『満洲国、異世界へ遷都す ——関東軍、オークの大軍を九七式中戦車で撃滅セリ——』
撃滅シリーズ誕生しました。
昭和二十年八月九日、午前零時過ぎ。満洲東部国境、東寧。
雨は、泥と共に兵たちの士気をも削ぎ落とすように降り続いていた。
「隊長、雨脚が強まる一方です。これでは斥候も役に立ちません」
泥まみれの雨衣を纏った副官、李中尉が低い声で告げた。
関東軍国境守備隊、第一大隊長である相良少佐は、湿気で曇る双眼鏡を拭いながら、暗闇の彼方にあるソビエト連邦国境を睨み据えた。
「ソ連軍が動くならこの雨に紛れてだ。戦車のキャタピラ音を雨音で消す。奴らの常套手段だよ」
相良は吐き捨てるように言った。
情報は錯綜している。日ソ中立条約は破棄されるのか、関東軍主力の南下転進は本当か。確かなのは、ここに残された自分たち八百名あまりが、本国から見捨てられた棄石であるという予感だけだった。
死ぬなら、せめて一矢報いて死にたい。相良は腰の軍刀に手を添え、唇を噛んだ。
その時だった。
世界が、瞬いた。
爆発音ではない。閃光ですらなかった。
あえて表現するなら、空間そのものが一瞬だけ裏返り、そして元に戻ったような、強烈な吐き気。
視界が紫色に染まり、直後に強烈な耳鳴りが脳髄を揺さぶった。
「ぐっ……!」
相良は塹壕の泥壁に手をついた。
めまいが収まると同時に、彼は異変に気づく。
音が、消えていた。
あれほど激しく地面を叩いていた雨音が消え、肌にまとわりつく湿気が、乾いた冷気へと変わっている。
「……李、無事か」
「は、はい。今のは一体……新型爆弾でしょうか」
「わからん。だが、空を見ろ」
相良が指差した先。
分厚い雨雲は消え失せ、そこには見たこともない星空が広がっていた。
北斗七星が見当たらない。それどころか、見たこともない巨大な赤い月と、小さな蒼い月が、二つ並んで不気味に輝いている。
「馬鹿な……」
李が絶句した。
幻覚ガスか。相良は即座に防毒面の装着を命じようとしたが、肺に入ってくる空気は澄んでおり、土と草の匂いがした。
泥濘だったはずの地面は、いつの間にか乾いた荒野に変わり、周囲の植生も、満洲の針葉樹から、奇妙にねじれた巨木の森へと変貌している。
「おい、通信兵! 新京へ打電! 状況を報告せよ!」
「はッ! ……ダメです、繋がりません! 雑音ばかりです! 他の守備隊とも連絡不能!」
塹壕内がざわめき始めた。
ここはどこだ。俺たちは死んだのか。兵たちの不安が伝播していく。
その空気を切り裂くように、見張り台の歩哨が叫んだ。
「前方、動くものあり! 多数!」
相良は双眼鏡を構えた。
月明かりの下、森の縁から湧き出るように現れた影。
ソ連兵か。いや、違う。
シルエットがおかしい。鉄兜の形ではない。人間にしては肩幅が広すぎ、腕が長すぎる。
その集団は、銃ではなく、粗末な斧や棍棒のようなものを手にし、規律なき獣の群れのようにこちらへ向かってきていた。
「なんだ、あれは……?」
双眼鏡の倍率を上げる。
レンズ越しに映ったのは、豚と人間を醜悪に混ぜ合わせたような、緑色の皮膚を持つ巨人たちだった。口からは牙が飛び出し、充血した目で涎を垂らしている。
背筋に冷たいものが走った。
「生物兵器……か?」
李が震える声で呟いた。
ナチスの極秘研究か、あるいはソ連が人体実験で生み出した化け物か。相良の理性が、あり得ない光景を、あり得る「軍事技術」の枠に押し込めようと必死に回転する。
だが、現実は待ってくれない。
先頭の化け物が、こちらの陣地に気づき、空気を震わせるような咆哮を上げた。
『グガァァァァァァッ!!』
それは人間の発声器官から出る音ではなかった。
恐怖で数人の兵が後ずさる。
