蛍火
夜明け前の薄闇の中、私は寝台から這い出し、顔を洗って着替えた。工房へ続く階段を降りると、父はもう石窯に火をくべていた。
「おはよう」
父はちらりと私に視線を向け、小さく頷き、「今日は忙しいぞ」と低い声で呟いた。急いで、硬いパンと干からびたチーズを口に入れる。
今日、この町では年に一度の祭が催される。大きな松明が町の広間まで運ばれ、火が灯される。近年では、火の魔法使いがその技を披露するようになり、壮麗なその様から司祭様が「光焔祭」と名付けた。夜には無数の火の玉が広間いっぱいに浮かぶらしい。
私は大樽から水を汲み、貯蔵庫からパンの材料を取り出した。昨日残しておいたパン種を少し混ぜ、パン生地を捏ね始める。十分に捏ね上がった生地を、石窯の近くの暖かい場所に置き、同じ作業を繰り返した。
発酵を終えた生地を円形に伸ばし、飾り模様をつける。私の手から離れるが早いか、父はそれを次々と石窯に放り込んだ。香ばしい匂いが工房中に満ちていく。
窓の外を見やると、いつの間にか明るくなっていた。「店番を頼む」と父に言われ、焼き上がったばかりのパンを抱えて店頭に出た。
店の扉を開けると、驚くほど多くの客が押し寄せた。普段はここまでではない。これもお祭りのおかげだろう。お代を受け取り、焼きたてのパンを手渡す。中には自宅で捏ねた生地を持参する者もいて、彼らの名を控えて工房へと回した。
黒パンではなく、柔らかく甘い白パンを求める者もいた。祭りだから、少しでも良いものを食べたいのだろう。羨ましく思う。
休む間もなく働き続け、気づけば昼は過ぎていた。客足が途絶え、そろそろかと思っていると、案の定、奥から父が出てきて「店仕舞いだ」と告げた。焼いたパンはすべて売り切れたので、あとは生地を持ち込んだ客に、焼き上がったパンを渡すだけだ。
父が買い出しに出かけたので、私は石窯の掃除と道具の手入れに取り掛かった。時折やってくる客に焼き上がりのパンを手渡し、それから昼食のスープを作り始める。豆や根菜、そして庭で摘んだハーブをたっぷり入れ、塩で味を調える。
父が帰ってきたので、パンとチーズを添えて一緒に昼食を摂った。「美味い」と呟いた父は、私の頭をひと撫ですると、井戸へと向かった。私が幼い頃に病に倒れて以来、心配性の父は井戸水をそのまま使わず、わざわざ沸騰させてから大樽に詰めている。それを毎日欠かさない。
以前、意味があるのか尋ねたことがある。父は「火の精霊が守ってくれるはずだ」とだけ答えた。だが、実際、それ以来私は病知らずだ。
昼食を終えると、私は勉強を始めた。「読み書きはできたほうがいい」と口癖のように言う父だが、自分は読み書きができない。だから、暇を見つけては近隣の神父様から手ほどきを受けている。今日は一人での復習だ。文字を追うとすぐに眠気が襲ってくるので、時折刺繍をしながら、ちまちまと読み進める。
「祭りに行きたいか?」
三度目の睡魔と格闘していると、父が部屋に入ってきた。この家には扉がないのでノックのしようもないが、そろそろ布でも掛けるべきだろうか。身体を拭いている時に来られると、なんか嫌だ。
「…朝、起きられなくなるから、いい」
「そうか」とだけ言い、父は階下へ降りていった。
夕食は、昼の残りのスープに少しばかりのパン、そしてドライフルーツを少々。外はまだ明るいが、腹が満たされればもう寝る時間だ。
部屋でぼんやりと外を眺めていると、またしても唐突に父がやってきた。
「行ってこい。暗いところには行くな」
そう言って、父は手のひらに銀貨を一枚押し付けた。私の返事を待たずに、父は寝室へと入っていく。なにかと不器用な父だ。しかし、行きたい気持ちはあったので、素直に嬉しい。
銀貨を露天商で使えば、どれほどの「手数料」を取られるかわかったものではない。私は自分の革製の巾着を手に、夜の町へと繰り出した。
大広場は坂を上ればすぐだったけれど、まだ日が暮れていなかったので、先に下の道を見て回ることにした。道沿いにはたくさんの露店が並び、肉や果物、服や陶器といった日用品から、滅多に見かけない香辛料や宝石まで売られていた。私はただ、無言でそれらを眺めていた。
空がだんだんと暗くなり、藍色に染まり始めた。あまり多くの店は見て回れなかったけれど、滅多に目にできない魔法使いは近くで見たかったので、大広間に戻ることにした。
