琴音が持ってて助かったぜ。いつも持ってるのか?」
「うん。放課後はよく見回りしているから校長先生から特別に頂いている奴だよ」
「校長!?」
俺の聞き返す勢いに琴音は少し戸惑ったような顔をする。想定外の場面で登場する偉い人ってビビるじゃん。うさ男の中から校長が出てきた感じ。まあそれは絶対ありえねーケド。
琴音は困ったように眉尻を下げながら残留届を受け取る。
「話すとすごく長いんだけど……。この学校ってちょっとおかしなことが起きやすい場所なの。そういう場所を守るのが私のところの家業っていうか、しきたりっていう奴。すごく昔から続いているからちゃんと偉い人とかに取り計らってもらえるんだ」
「そっか……すげぇな」
俺は話を聞きながら琴音の家のことを思い出す。俺のはす向かいに建っている琴音の家はどこからどうみても普通の住宅だ。琴音の父親は知的でおだやかな印象で、母親は琴音によく似ていて琴音が大人になったらこういう美人になるのかと会う度に思っていた。
そんなあたたかい家族に家業とかしきたりという言葉がどうにも結びつかない。それを尋ねてもいいのだろうか。
少し口を開け、言葉を飲み込む。琴音は話せる範囲で話してくれるのだから焦る必要はない。今はゆっくりと話を聞く時間もない。琴音もそれを分かっているのだろう。俺が何か言うよりも先に頷いた。
「急ごう」
狗の姿は見えないがこの空間は存在している。つまり何も終わっていないということ。校内に残っている生徒を探す巡回は続いているのだ。
今、最も危うい奴がこの空間にいるかもしれない。




