2
からりと晴れた夏の空を、鳶がぐるりと旋回して行った。そろそろ午になろうかという空には、雲一つ浮かんでいなかった。ここ最近で一番暑い日だった。
和泉は直轄地と山一つ挟んで隣合っている。都の空はこんな日和でも霞んだ先のものだが、宮城は目を凝らさずとも見えた。地上からでは雲城と呼ぶべきかもしれない。
落穂は廚に詰めている下女をからかっていた。
和泉の県主、英の邸である。
「無口なのは、別に悪いことじゃないわ」
下女の葉は口をとんがらせた。
「別に悪いとは言ってねえよ。ただ、これから娶ろうって娘相手に褒め言葉の一つも出てこないのをどう思う?」
「そりゃあ……」
葉が口ごもった隙を突き、落穂は沢庵を一切れ皿からかすめ取った。
「ちょっと、旦那様のお茶請けなのよ」
「英様は四切れの沢庵が三切れになったくらいで喚きゃしねえって。そんで、お前はここを辞めてその唐変木の所に嫁ぐのか?」
「いいえ。県廷にお勤めとは言え、ここを辞められる程のお金持ちじゃないの。でもうちの親は乗り気よ。真面目な方だからって」
「へえ」
落穂は沢庵をぼりぼりかじった。
「そういう奴は、嫁が十七の若い娘だろうが、七十の婆だろうが関係ないんだよ。同じように扱う。時々下らないことを喋って飯作って、子供の世話するでかい置物みたいにな」
「何であんたにそんなこと分かるのよ」
「うちの親父がそうだったからさ」
落穂はくつくつと笑った。
「お前、よく考えてみろ。人生は短い上に、若い時間はそれよりもっと短いんだからな。そんな血の通ってんだか通ってないんだか分からん奴より、旅役者の方がずっと楽しめると思うがねえ」
葉の頬がかっと赤く染まるのを見て、落穂はまたくつくつと笑った。年に一度、決まって初秋に和泉を訪れる一座の若い役者が、葉はずっと好きだった。彼は、これから葉の夫になるかもしれない役人の男よりもずっと優しく、よく笑う人だ。そして、憎からず思ってくれていることを彼女は知っていた。
「駆け落ちしろって唆されてるみたい」
「ふん、唆してるんだよ。責任は自分で取れよ」
「何よ、意地悪」
釜の湯が沸いたので、葉は落穂の腕をぺしりと叩くと仕事に戻った。落穂も廚を出た。
落穂が英に雇われてもう二十年近く経つ。私兵だと言われ邸にきたが、まだ彼は子供だった。剣を持つより先に薪割りの仕事をした。
実家は直轄地にあった。元は商家だったが、何かの弾みで商いが上手く回らなくなり、小作農民に零落した。落穂は家が裕福だった時のことなど殆ど覚えていない。父母と長兄、次兄が働いても生活はかつかつで、いつも腹を空かしていた。
子供は落穂の他に六人もいた。
が、別段口減らしの為に和泉に追いやられたのではない。落穂の父は子供を捨てたと周囲に噂されるくらいなら飢え死にする方を選んだろう。だから落穂を捨てたとも言えるが。
――兄弟の中でも、里の子供達の中でも、落穂が一番の癇癪持ちだった。それが元で、殴ってはいけない相手を殴り、奉公という体で里から追い出された。後々伝え聞いた話だと、家族も里を移ったらしい。ただ、その先は落穂には分からなかった。
分からずとも特に構わなかった。
英の邸は、居心地が良かった。
落穂の仕事は今も昔も変わっていない。薪が足りなければ作るし、門番に小用の間代理を頼まれれば表に立っている。他にも風呂を炊けと言われたり、稽古を頼まれたり、宴会の余興をやれと言われたりもする。つい最近までは、にきびだらけの新参者の小僧達に木刀片手に稽古をつけてやっていたから比較的忙しかった。
「よお」
「よう」
「おう」
門柱の所で碁を打っている二人に落穂は声を掛けた。
「お前ら、腹減ってないか? 交代がくるまでここにいてやるよ」
「ありがてえな」
「しかし森様が午からお出かけだろ。落穂、付いて行かなくていいのか」
落穂は顔をしかめた。森は英の長子だが、落穂はどうも得手ではなかった。
