人魚姫に転生しましたが、泡になって消えてたまるか!
人魚姫は――ラウラは姉姫たちの泣き顔を思い出しながら、涙を堪えてナイフを振りかざした。窓から差し込む月明かりに切っ先がキラリと光る。
すでにニコラス王子は隣国の王女アマーリエとの結婚が決まった。つい先日公式発表されたばかりだ。一週間後には王侯貴族を招いた婚約披露パーティが開催される。
この恋が叶うことがない以上、生き延びるには魔女の言葉通り殺すしかない。王子の返り血を浴びれば地上でのすべての記憶を失い、また人魚として青い海で幸福に暮らせる。――わかっていても躊躇ってしまう。
悲壮な表情のラウラとは真逆に、ニコラスはもうじき命を絶たれるとも知らず、寝返りを打ち無防備な寝顔を見せた。
さらさらとくせのない金髪がシーツの上に零れ落ちる。
「う……うん」
目は眠りに閉ざされているが、その色が若葉の緑とよく似ていることを、ラウラはよく知っていた。
「……っ」
声にならない声が喉の奥から漏れ出る。
(ダメ。やっぱり殺すなんてできない)
住み慣れた海での暮らしを捨て、自慢だった歌声を失ってまで、手に入れたかった人なのだ。
(お父様、お姉様たち、ごめんなさい。私はやっぱり……)
ナイフもろとも我が身を海に投げ、泡となって消えてしまおう。こんなに悲しい思いをするくらいなら、もう二度と生まれたくはない。二度と恋なんてしたくない――。
ナイフを下ろして目を伏せ、身を翻したその時のことだった。
「アマーリエ……」
目を閉じたままのニコラスの形のいい唇から女性の名が零れ落ちる。
アマーリエ王女を夢に見るほど愛しているのだと思い知り、胸を切り裂かれるように悲しかったが、同時に今度こそ諦めがついた。
(ニコラス様を本当に助けたのは私だったけど、アマーリエ様はそんなことがどうでもよくなるくらい優しい人だった……)
容姿だけならラウラの方が勝っていただろう。腰まで流れ落ちる波打つ銀の巻き毛も、海の色を映した瞳も、人には有り得ぬ美貌も、なよやかでありながら女らしい肢体もだ。
嫉妬をし、自分を王子から引き離そうとする女なら憎めただろうに、アマーリエは誰に対しても分け隔てなく慈悲深く、その心の美しさにラウラですら魅せられた。あんな聖女に勝てるはずがなかったのだ。
(ニコラス様、アマーリエ様とどうかお幸せに……)
ラウラがぐっと唇を噛み締め、寝室を出て行こうとしたその時のことだった。
「……うう~ん、アンナ」
またニコラスが寝言を口にしたのだ。しかも、アマーリエではない別の女の名前をだ。
(は、アンナ!? アンナって確か第一王女様の侍女じゃ……)
よほどいい夢を見ているのか、ニコラスの顔がへにゃりと崩れる。
「バーバラ……クラーラ……エミリエ……(女の名前)……(女の名前)……(女の名前)……愛しているよ」
読み上げられた女の名は全部で十二人。
ラウラの声の出ない口が魚のようにパクパクと閉じては開いた。
バーバラは侍女頭のアラサー美女、クラーラは十代の新人メイド、エミリエは隣国から来た秀才留学生ではなかったか。なぜアマーリエではない女たちを呼ぶのだ。
嫌な予感がラウラの胸を過ったのと、寝室の扉が蹴破られたのとが同時だった。
「「「ニコラス様―――っ!!!!!! アマーリエ王女と結婚ってどういうこと!?!?!?」」」
一ダースほどの女の群れが雪崩れ込んできたのだ。
(えっ……ちょっ……)
ラウラはその雪崩に巻き込まれ、たちまちもみくちゃにされ、廊下にポイ捨てされてしまった。
(あ、あいたたた……)
したたかに打ち付けた尻をさする。その間にも寝室では修羅場が繰り広げられていた。
ニコラスがバーバラの往復ビンタで叩き起こされ、クラーラに胸倉を掴まれ、エミリアその他八人の女に鼻息荒く問い詰められている。
「つい三日前私と一生一緒にいてくれるって言いましたよね!?」
「結婚するなら昨日のキスはなんだったんですか!?」
「私を愛しているって言ったのに、この女たちはなんなの!?」
どうやら全員先日の公式発表でニコラスの結婚と十二股の浮気を知ったようだ。
ようやく事態を把握したのだろう。ニコラスが目をキリリとさせた。
「……嘘は言っていない!」
微笑みながら全員の顔をぐるりと見回す。
「僕は皆を同じくらい愛しているんだ。結婚したからと言って別れる気はない! もちろんアマーリエにも許可を取るつもりだよ」
次の瞬間、ラウラの恋心にぴしりと亀裂が走った。バベルの塔さながらにガラガラと音を立てて崩壊していく。
(な、な、な、なんなのこいつ!)
