俺は“怪物”の出現に、圧倒された。
俺がこのK大学を受験したのは、田尻明彦という深層心理学者の講義を受けたいがためだった。
しかし俺としたことが、その田尻が研究サークルを持っていることを知らず危うく田尻サークルに参加し損ねるところだった。
しかし間一髪、その情報を俺にもたらしてくれたのが――咲坂雪菜だった。
彼女は俺以上に深層心理学を幅広く勉強しており、田尻の師匠筋にあたるミンデルの難解な原典まで読破するエキスパート。
正直、俺は田尻という超マイナーな心理学で話が通じる相手なんか大学にいる訳ないと諦めていた。
だから一人で黙々と勉強すればいい、そう思っていた。
だからこそ、俺にとって咲坂の存在は、それだけでもう十分すぎるほどの奇跡だった。
それなのに咲坂雪菜という女性は――
ファッションになんの興味もない俺ですら、その名前を知っていた人気モデル“YUKINA”だった。
その完成された美しさは、モデル界でも一目置かれるほど。
俺にとって見れば、こんな出来過ぎた奇跡はありえない。
“異常事態”――そう表現しても、決して大袈裟ではないだろう。
そんな咲坂と「一緒に田尻のサークル説明会に行こう」と約束した。たったこれだけのことで舞い上がっていた。
これが二週間前の話。
しかし事態は思いもよらぬ方向へ動いてしまった。
こともあろうか彼女の深いパーソナルにまで首を突っ込むことになってしまったのだ。
「一緒にサークルに行ける」と狂喜していたころの俺が、たった二週間しか経っていないのに、遠い昔のように懐かしく思えてくる……。
最近では咲坂から普通に着信が来るようになった。
さっきも――
「今日、説明会、何時に待ち合わせする?」
と、その田尻の説明会の待ち合わせを確認する電話が咲坂からあった。
最初のころは毎回ドギマギしていたが、もうそれもなくなった。
「午後は三限で終わるから、A棟のカフェで時間つぶしてるよ。咲坂は?」
「私は三時まで仕事。それから大学に向かうから……カフェで待ってて」
高校時代の俺なら、これだけで「これってもう付き合ってるよね?」なんて一人大騒ぎして、一生大事にしてしまいそうな胸熱エピソードだ。
だが今はこれが日常風景。
どうやら人間というのは、どんな“異常事態”に遭遇しても簡単に環境適応するらしい。
田尻のサークル説明会は17時スタート。説明会の場所は研究棟2Fの少し広めの会議室が指定されていた。
その研究棟は、理系の実験棟が並ぶ一角にある二階建ての小さな建物だ。理学系や工学系の七階建てのモダンな実験棟に比べると、どうしても見劣りする。
きっと理系が強いこの大学では、心理学の研究棟はまるで日陰者のように片隅に追いやられているのだろう。
俺と咲坂はカフェで落ち合ってから、二人でこの研究棟に向かった。
田尻というマイナーな心理学の研究室にはたして人は集まるのだろうか。
俺は、おそらくそんなに多くはないだろうと予想していた。
最悪、俺と咲坂二人だけという可能性もゼロではない。田尻フリークの俺ですらこのサークルの存在を知らなかったのだから、情報を拾えた学生はごく少数に違いない。
「義人、何人くらい来ると思う?」
咲坂も同じことを考えていたらしく、歩きながらそう尋ねてきた。
「まあ、多くはないだろうな」
「だよね。でも来るメンバーがいたとすれば、私たちと同じように興味ある人たちだよね?」
「それは期待していいと思う」
なんとなくでこのサークルを選ぶ学生はいない。
俺としても田尻というマイナー学問を語り合える仲間が増えるのは嬉しいことだ。
きっと咲坂だってそうだろう。
さて、会議室に入ると、なんとすでに二人のメンバーが椅子に座って待っていた。
おお、いた。俺たち以外のメンバーが。ちょっとした感動。
男女一名ずつ。お互い離れた位置に座っているので顔見知りではなく、別々に来たのだろう。
「どこにでも座りたまえ」
俺たちを見て、いきなり上から目線で話しかけてきたのは男子の方だ。
長身だが痩せすぎの体形でメガネを掛けている。その容姿は否が応でも神経質そうな印象を与えた。そしてなにより、初対面で空気を読まないパンチの効いた物言い。髪も中途半端に伸びてぼさぼさ。外見的には典型的なインドアキャラ――別名オタクである。
かたやもう一人の女性は、俺と咲坂の顔をいきなりジロジロ見てから、満面の笑みを浮かべた。
えっと、何を想像したんですかね、あなたは?
