「聖女の娘がブッダを目指し始めた……」
「見て見てママ! ほら、あれ! あの雲!」
「あら、不思議な形をしているわねえ。ふふふ」
「うん! 仏舎利みたい!!」
――聖女クララには仏舎利がわからぬ。
ブッシャリ。わからぬが、また仏教用語だろうと推察した。
「……仏舎利ってなあに、ミカちゃん?」
「お釈迦様の遺骨だよ!」
雲を遺骨に例える愛娘に、クララはなんとも複雑な思いを抱いた。
天真爛漫なる顔で、雲から骨を類推する我が子。
このままでいいのだろうか? 不安は尽きない。
「いつか本物見たいなあ、仏舎利」
「……そうねえ。いつか見れるわよ、きっと」
「お母さんも一緒に見ようね!」
かくして聖女クララは、いずれ仏舎利を拝む約束をした。
全く知らぬ人間の遺骨を。娘とともに。
「神よ、これでいいのでしょうか……」
神は応えなかった。
ただただ仏舎利のような雲だけが、母娘を見守っていた。
* * * * *
クララの夢枕に天使が現れ、処女懐胎を告げたあの夜。
自分を超える力を持った、聖なる子誕生の予言。
生涯を捧げ、子に尽くそうと彼女は決心した。
「天上天下唯我独尊、三界皆苦吾当安之」
産まれた娘は、すぐに立って歩いた。
そうして上記の奇妙なる言を呟いた。
これはやはりただならぬ神の子と、周囲は祝福した。
真意を知ったのは後年。
ミカ本人の口から語られた。
「お母さんのお腹にいる頃からね! 絶対にやろうと思ってたの!」
「まあ、何を?」
「毘婆尸仏のモノマネ!!」
クララには毘婆尸仏がわからぬ。おそらく誰にもわからぬ。
生誕直後。誰も知らぬ何かのモノマネを行う娘の胆力。素直に敬意を表した。
一方、不安はいや増した。
「世界観が違う」
根本的な何かが違う気がする。
確かに天使は「神の子が誕生する」と語ったが。
何かどこかで手違いがあったのではあるまいか。
しかし。
毘婆尸仏を語る我が子の可愛らしさといったら、なかった。
これが我が子。神の子である以前に、我が愛娘――。
「……お母さんにも教えて、シバビブツ」
「ビバシブツ! あのね、手を上と下に向けて……」
母娘は二人、天上天下を呟いた。
天上天下母娘共尊――。
* * * * *
「ミカちゃーん! あーそーぼ!」
「いいよー!」
近所の子と遊ぶ娘の姿。
クララにとってはまさに幸福の時間。
時間が永遠に止まれば良い、そうとさえ思えた。
「ミカちゃん、今日は天使ごっこやろ! あたし天使役やりたいの!」
「じゃあ私、悪魔役でいいよ!」
「負けないからね!」
天使と悪魔に分かれたごっこ遊び。
しかし聖なる子が悪魔役とは。
不敬な気もするが、そのギャップがクララには少しおかしかった。
我が娘の悪魔っぷりを、楽しく眺めることとした。
「我こそは地獄から蘇りしダイバダッタ! はっはははは!!」
クララにはダイバダッタが分からぬ。
バッタが変化した怪人かと思ったが、それにしては攻撃方法に獣性を感じる。
縦横無尽に友達を切り裂く姿は、まさに鬼気迫るものであった。
ダイバダッタが頭から離れなくなったクララは、娘に問う。
「ねえミカちゃん。友達と遊んでた時のあの……あれ、何……?」
「ダイバダッタのこと? ダイバダッタはね、爪で攻撃する毒属性の悪魔怪人! とっても強いんだよ!」
「……ミカちゃんは好きなのねえ、ダ……ダバイダッタ?」
「ダイバダッタ! 自分の毒でダメージ負っちゃう所も魅力!」
詳しく聞けば仏敵らしい。
仏敵と言われても、クララには仏がよく分からぬ。
――イスカリオテのユダ。ひとまずそれらしきものだと解釈した。
「いつかね! ダイバダッタみたいな悪い人も救える人間になるの!」
仏もダイバダッタもわからなかったが。
この齢にして他者を救わんとする娘の心に、クララはいたく感動した。
何かが違う気もするが、ひとまずはいい。この子の心は美しく澄んでいるのだから。
「……お母さんもやりたいな、ダイバダッタごっこ」
「ほんと!? じゃあお母さんはシッダルタやって! 私はシッダルタ暗殺のために爪に毒を塗るも転んで生爪剥がしちゃったせいで自爆するダイバダッタやるから!」
ダイバダッタ絶命シーンを再現する娘の姿。
壮絶に悶え苦しむ娘の演技力に、クララは戸惑った。
「っぐげェえええェえァっおっおっァ!!!!!」
