火轟草
穂村プロデュースの臨海学校の際、一組だけ仲睦まじく、常に一緒にいるカップルがいた。入学初日にして我がクラス公認となった彼らは、幼稚園の頃からの幼馴染で、小学生の時にお互いの事を好きになり、中学の時から付き合い始め、同じ高校を目指して共に努力してきた、という何とも微笑ましいバックグラウンドを持つ。
実際、普段の学校生活でも、朝夕の登下校は常に一緒だし、休み時間になれば常に彼女――太谷伊紀の方が、彼氏――宝生知景の席まで出向き、楽しそうに和やかに話をしていた。
そんな彼らの姿を、最初こそ疎み、羨んだものの、今では皆、微笑ましいその様子を温かく見守っている。
だから、僕は考えもしなかった。まさかそんなはたから見ても熱々な二人の間に、思いもよらぬ葛藤があったなんて。否、誰も彼らの間に悩みや不安があるなんて、思いつかないだろう。
ただ一人、今回の被害者にして最大の加害者、太谷伊紀を除いては。
文化祭準備真っ最中の、ある暑い夏の日。
夏休みも終わりに近づき、追い込みに入った時期で、皆てんてこ舞いだった。こういう行事が大好きな穂村がクラスを盛り上げ、頼れる皆の委員長が陣頭指揮をとっているので、まだ我がクラスはまとまっているものの、そんな団結力でも手に負えない量の仕事が、僕らを待ち構えている。
僕も何故か衣装班に配属され、冷房の利きが悪い教室の中で、一心不乱に縫物をしている。他の者も皆、壁飾りを作ったり、買い出しに行ったり、それぞれ自分の仕事を黙々とこなしていた。
だから、そんな中で誰が今どんな仕事をしているか、ましてや誰がいて誰がいないかなんて、気が付けという方が無理だろう。それにもかかわらず、パートナーの不在に気が付いた彼は、流石というべきなのかもしれない。
「なぁ」
「?」
突然、目の前に影が出来たと思ったら、上の方から声がした。裁縫をする手を止め、目線を上げる。そこには汗だくの宝生がいた。
「どうした? 何かあったの?」
宝生は確か大道具のリーダーを任されていて、今は外で組立てとペンキ塗りをやっていたはず。その彼がここにいる、という事は……。
絶対、何かがあった。
「いや、大したことじゃないんだけどな……」
少し気まずそうな宝生。だが意を決し、僕の耳元で囁いた。
「伊紀、見なかったか?」
「太谷さん……? そういえば、見てないな」
てっきり、何か予定があって来られないものだと思っていたのだが、
「いや、今日も朝は一緒に来てるから、いないはずないんだが……」
少し照れくさそうに言う彼の言葉で、その可能性は否定される。ふむ。なら、確かにおかしい。
彼女は僕と同じ衣装班で、髪飾りなどの細かいパーツづくりを担当している。特に部活動にも入っていない彼女は、暇を見つけては顔を出し、製作にいそしんでくれたので、僕達は結構頼りにしていた。そんな彼女だ。学校に来ているなら、ここに来ない訳が無い。もし買い出しに行っているのなら、リーダーの僕に一言あってもいいはずだし。
「いつまで一緒にいたんだ?」
少し心配になった僕は、話を聞いてみる事にする。いや、いつもなら人のプライベートに立ち入るようなまねは極力避けるのだが、今回は宝生のあまりの必死さに、心を動かされる形となった。
「朝……九時頃来て、それから見てない。部活の朝練があったんでな。一応、校舎の中までは送ってったんだが」
「教室に入ったかどうかまでは見ていない、と」
「そういう事だ。一応、メールも電話もしたんだが、かれこれ三時間、何の連絡もない」
成程。そりゃあ変だと思うのも無理はない。通常運転の彼女のあの様子なら、十分あればどんな状況でも返信してきそうだ。だが、これだけでは彼を不安にさせるのにはまだ足りない。まだ、何かあるはずだ。
「……納得いかねぇ、って顔してるな」
「!? ま、まぁね……」
まずい。ほんの少し歪ませただけなのに、表情を読まれた。そこまで立ち入るつもりはなかったのに。宝生がこんなに人の表情を読むのが上手いなんて、知らなかった。ああ、でもそうか。でなかったら、太谷さんとは付き合えないか……。太谷さんは恥ずかしがり屋で、あまり多くを語らない人なのだ。
「……これだよ」
差し出されたのは、彼の携帯。そこには一通のメール。差出人は、勿論彼女。携帯を受け取って、全文を読む。流石にメールだから、ものの数秒で読み終わる。直ちにその意味を理解した僕は、今までやっていた作業を放り出して、当事者である宝生も置き去りにして、教室を飛び出した。
「お、おい! どこ行くんだよ!」
