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Vtuberの見た目と魂は一致しないらしい―中編2―




                    4



 ―私、鷹谷白葉はVtuberだった。

 初めは軽い気持ちで「ゲームやりながら配信するだけでお金が貰えるなんて最高じゃん!」程度でしか考えてなかった。

 トゥイッターで事務所のオーディション募集について見て、すぐさま動画作って送ったのが功を奏したのか、はたまた単純に応募者数が少なかったのか(恐らく後者)あっという間に書類審査は突破し、二次面接へ。

 対面での二次面接もほぼ顔合わせに近い形で、社長を名乗る三十代前半の男性と綺麗なロングヘアの女性マネージャーの緑さんを紹介された。

 ちょうどその頃、堕落しきった生活を親に心配されていたのもあり、好きなことでお金を稼げるのはいいことだと両親の承諾も簡単に取れた。

 初期メンバーは私を含めて合計四人でのスタートだった。みんな出身も年齢も趣味も何もかもバラバラで共通項なんてなかったけど、同期三人ともいい人で仲良くなるのにそう時間はかからなかった。

 デビューして間もなくはずっと事務所側も私も手探りな部分が多くて、苦労したことは沢山あったけど、緑さんと私と社長と同期三人でなんとか頑張っていた。

 未だにあの隙間風がピューピュー吹く事務所オフィス(オフィスと名ばかりで、実際は社長の住んでいた1LDKの一室であったが)で、肩を合わせて六人で啜った年越しカップそばの味は忘れられない。

 色々な衝突もあったし、挫折や後悔もあった。けれど私たちならやれるって出どころ不明な自信だけで、一歩ずつ一歩ずつ着実に前に進んでいった。

 覚束ない足取りではあったけど、少しずつ見てくれる人も増えた。

 チャンネル登録者が十人になった時。百人になった時。千人になった時。同時接続十人超えた時。百人超えた時。千人超えた時。みんな涙流しながら喜んだっけな。

 特にチャンネル登録者と同接が一万人超えたときは、金がない金がないって常日頃からボヤいていた社長が泣きながら、高級宅配寿司を用意してくれた。

 私もみんなも号泣しながら食べたお寿司の味も今でも鮮明に思い出せる。

 いつしか数字も登録者の伸びも、配信の同接も安定してきた頃、二期生がデビューした。

 先輩としてどう立ち振る舞えばいいのか分からなかったけど、ちょっと前の私たちを見ているようで愛おしかった。

 気づけば一人、二人とどんどん後輩が増えた。人が増えれば増えるほど、失敗や困難、炎上の数は増えるけど、それでも誰ひとり欠けることなく成長していった。

 マンションの一室から、東京の広々とした事務所に移転した頃には、業界でも大手と称されるぐらいの規模感になっていて。初めは本当に軽い気持ちで始めたVtuber活動だったけど、気づけば今の私に無くてはならない大きな存在になっていた。

 ―多分、最高に幸せだったんだと思う。

 有り難いことに様々なイベントにも出演させてもらったり、ラジオ番組を持たせてもらったり、事務所主催のライブイベントでファンの皆と交流したり、狭くて暗い部屋の隅でただゲームをしていた頃の自分じゃ想像もできない世界を経験した。

 部屋に引きこもりがちな私が毎日のように東京の事務所に行って、打ち合わせに、収録に、イベント準備と忙しいながらも充実していた日々を過ごしていた。


 ―綻びが出始めたのはこの頃だった。


 ある日、事務所からの帰路の最中、ふと視線が気になったのだ。

 気づかれないよう視線をずらし、背後を伺うとどうも見たことのある顔だった。おそらくライブかオフイベントの何処かで見かけたと思われる、その男は私の後ろを付き纏っていた。

 怖かった。心も体もただひたすらに恐怖に染まった。

 女性として生まれた以上、電車内で痴漢に合うことなんてザラだったが(特に学生時代はよく狙われたものだ)元々の物怖じない性格もあってか、すぐ手を振りほどいたり、この人痴漢です!と声を上げたこともあった。

 ただ痴漢のそれを遥かに上回る恐怖がそこにあった。

 実際に行為が伴うなら、それに対抗すればいい。でも行為が伴わない場合は対抗する余地がないのだ。ストーキングは立派な犯罪行為だ。でもそれを証明するのは非常に難しい。「ただ行き先が一緒なだけでした~」とシラを切られてしまえば、いくら怪しくても実証することは不可能。そして我が国は実証できないことを法で裁くなんてイカレた国ではない。


 それから毎回毎回、事務所に行く度に件の男に付き纏われた。初めは事務所から事務所最寄り駅の間で上手く撒けていたが、次第に駅までストーキングされるようになり、気づけば乗換駅と徐々に徐々に私の生活圏内に迫ってきていた。

 私はどんどん恐怖で生活が縛られていった。事務所から帰るときはなるべく人通りが多いところを歩き人混みに紛れて見失わせる。わざと方向の違う電車に乗り込み、自宅の最寄り駅を勘付かれないように努め、事務所にも相談し行き来はタクシーで済ませるようにした。

 それでもそれでも、彼が私の家まで付いてきているんじゃないか。と自宅最寄り駅から歩くときは振り返るのが怖くて怖くて仕方がなかった。


 ―そして私は倒れた。


 ストレスと過労から来る一時的な症状だと診断されたが、心折れるには十分な起点だった。


 私はそれから家を出なくなった。正確に言うと家から出る回数が極端に減った。部屋から出るのがとにかく怖かった。実はもう私の家なんてとっくの昔に知られていて、彼がどこかに潜んでいるんじゃないかと思うだけで上手く眠れなかった。

 幸いにもこの辺りは飲食店が多くて、宅配サービスも充実していたし、日用品も通販に頼れば生活に困ることは殆ど無かった。


 オフイベントの出演、スタジオ収録、同期後輩とのオフコラボ、部屋から出る用事はすべて断り、次第に人との接触も減っていき、そもそも人と接触すること自体も苦手になっていった。


 数字はもちろん伸び悩んだ。元々一期生の中ではトップを駆け抜けていたぐらいには、数字は安定していたのだが、私自身の露出が減り、淡々と深夜から早朝にかけて一人で配信するようになってからというものの、同接も最盛期の五分の一まで減ってしまった。


