3年5組
「ふぅ……」
3年5組の教室で琴音は息を吐いた。簡単な精神統一の後、窓の外を見やる。普段なら中庭を挟んだ先にある北校舎が見えるはずであったが、今は墨を流したように暗く、窓の向こうは虚無が広がっていた。光源がないはずの教室にいて尚、自分の指先や教科書の文字までハッキリと見える奇妙な暗さ。孤独が耳を塞いでいるのか、風の音一つ聞こえなかった。
琴音は自分の席に座り、冷静にこの状況を整理していた。
範囲はおそらく南校舎のみ。とは言っても中々の広範囲であることに変わりはない。相手はかなりの手強さだろう。
「鬼……じゃないといいけど」
ぽつりと呟く一言から、この学校にいる『何か』は決して一つの存在ではないことが伺える。
文化祭で遭遇した鬼を思い出す。あの時の琴音は自分でも恥じるほど楽観的であった。文化祭=楽しいものという図式を勝手に作りあげ、気を緩めていたのだ。しかも自分にとって無縁の、それこそ名前も知らないような相手が思い悩んでいたならまだしも、すぐ隣で笑っていた幼馴染が相手と気付いた時は心が折れそうにもなった。
少し思い返しただけで胸が痛くなり、慌てて自分の頬をピシャリと叩く。この空間はあらゆる暗い感情を餌に肥大化する。自分がその手助けをしてはならないと気を強く持つ。大丈夫。文化祭での出来事は丸く収まった過去の事なのだから。今は目の前の闇を払うのが最優先である。
異変は原因となった人物と密接な繋がりがある為、現状からでも予測出来ることはあった。
突発的な異変でありながら広範囲に影響を及ぼしている。ということは日頃から少しずつ積み重なった澱みが大きな衝撃やストレスにより決壊してしまったと考えるのが妥当であろう。溜まった水に一石を投じるものだ。日頃の些細な積み重なりという水が多かったのか、引き金となった一石が大きかったのか、はたまたその両方か。憶測ばかり飛び交うが無駄ではない。あらゆる事を予測しなければ自分が動揺し、ひいてはそれが命取りになりかねないと琴音は自分の弱点を理解していた。
「よし、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き立ち上がる。廊下に出、左右を見渡す。当然ながら人影はない。視点をずらすように目を凝らすと、ぼんやりと淡い光が廊下の先へ続いていた。森で獣道が作られるように淡い光を何度も重ねて作った足跡である。その光は廊下から琴音の教室に続いていた。
これが琴音の持つ闇を払う力の特徴である。琴音の家で代々受け継いできた能力は闇を払う性質は同じでありながら、人によって濃くも薄くもあり個人差が激しい。琴音は決して大きな力に恵まれてはいなかった。
薄く継続するタイプ。光こそ淡いものの少しずつ蓄積されていくのだ。使い慣れた机や筆記用具、毎日のように身に着ける制服、日に何度も往復する廊下など、身近なものほど光が蓄積されていく。琴音はそれらを頼りながら僅かな光でも暗闇を照らすことができるのだ。
小さな泉のように常に湧き出る光は、彼女の近くにいるだけで自然と緊張がほぐれる効果を出す反面、彼女自身を疲弊させる原因でもあった。それを抑える為の髪留めを外し、ポケットに入れる。準備はたったのそれだけ。
琴音は廊下の左右を見て、少しばかり暗い右を選ぶとしっかりとした足取りで歩きだした。
闇の深い所に鬼はいるのだから。
◆◆
「うわっ!?」
「きゃ!」
西階段へ差し掛かる角で琴音は春葵にぶつかった。
「琴音!」
「は、春葵!? なんでこんなとこ――」
琴音が疑問を口にするより早く、春葵が琴音の肩を掴みまくし立てる。その表情は真っ青でありながら興奮していた。
「やばいやばいやばいやばい! 狗っぽいの! か、刀! 俺、マジで見て! マジでやばくてやべぇの!」