「たまには下の連中に行かせるよ。若君だって子供じゃないんだから」
門番二人はへらへらっと笑うと、落穂に今日の来客予定を引き継ぎ、食堂の方へのんびり歩き始めた。落穂はその背を見送りながら、庇の下に入った。
その時、唐突に、地面が震えた。
「地震だ」
と落穂が叫ぶ前に、地を這うように重い獣の声が響いた。その声量は、鼓膜が震えているのが分かる程だった。重ねて人間の悲鳴と怒号。落穂は門から離れた。
邸に居た人間がわらわらと外に出てきた。全員、不安そうに顔を見合わせていた。門の外からは断続的に人間の悲鳴がした。子供が泣いていた。地面の揺れは近づいてきた。
「門を開けねば」と誰か年寄りが言い、戸に近寄った。外でそう少なくない人数がここを開けろと戸を叩いていたのだ。
獣の声がする。
落穂はとっさに怒鳴った。
「駄目だ、そこ避けろ!!」
次の瞬間、門扉は内側に向かって踏み潰されていた。何人かが下敷きになり、割れた木材に身体を貫かれた者もいた。巨大な前足――猫の前足に似ているそれが邸に侵入した。獣が一歩踏み出すと、虫の息だった年寄りは断末魔の悲鳴を残して死んだ。
獣はそのまま門に突っ込み、大量の瓦もものともせず大穴を開け、落穂達の前に姿を現した。女達は金切り声を上げて裏口の方へ逃げた。
猫。巨大な猫に似ていた。しかし耳はそれより大きく、髭も長い。黒と茶が混ざった汚らしい毛色で、腹の辺りがうっすらと白い。巨大な体躯は何物にも喩えられないが、民家などは前足一本で簡単に潰せてしまうだろう。それが証拠に、獣が通ってきた道のりは惨状と化していた。鋭い爪にも口の周りにも血がこびりついていた。尾が奇妙である。毛ではなく、鱗がびっちりついた細長い尾なのだ。それが左右にゆらゆらと振れた。
落穂の背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「女は早よう逃げろ。男は弓と矢筒を持ってこい」
騒ぎを聞きつけ奥から出てきた森が混乱する連中に向かって叫んだ。男達は皆、弾かれたように武器庫に走った。護衛も下働きも、無論、落穂も。
「弓は目を狙え。槍は退路を崩すな。木一郎、県邸から使える人間を全員連れてこい。うち半分は婦女子の護衛に回すように言え。落穂!」
森は抜き身の剣を落穂に投げた。彼の足元に刃が突き刺さった。
「危ねえな」
落穂は剣を拾い上げ、森を睨んだ。森は落穂を見ようともしない。
「矢が止めば喉を斬りに行く。あんたは弟妹の方に行けよ」
「阿呆かお前。県主の長子がこれを放って逃げられるものか」
森の号令を待たずに、矢が次々と獣の面に向かって放たれた。獣はうるさそうにか細い矢を払い、邪魔者を前足で潰していく。時折、鼻をひくつかせた。
足取りはとてもゆっくりだった。それは陰惨な戯れに興じていると言うよりは、何かを探しているような様子だった。ただ、弓矢で進路を阻むことは土台無理な話だった。
落穂は矢が途切れた瞬間に駆け出し、後ろ足の爪に近い部分を斬りつけた。ぶん、と振られた足に頭を吹っ飛ばされそうになったが、間一髪で避けた。獣は不機嫌な猫のように唸った。
回り込み、反対側の後ろ足も狙った。やはり爪に近い部分に、体重をかけて刃を埋めた。切っ先が地面を噛み、その衝撃で落穂の手がじんと痺れた。獣は痛みに悶えた。落穂は一撃をかわせず、弾き飛ばされた。頬の薄い皮膚が地面に擦られ、燃えるように熱くなった。
その時に、痛みに意識がぼんやりしながらも、落穂は見た。獣の尾の先端から、ちらちらと赤い舌が覗くのを。
「落穂さん、下がって」
下働きの若い連中が慌てて駆けつけると、落穂に肩を貸し引きずるようにして後退した。再び矢が獣に向かって三方から放たれた。耳の穴や心臓の近くを狙っている者もいたが、獣は前進を止めない。棟を薙払い、しきりに辺りのにおいを嗅いでいた。まだ後ろ足の一本には、落穂の刺した剣が残ったままだった。