クララはとにかく戸惑った。
* * * * *
「やだやだやだやだ! やだー! やだーっ!!」
ミカは聞き分けのいい、素直な子であったが。
珍しく駄々をこねた時があった。
「ミカちゃんは、いつしか天に昇って神様のお隣で働くのよ」
母が何気なく発した将来に、ミカは絶望した。
「絶対やだーっ! いきたくないいきたくない! 神様やだーっ!」
「ミカちゃん! なんてことを言うの!」
流石のクララもこれには怒った。
いくら聖なる子といえど、神を否定するなどあってはならない。
どうしてそんなに嫌なのか、問いただした。
「わたし入滅したい! 入滅するんだもん!!」
クララには入滅が分からぬ。
おそらく仏教における最終段階的な何かとは思われる。
しかしそれはいけない。ミカは神の子なのだから。
「やだあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、入滅す゛る゛う゛う゛うっ、輪廻から放たれるううぅぅ、あ゛あ゛あ゛ああ゛ああ゛あっ……!!」
「ミ、ミカちゃん……!」
ニルヴァーナ! ニルヴァーナ!
そう泣き叫びながら部屋に閉じこもり、ハンストを始めるミカ。
娘の強硬姿勢に、クララはなす術がなかった。
「ミカちゃん、ご飯食べなさい!」
「くわぬ……」
ポクポクと木魚を打ち鳴らし、籠城を決め込む娘。
この木魚なる珍妙なアイテムも、クララは知らない。
いつどこで娘がこいつを入手したかも判然としない。こわい。
翌日。
根負けしたクララは、とうとう娘の入滅を認めた。
部屋から出てきた娘は、たった一日でガリガリに痩せこけていた。
「スジャータ、どうか乳粥を一杯……」
「クララです……」
粥を飲み干す娘を見ながら、クララはひとりごつ。
「神よ、私はどうしたら……」
神は応えなかった。
ただただ木魚の音が、母娘を包みこんでいた。
* * * * *
愛娘の誕生日。
クララは何をプレゼントしようか悩んでいた。
物欲の強い子ではない。むしろ執着を捨てんことを説く娘である。
とはいえまだまだ子供の身。もしかしたら我慢しているのかも。
「ミカちゃん、欲しいものある?」
「スッタニパータ」
聞けば初期仏教の聖典らしい。
クララにとってみれば異教の書物。
神に身を捧げた自分がそんなものを求めていいのか、クララは悩む。
悩んだが、我が子の可愛さには抗えぬ。
クララはスッタニパータを求めた。
が、ない。
スッタニパータが、ない。
スッタニパータありませんか?
問うも店員はみな怪訝な表情をした。
誰もスッタニパータを、知らぬ。
「ごめんねミカちゃん。スッタニパータなくって……」
「ダンマパダでもいい……。中村元先生訳のが欲しい……」
ダンマパダも中村元も勿論わからない。
わからない尽くしに、クララは疲弊した。
疲弊しつつも、買い求めた。
やはり、ない。
娘の求めるものを、与えることが出来ない悲しみ。
不甲斐ない己を、クララは責めた。
「ごめんねミカちゃん。どうしても見つからなくって……」
「ううん、いいのママ。私のためにそんなにしてくれたことが、一番のプレゼント!」
娘が本心からそう言っていることは分かった。
それだけで救われる思いであったが、それでも代わりのものを与えたい親心。
代わりのものを……。
「……代わりに聖書を一緒に読もうねミカちゃん」
「それはいいかな」
「聖書を読もうねミカちゃん」
「……いや、いいかな」
「読もうね」
「…………」
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの――。
ミカは母の愛を感じながらも、怒涛の固有名詞の渦に溺れていった。
* * * * *
「いつもすみません聖女様……」
「いえいえ。お安い御用ですよ」
病人や怪我人を癒すことが、クララの日課であった。
聖なる力によって、たくさんの病める者を救ってきた。
ミカはそんな母を強く尊敬した。
母を手伝い、傷つく者らを共に救いたい。
その一心で、彼女も奉仕活動を始めた。
「ああ。ミカ様。ありがとうございます、ありがとうございます……」
「『この男に欠けているのは……たぶん人の手のあたたかさだ……』」
「おおミカ様。わたくしめにもどうか救いの手を……」
「『この男にいちばん必要なのは心のやすらぎなんだ……』」