 そして何の因果か、同時期にアンチが大量発生した。

 コメント欄に度々書き込まれる悪意に満ちた言葉の数々。そのアンチコメントを見て、物議を醸す一般リスナーたち。そのどちらも見て一番心を痛めていたのは紛れもなく私だった。

 トゥイッターの検索サジェストにも、アンチについて載るようになった。エゴサをしても目にするのはアンチvs一般リスナーの構図ばかり。もちろん純粋に応援してくれているリスナーも大勢いたが、当時の私の目には彼らは映らなかった。

 調べたら一部のアンチスレッドの住民が挙って私の配信を荒らしていたらしく、それだけでなく一般リスナーに対しても嫌がらせに近い行為を行っていたことがわかった。

 挙げ句の果て、私以外の同期および後輩だけで無く、私と過去にコラボしたり、個人的に仲良くさせてもらっていた他事務所のVtuberさんにまで嫌がらせ行為は広がっていった。

 謂れのない悪質なデマ、対立煽り、とめどない誹謗中傷、そしてストーキング行為。

 私の心の何かがゆっくりと壊れていく音がした。

 そして私と関わりのある人、全てに迷惑をかけてしまった。その事実が何よりも私の心を抉った。

 

 社長はすぐさまにでもなんとかする。と弁護士に相談し動いてもらっていたが、結局裁判しか友好的な手段はなく、当時の私には裁判に関わるなんて体力はとっくのとうになかった。

 心身ともに傷ついた私はそっと表舞台から去ることを決意した。大好きだった事務所を、同期を、後輩を、私を愛してくれたリスナーを置いて私は逃げ出してしまった。


 私のVtuber人生はこんなにも呆気なく終わってしまうんだな。と卒業配信で笑顔を振り絞った後に、初めて涙を流した。


 それから、私の生活は好転することも暗転することもなかった。

 当たり前の話だが人生のイベントが発生するのはいつだって部屋の外。こうやって一人真っ暗な部屋で、煌々とモニターの光を浴びる生活を続けていて何かが起こるはずなんてなかった。

 ―外に出たら、例のあの男がいるかもしれない。

 孤独に過ごした時間が、その恐怖心を更に大きく育てた。

 気づけば一週間、二週間、一ヶ月と時間は過ぎていった。


 トゥイッターの検索機能で「魔ノ宮リズム」とかけ、元リスナーたちの呟きを眺めるのが一日の娯楽だった。でも、それも次第に疎らになっていった。

 外の世界を生きる人間は、日々刺激があり自分の興味はどんどん移ろいでいく。内側に籠もった人間は同じ日々を淡々と過ごしていくだけ。

 その乖離に気づいたときには、「魔ノ宮リズム」について呟く人間はごく少数になっていた。

 ―ああ、もう私は忘れられているんだ…。と自分のVtuberとしての〝死〟を改めて実感した時には大粒の涙が溢れていた。


 それでも私のことを忘れないで、毎日毎日、私について呟いてくれるアカウントがあった。

 デビュー当初からずっと応援してくれていて、暖かいリプライやグッズ購入報告のトゥイートだったり、私のどこが好きかをリスナー同士で熱く語り合っていた大切なリスナーだった。

 私が引退してからは鳴りを潜めたようだけど、過激派リスナーと当時バッチバチにTO争いしていたのも微笑ましかった。


 ―まさか隣にその彼が住んでいるなんて露にも思ってなかったけど。


 彼の姿を見て最初は全くピンと来なかった。

 オフイベントで「あなたがすぷりんぐ。さんか!」と画面越しに話した事自体はあったが、当時まだ高校生だった頃から垢抜けて見えたからだ。所謂大学デビューってやつなのだろう。

 それでその後、パンツを巡って色々あって、彼の口から「魔ノ宮リズム」と呼ばれた時、その声がとても懐かしくて暖かく思えたのだ。


 瞬間、私の脳裏に妙案が浮かんだ。

 ―彼と付き合っていることにし、その様を見せつけ、件のストーカーには諦めてもらおうと。

 正常な考えでないのは重々承知だった。彼の気持ちを踏み躙る行為だということも理解していた。

 でも我が身可愛さに口から提案は溢れてしまっていた。


 困惑する彼の表情を見て、なんてことをしてしまったんだ。と取り返しのつかない提案をしていたことに気づいた。

 他人に迷惑をかけたのが嫌だったから、表舞台を去ったはずなのに。

 寧ろ断られてもいい。と悩む彼を見ていて生きた心地がしなかった。


 そんな彼の答えは「わかりました…。」と弱々しいものであったが、私の文脈も意図も不明なお願いを受け入れてくれたのだ。


 彼の優しさに胸が詰まった。

 バタンと勢いよく部屋を出て、自分のベッドに戻ると堰き止めていた涙がとめどなく零れた。

 恐怖でも無力感でもない、人の温かみを感じての涙だった。


「…これが私の今まであった事と春矢に関係すること。ごめんね。たった一週間しか付き合ってないのに」

 そう弱々しく語られた彼女の言葉になんて返せばいいのか、俺には分からなかった。



  ◇



 ―あれから二人で大宮駅を経由し、北浦和に帰ってきた。

 帰路の途中、誰かに付き纏われてないか細心の注意を払いながら歩いている間、生きた心地がしなかった。

 ―こんな感覚を日々味わっていたのか。

 見えない恐怖がすぐそこまで差し迫っている感覚は泥のように全身に纏わりついてくる。人の視線を意識した途端、平穏な日常は影を落とすことを実感した。

 二人の間には会話は無かった。俺はただ小さく震える彼女の手を握ることしか出来なかった。

 虚ろ気な白葉さんを彼女の部屋まで運び、手を繋いだままベッドに腰掛ける。

 握られた手の感触を確かめるように何度か握り直した彼女は、もしかしたら私のことが嫌いになるかもしれないけど、と前置きした後、淡々と今までの経緯を語り出した。白葉さんの目には恐怖と無力感が入り混じっていた。

 