怒りとショックで神経が焼き切れそうになる。
プッツン――そんな音を脳内で聞いた気がした次の瞬間、ラウラは目を見開いて口を押さえた。
(……私、よりによって人魚姫に生まれ変わったの!?)
前世の記憶を思い出したからだ。
――ラウラの前世はバツイチアラサー会社員。
元夫とは同期入社の共働き夫婦だった。
ところが、結婚三年目から次第に夫の態度が冷たくなり、折半していた家計にも金を入れなくなった。耐えきれずに理由を問い質すと、「俺と別れてくれ」と離婚届を突き付けられたのだ。「お前と一緒にいても安らげない」が理由だった。
さすがに怪しいと思い興信所に調査を依頼。新入社員と浮気をしていたと知った時にはショックだった。
双方からそれなりの慰謝料をぶんどり離婚したものの、元夫はさっさと浮気相手と再婚してしまったこともあって、裏切られた心の傷はなかなか癒えなかった。
そんな中会社帰りにふと目に入った書店に立ち寄り、可愛い絵柄に惹かれて何気なく絵本を手に取った。それが「人魚姫」だった。
他の女に男を取られた人魚姫に大いに共感したものだ。ついその場で泣いてしまい、涙でページを濡らしてしまったので、弁償するつもりで絵本を購入。
その後鼻をグズグズさせながら書店を出、横断歩道を渡ろうとしたところ、右折してきた車に轢かれて死んでしまったのだ――。
そこまで思い出したところではっと我に返る。
寝室では相変わらず王子が十二股を掛けた罪状で断罪されていた。
「まさか、全員愛人にするつもりだったんですか!?」
「そんな、愛人じゃなくて恋人だよ」
「屁理屈こくなや色ボケ!」
「ギャー!」
ニコラスの断末魔が響き渡る。
「……」
ラウラはゆらりと立ち上がると、もはやカオスと化した寝室をあとにした。
(……なんなのこの脱力感)
幽霊さながらにふらふらと王宮を抜け出す。
夜遅いからか大通りも下道も人通りは少ない。途中、何度も「そこの綺麗な姉ちゃん! 一杯どうだい!」とナンパされたが無視した。
遠くから寄せては返す波の音が聞こえる。その音を追うと王宮最寄りの波止場に辿り着いた。
(姉姫様……)
ラウラの気配を察知したのか、月明かりに照らし出された海から、人魚の姉姫たちが次々と顔を出す。なぜラウラがショックを受けているのかもうわかっているようだ。
早速世話焼きの長女に海にいた頃のように説教された。
「だーから言ったでしょ。あの王子はどうしようもない浮気性だって。でも、あなた全然人……じゃなく人魚の話を聞かないから」
次女が茶々を入れる。
「ニコラス王子のアレは浮気じゃなくて全員に本気なのよ。だからラウラも騙されたんでしょ」
(余計悪いわ!)
「ほら、大叔母様も結局泡になっちゃったって言うじゃない」
その大叔母が本物の人魚姫なのだろう。ということは、自分は後世のオタクがノリで書いた、二次創作のギャグ続編の間抜けな負けヒロインということか。
ラウラは膝を抱えてその場に座り込んだ。
(……私全然気付かなかったというか、現実を見ていなかったというか……)
百年の恋も冷めるとはまさにこのことだ。
ノリの良い次女がうんうんと頷く。
「まあまあラウラ、初恋なんてほとんどが夢と幻でできているから仕方ないわよ。男なんて星の数ほどいるから元気出しなさい。それに、これでもう憂いなくサクっとニコラスを殺れるでしょ?」
(い、いや、それはさすがに……)
前世の意識が蘇ってしまったので、倫理的にも人殺しには躊躇いがある。
長女が呆れたように溜め息を吐いた。
「このままじゃ泡になってしまうわよ。いいの?」
全然よくない。さすがに十二股を掛けた浮気ヤロウのために命を捧げる気にはなれない。
海に身を乗り出して目で姉姫たちに問い掛ける。
(他に方法はない?)