「ひ、怯むな!」
相良は軍刀を抜き放ち、声を張り上げた。
相手が何であろうと関係ない。ここは防衛線だ。一歩引けば、背後にいる開拓団の女子供が蹂躙される。
それがソ連兵だろうと、悪夢の怪物だろうと、やることは一つだ。
「総員、戦闘配置ッ! 相手は正体不明の敵性部隊である! 警告射撃不要、有効射程まで引きつけろ!」
ガチャリ、と三八式歩兵銃の遊底を操作する音が、乾いた荒野に響き渡った。
化け物たちの群れは、銃の恐ろしさを知らないのか、遮蔽物も取らず、ただ己の肉体を過信して猛然と突っ込んでくる。
距離五百。四百。三百。
相良は呼吸を整え、振り上げた軍刀を一気になぎ払った。
「撃てッ(テー)!」
刹那、数百の小銃と重機関銃が一斉に火を噴いた。
昭和二十年八月九日。
何処とも知れぬ荒野にて、帝国の最後にして最初の、未知なる戦争が幕を開けた。
轟音。硝煙。そして、断末魔。
国境の闇を切り裂いたのは、文明の灯火などではなく、冷徹な物理法則に従う鉛の嵐だった。
「ひっ、怯むな! 狙え! 胴体だ、胴体を狙えば当たる!」
古参軍曹の怒号が飛ぶ。
塹壕に据えられた九二式重機関銃が、独特の「保弾板」を吸い込みながら、キツツキのような低く重い発射音を奏でた。
六・五ミリ弾は、突進してくる巨体の肉を容易く貫通し、背後の岩ごと砕く。
巨人の群れは、近代戦術の「殺傷地帯」に、無防備な密集隊形で飛び込んでしまったのだ。前列が血飛沫を上げて崩れ落ち、それに躓いた後列を、左右からの十字砲火が薙ぎ払う。
「グ、ガァァ……ッ!?」
先頭を走っていたひときわ巨大な個体が、胸部を三八式歩兵銃で撃ち抜かれながらも、数歩進んで倒れた。
強靭な生命力だ。だが、頭を吹き飛ばされて動ける生物はいない。
ものの数分で、荒野は緑色の粘着質な血の海と化した。
「……撃ち方、止めッ(ヤメ)!」
相良の号令が響く。
銃声が止むと、耳鳴りと共に荒い呼吸音だけが場を支配した。
硝煙の臭いに混じり、腐った肉のような異臭が鼻をつく。
「損害報告!」
「……味方の被害、ゼロ! 敵、全滅の模様!」
李中尉が信じられないといった顔で報告する。
当然だ。相手は飛び道具すら持っていなかった。これは戦争ではない。虐殺だ。
だが、兵士たちの顔に勝利の安堵はない。月明かりに照らされた、緑色の皮膚を持つ死体の山。そのあまりの異様さに、嘔吐する新兵もいた。
「隊長。こいつら……人間じゃありません」
死体を確認した小隊長が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
相良は遺体の一つを見下ろした。
粗末な革の腰巻き。鋼のように硬い皮膚。そして、人間の頭蓋骨を飾りにした首飾り。
ソ連の秘密兵器? 否。断じて違う。こんな生物学的にデタラメな存在を造れる科学など、この地球上のどこにもない。
「……標本として数体を回収。残りは埋めるか焼却しろ。疫病を持ってるかもしれん」
「はッ!」
相良は努めて冷静に指示を出し、指揮所へと戻った。
理解不能な事象は後回しだ。まずは情報だ。
指揮所のテントに入ると、通信兵が通信機を耳に押し当て、必死に鉛筆を走らせていた。
「隊長! 新京と繋がりました!」
「繋がったか! 司令部の見解はどうなっている! この異常現象は何だ!」
「そ、それが……」
通信兵は、震える手でメモを差し出した。
そこに書かれていた内容は、相良の理解を絶するものだった。
——全管区、通信混乱。
——新京、ハルビン、奉天、全テノ都市ニオイテ「星座ノ変容」ヲ確認。
——朝鮮総督府、オヨビ内地(日本本土)トノ連絡、全テ途絶。
「……どういうことだ」
相良は呻いた。
新京でも、星が変わっている?
