刀
朝から出かけていた小三郎は、町木戸が閉まる直前(午後十時)に帰って来た。
善兵衛は、小三郎を見るなり腰を抜かすほど驚いた。老いたその表情に涙が盛り上がる。
「若旦那さま、なにがあったのか私に話してください。なんでもいいので打ち明けてください。爺のお願いでございます」
すがりつく善兵衛を見ると、小三郎は小さく、すまないと言った。
「このまま休む。眠らせてくれ」
「若旦那さまっ」
小三郎はいちども振り返らず、寝間へ向かった。
善兵衛は追いかけて来て、もういちど取りすがったが、小三郎はなにも答えなかった。
そのまま布団の上に横になると、泥のように寝入ってしまった。
朝、目を覚ますと口の中が腫れている。
「いてて」
起き上がり頬を押さえた。
すぐに善兵衛が現れ、顔を見るなり水と氷を持って戻って来た。
頬の腫れに氷をあてながら、
「若旦那さま、このおけがはどうなさったのですか?」
と、けわしい顔で聞いた。
「ん? ああ、転んだ」
善兵衛はむっと口を曲げる。
「若旦那さま」
「うるさいな」
善兵衛は耳を疑うという顔をした。
「ああ、悪かった。けんかしたんだ」
「誰とです」
「酔っ払いだ。絡まれて気がついたら殴られていた」
「刀は」
「なんだ」
「刀はいかがされました」
善兵衛は刀が見当たらないことを気に病んでいた。
小三郎はのらりくらりと答えた。
「刀なら研ぎに出した」
「いつでございます」
「夕べだ。刀がないと気が抜けていかんな」
笑ったが、その目は笑っていない。
「どうして刀を研ぎに出したのですか」
「刃こぼれしたのだ」
「なにを斬ったのです」
「なんでもいいだろ」
不機嫌な顔つきになる。
前の小三郎であれば、こんな顔はしなかった。
けわしい顔で、どこかを睨みつけ、すっかり心が見えなくなった。
「もういい」
さっと手を払われる。
善兵衛はさらになにか言おうとしたが、小三郎の視線はすでに別の方向を見ていた。
なにを見ているのか分からないほどぼんやりとしていて、善兵衛は胸騒ぎがおさまらなかった。
お供いたしますという善兵衛をなだめすかし、小三郎はぶらりと長屋を出た。
柔らかい日差しが照りつける。眩しさに目を細めて歩き出すと、待ち伏せをしていたのだろう、安川が後から追いかけて来て、立ちふさがった。
「どいてもらえまいか」
「どきません。柴山さん、貴方、頭がこわれてしまったのじゃないですか、どうして我々の邪魔をするのです。しあわせをぶち壊してうれしいのですか」
小三郎はぐっと奥歯を噛みしめた。
しあわせをぶち壊す気持ちなど毛頭ない。
「そなたには関係ない」
「関係あります。柾木さんは俺の――」
「黙れっ」
大声を上げてしまってから、小三郎は唇を噛み締めた。
安川はうろんな顔つきで、
「貴方はどうかしている。柾木さんは行きませんよ」
と、言った。
安川の体を避けて小三郎は歩き始めた。安川はそれ以上追っては来なかった。
安川は、はたし状を読んだのだろうか。
人のものを勝手に見せるなんて――。
瞬時に怒りが湧き起こったが、それはすぐに掻き消えた。
「それだけ仲がいいということだろうな」
ふっと笑うと、そのままあてもなく歩き始めた。
この目にさまざまな景色を焼き付けておこうと思っていた。




