開演前
この作品は前作の続きにあたります。
前作『狐と鬼のセブンス・コード』はこちら。
https://ncode.syosetu.com/n3723ca/
生徒会室は夕陽色に満たされていた。一週間と数日後に夏休みが控えているだけあって、太陽の熱も気合が入っている。校内では数少ないクーラーが設置されている生徒会室にいてもなお、じんわりと汗が滲むほどだ。柔道場の方が風通しが良い分、気持ちの上では心地いいかもしれないと風雅は思った。シャーペンを机上に転がし、グッと伸びをする。ついでに額に浮いた汗の玉を拭い、居住まいを正す。重要な書類を汗でふやかす訳にはいかない。黒板上の時計を見やり誰に言うでもなく、もうこんな時間かと呟く。言葉が熱に融けるより早く自身の正面に座る少女、蘭へと投げかけた。
「蘭ちゃん、そっち順調?」
「滞りなし。それと、ちゃん付けをやめてくれ」
蘭は顔を上げることもせずに黙々と作業を続けている。
二人は今、書類の整理に追われていた。文化祭が終わっても生徒会の仕事は終わらない。各屋台の売上集計や学校外の協力団体・企業へのお礼状、アンケートの集計など、仕事は山積みだ。もちろん書類仕事以外でもやることはある為、他の生徒会役員は出払っている。振り分けられた仕事に勤しんでいることだろう。
「水分補給はしっかりな」
「言われなくとも」
淡々と言葉を返す蘭だが、机の端に追いやられた彼女のペットボトルは開栓すらされていないと風雅は知っていた。彼女の集中力に感心するものの、少しは彼女自身を労わってほしいと思っている。人に厳しく、自分には更に厳しく。彼女が『堅物女』と揶揄される所以だ。
「蘭ちゃん、一回手を休めてさ、ちょっと俺に状況報告してくんない? より効率的にやるには休憩も報告も重要重要」
「……分かった」
おどけるように言い、どうにか彼女の手を止めることに成功する。向けられた表情はけっして朗らかではないが、それでもいいと風雅は思った。
蘭がようやくペットボトルを口につけ、喉を上下させる。それからひらりと手元のプリントを見せつける。
「アンケートの集計だ。前夜祭や後夜祭などの大きな企画に対する意見と感想をまとめている」
ふんっと鼻を鳴らし、プリントを置く。怒っているわけではないのだろうがどこか不満気な空気を風雅は敏感に感じ取る。
「そんなに難しい?」
「さほど難しい訳ではない。ただ……このバンド発表のアンケート集計は私がやるべきではないと思っている。私は出演者側だ。公正な結果を出せない。どうしても私情が絡む」
「別にいいんじゃないか? それを言ったら前夜祭も後夜祭も蘭ちゃん参加してるじゃん」
「バンド発表の参加は他と違い任意参加だ。それに……自分の評価を受け止めることはできるが、わざわざそれを公開する必要性はないだろう。アンケート集計は結果を当事者に伝える為にやっている以上、私への意見はもう私に届いている」
蘭が目を落とす先をなぞると、たくさんの筆跡が声高に叫びだした。それはあの時の感動をそのまま言葉にしたものばかりで、風雅の記憶をも容易く呼び起こさせた。
そもそも風雅にとってあの光景を思い出にするにはまだ鮮明すぎた。
魂を揺さぶる力強いドラム。どこまでも響く空色の声。うねりをあげるギターの音色。それら全てを支える分厚い地層のようなベースの音。ただそこにあるのが当然のような安定感が曲の間奏に差し掛かった途端弾けた。ベースソロ。まさしく良い意味で裏切られた瞬間である。安定感をそのままに前面へと躍り出た低音は突然地面が波打ったかのように驚きと興奮を与え、不思議なまでに心を躍らせるのだ。アクション映画を見ながらジェットコースター乗っている気分にさせる。熱が込み上げ瞬きすら忘れるほど――本当にどうしようもないとしか言えないほど心を掴んで離さない。