 少し一人にさせてほしい。と語り終えた白葉さんはベッドに潜り込み、世界と断絶するようにワイヤレスイヤホンをつけて目を閉じた。

かける言葉が見つからなかった。

「………。わ、わかり…ました。」

それだけ言い残して部屋を去ろうと玄関に向かう途中、

「………ごめんね」

ぽつりと小さくもの寂しげに聞こえた声に胸が締め付けられるようだった。



  ◇



 ―まさか、リズムちゃんの卒業にそんな経緯があったなんて…。

 ドサリとベッドに倒れ込み天井を見つめる。

 声優やアイドル、タレントのストーカー被害はよくある話だが、Vtuberにまでとは。

 人知れず、リスナーの誰にもその辛さ、苦しさ、恐怖を見せることなく耐えていたのか。

「俺はリズムちゃんのことなんにも知らなかったんだな…」

 配信者とリスナーは近くて遠い存在であるとよく言われる。今までのタレントやアイドルとは異なり、自分のコメントを読んでくれる、つまり此方側の発信に対してリアクションがあるだけで身近に感じられるのがそう言われる所以だ。

 でも結局、配信者は配信者。リスナーはリスナー。隔絶された世界に住む存在であることを改めて思い知らされる。

「俺はどうしたらいいんだよ…」

 両手で顔を覆い、空いた指の隙間から声が漏れ出す。

 快闊で、陽気で、カラカラと笑い、からかい好きで、自信たっぷりで、騒がしいって言葉がピッタリな彼女を恐怖と孤独と絶望に染め上げた、あの男のことは勿論許せない。

 ただ、それよりも壁の向こう今も恐怖に震えているであろう彼女に対して、まともな言葉何一つかけられなかった自分が一番許せなかった。

 彼氏を演じさせてストーカーに諦めてもらおうという魂胆だったとしても、そこに恋愛感情がなかったとしても、彼氏は彼氏。

 今、一番近くで寄り添ってあげられるのは俺だけかもしれないのに。

「白葉さん…。」

 窓の外、鈍色に染まった曇り空からはポツポツと降り始めた雨は、比喩表現のように冷たく、涙を流しているように寂しげだった。


 ―それから五日間。彼女が俺の部屋に尋ねてくることはなかった。


 最初の二日は部屋を訪ねようとしていたが、どの立場でモノを言えるんだ。とそう思えば思うほどインターホンと指の距離は離れていった。

 電話番号ぐらい聞いておけばよかったな。と今更になって後悔する。電話番号もチャットもトゥイッターのアカウントも知らない俺と白葉さんの関係が如何に脆く、希薄なものであったか。今頃気づいたって遅いのだ。

 ―白葉さんは俺のことを嫌いになったわけでも、拒絶しているわけでも無いと思う。

 寧ろ、彼女は救いを求めている。そんな気がした。そうじゃなかったら過去について話す必要も無いし、そもそも俺と付き合っているフリする必要も無かったはずだ。

 ―きっと彼女は自分のことを必要としている。

 オタクの妄想が多分に交じっていたとしても、そう信じたかった。



  ◇



 そうやって三日が経った。

科学倫理のレポートを終わらせるべくキーボードをカタカタ打つものの、ずっと白葉さんのことで頭がいっぱいで全く進まない。気分転換にコーヒーでも淹れようと椅子から立ち上がると、ブーッ!ブーッ!とスマホがけたましく鳴る。見れば咲人からの着信だった。

『うっす。なんだよ。いきなり電話なんて寄越して』

『おいーっす!なあ春矢、三限のレポート終わったか?俺、出来たには出来たんだけど、なんかイマイチ?な出来でさ…。お前のも参考程度でいいから見せてくんねえかなーって電話したんだけど…。…つかお前、最近なんかあったか?』

 心臓がドキリと跳ねた。

『いや…。これといって特にないけど』

『あー。そっか。なるほどなるほど。んー。よし!分かった!今からお前んち行くわ!そこで話聞くから!美味いコーヒー淹れておけよ~!んじゃ!』

『え、は?ちょ、いきな…』

 ブツンと切られてしまった。

 どういう意図か皆目検討もつかないが、これから咲人はウチに来るらしい。

 ―いっそのこと、咲人に白葉さんについて相談してみるか。

 そうは思っても、咲人に彼女の過去について話すのは気が引けてしまう。正体を知っていると謂えど、無闇やたらに広めていい話ではない。

 されど日が経てば経つほど気まずさは大きくなり、彼女との距離も遠のいていくのは肌感覚で理解していた。


 ―結局、最後まで結論は出なかった。


 その十分後部屋に訪れた咲人が部屋に入るなり、一つ大きなため息をついて言った。

「春矢…。お前、白葉さんと喧嘩…いや、何かあったんだな?」

 眉間に皺を寄せて言う彼の言葉には重々しい空気を纏っている。

「いや~?別に?白葉さんも最近、忙しいみたいだし?会ってないって感じ…かな」

 が、しかし反射的に出た言葉は、その場しのぎの言葉だった。

 ふーん。ならいいんだけどさ。とだけ咲人は言い、コーヒーを口にする。しばし味を楽しんだ後、喉奥へ飲み込み二の句を継いだ。

「…なあ、最近のお前、講義中ずっと上の空だったぞ。いつも授業聞いてるんだか聞いてないんだが分からんお前だけど、ここ数日はいつにも増してひどかったな。まさに心ここにあらずって感じだった」

 確かに、講義中もずっと白葉さんのことを考えていて集中できなかった。

「それにやたらため息が多くて、まるで人生の苦難にぶち当たってますよ~って面構えだったぞ。あたかも自分が悲劇の主人公です。って面持ちで居た時は流石に聞こうか迷ったぞ」

 矢継ぎ早に咲人は続ける。

「…でもお前から何か言われるまで待った。なんでか?それは自分の手で解決しようとしている人間に、相談を持ちかけてしまうと却って邪魔になっちゃうからだ。人は一人で勝手に助かるだけ。ってとある胡散臭いおっさんも言っていたしな」

 ―でも、だ。と言を区切り改めて俺を、俺の目を見据えて続ける。

「それでも目の前で困っている、悩んでいる、苦しんでいる友達がいたら力を貸したくなるもんなんだよ。そしてその逆はいつだって成立する。自分にはどうしようもない、助けてほしいと思っている人間はどんな状況であれ、周囲の人間の力を借りるべきだと思うんだよ」

