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クライオニクス(仮題)  作者: 曲馬 乙晴
第一部 クライオニクス
1/40

プロローグ 天使

今改めて読んでみると、主人公の優柔不断さや話の中弛みが気に入らないのでその内に書き直したいと思います。開いた方は申し訳ありません。2017/7/29

 激しく雨が降り注ぐ深夜――

 一人の青年が苦悶の表情を浮かべ、水しぶきを上げて走っていた。


 昼夜問わず賑わっている都市でも、人目のない場所は多数に存在する。彼はその場所を判っているのか、足を止めることなく、入り組んだ暗い裏路地を必死に駆けていた。

 後に残る、朱い斑点と紅い靴跡。

 彼の身体からは夥しい量の血が滴り落ちていた。血痕が雨に混じり薄く消えていくのは、彼がわざわざ雨水の多い場所を選んで走っているからだろう。彼はその怪我の程度よりも、地面に出来た自身の痕跡を気に掛けているのだ。


 そうして彼が行き着いた場所は、人気のない雑居ビルの屋上だった。

 腹部を押さえて苦痛に顔を歪め、盛大に息を切らし、汗のようにも見える雨水を振り払う。覚束無い足で鉄柵まで歩みよると、彼は頽れるようにして鉄柵に持たれ掛かり、地面へと尻を突いて項垂れた。


「ざまあないな、クソ……」

 青年は諦めの表情で呟く。

「所詮はただの人。何ら特別なもんなんて無かったわけだ。馬鹿馬鹿しい」


 静寂に溜息が一つ、雨音が静かに響く。

 雨をはね除けて囂々(ごうごう)と走る車の音だけが遠くから聞こえる。


 彼は緩慢な動作で懐を漁り、安っぽい自動式( オートマチック)拳銃ピストルを取りだした。

 空弾倉を地面に落とし、新たな弾倉を差し込む。遊底スライドを引いて薬室に( チャンバー )初弾を装填する。手慣れた速さでそれらの動作を行うと、彼は銃を逆手にその銃口を口に咥えた。


 目を深く瞑り、眉間に皺を寄せ、荒れる息を整える。


 引き金(トリガー)に親指を掛けると、彼はいよいよその手に力を込めた。


 しかし、一向に銃声は鳴らない。暫しの静寂を経ても変化はなく、引き金(トリガー)から親指を離して目を開いた青年は、ゆっくりと口から銃口を引き離した。


「何なんだよ、俺は……」

 憔悴しきった彼の表情が憤怒に変わる。

「クソッ、何なんだよ、俺は!」

 引き金(トリガー)を引いて彼は自身の太股を撃ち抜いた。

 痛みによってか一瞬だけ動きが止まったが、彼は自棄になって更に引き金(トリガー)を絞る。


 何度も銃声が空高く谺し、その度に彼の太股に穴が空く。全弾を撃ち尽くして遊底スライドが後退したままになっても、彼は引き金(トリガー)を引き続けて最後には銃を前方へと投げつけた。


「ふざけんな、本当に何なんだ、俺はっ……! こんなクソみたいな人生に女々しくも未練たらたらってわけか? クソッ、クソが……、生き足掻いたって何も無かったじゃねぇか、結局何もかも中途半端で……。俺が本当にやりたかった事って何だったんだよ……」

