3-2
実体登校義務が制定されている、世界的にも有名な私立明鏡学園――。
実体を健全と考える者は多くおり、そう言った学校は現在も求められていた。
だからこそ、わざわざルールを設けて義務とされている。
明鏡学園の敷地には幼稚園から小学校、中高一貫校、そして大学と大学院がある。着用の義務は高校までだが大学にも制服があり、歴史の重みを感じさせる伝統ある学園だった。
富裕層の多い非戦闘指定都市である事からも想定が出来るように、通常の私立学校と比べても学費は異様に高く設定されている。実体で過ごす上での最新鋭システムが常備されており、快適な学生生活を送れるようにセキュリティーも充実し、システムの点検も頻繁に行われ、要人警護に匹敵する程の安心出来る環境となっていた。
「失礼します、椎堂颯樹です」
自動開閉の扉を潜り、礼儀正しく頭を下げる。
「はい、お待ちしておりました。どうぞお掛けになって下さい」
僅かな緊張感を保つ女性に促され、颯樹は彼女の対面に腰掛けた。
清潔感あるショートの黒髪に、地味でもなく派手でもない身形。社会人の女性として無難な姿であり、どの年代からも受けの良いであろう模範的な女性だった。歳は分からないが、今や外見など金さえあれば生涯保つことができるらしいので、二十代後半に見えるこの女性も実は三十代、もしくは四、五十代の可能性すらあるのだろう。
「帰国時にトラブルに巻き込まれたと聞いておりますが、大事有りませんでしたか?」
「はい、幸いなことに尾を引くような問題にはなりませんでした」
そうした社交辞令のような会話を幾つか経た後、彼女から自己紹介を受ける。
一つの講義に人数が集中する事などを避ける為にクラスが細分化されており、成績の配布や連絡などを円滑に行う為、担当教員も当てられており彼女がその担当らしい。教授や准教授ではなく、学園に就職した業務担当教員である。カウンセラーの資格を有し、学生生活での様々な疑問にも答えてくれ、望まれれば補講や補習を行える程の知識もある、学生ケアを目的に置かれた教員である。因みに平均的な学校では、人造人間や集積情報体を同期させるなどして、一人の教員がより多くの学生を扱えるようにするものだが、これらは実体を重視した学園の理念から外れるという理由で、学生生活に関わる部分にはコストは度外視にして、基本的に実体同士の接触が徹底されているようだった。
「――では、諸事情から入学式に出席できなかったとのことですので、今一度オリエンテーションを兼ねて説明致します。事前に送付された資料には――」
遅れた分も取り戻させようという配慮なのか、担当がホロを表示して熱心に説明する。
勿論、颯樹の事情は設定に過ぎない。
学生と聞いてはいたが、璃世は高校ではなく十五歳で大学に進学したらしく、手回しもあって颯樹は彼女と同じ学部学科へと入学する事になった。
既に二十歳である颯樹が璃世と同学年では現役合格ですらない事になるが、僅かな年齢差による学校生活の弊害は、颯樹の居た時代の日本ほど存在していない。璃世のように飛び級している学生は多く入り交じっているし、加えて、中高生時から一、二年遅れで入学する事も珍しくないらしく、同学年で優位性を保たせるため親が敢えて遅らせる場合すらあると言うのだ。
大学の卒業も難しくなっており、留年する者がざらに居る事もある。社会に出てからスキルの必要性を痛感し、新たな大学に通い直す者が居る事もある。
これら全て国際化が進んだ影響なのだろう。
道中に中高生らしき者達も目にしたが、統一された制服には颯樹の記憶にある日本らしさを想起させられたが、髪色や着こなし方にはあまり統一感が見られなかった。校則違反になっていただろう装飾類も、当然のように身に付けている者も多く居た。
