夢で泣き続ける咲坂に、俺の声は届かない
昨日、咲坂が見せた悲痛な表情が頭から離れなかったからだろうか、朝方悪夢に魘されてしまった。
咲坂が、悲痛な顔をして泣き続けている。
下を向いて、ただただ涙を流している。
俺は彼女に必死に何かを訴えている。
でも咲坂に俺の声は全く届かない。
咲坂!笑ってくれ!
夢の中で俺はそう必死に訴えていた。
笑ってくれ!
咲坂!笑ってくれ!
笑ってくれ!!
しかし俺がどんなに必死にそう叫んでも彼女は下を向いたままただただ泣き続けている。
「咲坂!!笑ってくれ!!」
と、最後に渾身の大声を出したら生身の俺の口から実際に大声が出てしまい、俺はその自分の声にびっくりして目が醒めた。
俺は汗だくになっていた。呼吸まで荒くなっている。
その夢のあまりのリアルさに、俺は精神的にかなりのダメージを受け「ぐったり」としてしまった。
このまま咲坂のあの顔を気にし続けると俺のメンタルがどうにかなりそうだ。
頭を切り替えよう。俺が前向きにならなくては、それこそ咲坂から真の「笑顔」を引き出すことなんか到底できないではないか……
俺は強引にテンションを上向きにして呼吸を落ち着けてからようやく枕元に置いてあるスマホで時間を確認した。
「はあ、もう八時か」
そう呟きながら重い気持ちを振り切ってベッドからなんとか起き上がり、ようやく洗面所に向かった。
* * *
大学に着いてからキャンパスの喧騒に紛れ、いつもの空気感にさらされると少しだけ気分は上向きになって来た。
俺は「第二外国語」の講義を受けるためにC棟の2Fに向かった。
悪夢で寝坊したため、開講ギリギリでなんとか教室に滑り込むことになった。
俺の選択する第二外国語は「スペイン語」だ。
そういえば第二外国語の選択について、一度咲坂と話をしたことがあった。
* * *
「咲坂は第二外国語ドイツ語だっけ?」
「そうだよ、義人はなんでスペイン語なの?」
「お前知らないの?スペイン語は、母語話者数においては世界で3番目だぞ?グローバルを目指すならスペイン語だろう?」
「え?グローバル? 義人は具体的に世界の何を目指しているの?」
まあ俺もグローバルなんて言ったものの、具体的なビジョンなんて全くなかったから、その返答に言い澱んでしまった。
ただ、高校時代に狭い世界で小さくまとまろうとしていた自分を大いに反省し、「グローバル」という響きにインスタントに飛び付いて「意識高い系」を気取りたかっただけなのだ。
俺が咲坂の問いに答えられずにいると、咲坂は続けた。
「心理学もそうだけどアカデミックな分野なら英・独・仏がリードしてるのは知ってるでしょ?なのにどうしてスペイン語?」
いや、そんな話、俺は知らないから。
「ああ、そうだな」
と知ったかぶって誤魔化したが、かなり情けないではないか。
「だから心理学の文献数でいうとドイツ語、フランス語に比べてスペイン語は圧倒的に少ないはずだけど」
清々しいまでの残酷さで、俺の薄っぺらいグローバル理論をバッサリ切り捨てた。
なんだよ、その意識高すぎる感じ? 俺の選択理由が残念な感じになっちゃったじゃないか。
大学一年から学問的知識を深めるために原典まであたろうとするなんて咲坂ぐらいだっての。
まあ、咲坂雪菜。ホントあんた凄いよ。
咲坂という女性は俺みたいな中途半端な人間では到底及びもしないとつくづく思う。
俺が得意なはずの心理学でも、おそらく適わない。そしてすでにモデルという芸能界で活躍し、そこでも一流ときてる。洗練されたその美しさはMISAKIのような同性モデルすら憧れる存在だ。
咲坂は俺に対していつも普通すぎるほどに普通に接してくれるので、ついそのことを忘れてしまう。
しかしこうして彼女のいないところで彼女を客観視すると、未だに咲坂と俺との関係性が明日にでも終わってしまう夢幻のように思えてしまう。
ましてや、今朝のような夢を見てしまうと、余計に不安が募る。
今日は精神的に疲れているのか、ネガティブな妄想が後から後から沸き起こり、なかなか講義に集中できず、心ここにあらずで講義を聞き終えることになった。
俺は生あくびをしながら教室を出た。
「あ、義人!」
「え? 咲坂?」
「よっす!」
咲坂は満面の笑みを湛え、廊下で俺のことを待っていてくれた。
俺の落ち込んでいたテンションは、この笑顔で一気に上がってしまった。
「義人、この後の講義は?」
「五限に文化人類学があるな」
「あ、じゃあ私と同じだね……五限まで時間あるから外に食べに行こうか?」
「お、おう。駅前でいいよな?」
きっと咲坂は咲坂で、昨日俺に落ち込んだ態度を見せてしまった負い目から、ことさら明るくふるまっているのだろう。咲坂はこういう気づかいができるやさしい女性だ。