彼女は黒髪のロング。地味な印象だが肌の白さは咲坂といい勝負。日本人形のような品の良い美しさがある。普通の大学生という基準では十分に「美人」のカテゴリーに入るだろう。ボーイッシュでスポーティーな印象の咲坂とは競合しないタイプの美人だ。
メンバーはこれだけだろうか。
予想はしていたが、マンモス校でもあるK大学の生徒が四人しか集まらないなんて……さすがに田尻も凹むんじゃないだろうか。
しばらくして田尻が姿を現した。
田尻は何度か授業で見かけている。ただ、こうして至近距離で見るのは初めてだ。最近は咲坂に頭の大半を占領されて田尻の存在は隅に追いやられていたが、俺にとって田尻は憧れの存在だ――って、隅に追いやってたのかよ?さすがにそれはまずいな。
田尻はざっと四人の顔を確認してから、正面の椅子に腰を下ろした。
「四人か。多いな」
田尻はそう呟いた。
なんだよ、その“集まってほしくなかった”みたいな言い方は?田尻が凹むどころか、俺の方が先に凹んだぞ。
田尻はややスリムな体形で、背もそれほど高くない。パッと見はどこにでもいる中年男性だ。歳は確か五十歳前後だったと記憶している。
だが、先日の講義では気付かなかったが、この至近距離で初めて気づいた。田尻は異常なほどに表情が動かない。まるで能面のように。
そのくせ、眼だけは鋭く俺たちの動きを捉えている。
背筋に寒いものを感じた。
全てを見透かされているのに、相手の表情はまるでロボットのように何も読めない。そのアンバランスさが気味が悪く、恐ろしい。
先に会ったKスタジオの上條社長も恐ろしかったが、田尻の恐ろしさはまったく別種だ。
「ここに来たってことは、私のプロフィールは皆だいたい把握してるんだよね?」
田尻は淡々とそう言い、俺たちの反応を観察するように視線を滑らせた。
俺たちはお互い顔を見合わせ……最後に全員が頷いた。
「オーケー。じゃあ、先に君たちの自己紹介をしてもらおうか」
――始まった。
俺は瞬時に警戒した。
これは、ただの自己紹介じゃない。
“何かを仕掛けられる”――そんな予感が走った。
しかしその刹那、田尻は俺に視線を向けた。
「君は?」
「え? さ、櫻井です」
いきなり話しかけられて面喰った。
「櫻井君。そういう構えはなしにしよう。これは純粋な自己紹介だ」
っ……!? な、なんだ?
もしかして今、俺の思考を読んだ?
今の間で何を感じ取った? エスパーかよ?
「じゃあ、せっかくだから君からいこうか」
田尻は間髪を入れずに追い打ちをかけてきた。
完全に主導権を握られている。
俺は反射的に姿勢を正し、無難に自己紹介を済ませようとするが――声がわずかに裏返った。
「えっと……櫻井義人です。心理学部の一年で……田尻先生の講義がきっかけで……」
途中で自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
しかも田尻は表情一つ変えない。
まるで無機質な鏡の前で独白している気分だった。
ようやく自己紹介を終えた俺は、どっと疲れた。
勘弁してくれ。
のっけから俺のメンタル、ボロボロだぞ?
そんな俺を見て、咲坂はニヤニヤと笑っている。
なんですか、咲坂さん? 人の苦しみを見ると楽しくなるドSなんですか?