外見から見た人種も様々であり、日本国籍を持つ者かの判別も、今や氏名に漢字が含まれているかの有無などで判断するしか無いのかもしれない。
「――以上です。何か質問はありますか?」
「はあ、いえ……特にありません」
問題や覚える事が多過ぎて、何を訊くべきか分からなかった。
当時、高校を辞めたのは一年生時なので、大学の勉学に付いていくにも覚悟が必要だろうし、その内容まで大きく変わっているらしく、自分が入学した生物学に属する学科もまだよく分かっていない。
「えーと、とりあえず、このまま所定の講義室に向かえば良いんですよね?」
「はい、そうです。椎堂さんの選択された科目は――」
「大丈夫です、分かります」
擬態が完璧でない為に不安もあり、ぼろが出ない為にも早々に引き上げたかった。
最後に何か訊きたい事があるかと尋ねられ、既に識っている質問をわざわざ訊いてから颯樹は礼を言い、彼女からの促しがあるまで少し待ち、余裕ある態度を装って退室した。
喧噪の方角に向かい、少し歩いた所で颯樹は大きく息を吐く。
璃世曰く、システム生物学を専門とする学科に在籍させられたらしかった。
遺伝子情報をプログラムとして捉えるように、生命活動を集積回路として理解するような学問である。颯樹の価値観では眉を顰めてしまいそうな内容ばかりであったが、そうした倫理観による問題提起は長い年月を経られたことで終息気味であるらしい。
何人かの学生とすれ違った後、「――――ねえ。ねえってば!」と、呼び止めている大声が自分を指している事に気付き、颯樹は考え事から意識を戻した。
足を止めて振り返ると、明るい表情を浮かべたポニーテールの少女が立っていた。親しい友人であるかのように人懐っこく近寄って来るが、彼女には全く見覚えがない。
目を細めて一歩距離を置くと、彼女は萎縮したかのように顔を引き攣らせた。
いつでもナイフを抜き取れる心構えを固めたからだろうか。
過剰な防衛意識を感じ取られたのだろうが、他人のパーソナルスペースに無遠慮に侵入してくる者など、性別問わずに関わりたくもない。頭を過ぎった世間体なども優先順位から直ぐに封じ込めた。
「何か……俺に用ですか?」
「あ、あのね、違うの。ごめん、ちょっと待ってて」と彼女は焦った様子で遠ざかっていき、「ほら、何してるの、早く!」と誰かの腕を強引に引っ張って戻って来た。
見覚えのある女性の登場に颯樹の肩の力が抜ける。
その女性はポニーテールの少女に背中を押され、そちらに批難の目を向けながらも、颯樹の前まで来ると凛とした態度を取った。
厳かな雰囲気を作り出し、綺麗な佇まいで頭を下げる。
狐や栗鼠の尻尾のように量感を感じる、もふっとした髪から「ご機嫌麗しゅうございます」と発せられ、彼女が顔を上げると肉感のある大きめの胸が揺れた。
さり気なくその胸を見てから、颯樹は漸く彼女の顔をしっかりと確認する。
「ん、ああ……、その、元気だったか?」
「ええ、お陰様でお父様との仲も改善しましたわ」
「へえ、そりゃ良かった」
璃世の知り合いと聞いていたが、どうやら彼女は学友だったようである。
「有り難うございます。こうして巡り会えたのですから名乗っても宜しいですわよね?」
「おう、良いぜ。そういえば璃世の知り合いなんだってな」
「はい? ええ、そうですが璃世とはどういうご関係で――っと、これは申し訳ございません、話が逸れてしまいましたわ。わたくし神宮可憐と申します。貴方様は是非とも、可憐、と親しみを込めてお呼び下さいませ。漢字は純情可憐の、可憐、ですわ」
「ああ、分かったよ、可憐。俺は椎堂颯樹って言うんだ。呼び方は何とでも」
