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咲坂雪菜の答え合わせ

 俺は今、研究棟の二階にある田尻研究サークルの部室にいる。


 時間はまだ朝一の講義が始まる前――なんと午前八時だ。


 さすがにこの時間から好んで大学のキャンパスにいる生徒はほとんどいない。


 大学のサークル室って、時々“居場所がない人の避難所”みたいになっていたりする。


 だから朝から講義もないのにサークル室にたむろする大学生はよく目にする。


 田尻のサークルはたった四人しかいない。


 そんな場所に、朝から誰かいるとは思えないのだが――けど、小杉先輩だけは、ありそうで怖い。


 朝から一人でコーヒーを飲んでたら……想像しただけで、ちょっと背筋がゾワッとする。


 さて、なんで俺はこんな朝早くからここにいるのかと言うと――田尻の呼び出しを食らったからだ。


「呼び出しを食らった」と言うと、何か悪いことでもして呼び出されたみたいだが、もちろんそうではない。


 昨晩、俺は咲坂についに告白をし、咲坂もそれを受け入れてくれた。


 俺は歓喜の真っただ中“心ここにあらず”のまま帰宅すると――まるで俺の帰宅を待っていたかのように、抜群のタイミングでスマホにショートメールが入った。


 田尻からだった。


 “田尻だ。帰宅したな。明日、八時に研究棟二階に来るように。答え合わせをする。咲坂君は呼ばずに君一人で来るように。”


 なんだ?このメール。


 ホントに俺が家に入るのをどこかで見てたんじゃないの?


 タイミング良すぎでしょ。


 ホント怖いよ、あのおっさん。


 ……しかも答え合わせって?


 課題とかレポートなんて出した記憶ないんだけど?


 いや、そうではない。


 実は分かっている。


 話は、むろん咲坂のことだろう。


 田尻とは昨日、気まずい雰囲気のまま別れている。


 いや気まずいというよりは、俺が一方的に凹んでいただけなのだが……。


 田尻と別れたあと、小杉先輩と森内が俺と咲坂を待ち伏せしていたということは、きっと俺たちが大学を出た後の行動も田尻は予知していたのだろう。


 いや、もしかすると田尻が予知していたのではなく、田尻が描いたシナリオの上を、俺たちがただ踊らされていただけかもしれない。


 だとすると田尻はおそらく、あのあと俺と咲坂がどうなったのかも、すでに手の内にあると思ったほうがいい。


 メールにある“答え合わせ”とは、いったい何のことだ?


 ……まあ、考えても仕方ない。


 俺に田尻の思考を読み解こうなんて、絶対に不可能だ。


 ただ唯一、気になることがある。


 朝一に呼び出されたことだ。


 そもそも田尻がわざわざ呼びつけるという行為そのものが、すでに異常事態ともいえる。


 それが朝一となれば、なおさら気になるし……。


 極めつけは、「咲坂を呼ぶな」ときたもんだ。


 今度は何がはじまるんだ?


 あれこれと考えを巡らせていると、ようやく田尻は部屋に入ってきた。


 田尻は席に着くと、開口一番、意外なことを口にした。


「まずは櫻井……よかったな」


 俺はキョトンとしてしまった。


 田尻がこんなセリフを吐くとは、ちょっと想像していなかった。


 むろん田尻が“よかったな”と言ったのは、俺と咲坂の想いが通じたということを指しているのだろう。


 俺はのっけから動揺してしまったが、そう田尻から言われたのは、素直に嬉しかった。


「まあ、お陰さまでなんとか。その、小杉先輩と森内に聞いたんですか?」


「いや、何も聞いていない。彼らからは、予定通り君と咲坂君に会えたかだけを確かめた。それさえ分かれば、あとは聞くまでもない」


 田尻は、まるで当然のことのように淡々と告げた。


「じゃあ、どうして……」


「ん? どうしてとは?」


 え、どういうこと?


 なんか会話がかみ合っていない。


「いや、どうして俺の告白のことを……」


「だから言っただろう。小杉達が君と会えていれば、その先は言うまでもないと」


 いやいや、そこはもう少し事情を聞いてから言ってくださいよ……。


 それだけで“よかったな”なんて断言できるのは、あなただけですよ?


 やっぱり、本当にエスパーなんじゃないの……?


「それで、咲坂君の顔を見たか?」


「へ?」


 田尻は唐突に、意味の分からないことを言いだした。


 何を言っているんだ田尻は?


