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俺は、彼女の巣の異常に触れた。

 咲坂という異次元が日常に入り込むことで起こす奇跡の場面は何度も見てきた。


 初めての田尻の講義。


 キャンパス内で。


 渋谷の雑踏の中で。


 どこにいても咲坂は注目の的になる。


 ただそれはどこまでいっても、彼女の人間離れした美しさを持ってすれば「それりゃそうだよね」という納得のいくものだった。


 ただ、咲坂がスタジオに入った瞬間のスタッフの視線は――


 今まで見てきた視線とは明らかに違った。


 この空間にいる人間は皆、咲坂の一挙手一投足に過度な注意を払っているように見えた。


 それは彼女が美しいからとか、そんな単純な理由で説明できるものではなかった。


 その視線にはどれも気味が悪いほどの粘度を伴っていた。


 その視線がこのスタジオの空気そのものを気味が悪いものに変質させているように感じた。


 そして次の瞬間、その「気持ち悪さ」とは別の“ひりついたような感情”が鋭く立ち上がるのに気付いた。


 俺がそれに気づけた理由は明白だ。


 そのひりついた視線が、すべて俺に注がれたからだ。


「怪訝な表情」「驚き」「不快感」「明らかな敵意」。


 観察できた視線の表情は、ざっとそんなところだろうか。


 初対面なのにここまで一斉にネガティブな反応をされると、さすがに凹むな。


 俺って全員の視線を集めるほどに強キャラだっけ?


 違う。


 この視線は俺自身が作り出したものではない。


 幸か不幸か、俺はそこまで強い印象を与えられる人間ではない。


 つまり――


 この異様な反応を生んでいるのは、俺ではなく「咲坂」だ。


 YUKINAの隣にいる男。


 そのことが、俺への視線を作り出していた。


 そんな視線の中にあって、ことさら強い「敵意」を放っていた二十代半ばと思しき男性が、早速咲坂に近づいてきた。


 その男性はそこそこ見栄えはいいのだが、どこか醸し出す雰囲気が中途半端に見えた。


 だから彼はモデルという訳ではなく、スタッフ側の人間だろうと想像した。


 俺たちに近づいたその男は、まず俺を睨むように一瞥して、その視線を頭の先からつま先まで舐めるように滑らせた。


 この失礼な視線に俺はカチンと来た。


 それから明らかに俺を意識した、ことさら馴れ馴れしい態度で咲坂に話し始めた。


「YUKINAちゃん、ゴメンね、急に呼び出して。昨日のチェックでもう何カット欲しいって話が出て、大学の講義あったんでしょう?」


 俺に向けていた敵意の視線が咲坂へ向いたとたん、女性に媚を売る気持ち悪い視線へと豹変し、鳥肌が立った。


「いえ、大丈夫です……」


 咲坂は先ほど見せた、薄ら寒い作り笑顔のまま一言で対応した。


 この男が“あからさまに”俺への敵意を見せたので、咲坂が、不安げにチラリと俺を見た。


 このKスタジオの異様な視線の全体像はまだつかみ切れていない。


 しかしこの男のリアクションの意味は簡単だ。


 咲坂への好意。


 だから一緒に入ってきた男の存在を疎ましく思った。


 ここで働く見栄えのいい男性モデル相手にするならいざ知らず、俺のような普通の大学生相手にそんな露骨な敵意を見せるとは情けない。


 俺ごときの存在を脅威に感じてる時点で、この男性と咲坂との距離なんて吹けば飛ぶレベルってことだ。


 俺を意識してことさら咲坂に馴れ馴れしくする様子からは痛々しさしか感じられない。


 それに目の前にいる咲坂の冷たすぎる対応を見れば分かりそうなものだが。


 そんな空気すら読めない。


 だから俺もさっきからこの男の態度にイラついていたので売られた喧嘩を買ってしまった。


「YUKINA? おまえ朝から大学で忙しいのに無理やり時間作ってきただろ?遠慮しないで言えよ」


 普段は簡単にYUKINAなんて呼び捨てにできないが、こうなれば関係ない。


 俺はことさらに馴れ馴れしい口調でそう言い放った。


「よ、義人! な、なに言って……」


 咲坂は今まで頑なにキープしていたよそ行きの笑顔が、一瞬で瓦解した。


 頬が真っ赤に染まり、絶句したまま俺を睨む。


 ――両目を見開いて“マジで信じらんない”って顔。


 フフ、咲坂、そのリアクション、ナイスだよ。


「ってか、YUKINAって仕事場だとこんなに良い子ぶってんだ?ウケるんだけど?」


 気心知れた学生同士の軽い会話。


 そして恐らくここでは見せることのない咲坂の素の表情。


 それを引き出した俺の存在が、咲坂を意識している男にとって面白いはずがない。


 露骨に不快な表情をしたその男は、ギリギリと歯ぎしりするように顔をしかめた。


「彼は? ……関係者?」


 部外者は入ってくんな――そんな抗議のような声。


 まあ、その通り俺は完全な部外者だが、大学生相手にムキになるなって。


 この反応を見る限り、こいつが咲坂にそれほど影響力を持っているとは思えない。


 無視していいレベルだ。


 モブはモブの役割に徹してください。


「す、すいません。彼は大学の友人で、例の件で連れてきました」


 咲坂はあたふたとしながらそう答えたが、俺はこの時の咲坂の言葉にはひっかかりを持った。


「え? なんだって?!例の件? 彼がそうなのか?」


 男は急に目の色を変えて、再び俺を見た。その視線は、さっきとは比べものならないくらいに強く、まるで憎悪をまとっているかのようだった。


 ――例の件?