出来れば男性の友人が欲しいが、可憐が居て悪いことなど無い。学園を過ごす上で不便しない事項が一つ増え、颯樹は安堵感もあって柔和な笑みで彼女に応えられた。
「……し、椎堂様、わたくしを……も、もう一度だけ可憐とお呼び下さいませ」
「え? 何でだよ?」
「お願い申し上げます。どうかもう一度だけ……」
「まあ別に良いけどさ。――可憐?」
「……も、もう一度お願いしますわ」
「だから本当に何なんだよ、可憐」
「も、もう一度ですわ! もう一度!」
「か、可憐……」
「ワンモア、プリーズ!」
「ま、待てって。だからどうした、お前大丈夫か?」
今にも卒倒しそうなくらいに、可憐の顔が赤く上気していた。
「あぁ……、椎堂様、愛おしい……。もうわたくし気持ちを抑えられそうにありませんわ。再び見えると信じておりましたが、まさかこのような形で再会できるとは――」
肉食獣と化した可憐に勢いよく跳び掛かられ、胸のクッションを経て身体に腕を回される。無理にはね除ける事も出来ず、颯樹は足がもつれて床に腰を強打した。
痛覚が鈍化しているため痛くはないが、そんな事はお構いなしに可憐が抱きついてくる。
「あぁ、椎堂様。椎堂様ぁー」
まるでぬいぐるみのように扱われ、颯樹はされるがままとなった。
押し当てられた胸と女性特有の香りに、自然に気持ちが昂ぶっていく。
勿論、短絡的な応対は理性で耐える。
そして必死になって適切な対応を模索する。だが米国製ホームドラマで観たような芝居がかった応対ばかりが頭の中を独占し、これが自分にとっては異文化なのだと、経験の上に解答が存在していない事に気付いてしまった。
しかし根本から考えてみれば、無理に拒絶する理由も無い。
引き離す事を早々に諦め、颯樹は役得として抵抗しないことに決めた。
「――こ、こら! なにしてるの可憐、やり過ぎぃ!」
少し離れた場所で様子を眺めていたポニーテールの少女が駈け寄って来て、可憐の首根っこを掴んで引き剥がしに掛かる。暫く粘っていたが髪を鷲掴みされて漸く離れた。
「な、何をしますの!? わたくしの絢爛な髪が――」
「いいから周り見て、可憐!」
ポニーテールの少女に指摘され、周囲を見回した可憐がはっと顔を赤らめる。
こちらを見てから直ぐに興味を失って歩き去って行く者が多数だが、何故かわざわざ立ち止まって、へらへらとしながら眺めている者達も居る。普通は他人の情事など見て見ぬ振りするものだが、こういう所にも颯樹にとっての異文化が存在しているようだった。
「わ、わたくしとしたことが何てはしたない……」
顔を両手で覆った可憐が「し、失礼しますわ、椎堂様!」と、はしたない行動で見物人達を肩で押し退け、我を忘れた様子でたったと走り去って行った。見物人の男性一人が可憐の力強さによって倒されており、「あたしを置いてくなー」と可憐の後を追っていったポニーテールの少女は、その腹を豪快に踏み付けて同じく去って行った。
一人残されて嵐が去ったような心持ちになり、颯樹は呆然と服を払って立ち上がる。
ふと気配を感じて見てみれば、どこからか璃世が隣へと静かに寄ってきていた。
「……お前、どこに居たんだよ?」
「ずっと遠くから見てた」
「ああ、そう。良いご趣味をお持ちのようで」
無愛想な態度で言い放ち、颯樹は目的の講義室に足を向ける。敢えて歩幅は広くしたのだが、璃世はたったと足早に颯樹の隣へと付いてくる。
「可憐に抱きつかれて興奮気味?」
「あ? そうでもないよ。まあ俺としたことが少し揺らぎかけてたけどさ」
「可憐みたいなのがタイプ?」
「飛躍し過ぎだ。俺の貞操観念は基本的に平均男性レベルだよ」
「そう、可憐の胸は大きかった?」