ここだけではない。満洲国全土が、ごっそりと「何処か」へ連れ去られたというのか。
日本本土との連絡途絶。
「……大隊長殿」
李中尉が、地図盤の前で重苦しい口を開いた。
彼は朝鮮生まれの将校だ。
「我々は、島流しに遭ったのかもしれません。国ごと」
「島流しだと?」
「ええ。神話のような話ですが……そう考えなければ辻褄が合いません。ここはもう、我々の知る地球ではない」
その言葉を否定しようとした時、テントの外から伝令兵が転がり込んできた。泥と脂汗にまみれている。
「ほ、報告! 斥候班、戻りました!」
「何を見た」
「敵の……本隊です! 先ほどの群れは、ただの先兵に過ぎません!」
伝令兵は、恐怖で引きつった顔で、丘の向こうを指差した。
「地平線が真っ黒です。その数、およそ二万……いや、もっとか」
「二万だと?」
相良は息を呑んだ。
こちらの大隊戦力は八百名。弾薬は定数通りだが、補給の当てはない。
先ほどの戦闘で、敵がただの野蛮人であることは分かった。だが、二万という数は暴力そのものだ。弾切れになれば、すり潰される。
「直ちに撤退しましょう」
李が即座に進言した。
「後方の連隊本部まで下がれば、まだ合流できる可能性があります。この拠点で孤立するのは自殺行為です」
「……」
「隊長! ご決断を! 奴らの足は速い。一時間もすれば、ここを取り囲みます!」
戦術的には、李の言う通りだ。
撤退し、戦力を集中させる。それが定石だ。今までの関東軍なら、そうしたかもしれない。
だが、相良の脳裏に浮かんだのは、この陣地の後方、数キロ先に広がる「開拓団」の集落だった。
日本から夢を抱いて渡ってきた農民たち。老人、女、子供。彼らは馬車しか持っていない。
我々が車両で撤退すれば、彼らはどうなる?
追いつかれる。そして、あの緑色の怪物どもに……。
今の関東軍は精鋭ではない。主力は南方に引き抜かれ、残っているのは老兵と新兵ばかりだ。
だからといって、守るべき同胞を見捨てて逃げれば、それはもはや軍隊ではない。ただの敗残兵の群れだ。
「……ならん」
相良は静かに、しかし断固として言った。
「撤退は許可しない」
「なッ……正気ですか! 八百対二万ですよ!?」
「我々が逃げれば、開拓団二千名が皆殺しになる。彼らの避難が完了するまで、我々はこの線を死守する」
相良は地図盤を拳で叩いた。
そこには、満洲の荒野に引かれた一本の防衛線が記されている。
「李中尉、全将兵に伝えろ。我々はここを枕に討ち死にする気はない、とな」
「は?」
「勝つために守るのだ。工兵隊を総動員しろ。有り合わせの資材でいい、鉄条網を三重に張れ。予備陣地も掘り返せ」
相良は、テントの入り口から見える、異様な二つの月を見上げた。
わけのわからない世界だ。だが、やるべきことは変わらない。
「相手が二万の獣だろうと関係ない。ここは関東軍の最前線だ。一歩たりとも、日本の土は踏ませんと叩き込んでやれ」
覚悟を決めた指揮官の目を見て、李中尉は一瞬息を呑み、次いで深く敬礼した。
その目には、諦めではなく、狂気じみた闘志が宿っていた。
「……了解しました。地獄の底までお供します、少佐」
遠くで、地鳴りのような音が聞こえ始めていた。
敵主力接近。
長い夜が、始まろうとしていた。
地響きが、兵士たちの胃の腑を揺さぶっていた。
二万の足音。それはもはや軍隊の行軍ではなく、意思を持った災害そのものだった。
照明弾がヒュルリと打ち上がり、人工の白昼が戦場を照らし出す。その瞬間、塹壕に張り付いた全兵士が息を呑んだ。
黒い波だ。
地平線の端から端まで、緑色の皮膚を持つ怪物たちが密集し、雄叫びを上げて押し寄せてくる。
「距離八百! 大隊砲、撃てッ!」
後方から、九二式歩兵砲の鈍い発射音が響く。
砲弾が敵の密集地帯で炸裂し、土砂と共に五、六体の怪物が空中に吹き飛ぶ。だが、波は止まらない。吹き飛んだ仲間を踏みつけ、さらに速度を上げて突っ込んでくる。彼らには死への恐怖がないのか。
「引きつけろ……まだだ、まだ撃つな!」
前線中隊長の怒号。
若年兵の手が震え、小銃の遊底がカタカタと音を立てる。
距離三百。敵の形相、剥き出しの牙、怒張した筋肉の血管までもがはっきりと見える距離。獣臭い風が塹壕に届く。
「撃ち方、始めェェェッ!!」
号令と同時、全火力が解放された。