 すっと浅く息を吸い、彼は最後の言葉を述べる。

「…だから話してみろ。俺はお前の親友だからな。それに恋愛マスターのアドバイス聞きたくないのか?」

 目が覚めるようだった。

 ―まったく…。俺は何にもわかってなかったんだな。

「でもお前の恋愛知識はギャルゲで得たものばかりだろ?」

「フッ。でも伊達に親の目盗んで、高校生の頃からやってきたんだぞ?そこんじょそこらの奴には負ける気がしないな」

 存外、コイツの言うことも間違いないな。と思えてしまうな。

 それから、五日前に起きたこと、白葉さんから語られたこと、俺が何一つ言葉をかけられなかったこと、事のあらましを話した。

 雲間から一筋の光明がうっすらと射してきているように思えた。


「…ふむ。なるほど…。つまりその件のストーカーが原因で、リズムちゃんは活動を大きく歪められて引退してしまった、と。そして、そのストーカーはまだ彼女のことを追い続けていると…。普通に通報案件だな」

「ま、まあそうなんだけど…映画館で会った時は気が動転していて通報するじゃなくて、逃げるを選択しちまったんだよな‥」

「確かにそれもそうか。事件とか事故に巻き込まれた時、即座に最善手に辿り着ける人は少ない、大体は自分の身を守る行動が出るもんな。こればっかりは仕方ない」

「次からはそう気をつけるわ…」

 ソファに深く腰掛け、全身を預ける咲人は言う。

「ストーカーって逮捕自体はされやすいんだが、証拠を挙げるってなると結構手間かかるんだよな。それに法律自体も恋愛感情を前提としたストーキングを想定してるみたいで、恋愛感情と関係ないストーカー行為は規制できないらしい」

 ストーカー規制法について記載されているページを此方に見せながら言う。

「直接的な被害がない以上、警察側も動くに動けないだろうし…。それに―」

 これはあくまで、俺の推論ベースではあるんだけど。と前置きして続ける。

「警察は相談されて一回捜査したものの、何も証拠が見つからなかった事件と、今初めて聞いた事件。春矢、お前ならどっちを優先する?」

 突然投げかけられた質問にぎょっとしながらも考えた結果を声で出力する。

「まあ、後者かな。一回捜査して何もなかったんだろ?それで時間を使うなら、まだ何も調べてない事件の方を優先するよな…。…あ」

「つまりそういうことよ」

 右手の指先をパチンと鳴らして、咲人は核心に迫る。

「それに、そういう奴の思考回路は突飛なもんで、変にストーカーを刺激した結果、何を考えたのか凶行に及ぶかもしれないだろ」

「…むしろ、彼女がより危険に晒される羽目になっちまう。ってことか。でもじゃあこのままほとぼりが冷めるまで待ってろって言うのか?」

 このまま放っておいても、状況は改善しないどころか、最悪の結末を迎えてもおかしくない。

「だからこそ、俺たちでどうにかするしかないんだよ」

「どうにかするって…。まさかストーカーをとっ捕まるとか言わないよな…?」

 流石にそれは危ないだろ。と続けようとすると、目をぱちくりさせ驚く咲人がいた。

「お前にしちゃあ、結構鋭いな。その通りだよ。俺たちでそのストーカーを捕まえて現行犯で警察に引き渡す。これが一番早くて、確実性の高い方法だと俺は思う」

 ―マジかよ。

 無茶で危険を顧みない行動しても、ちょっと怒られて済まされるような高校生とは違い、自分たちの一挙手一投足の全てに責任が伴う大学生だぞ?

 いくらなんでも危険すぎる。そう頭では理解していた。

 でも心は違った。

「…俺たちでなんとかしよう。彼女の、白葉さんの笑顔を取り戻すために」

 椅子から立ち上がり、硬く拳を握りしめて言う。

 覚悟を決めた俺の目を見て、小さく頷く咲人。

「じゃあ、まず最初の一歩だ。お前は白葉さんと仲直りしてこい。喧嘩している相手にお悩み解決されたところで喜びにくいだろ」

「別に喧嘩してねえっての。ただ俺が勝手に気まずくなってただけだよ」

 と軽く言い流してはいるが、白葉さんとの間には距離を感じるのは事実だ。

 ―確かにこの蟠りは早めに解消するのが得策だろう。

「そんじゃ。俺がここにいると満足に喧嘩できないだろうし、レポートやらないといけないし、ここいらでお暇させてもらうわ」

 あからさまに軽そうなリュックを背負い、立ち上がる咲人。

「だから喧嘩なんてしてないって…」

 そう俺がぼやいたのを聞き再び大きくため息をついた彼は、最後に。と前置きしてから口を開く。

「さっきから思ってたんだけどよ。お前、彼女に遠慮しすぎなんだよ。いいか?本当に大切な人ほど腹割って本音でぶつかるべきなんだからな?」

 ビシッと真っ直ぐに伸びた指と視線をこちらに差しながら咲人は続ける。

「お前が思ってること、お前が彼女にしてほしいこと、そしてお前の本当の望みをハッキリと口にしてぶつかってこい」

 これは恋愛マスターとしての助言だぞ~。そう言い残して去っていった。


 ―俺が白葉さんにしてほしいこと?俺の本当の望み?


 咲人の言った言葉の意味がハッキリと理解できなかった。ただ皆目検討もつかないわけではない。多分こういうことが言いたいのだろう、と言葉の輪郭自体は掴めているがその奥の本質、言葉の芯はまだ曖昧であった。

 でも。言語化できていない、この胸の蟠りを晴らす鍵は確かにそこにある気がした。


 咲人が出ていったドアの鍵を閉めようとした玄関にて、目を惹かれるものがあった。

 日頃何気なく目にしていて特段気にしていなかった物。俺が大事にしていた物。全ての思い出が、桜の花びらが開くように脳裏に蘇る。一つひとつが小さなパズルのピースが組み上がっていき、俺が白葉さんにしてほしいこと、俺の本当の望みが脳内で構築されていく。

 パチン。と最後のピースがハマった音が聞こえたときには、もう部屋から飛び出していた。

 リズムちゃんのラバーストラップがついた鍵をその右手に握りしめて。



  ◇



 俺は魔ノ宮リズムのオタクだった。今でも心の底から言えるぐらい大好きだった。決してガチ恋しているわけじゃない。そういう恋愛感情とはまた異なるベクトルの愛でいっぱいだった。

 初めてリズムちゃんを知ったの高校生の時。当時、まだVtuber自体がそこまで有名ではなく、アンダーグラウンドなコンテンツでその手のものが大好きだった俺はいち早くその魅力に取り憑かれた。