 歯を食いしばって項垂れた青年は、目から涙をぼろぼろと溢す。

「今更何の希望があんだよ、俺は何に縋ってんだよ……」

 彼はそう言って泣き言ばかりを口にした。


 その時、誰もいないはずの屋上に、くすくすと笑う女性の声が響き渡った。


 死にきれない彼を嘲笑うかのような嗤い声。

 子供の不甲斐なさを微笑ましく見るような笑い声。


 ふと顔を上げた青年は周りを見渡した後、尚も聞こえる笑い声に怪訝な表情を浮かべた。

「……誰だ? 誰かいるのか?」

 感情豊かだった目色が消え、青年は何も無い虚空を冷えた視線で睨み付ける。

 その先では雨が微かな異変を訴えていた。先程まで無かった音が雨音に混じり、そこに何かが存在するかのように、降り注ぐ雨が水滴と変わりゆっくりと垂れている。


「あら、大したものね。この豪雨の中、私の居場所を一発で見抜くなんて」

 何も無い空間から、すっと少女が姿を現す。


 切り揃えられた長く艶のある黒髪。顔にあどけなさが残る小柄な少女だった。だが、その顔には年季すら感じられ、彼女からは物々しい雰囲気が溢れ出している。白のブラウスに黒のスカート。乾いていた服や髪が雨に晒され、見る見る内に全身が濡れて下着も透けて見え始めるが、それでも少女は薄い笑みを浮かべ続けていた。


 そんな様を青年はただ呆然として眺めているだけだった。


「何を間抜けた面で見ているのかしら」

「いや……、熟々情けないと思ってた所だよ。とうとう俺にも幻覚が見えるようになっちまったわけだ。お前は俺の願望が生み出した幻影かな。死の間際は初体験だしなぁ」

「そう、情けなくなんてないわ、この外套には光学迷彩が掛かっているのだから。それを見破って気配を悟った貴方は凄いとされるはずよ。自信を持っても良いと思うわ」

 手に持った黒いレインコートを振って、少女はそんなことを嘯く。


「ハッ」青年は短く嗤い「光学迷彩? SFとかに出て来るアレか?」


「博識ね、えらいえらい。特殊な屈折率を持つ物質で編み込まれた外套なの。本当は死角を過不足なく映し出す方式が理想的なのだけれどね、特に今日のように雨の降る日は」

「じゃあ、理想の方を使えば良いじゃねぇか」

「それは短絡的な思考ね、理想の選択が常に最善というわけではないの。これの利点はエネルギー消費がゼロであること。オンとオフの切替はできないけれど、手軽に携帯ができる利便性があるのよ」レインコートを裏返した彼女は身体だけを消してしまう。「ほら、簡単な事で私の姿が見えなくなったでしょう?」少女の生首だけが闇に浮いている様は、大掛かりな舞台で目にする手品と殆ど変わりなかった。


 すると青年は顔を押さえ、くぐもった笑い声を上げる。


「あら、何が可笑しいのかしら?」

「情けないんだよ。目出度い頭から生まれたくだらない幻覚だなと思っただけだ」

「そう、目に見えている現実を否定する愚か者なのかしら?」

「うるせぇよ、今の俺が現実を判断できる正常な状態に見えるのか?」

「……それもそうね。なら、これは臨死体験という事でどうかしら?」

「ああ、それが分かり易くて良いな。じゃあ、お前は何者って設定になるんだよ?」

「そうねぇ、幽霊……いえ、天使なんてどうかしら。今から野鳥の羽根を集めて丸型の蛍光灯を浮かべるのは不可能だけれど、この姿の方が遙かに現実的ではなくて?」

「そりゃ良いな、天使か。天使様ってわけ――」

 途中で言葉を呑み込み、青年は彼女から目を逸らす。


 奥歯を噛み締めているのが分かり、ゆっくりと大きく息を吐いている所からも、彼が息苦しさを感じているのは明白だった。少女を前に強がっていたようだが、とうとう彼は咳き込み始める。咳には血も混じっており、耐えるにはかなりの苦痛を伴う容態だった。