 俺はいつだって咲坂の顔を見ている。


 いや、ちょっと見過ぎているくらいだし……?


「俺の言ってることが伝わらないか?」


「はい、ちょっと俺にはついていけません……」


 田尻は少し呆れたように、鼻から一息ため息を吐いた。


「では言い直そう。君が告白した後の咲坂君の顔の変化には、気付いたのか? と聞いている」


 俺は驚きのあまり、言葉を失った。


 咲坂は、俺が告白した後、まるで無垢な少女のような顔に見えた。


 おそらく田尻は、そのことを言っているのだろう。


 でも、なぜ田尻はそれを知っている……?


「なっ、なんでそれを田尻先生が知っているんですか?」


 田尻は眉間にしわを寄せ、また先ほどと同じようにため息をついた。


「君は一から説明しないと分からないのか?」


「はい、おそらく田尻先生の期待通りには、先生の話にはついていけません……」


 というか、ついていけるやつなんて絶対いないから。


「まあいい。では君に合わせて話をしよう」


 だから最初からそうしてくれよ……。


 それから“君に合わせて”ではなくて“普通に”と言ってくれ。


「咲坂君は、おそらく君の前で少女時代の顔に戻った。違うか?」


「……」


 俺はゴクリと唾を飲み込んで、頷くことしかできなかった。


「その理由が分かるか?」


 その理由だと?


