咲坂雪菜は、俺を日常の外へ連れ出した
咲坂と出会ったから一週間。
毎日、無意識に咲坂の姿を探してしまう自分をそろそろ認めざるをえない。
ええ、彼女に会いたいですよ。
さすがにLINEも日に何度も通知を確認するが、メッセージが来ることはなかった。
”やっぱりあれは幻だったのか?”と真剣に恐怖する毎日。
今日は、朝一、一般教養科目の「社会学概論」を睡魔と闘いながら、ようやく終わった。
午後に予定していた講義が休講となり、このままアパートに帰るか、それとも学食で昼食を済ませて帰るか迷いつつ、得意のキャンパスうろうろをはじめようと思った矢先。
沈黙を続けていたスマホが震えた。
画面には「咲坂雪菜」の文字。
すわっ!!
一瞬で覚醒した俺は、気づけば脊髄反射並みの速さで通話ボタンを押していた。
「え?え?……出るの早いね?」
──しまった!
“即レス”は気をつけようって、あれほど心に誓ってたのに!
まさか通話で来るなんて想定外すぎて大脳が反応できず、脊髄が動いてしまった。
焦りつつも、久々に聞く咲坂の声に全身が熱くなる。
むろん通話は、これが初めてだ。
……そりゃテンションも上がる。
即レス上等。
ただ――俺がいま全力でニヤけてることなんて、彼女には悟られてはいけない。
「いや、たまたまLINEチェックしてただけだから」
声のトーンを、心の中の高性能イコライザーで調整。
できる限り、平静を装って返す。
「アハハ、嘘だ嘘だ! 声のトーンがわざとらしい!」
即ばれかよ!
俺のイコライザー、性能悪すぎだろ。
てか声のトーン読まないでくれよ。勘が鋭すぎるんだよ、この娘は。
「そこは“気づかないふり”が正解だよ」
苦し紛れに返すと、
「義人くんにはそんなこと、してあげないよ?──あ、これは“特別視しない”という、私の特別な対応だからね?」
なんだよ、そのややこしい言い回しは。また“特別な対応”とか言うなよ。
勘違いするんだから。
「あーっ、もう分かったよ! 降参! 咲坂の特別な心遣いに感謝致します!」
──勝てる気がしない。
「フフ、やった」
嬉しそうな笑い声がずるかわいい。
「で、何?」
気を取り直して、俺は会話の温度を落ち着かせる。
「義人くん、今日の予定は?」
一瞬、ドキリとする。これから会えるのか?
「午後休講になったから、めちゃ暇になった」
俺は全力で暇を強調した。
「じゃあ、これから会おうか?」
きた──!!と心でガッツポーズ!
「お、おう、いいね」
もう動揺を隠せないが、仕方がない。
「はは、嬉しそうだね」
あたりまえだ!そこに異論はない。
「咲坂に誘われて、嬉しくないヤツなんているかよ」
これは自然の摂理だ。俺だって自然には逆らえない、と強引な理屈で自分を納得させる。
「そっかぁ、嬉しいんだ」
なんだよ、そのリアクション。ちょっと声弾んでないか?
「なんだ咲坂も嬉しいのか?」
少しだけ反撃に転じてみる。
「あ、分かる?」
で、でた魔性の一撃。
「そうか、これに男はやられるんだ」
俺は妙に感心してみせた。
「ひどいな、人を魔女みたいに」
少しだけむくれたようだ。
「咲坂はもう大学にいるのか?」
そろそろ本題だ。
「うん。いるよ。義人、いまどこ?」
咲坂がこの大学に来ていることに、心が上ずる。
「俺は今、B棟の401。社会学の講義が終わったとこだけど……あれ?」
ちょっとした違和感。面倒な男だと思われると思うが、気になってしまう。
「何?」
「今、“義人”って、いきなり呼び捨てした?」
「いちいちそういうの反応しないでよ。さすがにウザい」
だよね、だよね。ここはスルーが正解だ。
「すまん、自意識過剰がすぎた」
やらかした。これは思い出しても恥ずかしくなるレベルだ。
「まあ、義人らしいといえば義人らしいけど。でもそれを言うならさ」
咲坂も勿体つけてつづけた。
「義人だって、今日は私のこといきなり呼び捨てしてるよね? 咲坂って」
あれ~? そうだったかあ~。と心でとぼけてみたが……
「さすが目敏いな。じゃあ、“おあいこ”ということで」
「マジ義人ムカつく!」
その瞬間――「ペチッ」と、後頭部に軽い衝撃。
振り返ると、スマホを耳に当てたままの咲坂が、不貞腐れ顔で立っていた。
突然の本人の登場にさすがに焦った。
スマホで会話をしながらここに向かっていたのか?