 続々とデビューしていくVtuberたち。新人Vtuberについてのまとめ記事を毎日見ては、目についた人の配信を見てを繰り返す日々。

 本当に偶々、そのサイトで。『FPSの腕前はプロ級!?注目の新人!』と取り上げられていたのがリズムちゃんだった。

 というのも、今でこそVtuberのメインコンテンツはゲーム配信だが、黎明期であった当時は動画投稿がメインで既存の動画ネタをヴァーチャルな存在であるVtuberが撮るとどうなるのか。といったモノが多く、またゲーム実況動画も動画として構成しやすいストーリーゲームの実況動画が中心に投稿されていた。

 そんな中VtuberによるFPSの実況動画は、当時のオタクたちには目新しく映った。

それも可愛い声の女の子がバシバシと敵を撃ち抜いていく様は衝撃的だった。

 一躍時の人となった彼女は動画を毎日投稿し、あっという間に百人、千人、一万人と登録者は鰻登りに増えていった。

 他Vtuberたちが皆挙ってFPSの実況を上げ始めた頃、リズムちゃんは生配信でFPSをプレイし始め、今度は動画で見た神プレイが生で見れるぞ!ということで注目が集まり勢いは止まらなかった。

 そして何より、恵まれたのはそのトークスキルだった。幅広いアニメやマンガの知識、雑学に、インターネットミームだけでなく、海外ミームまで網羅している彼女の豊富な引き出しと頭の回転の良さから繰り広げられるトークに皆、虜になっていた。

 初めは上級者のプレイを見に行っていたリスナーたちは、次第に軽快なトークを飛ばしながら敵を倒す姿を見に行くようになり、最終的には彼女の喋りを聞きに行くようになっていた。

 かくいう俺もその一人だった。

 それからというものの、新人漁りからリズムちゃんの配信(通称:リズ生)の視聴が日課となり、ゲーム実況配信以外にも雑談配信だったり歌配信、全ての配信を追いかけるようになった。

 登録者もどんどん増え、事務所の同期のチャンネルとコラボするとそちらも伸び、そうやって事務所そのものが大きくなっていく過程を共にでき、オタクとしてこの上ない幸せを享受していた。

 事務所初のリアルイベントも当然のように参加した。画面越しではあるが、リズムちゃんと一対一で話した内容は今でも覚えている。って言ってもとりとめのない内容ではあったけど。

 親をなんとか説得して、成績を維持することを担保にバイトを始めた。もちろん彼女のグッズを買ったりと推し活をするための資金が必要だったからだ。掛け持ちで稼いだバイト代を全額注ぎ込む形でグッズを買い、投げ銭をし、ライブイベントに行き、気づけばすっかり界隈では有名なオタク。所謂TOとして名を馳せていた。

 途中で大学受験が差し迫り、配信を見れない日々が訪れたがその間も彼女の配信の切り抜き動画を見たり、歌ったみた動画やシチュエーションボイスを聞いて、ひたすら勉学に励んだ。

 厳しい寒さの冬を乗り越え、第一志望に無事合格した。それを投げ銭のコメントに添えてリズムちゃんに伝えると、まるで自分のことのように喜んでくれて大泣きしたっけな。

 大学進学を期に一人暮らしするようになってからより拍車がかかったようにどっぷり浸かるようになり、オタク同士での交流も増えネット上の友達もどんどん増えていった。残念ながら大学でもデビュー成功といかなかったが、それでも咲人や花宮と出会えたのもリズムちゃん繋がりであった。


 リズムちゃんのおかげで、俺の人生は明るく色彩豊かな人生になったと胸を張って言える。そんな日々を手に入れるきっかけとなったリズムちゃんには返しきれない恩を感じていた。


 ―でもそんな幸せな日々はずっと続かなかった。


 ほぼ毎日、それも長時間に放送していたリズ生が、ある日を境にピタッと止まったのだ。ちょうど彼女がストーカー被害で苦しみだしたのはこの辺りであろう。

 当時オタクたちは皆ざわついていたのを覚えている。なぜ告知なしでずっと生放送が無いのかについて考察スレが何本も立ち、トゥイッターでは議論が盛んに行われていたぐらいだった。


 それからは白葉さんが語った通りだった。


 激化するアンチと自治厨の争い、更新の止まらないアンチスレッド、そして日に日に疲れが増しているように聞こえるリズムちゃんの声。同期後輩とのコラボ数の減少。新規ボイスのとグッズ販売がないこと。イベント出演者の中に名前が無いこと。全ての不安要素の歯車同士がガッチリと噛み合い、気づいたときには誰も手に負えないほど膨張したストレスは、重く彼女にのしかかっているようだった。


 もうこの時点で、俺も分かっていたんだと今になって思う。

 分かっていたというより、心では既に勘付いていて、それを認めたくないと脳内で拒んでいた。というのが適切か。

 だから、彼女の口から「卒業します」と告げられた時、驚きや悲しみよりも先に遂にこの時が来てしまったのか。と思ってしまった。

 それでも、どうして彼女がそこまで至ってしまったのかについては永遠に疑問だったし、事象として脳内で理解出来ても、今度は心が理解することを拒んだ。


 卒業当日。有志のオタクたちで作成した寄せ書きを贈り、俺の魔ノ宮リズムのオタクとしての人生も終了した。少し大げさに思えるかもしれないが、それぐらい大事な時間であったのは言うまでもない。


 最初の一ヶ月はろくに外も出れなかった。大学の試験だけは重たい体を引きずって受けたが、成績はギリギリ進級が許されるといったものだった。

 大学生の長い春休みもずっと寝て過ごした。偶に咲人と花宮に呼び出されて、三人で遊びに行ったりもしたがそれ以外はずっと寝て過ごした。


 二年生になって、ようやくマトモな人間生活を送れるようになった。というか親元に成績表が届いたのが一番の要因になるのだが。

 だからこそ白葉さんと出会えてこの上なく嬉しかった。もう一度、彼女と話せて幸せだった。彼女の意外な一面を発見したり、魔ノ宮リズム本人なんだなと感じられる一面があったり、他愛も無いやり取りの節々がなんだか新鮮でそれでいて懐かしくて。