そんな偉業を成し遂げたのはたった一人の少女。小柄な身体に余りある大きなベースを抱え、世界の中心がここだと言わんばかりに演奏していた。彼女はベースの声で叫んだ。楽しい、と。
正確無比な演奏を続けながら、今までのどんな時よりも幸せそうな笑顔ではしゃぐ。ちぐはぐと言ってもいい、その真剣みのある無邪気さが今も風雅の頭から離れずにいる。
「風雅、聞いているのか?」
「え、あぁ、うん。まあ、うん」
回想を斬るように冷ややかな声が風雅を現実に連れ戻す。
正面に座る彼女は少しだけ苛立っているようにも見える。生まれてこの方笑ったことがないと説明されてもつい頷いてしまうかもしれない。それほどまでに彼女の纏う空気は張りつめている。悪気があるわけでもなく、隙も遊びもないだけなのだ。だからこそ絶大な信頼を得り、代償に交遊に関わることごとくを失っている。
彼女に生徒会予算の話をする者がいても、芸能ニュースの話をする者はいない。彼女が当番活動の招集をかけることがあっても、帰り道のコンビニへ彼女を誘う者はいない。それでいいと、周囲と彼女が納得しているなら尚更だ。
ここがもし社会の中のとある会社で築かれている人間関係ならばそれでいいと思う。仕事とプライベートを分けているだけだ。なんら問題は無い。けれどここは学校で、仕事と呼ぶには得るものも少なく、それでいてかけがえのない時間のさなかである。その全てを彼女はこんな仕事ばかりに費やすのかと思うとどうにも心が苦しかった。
「なんだその気の無い返事は」
蘭の声に凄みが増す。同情なんていらないと拒絶されたかのような錯覚を覚えた。
ハッと我に返った風雅が慌ててアンケート用紙の束を掴む。
「気ぐらいあるって」
何かしらの意見を述べようとアンケート用紙に目を通していく。
自分の想いを代弁するようなアンケート用紙の数々はともすればファンレターに他ならない。この中の一枚が風雅が書いたものだと果たして蘭は気付くのだろうか。
「蘭ちゃん宛のメッセージ、褒め言葉ばっかじゃん。貶されてるならともかくこれなら掲載しても問題ないぜ。事実なんだから」
「所詮文化祭の余興だ。辛辣に書いたところで意味もない。オーディションとは違う」
「要するに蘭ちゃんは自分が褒められると照れくさいから公表したくないんでしょ? もっと自信持っていこうぜ」
「なっ……何を言って――!」
途端に蘭の顔が夕陽色に染まった。冷たいと思っていた表情がいともたやすく融かされてありのままの彼女が上擦った声を上げる。
その瞬間、風雅もまた自身の内にあった本音に気付く。
「俺、蘭ちゃんのこと好きだよ」
ほんのわずかな沈黙が駆け抜けた。
蘭の顔は赤い。けれどそれが夕陽によるものなのか分からない。
「それこそ……何を言っているんだ」
「蘭ちゃんが好きって言っている」
続く言葉のないまま、下校を促すチャイムが鳴る。
先に目を逸らしたのは蘭だった。
「……ちゃん付けはやめろと言っている」
蘭が、深く固く冷たい面を被り直すと片付けを始めた。そそくさと荷物をまとめながら淡白な声で語る。
「バンド発表の集計だけは風雅がまとめてくれ。やはり私では相応しくない。音楽経験の無い風雅の方がよっぽど公正だ」
鞄から風紀と書かれた腕章を取り出し、左腕に取り付ける。
「校内の巡回をして帰る。生徒会室の戸締りは任せたぞ。エアコンの消し忘れだけは許さないからな」
彼女は荷物を持って生徒会室を出ていった。ぴしゃりと閉められた扉が風雅を拒絶しているようにも見えて殊更悲しくさせる。
「俺……何言っているんだろうな」
誰に言うでもない言葉。受け取る人物はもういない。