第一章 甘い香り、苦い味
小章① 駆け込み寺
梅雨明けの七月。東京・神田の雑居ビル。 築四十年は下らないそのビルの三階に、『御子柴法律事務所』の看板がひっそりと掲げられている。 エレベーターはなく、階段の踊り場には古びた灰皿と、何年も前の週刊誌が積まれていた。 だが、その薄汚れたドアを叩く者は後を絶たない。 ここは、フランチャイズ契約に絡むトラブルを専門に扱う、日本でも数少ない「被害者の駆け込み寺」だからだ。
所長の御子柴 礼二は、執務机で一本のタバコに火をつけた。 三十九歳。ボサボサの黒髪に、無精髭。ワイシャツの袖をまくり上げ、ネクタイは緩めている。かつては大手渉外事務所のエース弁護士としてM&Aや企業法務を扱っていたが、ある事件をきっかけに「こちら側」の世界へと降りてきた。 机の上には、相談者から持ち込まれた分厚い契約書の束が山積みになっている。コンビニ、学習塾、コインランドリー、そして最近急増している「唐揚げ専門店」や「高級食パン」。 夢を売るビジネスの裏側にある、絶望の記録だ。
「……先生、お願いします。助けてください」
ソファに座る女性が、涙声で訴えた。 飯田 沙耶。三十代半ばの主婦だ。彼女の横には、五歳くらいの男の子が不安そうに母親の服を握りしめている。 彼女の夫、飯田 健一は、一週間前から行方不明になっていた。
「ご主人が残した書き置きは、これだけですか?」
御子柴は、一枚の便箋を手に取った。 『すまない。もう限界だ。保険金で借金を返してくれ』 震える文字でそう書かれている。
「はい……。夫は、去年の春に会社を早期退職して、退職金と貯金を全部はたいてパン屋を始めました。最初は『これで一国一城の主だ』って、すごく張り切っていたんです。でも……」
沙耶はハンカチで顔を覆った。
「オープンから半年もしないうちに、雲行きが怪しくなりました。お客さんは来ないのに、本部からの請求だけは毎月増えていくんです。材料費、ロイヤリティ、広告分担金……。夫は消費者金融からも借金をして支払っていましたが、先月ついに資金が底をついて」
御子柴は、沙耶が持参したフランチャイズ契約書に目を落とした。 表紙には、金箔押しでこう書かれている。 『高級食パン専門店 白雪』。 運営本部は『株式会社 二ブス・フード・リンク』。 最近、テレビやSNSで話題の急成長企業だ。「未経験でも月収百万円」「タピオカの次はこれだ」という派手なキャッチコピーで加盟店を募り、またたく間に全国三百店舗を展開している。
「『白雪』か……。最近、ここに関する相談が増えている」
御子柴は煙を吐き出した。 甘いパンの香りの裏に、腐臭が漂っている。
「ご主人の借金総額は?」
「……銀行からの融資が二千万円。消費者金融が五百万円。それに、本部への未払い金が三百万円です」
二千八百万円。 退職金を失った上に、この負債。一般家庭が背負える額ではない。 健一が死を選ぼうとするのも無理はない。
「分かりました、飯田さん。引き受けましょう」
御子柴はタバコを揉み消した。
「まずはご主人の捜索願を出すのと並行して、債務の整理をします。そして……このふざけた契約を結ばせた『二ブス・フード・リンク』に、落とし前をつけさせます」
御子柴の目が、鋭い光を帯びた。 彼は知っていた。 これは単なる商売の失敗ではない。 最初から加盟店を食い物にするために仕組まれた、「貧困ビジネス」だということを。
小章② 白い悪魔
翌日。御子柴は『白雪』の店舗を視察するために、都内の私鉄沿線にある駅へと向かった。 飯田健一が経営していた店舗だ。 駅前の商店街から一本入った、人通りの少ない路地裏。 『高級食パン専門店 白雪 練馬店』の看板が出ているが、店はシャッターが下りたままだ。入り口には「臨時休業」の張り紙が風に揺れている。