 嗚呼、そういうことだったのか。と一人腑に落ちる。

 今になって気づくなんて、本当に俺は鈍感だな。と自嘲気味に笑う。


 ―俺は白葉さんのことが好きなんだ。


 それも〝魔ノ宮リズムだから〟じゃない。白葉さんのことが好きなんだ。

 容姿は違えど、リズムちゃんも白葉さんも一緒。どちらも好きになって当たり前か。

 ―大好きだからこそ彼女には笑顔でいてほしい。

 そのためにも俺は今から無理なお願いをしに行く。

 本当に大切な人だからこそ、本音でぶつかるべきらしい。


 たった一週間と〝三年〟の付き合いだ。


 ちょっとやそっとのことじゃ壊れない関係であることを祈りながらドアの前に立つ。

 伸ばした指がインターホンを鳴らすのに、戸惑いはもう無かった。


「…なんだ。春矢か」

 小さく開けられたドアの隙間から覗く白葉さんの目は虚ろ気で、発せられた声も掠れており冷たく無機質なものだった。

 多分、ろくに食事も取っていないのであろう。透き通るように白かった肌が病的なまでに青白くなっており、ビックサイズのTシャツから伸びる手足も、どことなく痩せ細ったように見える。

 大丈夫ですか?と口から零れそうだったが、ぐっと飲み込む。大丈夫といえる状況じゃない人に、そんな取り繕う言葉をかけても何も意味がない。

 チェーンがかけられたドアの先、小さく震える視線とぶつかる。

「白葉さん。俺から大事な話があります。だから中に入れてもらえないですかね」

「な、なんで…?ここじゃ、ダメかな…?」

 ドアが大きく開かれなかった時点で、こうなることは想定済み。小さく息を吸って言う。

「ダメです。俺は白葉さんと直接、話がしたい。ドアを隔ててなんて嫌です」

 そうキッパリと言われた彼女は小さく逡巡する。揺らいだ瞳はあてもなく右往左往し、「そ、そんなに言うのなら…」と渋々といった様子で、チェーンを外し部屋の中に通してくれた。

 部屋の中は想定よりもだいぶ綺麗だった。ベッドの周りのミニテーブルに黄色のブロック栄養食品の空き箱と野菜ジュースのゴミが散乱している程度で、初めて来た時と比べても散らかっていない。ベッド自体にも脱いだ後の衣服がいくつか散乱しているだけで足の踏み場もない状況ではなかった。

 恐らくだが、彼女はほとんどベッドから動いていないのだ。ベッド周りだけやたら散らかっているのも、寝たきりの生活を送っているため。寝ているだけならエネルギーも使わず、お腹が空くこともない。かろうじて生き長らえるだけの栄養を摂取するための最低限の食事だけ取っているようだった。

 ―思っていたよりも状況は悪化している。

「それで、話って…?」

 彼女の瞳を真っ直ぐ見据える。ちゃんと丁寧に言葉を編みながら言う。

「まずは、あの日、何も言えなくてすみませんでした」

「あ、あの時は仕方なかった、と思うし。わ、私も帰ってなんて言っちゃってごめんなさい…」

 うっすらと目尻に涙を溜めて謝り返す。そして目元を拭って言葉を繋ぐ。

「ま、まずは、ってことはまだ話したいことがあるんだよね」

 小さく頷き、胸にしまっていた言葉を紡ぎ出す。


「―白葉さん。もう一度、Vtuberやりませんか?」


 その言葉に想いを込めて。覚悟の眼差しを彼女に向けた。




                    5



「な、なに…?いきなり過ぎて何がなんだか…」

 あまりにも突飛な話に、目を丸くする白葉さん。その瞳には困惑の二文字が浮かぶ。

「言葉の通りですよ。もう一度、Vtuberやりましょうって話です」

 再度、彼女にそう告げると、先程までの困惑した表情から怪訝な面持ちへと変わる。

「そ、そんなこと言いに来たの…?揶揄いたいのなら帰ってよ」

「そんなことじゃないです。俺は真剣です」

 言葉は真っ直ぐ。本音を叩きつける。

「白葉さんも心のどこかでもう一度って思っているはずです」

「わ、私はもう引退した身…。そ、それに活動のせいでこんな怖い思いしたんだよ?」

「怖い思いして活動そのものが嫌になったんだったら、リズムちゃんのグッズなんて見たくないはずでは?」

「そ、それは…。わ、私だって思い出にひ、浸る時だってあるから…。た、楽しい思い出だけ思い出せば辛くないから…」

「でも当時のことを思い出したのなら、否が応でも脳裏には過りませんか?いい思い出だけを抽出するなんて器用なこと、人間にはできませんよ」

 言葉を詰まらせる彼女に、会話の主導権を握らせることなく言葉を続ける。

「辛い記憶があったとしても、あの日々に戻りたいっていう強い願望があるからじゃないんですか?」

「そ、それは。だって…。わ、私は…」

 言い淀む彼女の言葉を断ち切る。

「だとしたら、俺の部屋でグッズを見ていた時の貴方の表情には、怯えや恐怖、悲しみといった類の感情は感じられなかった。そこに確かにあったのは、郷愁や憧憬といったものでした。あの時、零した涙はそういった感情の現れだったんじゃないですか?」

 目を伏せ、両耳を塞ぐ白葉さんに俺は言葉を叩きつけるのを辞めない。

「あの時、懐かしむようにアクリルスタンドを眺めていたのも、愛おしそうにデイパックを抱きかかえていのも、並べられたグッズを見て零した涙も全部、嘘だって言うんですか!」

 堰を切ったように止めどなく溢れ出る感情。

「俺は貴方に笑っていてほしい!俺はもう一度、貴方を全力で応援したい!俺は貴方に返しきれないほど沢山の物をもらった!今度はその恩返しがしたいんです!だから俺は―」


「いい加減にしてっ!」


 劈くように吐き出された言葉。目元を真っ赤に染めた彼女が俺の言葉を遮った。

「わ、私だって…。まだやり残したことが沢山あったよ…。もっと見たい景色もあった…。でも。でも!私はそれを捨てて逃げてしまったの!」

 肩で息をして、さらに続ける。 

「それがどれだけ無責任で周囲で支えてくれた人たちを、共に活動していた同期後輩を、応援してくれていたファンを、悲しませたか、失望させたか、それが…それがどのくらい、私にとって苦痛だったかわかる?」