長女と次女が顔を見合わせる。
「実は、あなたが生き延びるためには、もう一つ方法があるって魔女から聞いてきたの」
(えっ、どうすればいいの!?)
「あなた、魔女に願い事をする時、"王子様と結ばれること"って言ったでしょ? で、その時王子様の名前を具体的に言わなかったでしょ」
(え、ええ。あの時はニコラス様の名前をまだ知らなかったから……)
「いやー、ラッキーだったわ。つまり、王子様ならニコラスじゃなくても誰でもいいってことよ」
(え……)
そんな詐欺師の弁明みたいないい加減な契約でよかったのか。
次女が長女の言葉を受けて、びしりと人差し指をラウラに突き付けた。
「というわけでラウラ、新しい王子様を見つけて、さっさとモノにして来なさい!」
(そ、そんな!)
ラウラは思わず立ち上がり、無理無理!と首を横に大きく振った。
(だって、私恋愛スキル全然ないし! 前世だって元夫一人しか知らなかったのに!)
しかも、その元夫一人すら繋ぎ止めることができなかった。
ニコラス相手にも失敗するどころか、浮気性なのに手を出されることすらなかったのだ。あらためて女としてのプライドを傷付けられる。
恐らく非モテとは容姿の問題ではないのだろう。そんな非モテが一ヶ月で相思相愛の男など見つけられるはずがない。
まして、魔女との契約で喋ることもできないのに、今更どうやって男をたぶらかせというのか。
しかも、相手は王子様でなければならない。
ニコラスには兄弟はいなかったはずだし、だからと言って今から他国の王子様に挑むなど、勉強せずに東大を受験するようなものだ。
絶望にプルプルと小刻みに震えるラウラに長女が告げる。
「いい、ラウラ。……できるかどうかじゃない」
そして、次女と同じくビシリとラウラを指差した。
「――やるのよ」
(う、ううっ)
末っ子のラウラは昔から長女には逆らえない。つまり、やるしかなかった。
(で、でも、一体どうすれば……)
長女がチッチッチっと人差し指を揺らす。
「ラウラ、人間じゃなくてもいいのよ。契約書には人間の王子様とも書いてなかったでしょ」
(……へ?)
「タコの王子様でもナマコの王子様でもクリオネの王子様でも構わないってこと。これならワンチャンありそうじゃない?」
(せ、せめて人型の生き物がいいですう!)
「喪女が贅沢言うんじゃないわよ。第一それって他種族差別でしょう。もう後がないんだから選り好みはいけないわよ」
(差別じゃなくてタイプかどうかです! 私人型がタイプなんです! そ、それにクリオネって雌雄同体だから王子様なんだか王女様なんだか)
反論しようと更に身を乗り出す。ところが、途中で肩をがしりと掴まれ、ぎょっとして何者だと振り返った。
見覚えのある男が声を荒らげる。どうやら海に身を投げようとしているのだと勘違いされたらしい。
「早まるんじゃない!」
(あっ、この人は……)
月明かりのない闇を思わせる髪と瞳と、それら以上に印象的な精悍な頬に走る大きな傷跡――この特徴ですぐに誰だかわかった。
ニコラス王子の若き叔父――先月二十八歳になったばかりの王弟のラースだ。国王の信頼厚く王族というより軍人として有名である。
「まだ若い身空で何を考えて」
(だから、違うんですって!)
自殺する気など全然ないと、そう説明しようとしたが何せ声が出ない。
揉み合ううちに海水で濡れていたのもあって、つるりと双方足を滑らせてしまった。
「あ」
「あ」
(あ)
ラウラ、姉姫たち、ラースが揃って口をぽかんと開ける。
次の瞬間には揃って海に転がり落ち、水面から二人分の水飛沫が上がった。
※※※
まったく、元人魚なのに溺れるなど情けなすぎる。ラースに引き上げられなければどうなっていただろう。
(……くしゅんっ!)