「C強からD弱だな。発育豊かなロケット型――って何言わすんだよ!?」
「……変態」
その無表情は相手を蔑むに、毎度ながら合致していた。
声量も小さく抑揚も無いのに、やはりこの喧噪の中でもやけに声が通る。気にしていなければ特に聞こえないのだろうが、一度気にしてしまうとカクテルパーティー効果で嫌でも耳に入ってくる。身体能力向上の影響で聴力が増しているのも要因だろう。
「ハッ、変態で結構だよ。観察眼に優れてて悪い事なんてないさ」
「ど変態」
「うるせ。他人のカップ数でも聞いて機嫌が悪くなったか、胸無し」
「別に……。潜在能力は巨乳よりも貧乳が上。不要な部分が排除されていくのは正当な進化過程。男性を魅了する為に乳房の大きさを必須とする時代は終わったということ」
「はあ? どこに価値なんてあるんだよ。どんな女も胸の無い時期はあるだろ?」
「流石はロリコンの鑑。成長済みの貧乳が頭に無い」
こちらは厭味で言っているのだが、それはお互い様でもあるのだろう。
颯樹は早々に不毛な言い争いを止め、「あのさ……」と今一番に気になる事へと話題を切り替えた。
「別に自惚れるわけじゃないが、あいつは俺に好意を抱いてる気がする」
「あれだけあからさまで気付かない人もどうかと思うけど」
「それはそうだけどさ。しかし、ここに来てカルチャーショックなんだよ、色々と」
人への適切な対処の仕方が分からない。未来などという理由で時代に馴染めない不安もあったが、まさか同じ日本国内で根本的な文化の違いを痛感するとは思わなかった。
「でも颯樹の居た時代とは違い、人種による差別が減ったのは良い事だと思うけど。誰がどこの血を引いてるかなんて殆ど分からないから。美醜も流行はあるけど国や人によって様々。DNAを調べればルーツも分かるけど、恐らく二つ、三つとある人が多いと思う」
あり得ない。自然にそんな状態となるわけがない。
人種が入り乱れるような世界規模の出来事でも過去にあったのだろうか。
「とは言っても、差別はなくなってはいないだろ?」
「無くなったとは言ってない。人種による差別が減ったというだけ。それに差別の種類は寧ろ増えてる。見た目に限らず、生まれによる差別だって勿論ある」
「国際化が進んだとは言え、国よって人の気質みたいなものも違うはずだよな?」
「それはそう、世界全体が統一国家となったわけではないから。ただ颯樹の識っている国とその気質が、今では全く変わってしまった国もあるかもしれない。国によっては閉鎖的で宗教性の強い地域もあるし、非戦闘指定都市のない国も世界には沢山ある。日本は文化や様式を長く保って大切にしてきた国だから、それが大きく残されている方だと思う。生まれから日本育ちであれば、その言動を見れば颯樹の視点からでも分かるくらい」
「そうか、可憐は日本国籍だけど生まれは日本じゃないってわけか」
「そう、可憐はイングランド生まれで、幼少もそこで過ごしたと聞いてる。元の名はカレン・キャロライン・イアハート。日本国籍を取得する際に母方の名字を当てたらしい」
頷きながら璃世の話を聞いていたのだが、颯樹は先程から何かが引っ掛かっていた。
何時しか歩幅を合わせて彼女と話し込んでしまっているが、そもそも彼女に対して腹を立てていたはずである。その発端を思いだし、颯樹は途端に眉を寄せて首を掻いた。
「どうしたの?」
「いや、あまりに自然過ぎてお前の策略に嵌まってた。何か和気藹々な雰囲気出してやがるが、俺はここに来るまでの事を一切忘れてないからな。人の事を陥れやがって」
「矮小な男……。それに忘れてた癖に、鳥頭」
彼女の不貞不貞しい態度に、先程までの怒りが再熱していく。
