エピローグ 明日のパン
一年後。 御子柴は、埼玉県の郊外にある小さな商店街を歩いていた。 古びた店舗の一角に、新しいパン屋がオープンしていた。 『ベーカリー 健』。 派手な看板も、行列もない。 だが、店からは小麦の焼ける、素朴で温かい香りが漂っている。
ガラス戸を開けると、エプロン姿の沙耶が「いらっしゃいませ」と明るい声で迎えてくれた。 奥の厨房では、彼女の父親と思われる職人がパンをこねている。 そして、カウンターの横では、小学生になった息子が手伝いをしていた。
「先生! 来てくれたんですね」
沙耶の顔色は良く、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「開店おめでとうございます。……いい匂いだ」
「はい。高級な材料は使えませんけど、地元の小麦を使って、添加物を入れずに焼いています。夫が……本当に作りたかったのは、こういう『毎日のパン』だったと思うんです」
御子柴は、食パンを一斤買った。三百円。 ずっしりと重く、温かい。
「ありがとうございます。……先生のおかげで、また前を向けました」
「礼には及びません。僕はただ、ゴミ掃除をしただけです」
店を出て、御子柴はパンをちぎって口に入れた。 甘ったるい香料の匂いはしない。 噛みしめると、小麦本来の味がした。 苦い戦いの後に残った、確かな希望の味だ。
御子柴は空を見上げた。 今日もまた、どこかで甘い言葉の罠が仕掛けられているだろう。 だが、戦うことを諦めない人間がいる限り、その闇は晴らせる。
「さて、事務所に戻るか」
彼はネクタイを緩め、雑踏の中へと歩き出した。 そのポケットには、新たな依頼人からの留守電が入ったスマホが震えていた。
(完)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




