day break 1
自分が見ている世界と他の人が見えている世界が違っている可能性を考えたことはあるだろうか?
普通の人間は否と答えるだろう。目の前の人の営みの光景を別の人が見ても同じに映っていると考えるのが普通だ。
別にごく一般的な街を見て、私の場合車は地面を走っているのに隣の人には宙に浮いているといった奇天烈な話を言っているのではない。
例えるならば学校の校舎から見える一本の木。それが風に揺られている光景を見て自分達の日常と照らし合わせてから人は物事を考えた場合の話。
夏の場合、青々と茂った若葉が心地よい風に揺られている。
冬の場合、葉の落ちた枝に寒々と風が吹きつけている。
こういう具合に人は季節や情景、見ている人の感情によってその光景を認識するだろう。そして同じものを同じように見れば、誰もが同じ光景を共有していると考えるだろう。
それが普通だ。
そして川澄のどかには世界は輝きながらもつまらないものに見えていた。
『おはようございます、今日も綺麗ですね』
「おはよう。あなたも綺麗よ」
『会長、おはようございます』
「……私はもう会長じゃないのよ?」
『おはようございます』
『今日も美しい……』
『きゃあ~~! のどか様だわ!』
こんな風に女子生徒には憧れの黄色い声がそこら中から鳴り響き、男子生徒からは熱い眼差しを浴びるのがのどかの登校風景であり、私立葉桜学院の朝の恒例行事だった。
長く綺麗な黒髪に日本人離れしたすらりと伸びた足。スタイルは女性の憧れを維持しており、その顔は誰もが劣情を催すほど綺麗で凛としている。誰もが惚れ惚れとするのどかの姿に教師ですら朝の挨拶を忘れて見蕩れるほどだ。
これがのどかの二年と半年続いている朝の光景だった。
彼女は現在、高校三年生。
入学当初から成績優秀、スポーツ万能、品行方正、容姿端麗と絵に描いた優等生をやってきたのどか。最初の半年は男子生徒に毎日のように告白され、次の半年は女子生徒。学院の生徒会長になってからはまるでこの学院の象徴のように崇拝される日々を送る。
勿論彼女はそれを楽しんでいた。だが最近ではわずらわしく感じてきてもいたのだ。
会長という仕事を後輩に預けた後でも誰もがのどかを学院の支配者である事を望み強要し続ける。おかげで彼女はどこに行っても皆から一歩離れた立ち位置で学校生活を送り、まともな友達などほとんどいなかったのだ。そのことが少しばかり寂しかった。
彼女はいつまでも優等生の仮面をかぶり続ける。それは周囲が望み、そして自分がやってきた結果だからだ。
「おはよう、のどか。いつも大変ね」
自らの教室に入ってすぐに数少ない友人である赤城月音が声を掛けてきた。彼女は茶色がかった髪をツインテールとして束ね、勝気な表情でこちらを見ている。
「そんなことないわよ。これも慣れね」
「さすがはこの学院のアイドル様は言うことが違うねぇ~」
「やめてよ、全く。そんなんじゃないわよ……」
月音の言葉を笑いながら否定してのどかは自分の席に座る。
この教室にいるクラスメイトは学院でもかなり特殊で出来る限りのどかに近寄ってこない。それは彼女を避けているというのではなく、この教室でだけは彼女を普通の生徒の様に扱おうという暗黙の了解が存在するからだ。おかげでのどかの周りに群がってくることは少なく、彼女の心の休まる場所の一つでもあった。
……ただこの悪友は別として。
「だめだめ……。のどかは全く自覚が足りてない!」
「……何が?」
「あんたがどれだけ凄い人間なのか、だよ」
月音はのどかに対し一切の遠慮をしない。それこそ普通の女友達の様に話しかけてくれる数少ない友人ではある。そのことを嬉しく思う反面、その押しの強さに面を食らうことがしばしばあった。
「いい? あんたは将来この国を背負って歩いていく人間なのよ? ならこの私に付いてきなさい、くらいの押しが必要なのよ! 謙虚さも大事だけどやり過ぎると逆に敵を作るわよ!」
ビッシっとのどかを指差して熱弁する月音にそれを聞いていたクラスメイトが同意の意思を示すように一斉に首を縦に振る。
「そ、そうかしら……」
「そうよ、絶対そう! のどかだって将来、人の上に立ちたいんじゃないの? 目指せ!この国初の女性内閣総理大臣ってね」