……にしても来るの早くね?
それはそうと──目の前に立たれると息をのむほど美しい。
改めて“別世界の存在”を思い知らされる。
いままでスマホ越しに自然に話していたことが、急に信じられなくなった。
そして、極度に緊張して、言葉が出なくなってしまった。
俺が固まってることを察した咲坂は嬉しそうに口を開く。
「もしかして緊張してる?」
俺は再度、“これは自然の摂理だ!”と叫びつつ
「これは男子のあたりまえの反応なの。だからしばらくその容姿に慣れるまでリハビリ期間くれ」
「なにそれ?」
咲坂はクスリと笑う。
「それにしても早かったな。近くにいたの?」
俺はさっき感じた疑問を何気なくぶつけた。
「べ、別に義人の講義が終わるのを待ってた訳じゃないからね?」
なに動揺してんだよ?
動揺しながらそれ言ったら“待ってた”って言ってるようなもんだろ?
どういうこと? 今日の咲坂、なんなんだ?
そもそも滅多に大学で見かけない咲坂が、朝から大学にいること自体、不自然だ。
そして俺を待ってた?
なんで?
ストーキング?
いや、それは俺がやっても、咲坂が俺にやるわけないな。
って、俺はやる可能性あるのかよ!
思考がぐるぐる回る。
俺はしばし黙り込んでしまった。
「何考えてるのよ?」
俺が思考を巡らせていることに気づいた咲坂が、不安げに口を開く。
「いや、色々ついて行けず混乱してるんだよ」
俺は正直に口にした。
「そんな深く考えないでよ。とりあえず、一旦大学出ようか」
咲坂はそう言って、俺にそれ以上の詮索を許さなかった。
今日の咲坂は、どうも様子がおかしいのは明らかだ。
「一応、聞いておくけど、これはデートの誘いかな?」
咲坂の表情が硬くなったので、軽いジョークのつもりで言ってみる。
しかし、咲坂が“ジロリ”と俺をにらみつけてスルーしてしまった。
咲坂さん怖い!
「で、どこ行くか、あてあるの?」
スタスタと先を行く彼女に尋ねた。
「行先は私の仕事場」
咲坂は今度は振り返らずに早口でそう言った。
「は? どういうこと?」
仕事場? モデルの? あまりの想定外な回答についていけない。
「これから撮影あるから、付き合ってほしいんだけど?」
俺に考える隙を与えまいとなのか、有無を言わせぬトーンで言った。
「なんだよそれ? 意味わかんないんだけど?」
さすがにその言い草は乱暴すぎると思ったが、俺は極力普通のトーンで返した。
「まあ、職場見学?」
彼女のことだ、俺のいらだちに少し気づいたのだろうか、そんな軽口でごまかそうとした。
「なんだよ、その雑な説明。俺がモデルとかなる気ないんだけど?」
俺もその軽口に乗りつつも自分の不満を会話に乗せた。
「アハハ、義人がモデルとか、ちょっとウケる」
咲坂は取り合わない。
「何で? 俺が行く意味あるの?」
詰めるつもりはなかったが、少し強い口調になっていた。
「あるの」
俺のトーンを押し返すように、咲坂も少し拗ねたように断定した。
反論を許さない調子。
俺は、探るように咲坂の表情を見つめた。
視線に気づいたのか、咲坂はそっと眼を逸らした。
冷静に考えて、普通の大学生でしかない俺がモデルの撮影に付き合ってどうするんだ?
まさか、自分の美しい姿を見せつけたいわけでもあるまいし。
そもそも、咲坂雪菜=人気モデルYUKINAという話は、彼女が触れられたくない話題のはずだ。
それを、出会ってまだ間もない俺を撮影現場に誘うなんて――どう考えても不自然だ。
どういうことだ?