ただただ、自分のことばかり悩んでいた俺は、こんな咲坂の姿を見てまた自己嫌悪に陥る。
咲坂は入学当初に比して、最近は大学の講義に積極的に出席している。本人曰く、上條社長の提案で仕事のシフトを調節して大学を優先するようにしてるとか。上條社長も咲坂の今の働きづらい環境が改善するまではそうした方がいいとジャッジしているのだろう。
大学に多くいるようになった咲坂だが、たまに講義を同じくした女子生徒といることはあっても、俺以外の特定な友だちと歩いている場面にあまり出くわさない。俺の前で見せる彼女のキャラクターからすれば人づきあいが苦手という印象は全くないのだが、他ではどうやらそうではないらしい。
むろんテニサーはもちろんのこと、オールラウンド系のサークルにも結局入ることはしなかった。咲坂に会って間もないころは「当然入るだろう」と思ってヤキモキしたこともあったが、今にして思えば「絶対入らないだろう」と思う。まあモデルの仕事もあるから、そんな暇はないということもあるだろうが。
だから必然的に、咲坂は学部・サークルを同じくする俺といる時間が長くなる。
「お前ら、まさか付き合ってないよな?」
逆井は、俺と咲坂が話しているのを見つけて、また絡んできた。
実は最近、
逆井のこのツッコミは飽き飽きした光景になってきている。
全く、咲坂に近づきたいという下心見え見えなんだよお前は。
俺も咲坂も、逆井のこんな言動にも慣れてしまって別段に動揺はしない。
「お前、肯定されたらどうしようって不安が顔に出てるぞ?」
「また、お前やなやつだな、顔色とかすぐ読むなよ? そう思わない? 咲坂さん」
「そうね」
咲坂は逆井の前で見せる、いつもの張り付いたような作り笑顔でそれだけの返事をする。
そしてその後すぐに、咲坂は横目で意地悪そうに笑った。その笑顔は、一瞬前に逆井に見せた笑顔とは似ても似つかない自然な笑顔だった。
「でも、櫻井と咲坂さんが付き合ってると思ってるヤツ、結構いるぞ?」
そう逆井が言った。
最近は俺と咲坂は付き合っていると勘違いしている人がチラホラいるらしい。
俺のような平凡大学生が、咲坂という天上人とそう簡単に付き合える訳ないと思うのだが、人の想像は思ったよりたくましいようだ。
咲坂の耳にもそんな声は届いているはずだが、彼女はどう思っているのだろう?
今、逆井にそう言われても、咲坂は動揺する気配はない。
取るに足らない噂話と無視しているのか、俺なら勘違いされてもかまわないと思っているのか? 俺はもちろん後者であってほしいのだが。
どちらにしても、咲坂が俺と付き合ってると思わせることで、咲坂にちょっかいを掛けてくる男は減ってるのも事実。咲坂が意識的に俺の存在を利用しているとは思えないが、そういった意味で俺は咲坂の都合のいい「隠れ蓑」になっている。
まあ他の男どもにちょっかい出されたくないという俺の利害と一致するから、そこはまさにWIN-WINで大いに結構なんだけどね。
そんな他愛もない会話を三人でしていたが、しばらくして逆井は、用があると言ってどこかへ消えていってしまった。
咲坂へ好意を寄せる逆井なら、強引に「俺も昼飯、一緒に!」と言ってきそうなものだが、逆井はそれをしない。かといって俺と咲坂に気を使ってる訳でもないだろう。
最初に比べて随分と距離は縮まったが、それでも咲坂と逆井は、どこか他人行儀で、会話でも「しらじらしい」何かを感じる。逆井はそこに居心地の悪さを感じるのだろう。そう、さっきの咲坂の作り笑顔を思えば、二人が真にリラックスして会話をしているようには見えない。だから逆井はいつも絡んでくる割に、すぐにそそくさ、逃げるようにどこかへ行ってしまう。
咲坂は自分の「魔性」を警戒して、逆井ですらことさら距離をとっているのだと思う。
そんな咲坂の普通でない人との付き合い方を目の当たりにすると、また俺の心は乱される。
はからずも二人になった俺と咲坂は、昼食をとるためにT駅前のファミレスに入った。ファミレスをチョイスしたのは五限まで時間がたっぷりあるので、ここでそれまで粘ろうという魂胆だ。
ファミレスでは時に心理学の、時にファッションの(これはほぼついていけないのだが)、時に大学の講義について、たわいもない会話をしながら時を過ごした。そして何度もおかわりしたドリンクバーのコーヒーにも飽きてきたころ――
突如、話しかけてきた女性がいた。
「あれ? もしかして雪菜ちゃん?」
「さ、坂田さん」
咲坂は大きく目を見開き、驚きのあまり固まってしまった。
俺は……咲坂の驚きの表情に……少しばかり緊張した。