次に、ヒョロメガネの男が自己紹介を始めた。
名前は小杉健一。心理学部の二年。
先輩か。確かに田尻の講義では見かけなかった。
黙々と自分の話を続けるタイプで、空気を読まないテンポといい、安定のオタクキャラだ。
田尻は相変わらず能面のような顔で微動だにしない。
それでも小杉先輩は意に介さず話を続ける。
――ある意味、すごい精神力だ。
場が緊張しているとき、こういう「ちょっと残念な自己紹介」があると、次の人がだいぶ楽になる。
俺も小杉先輩の後がよかったな……今日の俺、持ってない。
続いて和風美人の女性が自己紹介を始めた。
名前は森内美幸。文学部の一年。
見た目に反して、ガチのオカルトマニアらしい。
前にも触れたが、田尻にはオカルトファンが多い。
彼女は自分の趣味を隠すことなく、偏った持論を自信満々に語った。
その姿勢、むしろ清々しい。
田尻は全く反応しない。だが彼女はめげない。
和風美人なのに、なんて男前。
最後が咲坂。
彼女は自分がミンデルに傾倒していること、ここで何を学びたいかを理路整然と語った。
俺は改めて思う。咲坂はやっぱり特別だ。
田尻は依然として能面のままだが、咲坂の印象は決して悪くないはずだ。
ここまで完璧に自己紹介されると、他のメンバーはやりづらいだろう。
でも俺は心底思った。咲坂が最後でよかった。
小杉先輩と森内さんはそんな空気を気にはしないだろうが……俺は違う。
こう見えてチキンなんだよ。
説明会は、今後の活動内容とスケジュールを中心に淡々と進められた。
要は、サークルというより田尻の特別講義を少人数制でやるというスタイルだ。
大学のサークルにありがちな遊びの要素は皆無。
表情からは何も読み取れないが――田尻は意外に真面目な男だと思う。
説明会は三十分ほどで終わった。
俺と咲坂は席を立ち、出口へ向かった。
だがその瞬間――
「咲坂君、ちょっと時間あるか?」
田尻の低い声が、背中に突き刺さった。
ん? なんだ?……
田尻のことだ。美女の咲坂を食事に誘うような軟派な真似をするタイプではない。
考えを巡らせていると、ふと嫌な予感がした。
田尻……もしかして気づいたのか?
そう思った瞬間、全身の毛が逆立った。
自己紹介のとき、俺の思考を一瞬で見透かした読心術。
咲坂の周囲を惹きつける“魔性”――あの引力に気づかないはずがない。
そこまで想像した俺の顔色を、またもや田尻は見逃さなかった。
「彼は一緒の方がいいかな?」
間髪を入れず、咲坂にそう尋ねた。
どうしてこの一瞬で、そこに辿り着ける?
俺と咲坂の関係性まで――この人、全部見えているのか?
俺は息を呑んだ。
田尻の表情は、依然として能面のまま。
咲坂は何が起こったのか分からず、困惑した表情で俺の方を見た。
そうか、彼女はまだ何も気づいていない。
自分がなぜ呼び止められたのかも、俺の内心が読まれ続けていることも。
だからこそ、ここは俺が冷静でいなければならない。
「あ、俺はいいです。必要なら後で本人に聞きます」
咄嗟に、俺はそう言って同席を辞退した。
田尻は俺を一瞥し、わずかにまぶたを動かした。
「そうか」
その一言。感情の欠片もない声だった。
それなのに、なぜか心の奥を握られたような感覚が走る。
「先生、長くなりますか?」
俺は努めて平静を装いながら尋ねた。
「十分程度だ」
「分かりました……」
「じゃあ、咲坂、下の自販機の前で待ってるから」
「え?……う、うん、分かった」
訳も分からぬまま、咲坂はそう答えるのが精いっぱいだった。
俺が想像していたイメージと違う。
田尻……とんでもない怪物だ。
俺は会議室を出ても、震えが止まらなかった。