 だが数秒と掛からずに落ち着き、彼は戯けた笑みを浮かべて少女を見やる。

「ったく、傑作だ。天使だぜ、天使。しかし、覗き見なんて趣味が悪いな。人前で泣いたのなんて生まれて初めてかも。ははっ、天使だから良いのか、天使様天使様……」

 青年は特に面白くもない事をげらげらと笑う。


「プライドが高いのね。情動を露呈する事がそんなに恥ずかしい行為かしら?」

「その甘い言葉が俺の望む慰めってわけか……」

「だから、私は幻影ではなく天使でしょう?」

「ああ、そうだったそうだった。はぁ、何か頭が呆けて来たかなぁ……」


 先程まで笑っていた青年は、途端に失意を浮かべて項垂れてしまった。出血性ショックを逃れて数分と生き存えているが、その奇跡も終わりが確定した上だろう。


「なあ、天使様……」

 下を向いたまま青年が沈んだ声を発す。

「俺の人生ってさ……、何だったんだろ。何でこんな風になっちまったんだろ……」

「そうね、全て貴方の行動が生み出した結果ではないの?」

「辛辣だな……。それは分かってるんだけどさ、今は周りのせいにしちまいたいよ。死ぬ間際だってのに傷の痛みよりも重いんだ。こんなもん背負って死んだとなれば、俺は死後も謝り続けなくてはならなくて、今よりもずっと辛い思いを強いられちまう……」

「ふうん、そう。その停止した時間の牢獄がきっと地獄なのよ」


 雨水を吸った前髪を片手で押さえ、少女は足下の黒い鉄塊を拾い上げる。醒めた目をして外形を指先でなぞり、彼女は青年の方を見向きもせずに話を進めた。


「面白いわね、こんな玩具で生命活動を停止させられるなんて」

「玩具じゃない。安っぽく見えるが本物だよ……」

「火薬で弾を飛ばすだけの玩具よ。だって容易に作れるもの。こんな陳腐なモノが玩具でないのなら鉄屑と言っても良いわ。命が重いものだがら屑と認められないのかしら」

「実際、軽くないよ……」

「軽いわよ。実は生命なんて大したものでは無いのかも知れないわよ?」

「そんな事はない。そんな事であっては駄目なんだよ……」

「そう、それは貴方の罪悪感からかしら」


 少女の手からぞんざいに放られた拳銃が、からからと音を立てて転がる。そして垂れ下がった青年の手にぶつかり拳銃が停止すると、彼は虚ろな目を上げて少女を見た。


「俺は沢山の……俺にとって沢山の人間を殺してきたんだよ」

「それは結構。何の為に殺す必要があったのかと訊いてあげるわ」

「自分が生き延びる為だよ。何でも良いから他に動機があったら最高だったのにな」

「そう、やっぱり何かを犠牲にしてきたのかしら?」

「だろうな。ここにお前しかいない事が全てを物語ってる……」


「ふうん。それで――貴方は何を得たの?」


 醒めた様子だった青年の表情が、その質問を前にして初めて堅く変化した。

 少女はそんな青年を見下げて鼻で笑う。


「将来を見て見ぬ振りで行動を選択する。都合の良い願望が訪れることなく八方塞がり。でも貴方は決して模範的な奴隷にはなれない。自分のプライドを捨てられない。唯一見つけた解決策も実は単なる苦肉の策。自分を誤魔化す為の動機にすら裏切られる。犠牲にしたものを今更になって後悔する。そして自分で死ぬ事さえもできない」

「や、止めろ……。そんなこと言うなよ」


 薄ら笑いで見下す少女を見返し、青年は眉を寄せて睨み付ける。


「その手にあるものは飾りなのかしら?」

「……手?」

「その玩具で私を撃たないのかと訊いているのよ」

「弾が入ってないだろ……」

「自分の為なら相手の事情も知らずに殺せるのでしょう?」

「胸糞悪いこと訊くな……」

「どうして? 何を躊躇う必要があるの? 貴方の生き方を否定したのよ? やるなら徹底的にやりなさい。どちらにも中途半端な臆病者だからこんな結末なのでしょう?」


 少女の的を射た言葉の数々に、段々と青年の瞳が弱々しく変化していく。


「悪い、もう止めてくれ……。分からない、分からなくなったんだ。今はもう出来る気がしない。殺される奴はどうせ殺されると考えてたし、俺は人形であって意志は他にあると思ってた。いやこれも思い込んでたんだ。心が壊れないように無理に納得してたんだ」

