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寄り道  作者: 春野 セイ
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上屋敷




 安川は、同じ上屋敷の組長屋で暮らしている。

 上屋敷は三万坪もある敷地なので、毎日顔を合わせるわけではなかった。

 勤番者の二階建ての長屋は城壁の役割もしている。長く連なる長屋の二階に安川の部屋はあった。

 安川は留守であった。そこで、戻って来るのを待った。

 日が山の向こうへ傾きはじめるとあたりはだいぶ暗くなり、長屋の部屋から行燈の灯りがちらほらと見えはじめた。

 人の顔も判別できないほど暗くなった頃、安川が現れた。


「柴山さん…」


 声がして振り向くと、安川は以前に会ったときより、ぐっと大人っぽくなっていた。目に力がこもり、自信に満ち溢れている。


「少し話がしたいのだが」


 小三郎がぎこちなく笑うと、安川は露骨に目を逸らし、


「暗いですね、今灯りをつけます」


 と、言って部屋に入り火打ち石で火をつけた。

 行燈に火が灯ると部屋の中がぼんやり明るくなった。

 明るくはなったが、静寂は変わらず、小三郎は胸がざわざわした。


「どうぞ、お入りください」


 促され、八畳ほどの部屋に入り、刀を左に置いた。

 安川は脇差だけ差しており、優雅な動作で目の前に端坐した。

 安川の顔を間近で見るのはこれが二回目で、吸い込まれるような美貌に、一瞬目を奪われた。

 安川は顔を見られるのに慣れているのか、ゆっくりと口のはしをあげると、目を細めて笑った。


「めずらしいですね、柴山さんが訪ねてくださるなんて」

「そなたと話がしたかったのだ」

「私とですか」

「うん」


 小三郎は胸をざわつかせながら、思いきって言った。


「英之助のことなんだけどね」

「柾木さんがなにか」

「そなたと英之助の……その、よくない噂を耳にしたものだから」

「よくない噂とは?」


 安川が小首を傾げてくすくす笑った。小三郎はむっとして顔をしかめた。


「なにがおかしいのだ」

「はっきり仰ってくださっていいんですよ、柾木さんと私が愛人の関係にあることを確認にいらしたのでしょう」


 小三郎は呆気にとられ、相手を見つめた。

 安川は唇のはしを上げて、


「どんな噂か知れないが、そんなくだらない話をするために貴方はわざわざいらしたのですか」


 と、吐き捨てるように言った。


「俺は……」

「あんまりな方ですね、柴山さんは」

「え?」

「だって、私と柾木さんとの仲をこわしに来たんでしょ。まわりがなんと言おうと、私は柾木さんを愛しているので別れませんよ、なにがあってもね」


 安川の言葉が胸に突き刺さり、小三郎は茫然として相手の顔を見上げた。

 安川は能面のような感情のない目で小三郎を見ていたが、すっと目を逸らした。

 その時、突然、襖が開いたかと思うと、英之助が現れた。

 茫然としている小三郎の前に、英之助がどかりとあぐらをかいて座った。

 立ち代わり、安川は黙って出て行く。


「え、英之助……」


 久しぶりに見る英之助は、変わらずたくましい容貌をしていた。

 顔つきは前よりも勇ましくなり、男らしさが溢れていて、小三郎は驚いた。

 しかし、英之助は小三郎を睨みつけ、


「なにか意見があるのなら言ってくれないか」


 と、怒気を含んだ声で言った。

 小三郎は気おされて声が出なかった。


「籐七から頼まれて来たのだろう。でなければ、自分のことでせいいっぱいなお前がここに来るはずがないからな」


 つき放した言い方に愕然とする。小三郎は首を振って、


「ご、誤解だ。俺は、お前のためを思って……」


 言いわけをしたが、聞いてくれる様子はなかった。


「俺を信じることの出来なかったお前が俺のためを思ってここに来たというのか。どうでもいいことだが、お前に振られてから、俺がどんな思いでいたか知らないだろう。籐七の言葉を受け入れ、俺の気持ちは踏みにじる。そんなお前に惚れていた俺はどうかしていたと今は思っているよ」


 まるで人が変わってしまったように、ひどい言葉ばかり吐き出す。


 小三郎は信じられない思いで相手を見つめた。

 英之助は突然立ち上がると、吐き捨てた。


「お前の顔を見るのもいやな心持ちだ。俺は自分の意思でここにいる。邪魔をするな」

「ま、待ってくれ、英之助」

「まだ、なにかあるのか?」


 こちらも見ようともせず、怒りを押し殺した低い声がした。

 小三郎はごくりとつばを飲んで言った。


「し、しあわせか?」

「なに?」


 英之助が不快そうに顔をこちらに向けた。


「し、しあわせか? 俺の言いたいのはそれだけだ」

「お前のそばにいるよりはましだな」


 心臓が止まってしまうかと思った。


 ここまで憎まれているとは知らなかった。


 わけが分からず小三郎は追いかけようとした。しかし、立ち上がった時、急にめまいがし、ふらりと壁に手を突いた。ずるずるとその場にしゃがみ込む。


「英之助、待ってくれ。もう駄目なのか、俺とは話もしてくれないのか」


 情けない姿をさらして、英之助に手を伸ばした。しかし、英之助は冷たく見下ろした。


「安川と契りを交わした」

「え――?」

「あの男は芯から俺を愛してくれている。裏切ることはしたくない」


 頭から冷水を浴びたような、そんな衝撃があった。




 ――契りを交わした。




 はっきりと言い渡された言葉によって、すでにふたりは一線を越えていたのだと知った。


「……も、申しわけない」


 小三郎はがくりと膝をついた。


「はっきり言ってくれて良かった。今、お前に言われてようやく気がついた。俺は、ほんとうにお前の気持ちを踏みにじるところだったんだな、困らせてほんとうにごめん」


 英之助は無言だった。


「これだけは信じてくれ、俺は、お前のしあわせを願っている」



 顔を上げると、背中が見えた。



 あの日のうな垂れた背中ではない、前を向いて決断している男の背中であった。

 自分の役目は終わった。英之助のそばにいるのは自分ではなかった。

 またたきをした小三郎の目から涙が滑り落ちた。





 それから、組長屋を出て自分の長屋には戻らず、小三郎は江戸屋敷を出た。そのままうろうろと居酒屋をまわり、気がつくと、飯台に顔をうつぶせ、盃を持って目を閉じていた。

 どんなに酒を飲んでも頭に浮ぶのは、安川と英之助であった。

 小三郎は、安川に激しく嫉妬した。

 今、あの男は、かつて自分がされていたように、英之助に愛されているのだ。あの日を思い出すたび、身体が熱くなる。しかし、それらすべて安川のものなのだ。

 英之助のぬくもりから手を離したのは自分だ。いまさらその手を取り戻したいと願っても聞き入れてはくれまい。むしろ、呆れられ、けいべつされるに決まっている。あの冷ややかな目を忘れることはできない。


 盃を傾けて酒を続けて飲んだ。出された酒は水で薄めてあって酔いが回るのも早かった。


 ひじを突いて銚子を傾けたが、一滴も出ない。銚子を放り投げ、空っぽの盃を眺めてから立ち上がった。足元がふらついて、飯台に手をつく。人払いをしたので誰も助けてはくれなかった。


 勘定を払って外へ出ると雨が降っていた。激しい雨脚の中、肩を落として歩いた。


 頬を濡らす雨に涙が混じっていたことに、小三郎は気が付かなかった。






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