「……ひどい立地だな」
御子柴は周囲を見回した。 高級食パンのターゲット層である富裕層や流行に敏感な若者が通るような場所ではない。近所にあるのは、古びた八百屋とクリーニング店だけだ。 本部はこの物件を「Aランク立地」として飯田に紹介し、高額な加盟金と内装費をふんだくったのだ。
御子柴はシャッターの隙間から中を覗こうとした。 その時、背後から声をかけられた。
「お客さん? その店、もうやってないよ」
隣の八百屋の店主だ。
「ああ、そうですか。……店長さんは?」
「一週間くらい見てねえな。真面目そうな人だったけど、いつも暗い顔をしてたよ。……そりゃそうさ。あんな高いパン、この辺じゃ誰も買わねえよ。一本千円だぞ? スーパーなら百円で買えるのに」
店主は呆れたように言った。
「本部の人間は来ましたか?」
「ああ、昨日来てたよ。黒いスーツ着た、ガラの悪そうな連中が。『店長はどこだ! 金払え!』ってシャッター蹴飛ばして帰っていった。……ヤクザみてえだったな」
御子柴は礼を言って離れた。 二ブス・フード・リンク。 社長の権藤 剛は、メディアでは「飲食業界の革命児」ともてはやされている。元暴走族という経歴を売りにしており、強気な発言と派手なパフォーマンスで信者を集めているカリスマ経営者だ。 だが、その実態は、加盟店を食いつぶすハイエナだ。
御子柴は事務所に戻り、飯田の店の帳簿を精査した。 そこには、驚くべき数字が並んでいた。 売上は月八十万円程度。 対して、原価(材料費)が四十万円。家賃が二十万円。光熱費が十万円。 そして、本部へのロイヤリティが定額で十万円。 さらに「システム利用料」「広告協賛金」「研修費」などの名目で、毎月二十万円近くが引き落とされている。
「……最初から黒字になるわけがない」
御子柴は舌打ちした。 原価率が50%を超えている。飲食店の常識(通常は30%程度)を逸脱している。 理由は簡単だ。加盟店は、小麦粉やバターなどの材料を、すべて本部から仕入れなければならないという契約(拘束条項)があるからだ。 本部はその材料を、市場価格の倍以上の値段で加盟店に卸している。 つまり、パンが売れようが売れまいが、本部は「材料の卸売り」と「固定ロイヤリティ」で確実に儲かる仕組みになっているのだ。
赤字が出れば、オーナーは自分の貯金を切り崩すか、借金をして支払うしかない。 そして資金が尽きれば、店を取り上げられ、違約金を請求されて放り出される。 残るのは、本部の利益と、借金まみれの元オーナーだけ。
「奴隷契約だな」
御子柴は契約書の条文に赤ペンを入れた。 第15条『中途解約違約金』。 第22条『競業避止義務』。 第38条『仕入先の指定』。 独占禁止法違反(優越的地位の濫用)の疑いが濃厚な条項のオンパレードだ。
戦う材料は揃った。 だが、相手は数百店舗を抱える巨大企業だ。法務部もあれば、裏の繋がりもあるだろう。 個人の弁護士が正面から挑んで勝てる相手ではない。
その時、事務所の電話が鳴った。 警察からだ。
「……はい、御子柴です」
『飯田健一さんの代理人の方ですね? ……ご主人が見つかりました』
刑事の声は重かった。
『山梨の樹海で、車の中で練炭を……。残念ですが、死亡が確認されました』
御子柴は受話器を握りしめた。 遅かった。 飯田健一は、家族を守るために、自らの命を保険金に変える道を選んでしまったのだ。
「……分かりました。奥様に伝えます」
電話を切ると、御子柴は窓の外を見た。 夏の強い日差しが、アスファルトを焼いている。 怒りが、腹の底から湧き上がってきた。 これはビジネスではない。殺人だ。システムによる大量殺人だ。
「権藤……。ただじゃ済まさんぞ」




