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咲坂雪菜の変化とは?

 田尻からの忠告で焦燥感に駆られた俺は、ダッシュで駅に向かった。


 俺がここで走ったからといって、時間にすれば大して短縮にもならないだろう。


 しかし、田尻と別れてから心にどんどんと立ちこめてくる不安感を拭うには……ただただ全力で走るしかなかった。


 T駅から飛び乗った電車は、まだ通勤ラッシュの抜けていない満員御礼の車両。


 汗だくの俺に不快な目を向けるOL……悪かったね。


 でも俺の彼女は君より百万倍美人だからね!!……とクズ全開の妄想反撃でその視線を跳ねのけながら、少しでも意識を上向きにする。


 渋谷駅のハチ公口を降りると、スクランブル交差点は通勤途中のビジネスパーソンで溢れかえっていた。


 毎度の混雑ぶりにウンザリしていたが、その混在の中から手を上げて俺に近寄ってくるヤツがいた。


「よう!櫻井! なんでお前がこんな時間に渋谷にいるんだよ?」


 こんな急いでる時に、なんでこんな偶然が起こる?


 ちょっと面倒だとは思ったが、無視する訳にもいかないか。


「逆井、それはこっちのセリフだよ。ほんっとお前ってタイミング悪すぎ」


 ため息をつきながらも、仕方なく相手に向き直る。


「なんだよ、俺に会えてそんなに嬉しいのかよ?」


 まったく、人の話を聞く気がない安定の逆井だな。


「で、櫻井は何してんの? 俺バイト帰りなんだけどさ」


 彼の言葉に一瞬だけ足を緩めた。


「え? お前夜中バイトやって朝帰りとか? そういうところ“だけ”はちょっと尊敬するわ」


 軽口を返すと、逆井は鼻を鳴らした。


「まあな。もう眠いから帰って寝たいんだけど、どうだ朝飯でも食うか?」


「いや、だから急いでるんだって。この汗とか、不安な表情とか……察しろよ?」


 息を整えながら言うと、逆井が少し真面目な顔をした。


「もしかして咲坂さん絡み?」


 その名前を出されて、心臓が跳ねる。


「まあ、野暮用だ。ちょっと咲坂のスタジオに……」


「え? 咲坂さんの撮影スタジオ? なに、櫻井ってそこまで咲坂さんに踏み込んでんの?」


 お前、“踏み込む”なんてワード安易に使うなよ。


 昨日だったらそれ地雷ワードだからな……。


 まあ、もう踏み込んだからいいんだけどさ……。


「ああ、色々あってな……」


 おい逆井、なんでそんなに目を輝かせてる?


 ……お前眠かったんじゃないの?


 早く家に帰って寝れば?


 しかしまあ……この後東郷に会って、もみ合いの乱闘騒ぎになるとは思えないが、敵対する男が多い環境に突っ込むなら一人より案外いいのかもしれない……


「逆井ってさ、武道とか格闘技の経験者だったりするの?」


「ん? 何の話? 小学校までは空手の町道場通ってたけど、まあ経験者と公言できるレベルじゃないな」


 つまり戦力外ってことか……まあいい。


「お前も行くか? スタジオ」


「い、いいのか? 俺が行っても?」


 急に焦りまくる姿に、少しだけ笑ってしまった。


「まあ、俺も部外者っちゃ部外者だけど、咲坂の関係者というのは嘘ではないし、あと最悪何とかしてくれる人もいるから……」


 まあ上條社長に言えばどうとでもなるだろうから、そこは心配する必要はないだろう。


「そ、そうなのか。なんか櫻井と友だちで初めて良かったと思ったよ」


「はあ? お前俺と親しくないって自分で言ってただろう?」


 軽く眉をひそめると、逆井が苦笑交じりに言った。


「いつの話だよ? 案外根に持ってんなあ、お前。ホントはあの時なにげに凹んでたとか?」


「バアッカ。そんな訳あるかよ……」


 言葉を交わしながら、俺たちは道玄坂を昇り始めた。


 Kスタジオまでは、もうすぐだ。


 俺達二人は、道玄坂を昇ってKスタジオを目指した。


 逆井は興奮冷めやらぬ様子で俺の後を付いてくる。


 ただ俺は浮かれている場合ではない。


 まず咲坂に会って今の状況を、闇の最後の抵抗が起こり得るリスクとして、本人に伝えないといけない。


 道玄坂の路地に入り、俺達はKスタジオの前についた。


「ここか?」


「ああ」


「お前、結構来てるの?めちゃ入り難い雰囲気なんだけど?俺達ホントに入っていいの?」


「今更何言ってんだよ。入るぞ」


 まずは咲坂の姿を探す必要があったので、もう人目を気にしている場合ではない。


 だから表のエントランスから堂々と俺達はスタジオに入った。


 スタジオに入ると、俺の顔を覚えている奴もチラホラいるようで、“チッ、アイツか”という敵意ある視線を向けられた。


 逆井の存在はおそらく軽くスルーだろう。


 俺はスタジオ内をぐるっと見回してみたが――一見すると以前の雰囲気と大きく変わったという印象はない。


 俺が告白して、まだ昨日の今日だ。


 咲坂が変わったとはいえ、それは――エスパー級の田尻や、あるいは目の前でその変化を見てきた俺だからこそ気づけた、そんな“わずかな変化”にすぎないのではないだろうか?