「ちょっと待って、落ち着てよ春葵。大丈夫だからゆっくり話して、ね?」
「いやでも! あ……いや……そ、そうだよな」
琴音の持つ力ゆえか、春葵はどうにか落ち着きを取り戻す。それでもやはり何かを恐れるように声を落として話し出した。
「えっと……どっから話せばいいんだ……」
「どこからでもいいよ」
「あー……屋上でバトルするって話は言ったよな?」
「うん。どうして戦いになったのかは分からないけど、うさ男君には会えた?」
「おう。それで、その延長戦? っていうか校内で鬼ごっこみたいになってさ、そしたら急にシャッターが閉まって、蘭と南校舎に取り残されたんだ」
「他のみんなは?」
「うさ男と灯歌と円歌はシャッターの向こうへ行けたから無事だと思う。風雅とは別行動になったから分からない。連絡取ろうと思ったけど何でかここ圏外だし、そもそもアイツ柔道着着てたから多分手元にスマホとかないと思う」
「蘭ちゃんは? 一緒じゃないの?」
その問いかけに春葵は震えた。琴音の視線から逃れるように顔を背け、唇を噛みしめる。琴音は静かに春葵からの言葉を待った。
「あいつを追いかけて……。絶対にヤバイから俺も後を追おうとした。けど足が竦んで……俺は……」
「あいつって?」
「セーラー服の女……。緑のスカーフに腕章を付けててすごく小柄。顔は一瞬しか見えなかったけどお面をつけてた。狐面みたいに色は白いけどより丸い輪郭で狗の顔だ……。ほら、美術の資料集に載ってた奴だ」
琴音はすぐに思い出す。文化祭が始まる前に作っていた木彫りの面を作る授業でのことだ。自分のクラスの出し物がお化け屋敷と決まっていたのでそれに合う白い狐の面を琴音は作っていた。制作時は資料集に掲載された狐面を見本にしていたのだが、同じページには別の面も載っていた。
目を見開き、不自然に笑った口元が不気味な狗の面。見ているとなんだか不安を掻き立てられ、製作中はなるべく見ないようにしていたので記憶に残っていた。
あの狗の面を作った人物には心当たりが無い。疑問も残るが、恐らくこの空間に春葵がいるのも何か関係があるのかもしれないと琴音は思った。春葵と琴音、その両者が怖いと思ったイメージがその黒い存在に混ざっているのかもしれない。
「そいつ、抜き身の刀を持ってた。得体のしれない奴があんなの持ってたらこえぇよ。俺、マジで情けねぇ」
「そんなの誰だって怖いよ。春葵は悪くない。ここまで追って来たんだよね? それだけでも充分すごいことだよ」
励ますように言った言葉に琴音自身が違和感を憶えた。春葵もまた、琴音と同じことに気付いたのか辺りを見回す。
春葵は蘭を追ってここまで来た。
そして琴音は春葵に会うまで誰ともすれ違わなかった。もちろん廊下は一本道である。
ぞくりと背筋が凍りつく。今更ながらこの空間は夏の暑さを感じさせないことに気付いた。
「っつーかさ……。ここ、どこだよ? 俺は東階段の二階から西階段の方を真っすぐ歩いてきたんだけど、全然西階段につかねぇの」
「ここ、三階だよ。私は3年5組から西階段に向かって今、着いた所」
「じゃあ俺たち、階層は違えど同じ方向へ歩いてたんだな……。しかも俺、階段なんか一度も上ってない」
じわじわと恐怖が足元から這い上がってくる。足首に絡み付き太ももを舐め上げ背中をなぞり心臓を鷲掴む。
琴音は震える歯で唇を噛みしめた。大丈夫、その程度の不可解な現象など起きて当たり前だ。むしろ起きるべきなのだと割り切る。
「琴音、俺は今、マジで怖い」
春葵がポツリと弱音を吐いた。琴音はいつの間にか俯きがちになっていたことに気付き、春葵を見上げる。
不思議なことに春葵の表情は怖がっているものの、確かな光を感じさせた。