 なんだそれ、俺なんも聞いてないんだけど?


 咲坂はバツが悪そうに目を逸らし、すぐに言った。


「じゃあ、野本さん、後程」


 そして俺の腕を掴み、逃げるようにその場を離れた。


 ナチュラルに俺の腕を掴む咲坂を見て、その男はさらに苦々しい顔をした。


 案の定、スタジオ端まで俺を引っ張っていった咲坂は俺を睨みつつ口を開いた。


「義人! イキナリ何してんのよ!?」


 だよね?


 咲坂は怒り心頭という感じだ。


「いや、なんか喧嘩売られちゃったみたいだから」


 俺はとぼけてのたまわった。


「誰が喧嘩売ったのよ!?」


 そんな俺のなめたリアクションが油を注いだようでさらにヒートアップしてしまった。


「お前も気付いてハラハラしてたじゃん?」


 そう、確かにあの時不安げに俺をチラ見していた。


「もう、あの人ちょっと面倒だから余計な刺激与えないでよ」


「面倒とか言われちゃったよ。可哀そうに」


「もう! ふざけないでよ!!」


 咲坂は結構マジにむくれてしまった。


「わ、悪かったよ」


 悪気がなかった──訳ではないから、平謝りしかできない。


「ホント焦った。義人イキナリ飛ばし過ぎ」


 咲坂の本気の怒り目でぎろりと睨まれた。


「ははは」


 俺は咲坂の圧に押されて情けなく笑うしかなかった。


「今日は静観してくれればいいから。あんまり先走らないでよ。なんかちょっと不安になって来たんだけど」


 さて、咲坂は気づいているのだろうか?


 咲坂は俺との会話で動揺し、感情豊かに怒りを露わにし、顔を紅潮させてまで俺に対してマジ切れしている。


 そんな姿を見たスタッフたちが驚きの表情をしていることに。


 それはまるで“こんなYUKINAを見たことがない〝とでも言いたげで、スタジオの空気全体が凍りついたのかと錯覚するほどだった。


「おい落ち着けって。なんか、みんな見てるぞ、お前のこと」


 俺にそう言われて咲坂は、ハッとして周りを見た。


 視線に気づいた咲坂は顔を引きつらせながら下を向いてしまった。


 咲坂は少し深めの呼吸を数度しながら気持ちを落ち着けているようだった。


「もう、義人のせいだからね」


 咲坂はまだ俺を許してくれないようだが、それでもKスタジオに入った直後の張り付いた笑顔を見るよりも、こんな感情を露わにした咲坂を見る方が何故か安心する。


「で、例の件ってなんだよ? 俺なんも聞いてないんだけど?」


 俺はさっきから気になっていたことをようやく口にした。


「だから義人が焦らすから、余計なこと言っちゃったじゃない」


「余計なこと?」


 咲坂は、言葉を選ぶように視線を泳がせた。


「私のマネージャーの件なんだけど」


 咲坂からは全く想像していなかった言葉が出てきた。


「マネージャー?」


 俺という存在とマネージャーという言葉を繋ぐイメージが全くわからない。


「私のマネージャーがね、なかなか続かなくて。事務所でも問題になってるの」


 咲坂が言いたくないことを無理やり話していることは理解できた。


 本来は俺なんかに語りたくない内容なはずだ。


 だから俺も深くは聞きにくい。


「なんか理由でもあるのか?」


 恐る恐る尋ねてみる。


「その……」


 また咲坂の目が泳いだ。


「言いたくなければ言わなくてもいいぞ」


 彼女の辛そうな表情にいたたまれなくなって助け舟を入れた。


「いや、いいの。私が義人をまきこんじゃったから」


 俺がマネージャー問題に巻き込まれた?咲坂の言葉にだんだん俺も不安になってきた。


「どのマネージャーもね、みんな一線を越えちゃうの」


 なるほどな。


「みんなお前に惚れてしまうってことか」


 その理由は明白だ。


「……まあ、そんな感じ」


 軽く頷く咲坂の横顔には、ほんの少しだけ諦めが見えた。


「でも芸能界なら、そんな話、珍しくないんじゃないの?同性にするとかでいいんじゃないの?」


 安直な提案なのは分かっているが、思ったままを口にした。


「うん、でも女性も最終的に、私との仕事を敬遠するの」


 俺はその理由が分かりすぎてしまい、眉間を寄せてしまった。


「その様子だと、理由は想像できてるみたいね」


 咲坂は少し寂しそうにそう言った。


 まあ、これだけ周りの男性の視線を集めてしまうのだ。


 誰が隣に立とうがその女性はみじめにならざるを得ない。


 おそらくは咲坂が隣にいる限りその女性マネージャーに視線を送る男性は誰一人いない。


 咲坂は息を詰め、続けた。


「だから“安全な”マネージャー候補を探してたの。つまり、あなたはその安全な候補ってことに、咄嗟にしたわけ」


「はあ?何言ってんだよ。ごまかすにしても大学生の友達にそれは無理あるだろ?」


 そして、サラッと“安全”とか恋愛対象外宣言されてて、地味に傷つく俺。


「そ、そのことなんだけど」


 咲坂はさらに困った顔をして言い淀んだ。


「まだなんかあるのか?」


「そのマネージャーなんだけどね……」


 咲坂は、俺から視線をそらしながら、小さな声で続けた。


「――マネージャーを私の彼氏にしたら? って話が出てたの」

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