 独白は続く。

「確かにストーカーは怖かった。アンチコメントも不快だった。でもそんなことよりも!私のせいで、悲しい思いをする人、辛い目に遭う人が出てきてしまったのが、どれだけ私の心を抉ったか!」

 両手で顔を覆い、苦しそうに顔を歪める。

「結局は、私もそのストーカーも一緒だ!私がもっと早く対処しておけば、誰も不幸にならずに済んだのに!私がもっと我慢すれば、こんな思い抱かなかったのに!でもそれをしなかったせいで、多くの人悲しませてしまった!君もそのうちの一人なんだよ!」

 溜めていた涙が頬を伝う。

「私はもう、誰も…誰も…。悲しませたくないんだ…」

 力尽きたように、その場にぺたりと座り込んだ彼女が此方を見上げて言う。

「それにね、春矢…。私は君が分からないんだよ。だって、私は君の気持ちを利用して隠れ蓑にしようとしたんだよ?浅ましい感情を君に向けたんだよ…?自分の感情を一方的に押し付けて…。やっていることはあのストーカーと同じだよ?」

 白葉さんと再び、目と目が合う。

「なんで、なんで私にそこまでしてくれるの…?私は…もう魔ノ宮リズムじゃないんだよ」

 当然の疑問に帰結する。元TOと謂えど、ここまで強く想いを述べるのは彼女からしたら不思議に映るであろう。

 ―でも生憎、その疑問への回答は用意してあるんだ。

 口元を小さく綻ばせながら言う。

「―俺は貴方のこと、白葉さんのことが好きだからですよ」


「え……?」

「簡単な話ですよ。好いている人に尽くしたいと思うのは特段、変なことじゃないでしょ?」

 戸惑いを隠せない様子の白葉さん。どうやらそこまで勘付いていなかったらしい。

「え…?だって春矢は、私が魔ノ宮リズムの中の人だから興味を持って、私のファンだから付き合うことを承諾してくれたんじゃないの…?」

 目を丸くした彼女は問う。

「確かにそういった部分もあることにはあります。でもそれよりも白葉さん。貴方のことが好きだから今までずっと応援してきたんですよ?魔ノ宮リズムという一キャラクターではなく、魂である貴方のことが好きだったんですよ」

 さっきまでの怪訝な表情から、また困惑した表情に移り変わる。

「好きな人に笑っていてほしいと心の底から願ったり、どうにかして助けたいと思うのは当たり前じゃないですか。だからこうやって今、俺は本音をぶつけているんです」

「わ、私は…」

 狼狽える白葉さんに柔らかい笑顔を向けて言う。

「俺がストーカーだってなんとかしてみせます。それに何か辛くて悲しいことがあったら隣で支えてみせます。だから、だから!」

 ありったけの想いをありったけの言葉に乗せて放つ。

「もう一度、Vtuberやりましょう…!」

 放たれた言葉を受け取った彼女は、目にかかった髪を耳にかけて頬を弛ませて言う。

「そういう時は普通、『俺と付き合ってください』って女の子に向かって言うのが、恋愛小説の定番だと思うんだけどな」

 穏やかな笑顔から流れ落ちた涙には、悲しみなんてどこにも感じられなかった。



  ◇



「はいポモドーロです。すみません、材料が少なくてシンプルなものしか作れなくて」

「めちゃめちゃ美味しそう…。ありがとね春矢」

 俺がキッチンに立っている間、ずっと楽しみにしていたのだろう。待ちきれないとそわそわしていた白葉さんの前にパスタ皿とサラダを並べる。

 ポモドーロはトマトパスタ基礎とも言える一品で、ニンニクで香りをつけたオイルでトマトをじっくりと加熱することで、トマト本来の甘みと旨味を引き出し、スッキリとした酸味とバジルの香りが後を引く、シンプルながらも奥の深いパスタである。

 栄養食品と野菜ジュースだけでも生きるために必要な栄養は確保できていると思う。

でもそれだと心は満たされない。温かいご飯を誰かと一緒に食べることこそが心の栄養になると俺は思うのだ。

 本当に美味しいな…。そう呟き、頬が緩ませる白葉さんの姿が何よりの根拠だ。

「私ね、春矢が朝ご飯作ってくれたの、すっごく嬉しくってさ。今まで、お腹を満たせればいいやぐらいにしか考えてなかった食事がこんなにも楽しいんだって」

 チラリとキッチン脇にまとめられた栄養食品たちのゴミ袋に視線を滑らせる。

「それでね、あれ食べてる時、全然生きた心地がしなくて、お腹を満たすために食べれば食べるほど心が痩せていく感じがして…。だからまた春矢の料理が食べられて、今すんごく嬉しいんだよ」

 声色にもう悲しみも苦痛も感じなかった。

「俺もまた白葉さんにご飯作れて嬉しいです。本当に美味しそうに食べるから作り甲斐があるってもんですよ」

「っん!?」

 突然、声にならない声を発したら白葉さん。すると次第に頬が赤く染まっていき、

「わ、私って…。そんなに美味しそうに食べるの…?」

 耳まで真っ赤にしてあたふたしながら尋ねる。

「え…?いやーそりゃあもう、初めの一口食べた瞬間、カーッて眼ガン開きになるじゃないですか。それにこの前のエッグベネディクトなんて一口する度にフフフって笑みが漏れてましたよ?」