怪訝な顔で見つめる俺に、咲坂はたまらず顔を背けた。
そして、それ以上この話題を続けようとしなかった。
白々しく、咲坂は話題をそらすように他愛もない心理学の話を持ち出した。
俺もそれ以上、詮索するような野暮はしない。
咲坂が無理に選んだ“心理学トーク”に、素直に乗ることにした。
……まあ、これはこれで楽しい会話だからいいんだけど。
咲坂の仕事場は、渋谷――道玄坂にあるという。
だから俺たちは大学最寄りの高田馬場駅から山手線に乗り、渋谷へ向かった。
電車の中で咲坂は、そのまま心理学の話を続けた。
俺も、敢えて話を合わせる。
――その方が、互いに楽でいられるから。
渋谷駅のハチ公口に降り立つと、いつも通りの混雑だった。
平日も休日も関係ない。
交差点を渡る群衆の波は、見るだけで酔いそうになる。
しかし、その群衆の中にあっても、咲坂だけが異質な存在として浮かび上がる。
光を反射するような髪の艶、白い肌。
すれ違う人々の視線が、ことごとく彼女に吸い寄せられていく。
男も、女も。
誰もが“何か”を感じ取って、立ち止まる。
俺は思わず一歩、距離を取った。
すると、まるで現実と幻想の境目に立たされたみたいな錯覚に陥る。
道玄坂を上りはじめてすぐ、「YUKINAさんですか?」と声をかける二人組の女子高生がいた。
咲坂は一瞬だけ表情を引き締めたが、すぐに微笑んだ。
そして「はい、そうです」と、明るく、柔らかく応えた。
俺の前では見せる笑顔とは違う“表の笑顔”だった。
先日、逆井に向けて見せた笑顔とも違う。
まるでスイッチが入ったみたいに、完璧なプロの笑顔。
「一緒に写真いいですか?」
恐る恐る女子高生は尋ねた。
「ごめんね、写真はちょっとダメなんだ」
咲坂は本当に申し訳ないという顔で、真摯に断る。
「あ、そうですよね。すみません!」
モデルだから、安易に撮られるわけにはいかないのだろう。
女子高生たちも、それを分かった上で聞いたのかもしれない。
それでも咲坂は求められた握手には笑顔で応じた。
女子高生たちは「ヤバい、本物だ!」「超キレイ」「泣きそう!」と騒ぎながら去っていった。
一人は本当に涙ぐんでいた。
――で、俺に気づいた女子高生は「なんでこの冴えないのが隣に?」と視線攻撃を放ってきた。
はい、ジョシコウセイミサイル、直撃しました。威力SS級。
「YUKINAちゃんは、優しいな? 咲坂ちゃんになると、俺には全然優しくないのに」
今なら軽口も許されるだろうと思って、少し冒険気味に茶化してみた。
咲坂は、さっきのやり取りを見られたのが恥ずかしかったのか、珍しく耳まで真っ赤にして俺を睨みつけた。
「でも、さすがプロだな。大したもんだ」
俺は素直にそう言った。
すると咲坂は、不意を突かれたようにきょとんとした。
「な、何よ、急に褒めたりして」
「素直な感想だよ。マジ惚れそうになったわ」
これくらいの軽口で揺さぶれるとは思っていなかったが、案の定、すぐに反撃が来た。
「あれ? もう私に惚れてたんじゃないの?」
はい、撃沈。
“サキサカミサイル”――ジョシコウセイミサイルよりも数段威力が高かった。
道玄坂を少し上がった先で、咲坂は路地に折れた。
人通りは一気に減り、さっきまでの喧騒が嘘のようだった。
「ここ?」
「そう……」
咲坂が立ち止まった先には、漆黒のガラスに覆われた高層ビルがそびえていた。
外観は控えめだが、入口にはカードリーダー付きの自動ゲートと制服警備員。
通りの喧騒とは別世界。空気が静まり返り、社名プレートそのものが威圧感を放っている。
そこに刻まれていたのは――「Kプロダクション」そして「Kスタジオ」。
業界では知らぬ者はいない。
泣く子も黙る大手芸能プロダクション。
トップクラスの俳優、モデル、アーティストを抱える巨大組織。
「これが……お前の、所属してるところ?」
「ええ。私が所属してる事務所。ここが撮影も、マネジメントも全部やってる本社なの」
あまりのスケールに、言葉を失った。
この規模の事務所に在籍している――それだけでもう、次元が違う。
咲坂はそんな俺の反応を気にも留めず、ただ静かにビルを見上げていた。
さっきまでの軽口は跡形もない。
口数が減り、表情から温度が抜けている。
……仕事前だから緊張してる、というだけじゃない。
それ以上の何か――沈黙の奥に、別の顔が潜んでいる気がした。
初めて会った日のことが、ふと脳裏をよぎる。
カフェで連絡先を交換したあと、スマホを見た瞬間、彼女の表情が一変した。
あのときの影と、今のこの沈黙が重なる。
「浮かない顔だな?」
思ったままを口にした。
「まあ……ね」
短い返事。
否定もせず、肯定もしない。
けれど、その“ね”の一音に、どこか諦めのような響きがあった。
「で、俺はどうしてればいいの?」
咲坂は何かの目的があって俺をここに連れてきたはずだ。
だからそれは聞いておくべきだった。
少しの間をおいて、咲坂が言った。
「私のこと、ただ見ててくれるかな?」