宝生があんなに不安になるぐらいだから、てっきり怨み事か、さもなければ辛み事がずらずらと書き連ねられているものだと思ったのに。彼から渡された文面は、僕の想像よりもはるかに短かった。
“私は、知景の事が大好きでした”
確かに、普通に見たらこれは、付き合っていて好き合っている者同士の、甘い掛け合いのようにも取れるかもしれない。が、問題なのは時と場合だ。
第一に、このメールは今時珍しいほどに早寝早起き、その一見するとチャラそうな見た目と違い、規則正しい生活を送っている宝生ならもはや寝ている時間、零時ジャストに送られている。しかも、送られたのは今日。そして、彼女が彼の前から姿を消したのも、今日。第二に、“だった”と過去形なのも気にかかる。これじゃまるで、死に行く者の意思――遺書のようなものじゃないか。
そう考えて、否、直感的に感じた嫌な気配を、無理矢理言語化しながら、僕は教室を飛び出したのである。
僕を突き動かさせた張本人、宝生は、最初こそ訳が分からないと言った表情で僕の後を走っていただけだが、僕の表情の変化と、走りながらも途切れ途切れに説明したさっきの考えにより、結果的に彼は僕よりも前に躍り出て、必死に彼女を探す事となった。
「今の彼女はきっと、精神的に不安定だ。このままじゃ……ちょっと危ない。無事でいてくれればいいんだけど……」
比較的安全そうで、人が隠れられそうな場所から探していく。購買の裏、体育館倉庫、図書室、科学準備室。だが、そのどこにも、彼女はいない。思いつく限りの場所を探した後、ここにはいないでほしい、そんな思いを込めて、でも嫌な予感を振り払えないまま、僕たちは屋上に向かう。いつもは閉め切っている屋上だが、文化祭期間中だけは、荷物置き場として開放されているのだ。
そして、彼女はそこにいた。転落防止のフェンスに身を預け、ぼーっと街を眺めている。
「伊紀!」
宝生が叫んだ。その声で彼女は――
「やぁ、宝生か」
艶やかな笑みと共に、こちらを向いた。
*
道中、僕は彼にこんな事を聞いた。
「ねぇ、宝生」
「なんだ?」
「答えたくないなら答えなくても構わないんだけど、お前、あのメールにいつ気が付いた?」
「……朝。起きた時に見た」
「それに、返信って、した?」
「……した」
「どんな風に?」
「……“俺も、だよ”って」
「そっか……」
宝生、そこはきっと、しっかり言ってあげるべきだったんだよ。
たぶん、彼女にとってそのメールは、賭けのようなものだったんだ。もし、宝生がただの同意の文章だけではなく、ちゃんと自分の想いを伝えようとしてくれたなら――
その時は、もう一度信じよう、と。
だが、結果は案の定。おそらく、それがいつも通りの反応だったのだろう。彼女は賭けに負けたのだ。
だから彼女は、“何か”を実行しようとしている。それが、彼の気を引く為ならまだしも、もし本当に追い詰められているのだとしたら……。
かなり、やばい。
そう思って、僕はそれ以上何も言わず、捜索を続行する事にした。
だが、宝生の方は、少し納得がいかなかったらしい。道すがら、僕は彼にこんな事を聞かれた。
「おい、お前どうしてそこまで……」
まぁ、確かに、一介のクラスメートである所の僕が、もしかしたら程度の、非常に低い確率の事でこんなに心配するというのは、彼にとっては不可解だったのだろう。僕も、あまり思い出したくはなかったのだが、ここまで深入りしてしまった負い目もあり、話す気になった。
過去の、負い目を。僕の、不甲斐無さを。
「僕は前に、大好きだった人を亡くしたんだ。とてもとても、理不尽な事で。彼女は僕の前から、姿を消した。……でも、今更ながらに思うんだ。どうして僕は、彼女に何も言えなかったんだろう、って。彼女はきっと、僕が言うのを待っていてくれていたんじゃないのか、って。もう、今更だから。確かめることもできないんだけどね。だからこそ、君達には、僕のようにはなってほしくないんだ。
たった一つの言葉で、人は傷ついたり、救われたりする。だから、好きなら好きで、その気持ちを言ってあげてほしい。勿論、それで君の想いが全て伝わるとは思わないけど。それでも、安心するものなんだよ。実感するものなんだよ。
嗚呼、私はこの人に愛されてるんだな、って」
「・・・そう、か」
彼もまた、僕の告白については、それ以上何も言わなかった。
*
僕の願いと、彼の祈りと、彼女の想いが錯綜する、屋上。
「おい、伊紀……」
「来るな。一歩でも近づいてみろ、ここから落ちる」
『!?』
「なぁ、何でこんな……。しかもなんか、いつもとちが」
「もういい、もう嫌なんだ」