 酷く震えた声でそう言うと、青年は縋るような目で少女を見上げた。


「なあ、俺の存在はさ――そんなに罪だったのかよ?」


 顔に辛さを滲ませて青年は懇願する。

「でも、こうするしか無かったんだよ。最善は俺が死ぬ事だった。だったらさ、俺は……何の為に生まれて来たんだ。前世の贖罪か何かかよ。こんな辛い思いをする為だけに生まれて来たのなら、あまりにも無意味過ぎる人生だ。人生に意味なんてあるわけないと思ってたけど、もしも意味があるなら、お前が天使と言うなら、何か応えてくれよ……」


 とうとう堪えきれなくなったのか、青年の目から涙がさめざめと溢れ出す。この豪雨の中でも分かる程に、彼は鼻を啜って号泣している。

 目を細めて彼を見下ろす少女は、汚物を見ているかのよう蔑んでおり、或いは何かを吟味しているかのようにも見えた。


「滑稽……酷く滑稽ね。そんなに救いが欲しいのかしら?」

「貰えるものなら欲しいさ。何も無いまま消えるのは嫌だ……。助けてくれよ、死にたくないんだ……。だって、おかしいだろ……、こんなの絶対に間違ってるよ……」

「必死ね。醜い程に必死だわ」

「ああ、やっと理解出来たんだ。どんな奴でも死ぬ瞬間は死にたくないって……」

「真理よ。自害する者も死ぬ瞬間は抵抗するわ。どれだけの偉業を成したとしても同じ。何度やり直したって同じなのよ。納得して死ねる人なんて皆無と言っても良いわね」

「けど、俺は……それでも俺は……、今より辛い人生でも良いから、今よりも最低な人生でも良いから、こんな無意味な死じゃなくて、何でも良いから意味が欲しい……」


「そう、本当に()()()良いのね?」


「あ、あぁ……、このまま消えるくらいなら……」

 殺気を孕んだ瞳で少女がにやりと笑う。

「了承したわ」

「俺を……救ってくれるのか……?」


「ええ。では――私が貴方に救いを与えましょう」


 そう宣告すると同時――、少女の懐から目映い閃光が走った。

 それよりも早くに青年は身体を動かしていたが、手負いの彼はその場からほんの少しずれた程度だった。普段の彼であったなら、完全にそれを躱せていたのかもしれない。


 少女の手に持つナイフが青年の胸に突き刺さる。


 その殺意には一切の容赦がなく、少女は力任せに押し込むようにして、ずぶずぶとナイフを根本まで押し込んだ。直ぐに引き抜き、同じ行動を二度三度と繰り返していく。

 そして動脈まで傷が及んだのか、青年の胸元から噴水のように鮮血が溢れ出した。


 少女の手に持つナイフの先から、ぽたぽたと血が滴り落ちて雨水に混ざる。

「少しの辛抱。もう少しで貴方は何も考えなくて済むようになるわ」

 青年を愉悦に見下ろす彼女は、全身に血飛沫を浴びても動かない。彼が息を引き取るのをただ待っているかのように、彼女は瞳だけを動かしてその一挙一動を観察していた。


「ははっ、馬鹿だ、俺……。死神に、決まってんじゃ……ねぇ……か……」


 自嘲の笑みを浮かべた青年は、座した状態でゆっくりと横へ倒れていく。

 地に突いた手を滑らせ、どちゃりと肩から地面へ落ちた。

 もう力を出すだけの機能が残っていないのか、彼は自身の血溜まりで溺れても、ぴくりとも動かない。或いは、もう動く事すら無駄な行為だと悟ったのかもしれない。


 そこに残るのは雨音と少女の微かな笑い声――。

 光を失っていく青年の瞳に、見下ろす少女の残虐な笑みが映り込んだ。

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