九二式重機関銃が、軽機関銃が、数百丁の三八式歩兵銃が、殺意の暴風となって敵前衛を叩く。
前列の化け物たちが、見えない壁に激突したかのようにひしゃげ、肉塊となって弾け飛ぶ。続く者たちが死体の山に足を取られ、そこへさらに弾丸が降り注ぐ。
だが、敵の数はあまりに多い。死体を盾にし、あるいは死体を踏み台にして、じりじりと距離を詰めてくる。
「銃身交換だ! 早くしろ!」
「水だ、水をかけろ! 焼き付くぞ!」
機関銃座からは悲鳴に近い報告が上がる。連続射撃で赤熱した銃身が、冷却水を浴びてジュウと白煙を上げる。
その時、敵陣の中央から、異質な光が放たれた。
「なんだ!?」
相良が双眼鏡を向ける。
オ化け物の群れを割り、ひときわ巨大な影が現れた。身長は三メートルを超えようかという巨体。全身に赤黒い刺青を刻んだその鬼のようや怪物は、不気味な青白い光の膜を身に纏っていた。
「オオォォォッ!!」
鬼のような怪物が咆哮と共に、抱えていた岩石を投擲した。
砲弾のような速度で飛来した岩が、第一小隊の機関銃座を直撃する。土嚢が吹き飛び、兵士の悲鳴がかき消される。
「撃て! あのデカブツを止めろ!」
残存する銃座が火線を集中させる。
だが、信じがたい光景が展開された。
弾丸が、鬼のような怪物の直前で青白い光に阻まれ、火花を散らして弾かれたのだ。
「バカな……弾が効かない!?」
兵たちが絶叫した。
近代兵器の理屈が通用しない存在。未知の「妖術」を使う怪物。その事実は、兵士たちの心に原初的な恐怖を植え付けた。
鬼は一匹ではない。二匹、三匹と現れ、その巨体で鉄条網を紙細工のように引きちぎり、塹壕へと迫る。
「ひ、退却ッ! ここじゃ死ぬぞ!」
「持ち場を離れるな! 戻れ!」
戦線が動揺する。
防衛線崩壊の危機。相良の額に脂汗が滲む。
小銃弾では止められない。ならばどうする。
「……やはり、歩兵だけでは荷が重いか」
指揮所の相良は、受話器を握りしめ、決断を下した。
敵に対戦車兵器らしきものは見当たらない。ならば、装甲板と大砲の出番だ。
「特務班へ。虎の子を叩き起こせ」
相良は短く命じた。
「『鉄牛』、前へ。思う存分暴れさせろ」
***
前線の兵士たちは、絶望の中でその音を聞いた。
ガラガラガラ、という履帯の金属音。
そして、腹の底に響く空冷ディーゼルエンジンの咆哮。
「どけッ! 味方は伏せろォ!」
後方のカモフラージュ網を突き破り、土煙を上げてその「鉄の獣」は姿を現した。
九七式中戦車――通称「チハ」。
リベット打ちの無骨な装甲。車体前面と砲塔後部に突き出した機銃。そして、短砲身ながら威圧感を放つ五十七ミリ戦車砲。
この世界には存在しない「内燃機関」の猛々しい排気音が、戦場の空気を一変させる。
鬼が、新たな敵の出現に気づき、岩を振り上げて突進してくる。
生身の怪物と、鋼鉄の機械。
両者が激突する寸前、チハ車の砲塔が旋回し、ピタリと鬼の胸元に照準を定めた。
ドォォォン!!
腹に響く発砲音と共に、五十七ミリ榴弾が放たれた。
対戦車戦闘では貫通力不足とされる短砲身砲だが、その本質は「榴弾」による陣地破壊と対人攻撃にある。
大量の炸薬を詰め込んだ砲弾は、鬼の障壁ごと胴体を直撃し――内部で炸裂した。
青白い光が砕け散り、巨体が内側から破裂する。
上半身を失った鬼の下半身だけが、慣性で数歩よろめき、どうと倒れた。
「……すげぇ」
呆然としていた兵士の一人が呟いた。
チハ車は止まらない。
車体銃と砲塔機銃が火を噴き、化け物たちを薙ぎ払う。戦車の装甲に対し、化け物の棍棒や斧など爪楊枝にも等しい。
カン、キン、と虚しい音を立てて弾かれる武器。
鋼鉄の塊は、我が物顔で敵陣深くへと進み、無限軌道で異形の軍勢を文字通り「轢断」していく。
「見ろ! 戦車隊だ! 我々の戦車だ!」
「続けェ! 鉄牛に続けェッ!!」
逆襲のラッパが鳴り響く。
恐怖は消え去った。
鋼鉄の守護神を先頭に、日本兵たちは銃剣を煌めかせ、鬨の声を上げて塹壕から飛び出した。
形勢は逆転した。異世界の野蛮な暴力が、工業国家の鉄槌に屈服する瞬間だった。
それは、雪崩のような撤退だった。
鋼鉄の怪物――九七式中戦車に蹂躙され、指揮系統を失った化け物の軍勢は、蜘蛛の子を散らすように荒野へと逃げ去っていった。
背中を見せた敵を撃つのは容易い。だが、相良は即座に伝令を飛ばした。