「それは……そうかもしれないけど……」
月音の言葉に対するのどかの答えは小さかった。
のどかの親は政治家というわけではない。ごくごく普通のサラリーマンと専業主婦の家庭だ。だがそんな二人の間に出来た子がこんなにも優秀であった為、当然親の期待も大きい。月音の言う内閣総理大臣は大げさだが、それでもかなりの地位のある仕事に就くこと周りから期待されているのは事実だ。
……ここに本人の意思は介在しないが。
「けど……。別に何かをしたいわけじゃないのよね……」
高校三年生という将来の事について真剣に考えなければならない時期に来ているのだが、のどかには何か特別に切望する仕事はなかった。
周りの期待が大きいだけに彼女はどうせそうなっていくのだろうなという漠然と定められたレールは見えている。だがそれが少しだけわずらわしくも思い始めていた。
これがどれだけ贅沢な悩みなのかは理解しているつもりだ。
他のクラスメイト達は自分の将来について考えるだけで少しの期待と大部分の不安を胸に秘めながら生活している。
だがおそらくのどかは望めば大半の職に就くことが出来るだろう。それはこれからも彼女が努力を続けて行く事が前提だが、それでもほとんど確実に彼女は優遇される。
それほどのどかの能力は他を圧倒しているのだ。
「贅沢な悩みね……全く」
羨ましそうに頬杖をつきながらのどかを軽く睨みつける。
「そうね。私もそう思うわ……」
「私なんて単位ですら結構危ないんだから……まあ、あいつよりはマシだけど」
そう言って月音が顎で指したのはたった今、学校に登校してきた一人の男子生徒だった。
ぼさぼさの黒髪と大きめな眼鏡でやぼったい感じを醸し出している少年で彼の名前は柏木竜馬。その名にもある猛々しい竜や雄々しい馬など微塵も感じさせない呑気な男だった。
「のほほん、また窓の外眺めてる。全く何がそんなにいいのかね?」
のほほんとはその名の通り、窓の外をぼっ~と眺めている竜馬に付けられたあだ名だった。のどかが知っているかぎり彼は常に何も考えていない様な幸せそうな顔をして外を眺めていた。授業中も休み時間も関係なく常に。その為成績は学年でも指折りの悪さであり、そんな彼を皆はまるで存在しない人物の様に扱っていた。
だがのどかは誰一人見向きもしない彼の事が意外に気にいっていた。それは自分のやりたいことを誰の目もはばからずに、気にすることなくやっていた。
それは周囲を常に人で溢れさせ、輪の中心にいるのどかとは全く正反対だったからだ。だが彼がうらやましいと思ったことはない。
それでも皆がつまらなそうに日々を生きている時間を何だかとても愛おしそうに見ている彼にのどかは興味を持っていた。それは彼がまるで自分たちとは生きている時間が違う様に思えたからだ。
「何が見えるんだろう……」
竜馬を見ていたのどかは思った。彼は何を見ているのか、どこを見ているのか、と。
「そんなもん、グラウンドでしょ? 誰か好きな奴でもいるんじゃない?」
「え?」
「え? って、まさかのどか……。あんた、のほほんの事が……」
心の声が口から洩れていた事に驚いたのどかを月音は彼女が竜馬の事を気になっているととったようだ。なんだか壮絶にびっくりしている。
「ち、違うよ! そんなんじゃないってば!」
「もしそれが本当なら、私、のほほんを殺さなくちゃならない! あいつ、いつの間に私ののどかを……!」
腕まくりまで始める月音にのどかは慌てて彼女を止める。
「違うってば! ……ただ、彼の目がいつも優しそうだったから、気になっただけ」
「そう……。ならいいわ」
のどかの雰囲気が変わったことでこれ以上茶化すのは悪いと考えた月音は浮かせた腰を元に戻す。するとタイミング良くチャイムが鳴った。その音と共に皆が一斉に自分の席に戻っていた。
自分たちが受験生であるという自覚がある人間は単語帳などを眺めながら先生の登場を待ち、あまりないものは座りながら周囲と話を続ける。
そんな中、のどかは竜馬と同じように窓の外を眺めるのだった。自分にはいつもと何も変わらない風景が彼にはどのように見えているのか少しばかり気にしながら。