 そんなに焦って心配する必要もなかったのか?


「お、おい……マジにモデルいるぞ?」


 逆井は、落ち着きのない視線で周囲を見渡しながら、声を上ずらせた。


「そりゃいるだろう?」


 俺の返事に、逆井はさらに前のめりで周囲を凝視する。


「おまえスゲエな。お、おい!あの娘メッチャ綺麗なんだけど?」


 興奮して指差す逆井の視線の先を見て、俺は肩をすくめた。


「ああ? ああ? あいつな……」


 軽い返しだったせいか、逆井は驚いた表情でこちらを見る。


「え?お前知ってんの?」


 そうだな。


 まずはあのアザト高校生に状況確認するのも手かもしれない。


 見たところ咲坂の姿はないようだし。


 俺は彼女に近づいて声を掛けることにした。


「よう!MISAKI」


 高校生モデルのMISAKIは、突然名前を呼ばれたせいでキョトンとした。


「な、なんでいきなりMISAKIとか爽やかに名前読んでんですか? 不覚にもちょっとドキッとしちゃったじゃないですか? マジ損しましたよ。私の“ドキッ!”を返してくださいよ!」


 相変わらずのMISAKIに少し安心する。


「お前、朝から絶好調だな。で、なんでホントに顔赤らめてんだよ? 俺のこと好きなの?」


「ヴァッッかじゃないの! 櫻井さんってほんとムカつく!」


 そんな俺とMISAKIのやり取りを見て、逆井が例によって固まっていた。


「あ、MISAKI……こいつ逆井……そんな親しくないんだけど」


「お、お前! またそんなこと……」


「逆井さん? はじめまして? 高校生モデルのMISAKIです!」


「あ、逆井。最初に言っておくけど、こいつメチャあざといから注意しろよ?」


 って……もう手遅れだ。


 ”MISAKIあざとスペシャル”が綺麗に決まってる。


 逆井、タップする前に意識飛んだな。


 ご愁傷さま。


 MISAKIはギロッと俺をにらむ。


 その表情は怒っているはずなのに、キャラ崩壊だけは絶対にしないという妙なプロ意識を感じた。


「先ぱぁ~い……なんてこと言うんですかぁ? 私いつもこんな感じですよぉ?」


 いや、絶対違うだろ。


 でも口には出さない。


「先輩って誰のことだよ? 俺がいつからモデルになったんだよ」


「さ、櫻井? なんでお前そんな……彼女と親しげなんだよ? おかしいだろ?」


「お前、どこ見てんの? どこも親しくないだろ?」


 このままでは咲坂の情報を取れない――そう判断して、俺は逆井から距離をとるようにMISAKIの腕を軽く引いた。


 スタジオの隅へ場所を移す。


「な、なんですか櫻井さん! ナチュラルに腕引っ張るとかやめてくださいよ。ほ、ほんと、どっちがあざといんですか!」


「お前、いちいち顔とか赤らめるなよ。……見てみろ、逆井もうお前に惚れる勢いだぞ? 逆井でいいなら、俺もプッシュするけど?」


「はぁ? なにいってんですか? マジありえないからやめてくださいよ。ホントやめて」


「お、お前……声のトーン一気にオクターブ下がっててマジ怖いんだけど? さすがに寒気がしたぞ?」


「櫻井さんがくだらないこと言うからですよ……」


 あ~あ……逆井、全力で拒否られちゃったよ。


 申し訳ない逆井。


 俺たち凡人がモデル狙いとか、そもそも分不相応なんだよ……まあ俺は……その、色々あるけど。


 逆井、ホント申し訳ない。


 MISAKIは本気で不貞腐れたように頬を膨らませた。


 こいつの地雷ポイント、いまだに分からない。


 ホント疲れる。


「ああ……悪い。なんかお前だと、つい遠慮なく言いたいこと言っちゃうんだよ。まあ、これも俺なりの愛情表現ってことで……」


「だ、だからそういうの、やめてくださいってば……」


「お前も、そのすぐ赤くなるクセやめろよ? 本気で誤解する男、そのうち出てくるぞ?」


「……」


 ぷいっと頬を膨らませてそっぽを向く。


 完全に拗ねモード突入だ。


 いよいよ本気で怒ってしまいそうなので話題を変えることにした。


「そういえば咲坂は今、どこ?」


 俺がそう聞くと……MISAKIは俺の質問には答えず、ぱちんと視線だけをこちらに向けると、まるで別の話題を待っていたみたいに、急に興奮気味に別のことを言った。


「そういえば! 櫻井さん、何やらかしてくれたんですか?」


「え? なんで俺がやらかした前提なんだよ?」