手塚治虫版『ブッダ』におけるアジャセ治療シーンの台詞を繰り返しながら、ミカは治療を続けた。
クララには何を言っているのか分からぬ。分からぬが結果オーライ。
その類まれな神通力で、たちまち病人を救っていった。
「ミカちゃん、今日もお疲れ様」
「ブッダにこんな神通力ほんとに必要……? なんかちょっと解釈違くない……?」
自問自答により、何故か気落ちする我が子。
クララにはこの感情が理解できない。
しかし愛娘を元気づける心得はしかとある。
「今日はミカちゃん大好物の乳粥ですよ」
「やったあ! ママだいすき!」
聖なる者とて、今はひとりの小さな子供。
母と娘。ふたりで美味しい粥を食べながら、笑顔に包まれていく。
「一切皆苦! 一切皆苦!」
一切皆苦はミカによる至上の喜び表現であった。
嬉しいことがあれば一切皆苦。楽しいことがあれば一切皆苦。
クララもそういう表現なのだと信じて疑わなかった。
「うふふ、一切皆苦ねえミカちゃん」
「一切皆苦だねえママ!」
言葉の意味とは裏腹に、楽しく和やかな日々が過ぎていった。
* * * * *
「申し訳ありませんクララ様。間違えました……」
再度夢枕に立った天使は、誠に申し訳無さそうな表情を浮かべていた。
何を間違えた、とは言わなかった。しかしクララは理解した。
やはり、と思った。
「神の子を遣わせるはずだったのですが……。別の子を……」
「そうでしたか……」
「そのうえ知識の大半が手塚治虫版のソレという偏りを見せる者を……」
天使の言っていることがクララには分からなかった。
ひとまず手塚治虫なる仏教指導者がいるのだと理解しておいた。
「いえ。手塚治虫はどちらかと言うと神様のソレと言いますか……」
唯一なる神をさしおいて、手塚治虫を神と表現する天使がクララには分からなかった。
とりあえずは単なる比喩表現であると理解し、深くは突っ込まなかった。
「とにかくクララ様。今度こそ正真正銘の聖なる神の御子をあなたの元に……」
いやそんなポンポン孕ませられても。
クララはこの言葉を飲み込んだ。
子に生涯を捧げると決めた覚悟。一人増えた所で変わりはしない。
むしろ家族が増えるのは良きことだ。きっとより愉快な日常となるだろう。
そしてミカの存在が、今後生まれてくる子――真なる神の子に、良き影響を及ぼすのではないか。
そういった期待すら持っていた。
「分かりました。次の子も……長女と同様、別け隔てなく大事に慈しみ、育てましょう」
再度クララの胎内に生命が宿る。
聖なる子が、もうひとり――。
* * * * *
「――ご覧ください母上、姉上。あの雲を」
「まあ。なあにラオ君?」
親子三人。青空を漂う雲を仰ぐ。
産まれてきたる男の子は、娘ほど活発ではない。
しかし優しく穏やかに、そして聡明に成長しつつあった。
「変幻自在に移り変わる姿形……。なんとも不可思議な思いがしますね」
「……そうねぇ、うふふ」
雲を誰かの遺骨に例えるのでは?
クララの不安は杞憂に終わった。
自然を自然のままに愛する息子を、愛おしく思った。
まだ神の子としての片鱗は見えない。
しかし言い知れぬ何かを内に湛えていることは分かる。
……クララにとって、そんなことは瑣末事。
「いつか三人で拝もうね、仏舎利!」
「そうね、いつか見れるといいわねえ」
「仏舎利……。よくわかりません」
「私が教えてあげる!」
神の子と、仏の子。
二人の聖者に囲まれながら、クララは思う。
どこから遣わされた子であろうとも、愛すべき我が子。
自分の子として慈しみ、育み、愛を注ぐだけ。誰だろうと構わない。
クララは心から幸せであった。
「さあ。そろそろ帰ってお昼ご飯にしましょうね」
「……あ。…………雲? …………」
「? どうしたのラオ君? 雲がどうかしたの?」
「……そうだ、雲は千変万化に姿を変え、いずれは雨となり低きへ落ちていく」
「……ラオ君?」
「雨は水となり、形を変えながら……決して争うことなく、恵みを与える……万物に……」
「……?」
「これぞ道――タオの働き」
「……え?」
* * * * *
「――クララ様。すみません……すみません……」
「…………」
「……あの、ぜひとも三人目をですね……」
「いやそんなポンポン孕ませられても……」
~おわり~