「天の獣だ……」
落穂を介抱していた男が次々と崩される柱や屋根を見て呆然と呟いた。
「落穂さん、地上はもう終わりだ……祖父ちゃんが言ってた、天の獣はどんなに大きな火でも決して死なず、痛みすら感じないって。天地を平らげるために大昔の天子様がそうお作りになったんだ」
落穂は口に溜まった血を吐き出した。幸い、歯は折れていなかった。手近に転がっていた血塗れの剣を拾い、立ち上がった。
「痛みを感じない奴が悶絶して俺をぶっ飛ばす訳ないだろ
。よし、うちの若君が餌にされる前にお前も弓を持て。剣山になれば流石に死ぬだろ」
剣一本で直接獣を攻撃する者は他にも数名いた。彼らは徒党を組み、隙を作りながら急所を狙って動いていた。一度か二度、刃が巨大な腹に深々と突き刺さったが、獣は痛がって身震いしても決して倒れない。
獣は前線で指揮を取る森をひたと見据えると、唸り声を潜め、ぐっと前足を屈めて跳びかかる姿勢を取った。
槍達が慌てて獣の行く手を阻むが、向こうの方が圧倒的に速かった。獣は低い姿勢で跳躍した。
落穂は反射的に剣を獣の方に突き出した。胴体を僅かに掠った。森はその爪を、牙を、避け切れるか微妙な位置だ。
落穂の剣の先が、ゆらりと揺れる獣の尾を切った。
獣はこれまでにない吠え方をした。
そして着地。
前足は森の上半身を捕らえた。獣は激しく身を震わせ、叫ぶが森を放そうとしない。周囲が獣の足を切り落とそうと駆けつけた。
落穂は尾の蛇を見た。先ほどの傷はとても浅いものだった。
蛇は赤い舌と鋭い牙を剥き出し、大きく口を開けて落穂を威嚇した。
上段に構えた剣が真っ直ぐ振り下ろされた。
獣は声もなく痙攣し、どうと横に倒れた。切断された尾の蛇は、地面に落ちてもまだうねうねと動いた。
「――全員、その場を動くな!」
門扉の残骸を乗り越えてきたその男は、黒の鎧を身につけていた。彼を先頭に、後ろからぞろぞろと衛士が続いた。更にその後ろに英と、県兵達が続いた。英は未だ獣に踏み潰されたままの森を見て真っ青な顔を掌で覆った。
邸内にいた人間は皆、ばたばたとその場に平伏した。
落穂を除いて。
彼は剣を手にしたまま、一団を横目で睨んだ。
「お早いお着きで」
全身を紅く染めた男の皮肉げな一言に、先頭に立つ石鼓は眉を顰めた。彼はこの場にいる全員を従わせることが出来た。その為にわざわざ地上に降りてきたのだから。
天の獣を生きたまま捕縛する為に。
「暇なら死骸の下から若君を引っ張り出すのを手伝ってくれ。ここの連中はみんな傷だらけなんだ」
しゃあしゃあと落穂は言った。血と脂で汚れた剣で脚を解体しようと動いた。
石鼓も己の刃を鞘から抜き、それを落穂に向けた。
「動くなと言っただろう。その御身体に触れるな」
落穂は獣の身体に唾を吐き、唸った。
「このくそ猫のおかげで死人が出てる」
石鼓は極めて冷静な動きで剣を構え、落穂を斬ろうとした。落穂も応じようとしたが、石鼓の背後から英が駆け寄り、身を地面に投げ出すようにして平伏した。
「この者は私めの兵にて、私が全ての責を負いまする」
英の絞り出すような声に、落穂は少し躊躇ったが、結局は力なく剣を捨てた。石鼓は冷たく、落穂を拘束するよう衛士達に命じた。
「男、尾を斬ったのは貴様か」
石鼓が落穂に問うた。
落穂はにやっと笑って頷いた。
「そうだ。俺が斬った。俺が殺した」
「下郎めが」
そう吐き捨てると石鼓は向き直って英を見下ろし、言った。
「この罪人は天界にて裁く。貴方にはまだ役に立って貰わなくてはならない。残る邸内の人間を全員拘束の後、下界にて貴方の裁量で処分せよ」
県主の裁量。しかし手心を加えることは許されない。
「確かに、承りました」
落穂は天の獣共々、天に連れて行かれた。
その先にまだ雲はなかった。