「だってYUKINAさん、今朝から超~おかしかったですよ?」


 心臓が、どくんと一拍だけ強く鳴る。


 さっきまでの軽口が一瞬で遠くに行った。


 頭の中で、咲坂の表情と昨日の夜の空気がフラッシュバックする。


 MISAKIも気づくレベルか。


「おかしかったって、どんなふうに?」


「一言でいえば、別人?」


 え?


 まさかそこまでなのか?


 “別人”という言葉だけがやけにクリアに響いて、喉の奥に引っかかる。


「もうなんかヤバ過ぎて、スタジオ大騒ぎ」


 嫌な汗が背中からじわじわと流れ落ちる。


 それでも耳は次の一言を待っている。


「もう、恋する乙女って感じ?」


「はい?」


 出てきた言葉があまりに予想外で、間抜けな声が漏れた。


 なんだそれ?


 構えていた心の防御がふっと緩む。


「まさか……櫻井さんがんばっちゃったりしたんですか?」


「っ!」


 思わず絶句。


 胸のどこかがむず痒くて、MISAKIの顔をまっすぐ見られない。


「そうなんだ……やっぱり……」


 MISAKIの声がわずかに沈む。


「おい、なんだよ? なに急にテンション下がってんだよ?」


「よかったですね、櫻井さん」


「え? なにが?」


「とぼけないでいいですよ。上手くいったんでしょ? YUKINAさんと」


 息が喉でつかえて、返事にならなかった。


「まあ最初から分かってたんだけどね。そっか」


 その言い方が“最初から負けを知ってた側の台詞に聞こえる。


「そ、そんな寂しい顔すんなよ。咲坂に憧れとかあったんだろうけど……なに俺がそれをとっちゃうみたいな? そんなことにはならないと思うから」


「はあ? 何言ってんですか? 櫻井さんって鋭そうに見えて時々、“こいつ大丈夫か?”ってくらいバカな発言しますよね?」


 ひどい言われようだな?


 全く。


「女子高生が“こいつ”とか普通に使うなよ? さすがにそれは引くぞ?」


「いいですよ、引かれても。もう関係ないし」


 “もう関係ないし”の一言が妙に胸に残った。


「なんだよ、急につめてえな」


「あ~あ。なんか朝からテンション、ダダ下がり」


「なんだよ、俺に会ってからテンション下がったみたいに言うなよ」


 会話だけ見るといつものノリなのに、空気だけが微妙にズレている。


「そっか……YUKINAさん、いいなあ」


「え? なに?」


「いや、なんでもないし」


 MISAKIの視線が一瞬、どこにも居場所がないみたいにさまよった。


「お前、彼氏そんなに欲しいの? 咲坂に差をつけられて凹んでるとか、そこまで対抗意識あるなんてすげぇな」


「櫻井さん、ほんっとバカ!」


 そう言ってMISAKIは去ってしまった。


 なんだ?


 これはまたみんなに俺の悪口言いふらすパターンじゃん?


 まあいいけど。


 でも結局咲坂の情報はほとんど聞き出せなかった。


 さて。


 また逆井を放置してしまった。


「逆井、悪い」


 声をかけると、逆井はまだ興奮の余韻を抱えたまま振り返った。


「櫻井……マジで尊敬するぞ? 彼女、相当レベル高いだろ? なんでそんなことになってんだよ?」


「ああ、咲坂がらみでちょっと前に話したことがあっただけだ。あいつは俺のこと嫌ってるしな」


 そこで逆井の表情が、わずかに引きつった。


 まるで“わかってないなぁ”とでも言いたげな、呆れと苦笑のあいだみたいな視線だった。


「……櫻井、今ちょっと尊敬してたけど前言撤回。お前ホントそういう鈍いところ軽蔑するよ」


「なんだよ、尊敬から軽蔑って落差激しすぎ」


 俺の返しに、逆井はため息をひとつ落とす。


「ん?」


「どうした?」


「スマホの着信だ。ちょっと待ってくれ」


 え?


 なんだ?


 え? 上條社長からだ。


 俺は慌てて通話ボタンを押した。


「櫻井! 今どこにいる!」


 調子はいつもの通りだが、怒気を含んでいる。


 どうしたんだ?


「あ、今ちょうどスタジオに来てます」


「そうか。ちょうどいい、今すぐ社長室に来い!」


 上條社長はそれだけ言って通話を一方的に切った。


 なんだ?


 何があった?


 俺はまた不安感が頭をもたげ、胃がキリキリと痛くんだ。

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