駄々っ子のような言葉とは裏腹に、いつもの彼女とは違い、何か物事を達観したような、人生を諦めたような、そんな顔をしている。心と表情があっていない、いや、まるで心に体が置いて行かれたような、あるいは、体と心がバラバラになってしまったような、そんな風に僕には見えた。
そして、僕には何となく、彼女の気持ちが分かるような気がした。
彼女、太谷伊紀はそれほど目立つ子ではない。どちらかと言うと、教室の隅で本を読んで休み時間を過ごすような、物静かな子である。宝生がいるからこそ、毎日楽しそうにしゃべってはいるが、一人の時はすごく大人しい性格である事を、僕は知っている。実際、普段は声も小さめで、授業中の発表なども積極的に行う方ではない。
そんな彼女が、幼馴染とはいえ、サッカー部主将でもありスポーツ万能、容姿も整っていて、何より明るく人当たりの良い宝生と、中学の頃から付き合っているのだ。
心配にも、なるだろう。
事実、彼らが付き合っている事を知らなかった、あるいは知っていても自分の方が魅力的だ、と考えた子達が彼に告白をする事は多々あった。彼はその度に、
「俺には伊紀がいるから」
と言って断っていたらしいが。それでも、彼女の方は気が気ではなかったのだろう。
僕も、付き合ってこそなかったとはいえ、花音が誰かから告白されるのを見る度に、何だかやきもきしていたのを覚えている。
つまりは、彼女は不安だったのだ。
“自分は本当に、彼に愛されているのか”と。
その結果……
「私は全てを捨てた。だから“この娘”に全てを捨てさせた。この娘は私で、私はこの娘。私の意思はこの娘の意志」
「おい、伊紀。お前さっきから何言って……」
「私が捨てろと言えば、この娘は何でも捨てる。そして私は、全てを捨てた」
にたぁ、と普段の柔らかな優しい眼差しとは違った、嫌な笑みを浮かべる彼女。
どうやら、彼女の心はそのプレッシャーに耐えきれず、押しつぶされてしまったらしい。いや、一応呼びかけには答えているから、壊れかけている、と言うべきか……。歯車がずれた人形のように、けたけた、にやにや、と尚も笑い続ける彼女。
兎に角、完全に狂気に飲み込まれてしまう前に、何とかしなきゃ……。
そうやって僕が迷い、あたふたしている間にも、彼女の独白は続く。
「私はもう、何も要らない。もう誰とも繋がりたくない。関わりたくもない。ましてやこの娘が誰かの為に何かをするなど……、虫唾が走る。馬鹿馬鹿しいにも程がある。誰かの事を想うなど、私にはおこがましい。この娘が誰かに想われるなどという、勘違いはもう沢山だ。所詮、私は平々凡々な、一介の女子高生にすぎない。代わりなどいくらでもいる、世界の一欠片にも満たない、ひどく矮小な存在なのだ。
今まではそんな事に、気が付きもしなかった。だから、のうのうとこの世界で生きていた。ぬくぬくと与えられた幸せにすがりつきながら、輝かしい生活を送ってきた。だが、それを悟った今となっては? 私にもう、そんな価値など無いではないか。
だから私はもういい。もういいんだ。もう生きたくもない。死にたいとまでは思わんが、もう生きるのは嫌なんだ。だから……さようなら。今までありがとう。“この娘”を、愛してくれて」
そう言って、彼女は今までもたれかかっていたフェンスに手をかける。すると、
「……待てよ」
それまで黙って、目を瞑って、彼女の告白をただ聞いていた宝生が、重い口を開いた。
「何? 止めたって無駄よ? もう私は」
「繋がりたくないなら、どうしてお前は俺に礼を言ったんだ? ……お前、本当はただ恐いだけじゃないのか? 俺に捨てられるのが」
『!?』
いきなり確信をつかれた太谷さんは、その衝撃で我に返ったらしい。目を大きく見開いた後、いつもの潤んだ瞳に戻った。確かに、宝生の言葉にはそのぐらいの威力があった。ストレートにも程がある。……まぁ、正気を失いかけていた彼女には、ちょうど良かったのかもしれないが。
いつもの細い柔らかい声で、彼女は本当の胸の内を話し始める。
「そ、そうよ。だって、だって……怖かったんだもん。不安だったんだもん。知景は私に何も言ってくれないし、何もしてくれない。朝迎えに行くのも私、学校で話しかけるのも私、帰りに待っているのも私、メールをするのも私からだし、電話だって……。それに、好きだって言ったのも私、付き合ってって言ったのも私、デートに誘うのも私! 手をつなぐのも、抱きしめるのも、キスするのも、いつもいつも、全部全部私から! 知景から私にしてくれた事なんて、一度もないじゃない!