広場にはもう、多くの人が集まっていた。私は人の波を避けながら、最前列の場所を確保すると、手に持っていた肉串を静かに食べた。辺りのざわめきの中で、炎舞の始まりを待った。
やがて、一人の男が広場の中央に歩み出た。男が深々と頭を下げると、広場の灯りが一斉に消され、あたりは完全な闇に包まれた。一瞬のざわめきが起こったが、すぐにそれは感嘆の声に変わった。暗闇の中に、無数の火球が、まるで呼吸をするようにゆらゆらと静かに浮かび上がっていたのだ。
それは、夜空に散りばめられた星が、地上に降りてきたかのようだった。光は淡く、しかし確かな存在感で、広場全体を幻想的に照らしていた。
ゆらゆらと宙を漂う火の玉に、そっと手を伸ばしてみる。熱さはなく、触れると同時に、水が染み込むように私の身体の中へと消えていった。
最初、広場の人々は驚いて火の玉を避けていたが、それが危険ではないと分かると、皆、恐る恐る手を伸ばし始めた。幼い子供たちは、無邪気に火の玉を追いかけていた。
火の玉が少しずつ数を減らしていくと、広場は再び暗闇に包まれ始めた。その中で、魔法使いの声が響き渡る。
「皆様、これより暫くの間、動かぬようお願い申し上げます」
魔法使いが再び一礼すると、またたく間に広間に火球が浮かび上がった。今度は、それらは空中でピタリと静止している。魔法使いが手に持つ短い杖を静かに振ると、無数の火球のうち、一つだけが意思を持ったかのように動き出した。
その火球が、別の火球に触れると、まるで引き寄せられるように二つが一体となり、動き始める。やがて、その動きはヘビのように連なり、次々と仲間の火球を取り込みながら、その体を長くしていった。
火のヘビが広場を大きく一周した時、それが何を象っているのか、私ははっきりと理解した。
龍だ。
まだ頭部しかないその姿は、広場を巡るごとに、目、髭、たてがみ、鋭い鉤爪、そして無数の鱗が形作られていく。全身が完成する頃には、広場を覆いつくせるほど巨大な龍が、しかし影を落とすことなく、広場を波打ちながら優雅に舞っていた。呼吸を忘れ、ただただ龍を眺める。
誰もが言葉を失い、その龍の姿を見上げていた。龍の周りだけが、煌々と光を放ち、周囲の闇を際立たせていた。
やがて、龍はゆっくりと空高く舞い上がり、次の瞬間、まばゆい光の破片となって、あたりに降り注いだ。
龍の破片は、街と、そして人々の肌にそっと溶け込んでいく。
「皆様に、龍のご加護がありますように」
魔法使いは静かに一礼すると、広間の中央からゆっくりと下がった。一拍の静寂の後、広場いっぱいに割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
燃え尽きることのない火の玉が、まだいくつか宙を漂っていた。それに導かれるように、私は坂を下り始めた。松明が運ばれてくる時間には、まだだいぶ間があった。
偶然、帰り道で会った神父様が、この火の玉のことを「ホタルに似ている」と言っていた。お尻が光る小さな虫らしい。そんなに美しい生き物がいるのかと、少しだけ感心した。
そろそろ引き返そうかと思った時、道の脇に暗い路地が目に入った。昼間にも通ったことがあるはずの道だが、祭りの華やかな明かりに比べて、そこだけがやけに暗く、妙に心惹かれた。
ふらふらとそちらへ歩き出すと、行く手を遮るように、一つの火の玉が身体に当たった。身体に溶けて消えていく火の玉を見つめていると、なぜか、父の「暗いところには行くな」という言葉が頭に響いた。
暗い路地をもう一度見る。
先ほどまで感じていた、得体のしれない魅力は消え失せ、代わりに言いようのない不気味さがまとわりついていた。背筋がぞくりとし、私は小走りで坂道を登り始めた。
翌朝、目が覚めると、日はもうとっくに昇っていた。完全に寝坊だ。
慌てて服を着替えていると、机の上に朝食と、布に包まれたものが置いてあるのに気づいた。パンとチーズを水で流し込むように食べながら、布包みを開く。中には白パンが入っていた。
鼻を近づけ、深く息を吸い込む。甘く、香ばしい匂いが鼻腔を満たした。もう少しこの香りを堪能したかったが、それは後回しだ。白パンを再び包み直し、階下へ降りた。
昼食時、いつものようにスープとパンとチーズを食べた。私は白パンを半分に割り、そっと父の皿に置く。
父は私を一瞥しただけで、何も言わず食事を続けた。やがて食べ終えると、低い声で「美味い」と呟き、私の頭をひと撫ですると、井戸に向かって歩いていった。