「深追いは無用! 全隊、撃ち方止め! 弾薬と燃料を惜しめ!」
戦場に、再び静寂が戻ってくる。
聞こえるのは、アイドリングを続ける戦車の低く唸るエンジン音と、負傷者のうめき声、そして兵士たちの荒い息遣いだけだった。
「……終わったか」
相良は塹壕の縁に腰を下ろし、震える手で煙草を取り出した。マッチを擦ろうとするが、指がうまく動かない。
武者震いか、恐怖か。
すると、横から火が差し出された。副官の李中尉だった。
「お見事でした、隊長」
「よせ。運が良かっただけだ。奴らが戦車を知らなかったことくな」
相良は深く紫煙を吸い込み、空を見上げた。
東の空が白み始めている。
昇ってきた太陽は、昨日見たものと変わらないように見える。見渡す限りの荒野も、泥も、いつもの満洲の風景だ。
だが、昨夜見た「二つの月」の残像と、目の前に転がる緑色の怪物の死体だけが、ここが異常な状況下であることを突きつけている。
「司令部への報告は?」
「済ませました。新京の総司令部、受信確認。『現陣地を固守せよ』との由」
李が手帳を見ながら報告する。
新京とは繋がっている。満洲国内の通信網は生きているのだ。だが、李の表情は晴れない。
「……ただ、内地(日本)および朝鮮方面との通信は、依然として不通です。司令部も混乱しているようで、これ以上の具体的な指示はありません」
「やはり、ダメか」
相良は眉間を揉んだ。
満洲国全体がここにあることは間違いない。だが、本国との連絡が一切つかない。
敵の妨害電波か? いや、それにしては新京とはあまりに明瞭に繋がる。まるで、満洲国という枠組みの外側が、物理的に切断されてしまったかのようだ。
補給はどうなる? 弾薬は? 本国からの増援は?
風景は変わらないのに、世界から自分たちだけが切り取られたような孤独感。背筋に冷たい汗が伝う。
「おーい! 兵隊さん! 兵隊さーん!」
後方の丘から、土埃を上げて走ってくる集団があった。
開拓団の男たちだ。その後ろには、モンペ姿の女性や、子供たちの姿も見える。彼らは手に手に握り飯や水筒を持ち、泣きながら兵士たちに抱きついている。
「ありがとう! あんたたちのおかげで助かった!」
「怖かったろう、よく頑張ったなぁ」
泥だらけの兵士が、子供の頭を撫でている。
その光景を見て、相良はようやく呼吸が整うのを感じた。
政治的な状況は最悪で、何一つ理解できていない。だが、確かなことは一つだけある。
守りきったのだ。
もし定石通り撤退を選んでいれば、彼らはあの怪物たちに無残に食い殺されていただろう。
軍が民を見捨てて逃げる――そんな悪夢のような結末を、俺たちは自らの手で回避したのだ。
「……李中尉」
「はッ」
「開拓団と連携し、負傷者の手当てと炊き出しを行え。それから、弾薬の残存数を正確に洗い出せ。一発たりとも無駄にするな」
相良は荒野の彼方、朝日が昇る地平線を睨み据えた。
本国と連絡がつかない以上、頼れるのは満洲にある物資と戦力だけだ。食料はこの大地で作れる。だが、武器弾薬は有限だ。
「我々はこれより、第一種戦闘配備を維持しつつ、現状の確保に努める」
「了解。……しかし、いつまで持ちこたえればいいのでしょう」
「わからん。だが、命令がない以上、独断で動くわけにはいかん。我々は関東軍だ。ここが満洲である限り、ここを守るのが任務だ」
それは消極的な選択かもしれない。
だが、指揮官として今できる最善手は、パニックを起こさず、部下と民を掌握し続けることだけだ。
李は一瞬、不安げな表情を見せたが、すぐに居住まいを正して敬礼した。
「了解しました。……長い戦いになりそうですな」
「そうだな。まずは、戦死者の埋葬だ。丁重にな」
相良は吸い殻を靴底で踏み消し、立ち上がった。
朝日に照らされた九七式中戦車の砲塔には、硝煙で煤けた日章旗がはためいている。
風はいつも通り、乾いた土の匂いを運んでくる。
だが、相良の胸中には、消えることのない不穏な予感が鉛のように居座っていた。
「行くぞ。仕事は山積みだ」
昭和二十年の夏。
満洲の大地は、既知の地図から外れ、未知なる軌道へと走り出した。
その先にある運命を、彼らはまだ知らない。
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