ラウラが冷えから一つくしゃみをすると、ラースが済まなそうに「悪かった」と溜め息を吐いた。
すでに二人とも濡れた服から着替えている。
「てっきり命を断つつもりかと」
「……!」
ラウラはぶんぶんと首を横に振った。
(あの状況じゃ誤解して当たり前だわ)
若い女が一人、この世の終わりのような暗〜い顔で暗〜い海を見つめていれば、誰でももしや自殺するのではないかとヒヤリとするだろう。断崖絶壁近くの温泉旅館にお一人様で宿泊する女が警戒されるわけがよくわかった。
まったく、姉姫たちに面倒をかけただけではなく、王弟殿下まで巻き込むとはと情けなくなる。しかも、その王弟殿下の私室に連れて来られる羽目になるとは。
こっそりと室内を見回す。
ラースの私室は王族とは思えないほど簡素だった。調度品はどれも様式美よりも機能性を重視されているのがわかる。ラウラとラースが向かい合って腰掛けているソファも、無地で飾り気はないが非常に座り心地がよかった。
海上戦を描いた壁掛けのタペストリー、サーベルがいかにも軍人らしい趣味だ。
(確か殿下は海軍大将……だったよね)
このランベス王国は半島国家で海に突き出しており、伝統的に陸軍より海軍が重視されている。
前国王の第二王子だったラースは、成人前から海軍を志願し、入隊後はみるみる頭角を現し、王族で初めてトップの地位をいただいていた。海軍を率いて他国との数々の海戦に勝利しただけではなく、ランベスを大国に押し上げたのも、ラースの功績が大きいと言われている。
なお、頬の傷跡は戦闘中に負ったものなのだとか。しかし、その傷跡はかえって陽に焼けた精悍な美貌を引き立てていた。
長身で鍛え抜かれた肉体は逞しく、女顔で痩身のニコラスとはまったくタイプが違う。なんの変哲も無いシンプルな白シャツと黒ズボンを着ていてもサマになっている。
当然、縁談の釣書が他国、国内の王侯貴族から山と送られ、積み上げられているのだが、ラースは「結婚する気はない」と片端から断っているとも聞いていた。それどころか、社交界で貴婦人や令嬢たちから送られる秋並みも一切無視してるのだとか。
ラウラはニコラスの侍女とされていたせいで、大抵その側にいることが多く、ラースは遠目に見かけたことがあるだけだった。ラースはよく海軍の訓練や演習に海に出るので、王宮にいる方が珍しいのもあったのだろうが――。
そんなわけでラースの人となりをよく知らないこともあって、よほど女の理想が高い俺様なのだろうと思い込んでいた。しかし、こうして相対してみると随分と印象が違っている。
「体が冷えただろう。何か飲むか?」
ラウラはこくりと頷いた。ホットミルクがほしいと伝えようとしたが、あいにくまったく声が出ない。筆談ならできるので辺りを見回しペンと紙を探す。
ところが、ラースは「ホットミルクだろう」と頷き、ベルを鳴らしてメイドを呼んだので驚いた。
「ホットミルクを」
「はい、かしこまりました」
ラウラはメイドからホットミルクのカップを手渡され、思わずまじまじとラースを凝視した。
ラースが少々バツの悪い顔になる。
「お前はホットミルクが好きだっただろう」
その通りだった。元人魚だからなのか刺激のあるお茶や酒を受け付けない。飲めるものは水とミルクくらいなのだ。だが、ラースはいつ自分の許容範囲を知ったのだろう。
(……ありがとうございます)
ひとまずぺこりと頭を下げありがたくホットミルクをいただく。
ラースはラウラがふうふうする様子をじっと見つめていた。
(そんなに見つめられると困るんだけど……)
一体何が気になるのだろうと首を傾げる。途中、なんの前触れもなく、
「お前は王宮に来た頃からニコラスを慕っていたのだろう」
と一五〇キロストレートの質問を投げかけられたので、危うくホットミルクを吹き出しそうになってしまった。
(げっほげっほげっほ!)
派手に噎せ返りつつもなぜそれをと涙目をラースに向ける。
ラースはラウラの表情だけで言わんとすることを察したらしい。堅物そうな唇の端にどこか苦さを感じさせる笑みを浮かべた。
「……お前を見ていればすぐにわかる」
(う、嘘っ!)
まさかバレバレだったとはと心の中でムンクの叫びのポーズを取る。
ラースが今度はおかしそうに笑った。
「お前は話せないと聞いていたが、言葉などなくとも十分わかるから安心しろ」
そんなにわかりやすく単純なのかと複雑な気分になったが、そうか、だから海まで追ってきてくれたのかと納得がいった。
(……私がニコラス様の寝室に入るところを見たんですね? そのあと何があったのかも全部ご存知なんですか?)