「怖いけどさ、怖いからこそどーにかしたい。訳分かんねぇ事だらけで怖いんだと思う。頼む、琴音。俺に何ができるか教えてくれ」
恐怖をやり過ごすのではなく正面から立ち向かう。弱い自分を認めることができる。そして一人で抱えることなく誰かを頼り、少しでも改善しようと志す。
鬼を退けた春葵が手に入れた光であった。
琴音は光に照らされ、静かに微笑んだ。
「春葵は今の気持ちを大事にして。できるならそれを皆に分けてほしいの。私もすごく安心するから」
「……お、おう」
春葵は上擦った声で返しながら頷いた。青ざめていた顔が嘘のように紅に染まる。
その反応に琴音は遅れて赤面した。春葵の誠実さにこちらも真摯な言葉で応えたつもりであったのだが、些か彼の許容を超えてしまったらしい。今更ながらストレートに気持ちを伝えすぎたと後悔した。しかしそれ以上に彼がここまで露骨な反応をしなければ丸く収まったはずだと強引な責任転嫁をしたくなる。
「と、とりあえず俺達はどっちへ行こうか?」
唐突ながらも必要な話題転換に琴音は乗ることにした。浮足立った空気を引き締める為にも都合がいい。
西階段を下りるか、春葵が歩いてきた二階の廊下を進むか、琴音が歩いてきた三階の廊下を進むか。二階と三階が階段を経由せずに繋がっている時点で普段の校内とは違う造りになっていると思って間違いないだろう。
蘭と、ここにいるかもしれない風雅ともなるべくはやく合流したい。そして元凶である狗面の少女の存在――。考えなくてはならない要素は多い。
「春葵は二階の端から来たんだよね。だったら私たちの教室、3年5組に戻ろうと思う。そこから1組の方へ進んで、どこかはわからないけれど端に着いたらここの階段を下りたい」
「階層ごとにしらみつぶしって訳か。悪くないな」
二人は果ての見えない廊下を歩き始める。沈黙は不安を生みやすいと考えた琴音が可能な範囲で春葵の質問に答えることになった。
「この空間ってさ、文化祭の時のと同じ原理なのか?」
「誰かの暗い感情が形になるっていう点では同じだよ。大きく違っているのは、文化祭の時は現実に鬼が混ざってきたけれど、今回は非現実の空間に私達が混ざっていること。後者の場合がほとんどだよ。だから、文化祭の時はすごくびっくりした」
「その違いってなんなんだ?」
「こういう暗い感情って、自分の中に押し込める人が多いんだ。自分の中で沸き上がった気持ちだから自分の中で決着をつけようとする。それが溢れると現実世界に影響を及ぼし始めるの。春葵は自分の中で決着がつかなくて外に探しに行っちゃったんだと思う」
琴音はバンド発表が終わった後に春葵から事情を明かされた。その事情は鬼の行動を裏付けるに相応しいものであった。
独り善がりな努力の結果だと、自分を責めるにはあまりにも理不尽すぎて抱えきれなかった。他のバンドメンバーに対する憤りを感じない訳が無く、それが一人歩きを始めてしまったのだ。もしあのまま鬼が暴走しようものなら、バンドメンバーだけでなく文化祭を楽しむ全ての人間に危害を加えていたことだろう。そしてその暴動を行った人物として春葵は粛清を余儀なくされるところだった。
それでもなお、琴音は鬼が全て悪いとは思わない。
「そもそも鬼とか狗っていうのは決して悪い存在ではないの。その人自身を助ける為の存在なんだ。ただその解決手段が本人や誰かに危害を与える場合が多いから、私みたいな力を持っている人が別の提案をして解決を促すの。――春葵の時は私一人じゃどうにもならなくてごめんね」
「琴音は悪くねぇよ。俺が勝手に自分を追い込んで絶望してただけだ。ホント馬鹿だよな」
自虐的な渇いた笑いに琴音は不安を憶える。その感情もまた、黒い感情に分類されるものだ。この空間を歪ませるばかりか、春葵自身にもまた何かが起きてしまうかもしれない。