 咲坂の顔が少女時代の顔になる理由。


 咲坂の少女時代。


 ──つまりそれは、咲坂が仮面をつける前の顔ってことか。


 ということは、つまり。


「咲坂が男性の視線を感じる以前の顔、ということですか?」


「その通りだ。それはどういう意味を持つ?」


 田尻は質問の手を緩めない。


 そうか。


 もう田尻がメールで言っていた“答え合わせ”が、始まっているのだ……。


「咲坂君はなぜ君の前でそうなったと思う?」


「俺の前では仮面をつける必要がなくなった、ということですよね?」


 田尻は短くうなずいた。


「それはそうだな」


 そこで会話が一瞬、空気ごと止まった気がした。


 田尻は俺の反応を測るように、ほんのわずかに目を細める。


「それ以外の意味があるんですか?」


「そんな分かりきっていることは私はわざわざ質問しない」


 自信作の回答が秒で粉砕。


 ドヤ顔、撤回します。


「彼女は、これから少女時代に戻ってやり直すことになる」


 言葉の重さに、胸の奥で何かが揺れた。


「やり直す? 何を?」


「男性との関わりだ」


「え?今さらそんな必要ないでしょう?もう彼女だって立派に大学生としてモデルとして男女関係を築けて……」


 俺はそこまで言って言葉を止めた。


 いや、咲坂は普通の男女関係を上手く築けてはいない。


 Kスタジオの異常な関係性は言うまでもない。


 大学でもあの逆井ですら微妙な距離感で無理して話をしている。


 だからこそ彼女は悩んでいたのではないか。


 俺はおし黙ってしまった。


「櫻井……今日咲坂君を呼ばなかったのは分かるな?」


 言葉の端が、試すように響く。


 それは分かる。


 田尻は咲坂の深いパーソナルな部分を全部明るみにしようとしている。


 それを本人の前でやるのは、本人には耐えられることではない。


「君の理解に合わせてもう一度最初から話をすることにする。つまり答え合わせをはじめる」


 田尻は断片的なヒントでは俺が答えにたどり着けないと感じたのだろう。


 あらためて仕切り直して話を始めるようだ。


「はい……お願いします」


 俺は緊張の面持ちでそう答えるのが精いっぱいだった。


 ホント、レベル高すぎ。


「まず昨日、小杉と森内君との会話で君が気づいたことを言ってみろ」


 この答えはしっかり俺は持っている。


「俺は咲坂に好意を抱いている以上、中立の立場は取れない。つまりカウンセラーの視点で咲坂を救うことはできない」


「そうだ。昨日の君はそれすら気付けないほどに間違った方向に行っていた」


「はい……お恥ずかしい限りです」


「なら君はどうやって咲坂君を救うのだ?」


「俺は男女の関係性の中で。つまり彼女に一番近しい男性として彼女を救えるのではないかと、そう思いました」


 俺は癪だけど、森内と小杉先輩のアドバイスでたどり着いた結論を話した。


「う~ん……」


 田尻は眉間にしわを寄せた。


「ま、間違っていますか?」


「いや、君の理解が不十分ということだ」


 その返答に、不安がよぎる。


「な、なにが足りないのですか?」


「私が君の告白を促したのは、なにも君の恋路に協力しようということが目的ではない。それは分かっているな?」


 それはそうだろう。


 田尻が俺の恋路を協力するという理由だけで生徒の恋バナに首を突っ込むなんて到底思えない。


 俺が告白して咲坂がそれに応えることに田尻にとっても意味のあることだったのだ。


 田尻にとって。


 つまりカウンセラーとしてだ。


「はい。それは分かるのですが。ただ田尻先生がなぜそうしたのかの理由まではたどり着けません」


 田尻はそれも分からないのか?とでも言いたげな顔でまたため息をついた。


「咲坂君を救うためには君が一番近しい男性になる必要があった」


「え?そ、そうなんですか?」


 その言葉に、心臓がわずかに跳ねた。


「その理由を君が理解していないなら、君の告白に意味はない」


 田尻が言いたいのは、裏を返せば俺が咲坂の近しい男になることに“大きな意味がある”ということになる。


 俺が咲坂を救う上で、なくてはならない存在ということなのか?


 俺が怪訝な顔をしていつまでも結論に達することができないでいると、田尻は話を続けた。


「まず咲坂君は、人から注目を集める仕事をしているな?」


「ええ、彼女はモデルですから。でもそれは田尻先生も知っていましたよね?」


「そうか。咲坂君はモデル業をしているのか」


「え?先生知らなかったんですか?」


「そんなことに興味はないからな」


 その言葉はやけに乾いていた。


 全くの無関心。


「いやでもクライアントの情報は収集するのが普通かと……」


「そんなことをすれば余計な先入観で判断が鈍る。見たものだけを見れば事足りる」


 聞いたことがある。


 アメリカがかつて超能力を軍事利用したときに、能力者には一切の情報を敢えて与えなかったと。


 それは今田尻が言っている理由と同じだ。


 先入観で読み間違うと。


 というか、なんで超能力と同じ手法になってんですか?


 やっぱあなた超能力者なんじゃないの?


「ではその咲坂が注目を集める仕事をしていることに何か意味があるのですか?」


「彼女は、スカウトではなく自分から望んでそのモデルになっているな?」


 思考が追いつくより早く、背筋のどこかがひやりとした。


 この男はそれすらも分かるというのか……


「は、はい。そう聞いています」


 俺は、徐々に超人的な田尻の分析に引き込まれていく。


「櫻井はそのことから何を想像する?」


「単純に考えれば、“人に見られたい願望”を満足させるってことでしょうか」


 昔、上條社長から聞いた持論が脳内再生される。


 上條社長は“女性は誰でも見られたいものだ”というようなことを言っていた。


「そうだ。しかし咲坂君の性格を考えたとき、目立ちたいという理由でモデルになったということに違和感を感じないか?」


「はい。咲坂はむしろそういったことは嫌うタイプに見えます。そもそも今は人目に苦しめられていますから、ちょっと行動に一貫性がないような……」


「ではその一貫性がない行動を起こしている理由は?」


 確かにそうだ。


 咲坂の行動はどこか“ちぐはぐ”になっている。


 自分から視線を浴びせられやすい環境に飛び込んで、その裏で自分は人の視線に苦しんでいる。


 なんでそんなことになっているのだ?


 俺達が慣れ親しんだ表現をするならば、本人の自覚がない行動。


 つまり無意識にしてしまっている行動が咲坂自身の思惑と齟齬を起こしている。


 簡単に言ってしまえば、自分では気づいてはいないが、自分から問題を招き寄せている。


 咲坂の行動は、なんでそんなことになっているのだ?


「女性は誰でも見られたい願望を持っている」


 ふいに田尻は、さっき俺が脳内で再生した上條社長と同じセリフを吐いた。


「そうですね。それは普通のことだと思います」


「しかし、咲坂君はそれを無理やり抑え込まなければならない時期があった。違うか?」


 そうだ。


 咲坂はおそらく少女時代に男性の目を恐れて、男との接触を一切断っていた時期があったと聞いた。


「櫻井。昨日君が見た咲坂君の顔を思い出してみろ」


 昨日見た咲坂の顔。


 俺の胸で泣き続けた時に見せたあの表情。


 それは、少女時代の咲坂の顔だ。


 頭の奥で、点と点がゆっくりと線で結ばれていくのを感じた。


 なんと――そういうことか。

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