「ああ、そうだ。もしやと思ってつけさせてもらった。……災難だったな」
ということは、あのニコラスと一ダースの女たちの修羅場も目撃したということになる。
ニコラスに思いを寄せていた自分がショックを受け、思い詰めて早まりはしないかと心配してくれたのだろう。
こうして私室に案内してくれたのも、人目につかないよう取り計らったのだと思われた。
思い掛けない優しさに胸が熱くなり、目の奥から涙が込み上げてくるのを堪える。
ラースは腕を組み溜め息を吐いた。
「甥は悪いやつではないがどうも気が多い。もうすぐ結婚するというのに困ったやつだ」
(あはは……)
ラウラも苦笑しつつ床に目を落とす。
(アマーリエ様はご存知なのかしら。知らずに結婚したら大変なことになるんじゃない?)
そこまで考えはたと我に返る。
今は色ボケニコラスを構っている場合ではない。命を掛かったミッションを達成しなければならないのだ。
「これからお前はどうするつもりだ? もうニコラスの侍女ではいられないだろう」
ラースの言葉も一向に耳に入ってこない。
「お前を海に落としてしまった詫びをしたい。もしよければ俺の――」
(――殿下!)
死に物狂いの形相でラースに詰め寄る。頼みの綱はもはやこの王弟殿下しかいなかった。
(お……男の人を……私に男の人を紹介してください。できれば私を今すぐ好きになってくれそうなイケメンの王子様を!)
ラースの黒い目が見開かれる。口の動きを読み取れたらしい。
「男を紹介?」
(お願いです。じゃないと私死んじゃう……)
ラースは顔を覆ったラウラの肩に手を置いた。
「落ち着け」
剣を握り続けて骨張った指の感触に、ラウラの心臓がドキリと鳴った。
一秒たりとも逸らそうとしない、真剣な眼差しに射貫かれ息を呑む。
「俺にわけを話してみろ」
――その後ラウラは身振り、手振りを交えてなんとか現状を説明した。
ラースが「なるほどそうか」と顎に手を当てる。
「余命一ヶ月の家族がいるので、その家族が生きている間に相手を見つけて結婚したいと……」
微妙に嘘をついてしまったが仕方がない。まさか、「私の正体は実は人魚で、タコでもナマコでもクリオネでもいいから、王子様と結婚しないと死んじゃいます」とは言えない。失恋して可哀想な子ではなく頭の可哀想な子扱いされてしまう。
本物の人魚姫である大叔母が生きていた頃とは違い、昨今のランベス王国はある程度科学が発展している。戦争では剣だけではなく大砲や銃も使われているし、さすがに二十一世紀の日本ほどではないが、医薬品もあれば外科手術も行われている。
一方で、人魚たちは知恵という最も強大な武器を手にした人間を警戒し、海に深く潜って滅多に人前には姿を現さなくなっている。そうした期間が数百年近く続いた結果、人魚は伝説やお伽噺でしかなくなっているのだ。
「それで、男を紹介か」
ラウラはこくりと頷こうとして、はっとして言葉を失った。
「ラウラ、どうした」
「……」
さすがに王太子であるニコラスと結婚できないとはもう納得している。それ以前にこの状態では恋愛どころか結婚も難しいのではないかと愕然としたからだ。
前世の記憶を思い出すまでは若さゆえか、恋が叶う未来しか思い描いていなかった。
しかし、よくよく考えてみれば自分は身分が高い、低い以前に人間としては身元不明。口も利けなければ長時間立っているのも難しく、首尾よく誰かと結婚できたところでろくに働くこともできない。
じわりと涙が込み上げてくる。
(……私、人間になったら本当に役立たずだ)
ニコラスはそんな女の身元保証人になり侍女にしてくれた。手を出さなかったのは障害のある自分に同情していたからだろう。レベルの高い浮気性かもしれないが、確かに深い優しさもあったのだ。
(私、殿下に無茶を言ってしまったわ。私に恋なんて贅沢品だったんだ)
男を紹介しろなどとは分不相応だったのだ。
「……」
ラウラがぐすりと鼻を啜るのを見て、ラースが無言で席を立つ。そして、ラウラの前に片膝をついた。
(で、殿下?)