どうにか元気づけようとする前に春葵が笑う。
「けどもう平気だ。俺の中で後悔も反省も後腐れなくできたつもりだし、今はただ、協力してくれた皆へ感謝したい」
「うん……」
琴音がその眩さに目を細めているうちに、春葵は次の質問を口にする。
「琴音はまだアイツに会ってないから分かんねぇと思うけどさ、あの狗は蘭……だよな」
「春葵から聞いた特徴に一番近い人物だと思ってるよ」
「そういえば琴音は蘭と仲がいいのか? 女子のグループはぶっちゃけよく分かんねぇ」
「隣のクラスだからほとんど接点ないよ。あぁでも放課後とか会った時に挨拶はするかな」
「そんなもんか」
「うん。だから春葵がいてくれるのがやっぱり心強いよ。私は信用してもらうところから始めなきゃいけないから時間かかっちゃうからね」
「蘭が相手なら俺よりも風雅の方が適任だろうけどな。それにしてもいつもこんな事を琴音は一人でしてたのか」
「場合によりけり、かな。もし私じゃ手に負えない相手、それこそ顔も名前も知らない他学年の生徒だったりしたら、できる限り情報を集めつつもこの空間からの脱出を最優先にするよ。私よりもすごい力を持つ人は少なくないからね」
「そうか……。その、言いにくい事ばっかり聞いて悪りぃ。俺、琴音のこと何も知らないんだなって思って、勝手に凹んでるだけだから気にしないでほしい」
「それはお互い様。私だって春葵の悩みに気付けなくてかなりショックを受けたよ」
「だからさ、琴音。俺に話せる事は何でもいいから教えてほしい。俺もちゃんと話すから」
琴音の瞳が揺らぐ。隣を歩く彼はこんなにも格好よかっただろうか。そんな疑問が湧きあがるのと同時に心拍数は上がっていく。
恰好いいに決まっている。あのバンド発表の時に確信していた。普段は気だるげな態度でいるくせに根は真面目で努力家で、ここぞという時はいつだって先頭に立てる。今だってこんなにも頼もしい。
と、そこまで考えたところで我に返る。今は浮かれている場合で無い。これはいわゆる吊橋効果というもので、非現実的な空間にいる緊張から心拍数が上がりドキドキさせているのだ。
琴音が無理矢理な理論で自分を落ち着かせていると視線を感じた。見ると、春葵が自信なさげな表情でこちらを見つめている。
「俺じゃ、ダメ?」
その一言に自分が春葵からの言葉を黙殺していたとようやく気付く。
「ダメじゃない! ごめんね、ちょっとこの状況を打開する為に色々考えていたっていうか、春葵が格好いいこと言うの嬉しいから!」
「……え?」
沈黙。琴音は支離滅裂な自分の言葉に悶えた。顔から火が出そうなほど恥ずかしく、春葵の顔を見ることもままならない。先程から隠しておきたい本音ばかり露呈している。
穴があったら入りたい。逃げ出せるなら逃げ出したい。しかしそれは叶わぬ願いだ。この空間に春葵を一人にするわけにはいかないのだから。
「えと……俺、今から空気になるから、落ち着いたら声かけて」
何かを察した春葵がたどたどしくもフォローする。その時の春葵は琴音に負けず劣らずの赤面っぷりであったが琴音は知る由もなかった。
しばらく両手で顔を覆い、頬の温度が下がるのを待つ。まだ春葵の顔を見るまでは至れないが落ち着いた声を出すだけなら可能だと判断する。
「取り乱してごめんなさい。春葵の提案は本当に嬉しく思うので前向きに検討させていただきます。義務的で申し訳ありません。そうしてないとまた変な事言いそうなんで察してほしいです」
「おう……」