朝方、一緒に登校したまでは良かったのだが、玄関辺りで待機を命じられて姿を消され、その後は連絡を取っても応じて貰えず、今の今まで完全に放置されていたのだ。
「あのな、お前は俺に何の恨みがあって――」
「一限が始まるから急いだ方が良い」
そう言うと涼しい顔の彼女は、逃げるようにして颯樹を追い抜いて行った。
一限を終えただけで、小難しい書籍を一気に読み終えた時のような疲労感が残った。
幾ら未来と言っても講義は講義に過ぎなかった。
数年振りの勉学だから楽しめるかと思いきや、ああ、こんな感覚だったな、と、学校の授業や塾の講義を想起させられただけで、やはり特に面白いものでもなかった。
学生達が各々にホロスクリーンを幾つも表示させている様には目新しさもあったが、それも数十分後には慣れてしまった。ユーザインターフェースを各々が学習し易い状態へと自由に構築する必要があるのだが、それらは幼少から試行錯誤して行き着く各々の最適な学習環境でもある為、颯樹はAIの助けを借りるしかなく不便を強いられた。
それに講義内容に関しても、教材や単語の参照が簡単にできたり、スライドや口頭説明が手元の機器に同期される点などでは楽で良かったのだが、効率が上がっている代わりに追求される情報量が明らかに多くなっていた。
ふと璃世の様子が気に掛かり、周囲を見渡すが彼女の姿がない。
意図の読めない彼女の行動に苛立ちが湧く。
構内は安全性が高いのかもしれないが、一応は本人から護衛を頼まれているのだ。隣が空いていない席に彼女が座ったせいで、颯樹は離れた場所にしか座れなかった。そして少し意識を逸らせば、これである。
彼女と話をしなければ――
颯樹が駆け出そうとした瞬間、知らない男が前に立って道を阻んできた。
その顔を確認すると、何故かこちらを睨んでいる。
「……何ですか」
「アァ? すかしてんじゃねーぞ、テメェ」
「えっと、人違いじゃないですか。すいません、急いでるんで」
構いたくもなかったので颯樹は首を傾げてから彼を押し退けた。
すると肩を強めに掴まれる。思わず腕をへし折りたい気分になったが、明らかにやり過ぎなので振り払うだけに留める。そのまま振り返り、颯樹は男を醒めた目で見つめた。
長めの黒髪を横分けにしており、ピアスとシルバーアクセサリーが目立つ。やり過ぎな感じではなく程々で、明らかに女性受けを狙っているような風貌の男だった。颯樹が嫌いとするタイプでもあり、意味不明な行動もあってこの男の存在が軽く癪に障った。
「あんさァ、一つ訊きてェんだが、おまえって神宮さんのなんなの?」
「何って、何がです?」
「関係。テメェは神宮さんのなんなのかって訊いてんの」
「……単なる前からの知り合いですよ」
可憐は有名人なのか、確かに風貌が目立つので嫌でも目に入るだろうが。
「姫路さんは?」
「……はい?」
「関係。なんども言わせんな、タコ」
男の横柄な態度に対して、颯樹の中では怒りよりも驚きが勝った。手痛い反撃を受けても構わないのだろうか。初対面とはそういう危険性を孕んだものである。
少し黙っていると、同じ様な態度で男が似たような質問を繰り返してくる。
せっかく柄にも無く、当たり障り無いように気を遣って過ごしているというのに、こんな事で台無しにされては溜まらなかった。無益な馴れ合いは好きではないが、構内で浮くというのも避けたい。当然だが、友人と呼べる人間だって少なからず欲しいのだ。
だが――
明らかに自分を下に見ており、今後も呼び出す、と男が言い出した時点で煩わしくなってきた。
何やら喋っている男の胸倉を掴み、強引に引き寄せて颯樹は耳元で囁く。
「調子に乗るなよ、殺すぞ、ロン毛」