小さな手をそっと取って海の色と同じ瞳を見上げる。
一方、ラースの黒く真摯な眼差しに射貫かれ、ラウラの心臓がドキリと跳ねた。
(あ、あの……)
続いてのラースの一言に時間が止まる。
「なら、俺と結婚してくれ」
「……」
ラウラは度肝を抜かれてラースをまじまじと見つめた。
(えっ、もしかしてドッキリ?)
ついまた室内を見回したが自分とラース以外は誰もいない。先ほどのニコラスの寝室での修羅場のように、約一ダースの女たちが押し入ってくることもなかった。
ラースが握る手に力を込める。
「冗談のつもりはない。男を紹介しろというのなら俺にしておけ」
「……」
「俺がお前のタイプかどうかは知らないが、少なくとも立場としては前国王の息子だ。つまり、王子様だな」
ラウラはしばし呆然としていたが、我に返って確かにそうだと一瞬納得してしまった。が、すぐにぶんぶんと首を大きく横に振る。
(むっ、無理ですよ! だって、殿下は王様の弟じゃないですか!)
一体何をとち狂ったのか。
ニコラスに次いで王位継承権もある王族だ。そんな男が氏素性の知れない女と結婚するなど有り得ない。
しかし、ラースは「問題ない」ときっぱりと言い切った。
「誰にも反対はさせない」
「……」
ラースの言葉には異様な説得力があった。ラースが決めたのなら人魚どころか、ホタテとでもヒトデとでもクラゲとでも結婚できそうだ。
(で、でも……)
泡になって消えないようにするためには、男でさえあればいいというわけではない。愛し愛されなければならない。
(あ、あの、同情なら止めてください)
ラウラはようやくそう唇を動かした。
(私、ちゃんと好き合った人がいいんです)
同情で結婚してもらうくらいなら、泡になって消えた方がましだ。
ラウラの「同情」という一言にラースの周囲の気温がぐっと上がる。
(えっ……)
ラウラが目を見開く間に、ラースはゆっくりと顔を上げた。
「……同情だと?」
――背筋がゾクリとした。
(お、怒ってる? どうして?)
ラウラが怯えているのを感じ取ったのか、ラースははっとして、「怒っているわけじゃない」と溜め息を吐いた。
「戦争にいくら勝ったところで、好きな女一人の心も射止められないのなら、意味はないと情けなくなっただけだ」
「……」
ラウラは目を瞬かせてラースを見つめた。
(……今、なんて言いました?)
ラースは熱っぽい黒い瞳をラウラに向けた。
「ずっとお前を見ていた。お前がニコラスを愛していると知っていても……諦められなかった」
時折海を懐かしそうに見つめる眼差しも、その海の色を映した青い瞳も、ニコラスを思って潤む目にすら惹かれずにはいられなかったと。
「恋は今からでも始められる。ゆっくりでいいから……俺のことを好きになってくれないか」
(……)
ラウラの心臓が今度はトクンと鳴った。
――それから一年後の春、王弟ラースの電撃結婚のニュースが全土を駆け巡った。お相手は遠方の小国の姫君で、声は出せないものの大層美しく、結婚式では仲睦まじそうにラースに寄り添っていたのだという。
ずっと女っ気がなかった海軍大将の結婚を、国民は皆心から祝福した。
ラースはその後愛妻の喉を治すために、世界中の伝手を辿って治療法を探し続け、ある日ついにその声を取り戻した。彼女の最初の一言は「ラース様……」だったので、感動のあまりその場で抱き締め、キスしてしまったのだとか。
なお、浮気王子ことニコラスだが、あんな修羅場を繰り広げたにも関わらず、結局アマーリエと結婚した。
アマーリエは王子の多情なところもすべて承知していたどころか、それをネタにしてニコラスをネチネチ虐め、一生尻に敷き続けただけではない。
国家財政を立て直し、産業を振興し、社会福祉制度を整えと大活躍。スーパーキャリアウーマンの女傑だったのだ。
すっかり影が薄くなったニコラスは浮気王子ではなくチョウチンアンコウ王子と呼ばれるようになった。
なぜならチョウチンアンコウのオスはメスの十分の一程度の大きさしかない。更にメスに癒着し寄生虫のように栄養をもらい、その後は精◯を提供するだけのヒモ兼種馬と成り果て、いずれメスに吸収される運命だからだ。
ちなみにのちにこのアマーリエも転生者だと判明し、ラウラと意気投合することになるのだが、それはまた別のお話。