「打開策の方はまだ考え中。蘭ちゃんと狗、そしているかもしれない風雅君に会うことは最重要項目として変わりはないんだけど、外的要因の排除も重要なの。以前話した黒い感情は他の黒い感情を巻き込んで大きくなるっていうのは覚えているかな。他の人の黒い感情が混ざるほど蘭ちゃん自身の悩みから遠ざかってしまうから、解決が困難になっちゃう。しかも現実世界の校内は人がたくさんいるからそれだけ巻き込みやすい。そっちも何か手を打ちたいなって思ってる」
「了解」
琴音としては外的要因の排除を春葵に任せたいと考えていた。どうにか春葵を外の世界に戻したい、危険な目には合わせたくないと考えているのだが率直に伝えてしまうと春葵にとってプラスにはならないだろう。それこそ外の世界に出した春葵からの負の感情がこの世界を育みかねない。狗と鬼が融合しようものなら手の施しようが無くなってしまうだろう。そんな最悪な事態を回避しつつ彼の安全を確保するにはやはり自分の目の届く所にいてもらうのがいいのかもしれない。それに加えて相手が蘭なら春葵の方が自分よりも理解していのだから適任だと先程結論を下したばかりだ。
琴音はようやく思考の違和感に気付いた。
「こういう空間って生み出した本人の心が反映されていることがほとんどなんだけど、結構影響力があるかも……。さっきから考えがちゃんとまとまらないの。ぐるぐると同じことばかり考えてて、前に進んでいる気がしない」
「なんか納得した。さっきから琴音が蘭っぽいし」
「え!?」
琴音は驚愕した。琴音の中での蘭のイメージは冷静で秩序を重んじる硬派な人物、である。先程からの自分の行動がそのイメージとはどうしても結びつかない。自分と春葵が語っている蘭は果たして同じ人物なのだろうか。そんな疑問すら思い浮かぶ。
「自分ルールで戒めてるのに本音が飛び出して自爆するところとかな。琴音の方が百倍素直で分かりやすいけど。ちゃんと俺に言ってくれるしさ。楽っつーか単純に嬉しい。サンキューな」
「……そういう春葵は風雅君っぽいよ」
「うぇ!? マジで!?」
「あ、春葵に戻ったかも」
なんとも言えない沈黙が過ぎる。
ややあって春葵が怖々と一つの可能性を口にした。
「ここが蘭の空間で琴音はたぶん蘭の影響を受けてる。っで非常時だから言っちまうけど、蘭は風雅が好きなんだ。俺はその蘭の思う風雅像の影響を受けてる。しかも本物の風雅も蘭の事が好きでなおかつこの空間にいるかもしれない」
「もし風雅君もいるなら影響を及ぼしている可能性大だから……」
二人の恋愛感情が自分達を書き換えて……。
結論を口にするより早く春葵が叫んだ。
「ふざけんな! アイツらの理想を俺たちに押し付けてんじゃねぇよ!」
その頬の赤みは怒りか、それとも――。
自然と二人の歩みが早くなる。お互い、紅潮した顔を見せまいと前だけを睨みわざとらしい声を挙げながら進んでいく。
「さっさと行こうぜ! あとついでにここの空気を変えちまおう! 考えがまとまんねぇなら吹き飛ばす! 換気だ、換気! ここが蘭の心っていうなら文字通り窓を開けちまおう。何もしないよりマシだ」
「それなら私達の教室である5組がいいと思うよ! 私の力が発揮しやすいのはやっぱ自分の教室、5組! そう、私は5組の生徒だから! 6組じゃない!」
「おいおい、剣道部どころか運動部でもないのにそんな速足でへばらないか!」
「春葵だって柔道部じゃないし大丈夫かな! さっきから右足と右手が同時に前へ出てるよ!」
「わ、わざとだし! つか俺、昔は柔道やってたし!」
「ちょ、やめてよ! 風雅君と被るじゃんか!」
「そういう琴音こそ律義に廊下走らないあたり、蘭にそっくりだぜ!」
どちらからともなく、二人の歩みはいつしか短距離走に変わり、永遠に続くかと思われた長い廊下を喧騒で満たすこととなった。
そしてようやく3年5組の教室に辿りついた時には肩を上下させながら膝をつく羽目となる。