振り払われる腕を躱しながら、颯樹は男を押すようにして手放した。
襟元を整えながら男がこちらを見る。
目を見開いており息が少し荒い。怯んでいる自分が気に食わないという表情。甘い世界で生きてきた人間か、或いは子供のように粋がっていただけである。
つまり、大した人間では無い。
「こ……、このテメ! とうとう本性表しやがったな!」
「あ? 頭足りてねぇのか。挑発してないのなら限度を弁えろ、ドアホ」
「うっせ、次から次へとミスコン勧誘されてる女ばっか手ェ出しやがってよォ!」
「ミスコン? 知るか、お前の耳は節穴か。見知った仲だつっただろうが、わざわざ懇切丁寧にこの俺が。分かったらこれ以上絡んでくんなよ、チャラ男。思春期真っ盛りか?」
「何だテメェ、余裕かましやがって! ああ、もう我慢ならねェ! 覚悟しとけや、テメェみたいな奴はゼッテェ痛い目に合っからな!」
「ああ、良いぜ。早めに謝れよ? 土の下で喚かれても聞こえないからさ」
殺気を漏らして一歩前に出ると、男は顔を青ざめながら後退った。
公然と喧嘩をするわけにもいかない。
周りにばれないように静かに処理をしよう。
大人の対応をすべき者は、それに相応しい者だけで十分である。馬鹿の一つ覚えのように引き下がる事は、自分を納得させるだけの臆病でしかない。時に、やられたらやり返す事こそが相手を助長させない最善となる。大学は狭いコミュニティーでもないのに、今後も絡んで来るという事は、今の内に立場を分からせておくべき存在なのだ。
「――貴方、椎堂様に何をしていますの!?」
それは講義室に響き渡るような大声だった。
見ると可憐が熱り立った様子でこちらにつかつかと歩いてくる。
毅然としたまま颯樹と男の間に割り込むと、彼女は男を「下郎」と罵り食って掛かった。まさか彼女から反撃されるとは思ってもみなかったのか、彼女に詰め寄られた男は明らかに動揺していた。寸前の威勢の良さなど見る影も無くなり、彼は可憐を宥めようとして必死になっている。
しかし懸念すべきは、周囲の注目を浴びてしまっている事にある。
「も、もう良いよ、可憐。場も白けたし」
「し、しかし椎堂様……」
手を振りながら可憐を遮るようにし、颯樹は男の前に立った。
「悪かった、俺が悪かったよ。名前は何て言うんだ?」
「……久坂だ」
目を合わす事もなく男は言った。
「そうか、俺は椎堂颯樹って言うんだ。講義も幾つか重なるだろうし、顔を合わせる度にいがみ合うのも不毛だろ。自己紹介も済んだし穏便に済ませておこうぜ、久坂――」
下郎君と、いつもの癖で皮肉りそうになり颯樹は危うく口を噤んだ。
「直弥だ。久坂直弥」
「OKOK、覚えておくよ。じゃあな、久坂直弥君」
そう言ってとっとと講義室を出ると、可憐が後ろを追ってくる。
前途多難だった。客観的に見れば、自分が嫌な男に感じる。
何事も正しければ良いというわけではない。
女を引き連れて大人ぶっていれば、久坂でなくとも反感を持つ者はいるだろう。ただ彼は正直であっただけで、今の自分の立ち位置は好ましいものではない。
とても心苦しい事だが、可憐とは少し距離を置くべきなのだろうか。
「あ、あのさ、可憐――」
「そうですわ、璃世に聞きましたわよ。彼女は椎堂様の従妹でしたのね?」
「ん、ああ、今璃世ん所のマンションで世話になってるんだよ。従妹のよしみでさ」
「そうでしたの、璃世も早くに紹介して下されば良かったのに……。璃世とわたくしは高校の頃、ずっと同じクラスだったのですわ。わたくし達、何かと縁を感じますわね?」
「えっ、あ、ああ、そうかなぁ……。はっ……ははは……」
フランクな笑い声でも上げようと思ったが、全く苦笑いしか出てこなかった。