そのくせ、知景の周りにはいつも人がいて、笑顔があふれてて。クラスでも部活でも人気者で、勿論女の子からも好かれてて、その子たちとも仲良く楽しく話して。どうしてこれで愛されているなんて、自惚れることが出来るのよ!」
最後の方は、涙目になって、でも声を、自分の想いを伝えようと必死で、叫ぶようになっていた。
そんな感情的になってしまった彼女をなだめるように、さっきの辛辣な物言いではなく、きつくならないように普段よりも和やかに、でも真剣に、彼は言葉を紡ぐ。
「……じゃあ、伊紀。ちょっと聞くが、俺がお前の誘いを一度でも断った事があるか?」
「!?」
「いつもお前の方が何だかんだ忙しいから、俺は気ぃ遣ってただけだよ」
「え……?」
「……本当は、俺も行きたいところとか、あるんだけどな。でも、言おうとすると伊紀に先越されて、タイミング逃してたんだ」
「じゃ、じゃあ学校で話しかけてくれないのは?」
「……すまん。それはその、恥ずかしいからだ」
「なっ……!? それで済まされるとでも思ってるの」
「以後、精進する」
「好きだって言ってくれないのは!?」
「……俺が一度でも、冗談でも、お前の事嫌いだって言ったかよ」
そう言って、彼は彼女に近づくと、
「……好きに決まってんじゃねーか。バカ」
優しく彼女を抱きしめた。
「それにな、お前の代わりなんているはずないだろう? 俺は、お前の、大谷伊紀の事を、どうしようもないくらい、愛しているんだから」
宝生の腕の中で泣き崩れた太谷さんを見て、僕はそっとその場を離れた。
これにて一件落着。彼らは前よりも強い絆で結ばれましたとさ、めでたしめでたし。
と言いたいところだが、僕が思うに、彼らの絆はそんな言葉では語ってはいけないのだろう。自身の不安から己を追い詰め、その身を亡き者にしようとした一つの心。荒々しく舞う一つの魂を救うために、それを優しく包み込んだもう一方の心。じくじくと内側から突き刺されながら、それでも必死で彼女を離さなかった心。だからこそ、彼らの絆は一層深くなったのだろう。
まぁ、これは僕が上っ面で騙っているだけだし、彼らからしてみれば、あるいは、他のクラスメートから見たら、ただの痴話喧嘩だったのかもしれないけれど。ただの、恋愛の一ページだったのかもしれないけど。
少なくとも僕は、そう思った。そしてそれを、“羨ましい”と、心から思う。
そんな、一方で美しく、他方で荒々しくも見えたこの場面を見ていたのは、一人だけではだけではなかった。
「……ふーん。本当にやばくなったら助けてあげようと思ったのに。前みたいに、後味悪いのはもう勘弁だからね。でも、とんだ無駄足だったわ」
キーンコーンカーンコーン
「さーて、余鈴もなったし帰りますかね」
そしてそれは、足音もなく、その場から去っていった。
この話は、僕自身が追いつめられていたからこそ書けて、追い込まれないと直せもしない、そんな話です。
今でも読み返すたび、胸が張り裂けそうになります。
零れ落ちた涙でできた、想いが詰まった物語です。
(2014/06/19 改変)