「え、えっ?えええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!」

 素っ頓狂な声を上げて驚く白葉さん。どうやら全く気づいていなかったらしい。

「嘘?え?嘘だよね?ちょっと待って、めちゃ恥ずかしいじゃん!無理無理無理!」

 プシュー!と頭頂部から湯気を吹き出しながら、茹でダコのようになった顔を隠す。

「そんなに恥ずかしがることですか?結構可愛かったのに」

「かわっ、可愛い?!!?!?!?」

 不意に浴びせられた「可愛い」の一言で、また一段と顔が深紅に染まる。もはやトマトソースと引けを取らないぐらい赤く熱を帯びていた

「あっつ!あっついよ!春矢!うん暑いよね!今、窓開けてくるね!」

 よたよたと覚束ない足取りで窓の方へ向かうが途中には脱ぎ散らかされたシャツが。

「ひゃえあ!!」

「白葉さん!!」

五日間と謂えど、ほぼ寝たきりだった彼女が踏んだらバランスを崩して転ぶことは自明だった。

 当然のようにシャツに足を取られ、ぐわんと大きく前へと体が傾く。マズイと思い、彼女を受け止めるため、既に体は動いていたが…。―大きな誤算が三つあった。

 白葉さんが着ているのはオーバーサイズのTシャツ。そして白葉さんは言うならば、お胸が控えめな方である。加えて、彼女は自分の部屋だと下着を着けない。

 俺は見てしまったのだ。大きく開いた襟元から覗く、緩やかな双丘と脚先までほぼ一糸纏わぬ姿を。

 悲しいことながら、男という生き物はラッキースケベには勝てない。俺の双眸は襟元から広がる絶景を確かに捉えて離さなかった。

 その一瞬のタイムラグが分水嶺だった。踏み出すのに遅れたせいで不安定な体勢のまま、彼女を受け止めることになり…。

 ドンガラガッシャーン。アニメみたいな音を立てて二人は倒れ込む。

「イタタタタ…」

「だ、大丈夫ですか?白葉さ…!?」

 目を開けると、そこにはまたもや絶景が。彼女が上身を逸したことによって生まれた僅かな隙間からは白磁器のように真っ白で、滑らかな曲線美が。その先に淡く色づく桃色の―。

「だ、大丈夫だよ?そっちは痛くない?」

「………。」

「え…?どこ見て…。へっ…!?あ、あわ、あわわわあああああ!!!」

 固唾を呑んで見つめる俺の熱い視線に気づいた次の瞬間、再び頭の先まで真っ赤になり、彼女の拳は自分の頬を貫いた。

 綺麗な右ストレートが決まり、ゆっくりと床に伏していく瞬間、

 ―少しは元気になってくれたのかな。

 と少し嬉しく思いながら意識は白く薄れていった。



  ◇



 頬を劈く痛みで目を覚ます。

 このやり取り、初めて会った時と同じだな…と思い出す。

 どうやら白葉さんに一撃を食らい、寝ていたらしい。

 ズキズキと痛む頬を手で抑えると後頭部に柔らかい感触を捉える。

「あ、ようやく起きた!よかった~」

 瞼をゆっくりと開くと、そこには愛すべき彼女が。

「はぁ…。ホントごめんね。私、昔からこういうこと多くて…。自分の身を守らなきゃ!って思うとついつい…」

 ―なるほど、『実際に行為が伴うなら、それに対抗すればいい。』と言っていたのは、こういうことだったのか。

「いや俺も悪かったですし、めちゃめちゃ痛かったですけど、気にしてないですよ!」

 前は痛くないですよ。と取り繕っていたが素直に言う事にした。

「い、痛かったよね!本当にごめんね…。マジで気をつけるから!」

「まあ、気にしてないの部分も本当なんで、そんなに謝らないでください。てかこれって…。」

 後頭部のふにっとした柔らかさと彼女の顔を下から見上げる構図。

「膝枕ですよね?重くなかったですか?」

 体を起こし、彼女に問いかける。どのくらい気を失っていたか不明だが少なくとも日が落ちていて、外からラグビー部たちの声が聞こえるということは、それなりの時間は経っているであろう。

「ううん。って言いたいところだけど、これが意外と重たくって。アニメとかで軽々とやってるけど、しんどいんだなーって思ってたところだよ」

「あー。これは、もう二度としてくれない感じですね~。じゃあもうちょっとだけ享受しちゃおうかな」

「ダメー。これは罪滅ぼしのためにやったんですぅー」

 ゲーミングチェアに座り直す白羽さんを見て、勿体ないことしたなと肩を竦める。

 それはさておき。と前置きして、改めて彼女を見据えて言う。

 神妙な空気を感じたのか、白葉さんもゲーミングチェアの上で正座して、俺の言葉を待つ。

「白葉さん。もう一度Vtuberやってくれますか」

「…それなんだけどさ。別にもう一度始めることには抵抗自体ないけど、春矢はなんでそこまで私にVtuberやってほしいの?」

「俺がもう一度見たい。応援したいってのもありますけど、それよりも活動している時、とっても幸せそうだったな。って思うからです。それに前に『一生配信者として生きてたい』なんて言ってたぐらいですし」

 それを聞いて、カラカラと笑う彼女。

「元TOさんが、そう言ってくれるのなら。考えてあげてもいいけどな」

「あ…。でもVtuberに彼氏いるの不味くないですかね…。ガチ恋勢が怒ったりしませんか…?」

「お!早速、杞憂民が湧いてらっしゃる」

 何か嫌なことを思い出したのか目を伏せて、はぁ…と大きなため息をつく。

「正直、あの手の人たちって勝手に心配して大げさに書くから、無駄に配慮しないといけないし、寧ろ活動の幅狭めることあるから辞めてほしいんだけどね~」

 界隈で一定数存在する杞憂民。その名の如く、不要な心配ばかりしてTLをざわつかせる存在。

「これでも数字持ってたし、事務所も大きくなったから、何も考えずに活動してる訳ないでしょ。それに規約的に話せないことも多いし。大体、皆が思いつくようなこと、うちの敏腕マネージャーさんが気づかないはずないでしょ。って見る度思ってたな~」

 ―あ、結構。困ってたんだ。と新たな発見。当時も毒舌というか言いたいことをちゃんと言うスタンスだった彼女を困らせる杞憂民。やはり面倒くさいな…。

「それはそうと、ガチ恋勢って配信の空気感次第なところあるから、そこんとこ大丈夫かな」

「確かに、その手のガチ恋営業とかしてませんでしたもんね」

 ガチ恋営業。これは端的に言えば、オタクに疑似恋愛をさせるようなもので、熱狂的なファンを作りやすい反面、勘違いしてしまう厄介オタクが生まれやすい活動方針である。この活動スタイルを取るVtuberは数多いが、そんな中、魔ノ宮リズムは『魔界のお嬢様』という設定もあってか、男女平等に接し、できる限り恋愛要素を省くようにしていた。

 まあ、それでも一定数、ガチ恋勢がいたのだが。

 ―ちなみに、例のTO争いをしていた『こばさま』はゴリッゴリのガチ恋勢で、『リズムちゃんと絶対に結婚してやる!』とか『リズムちゃんは、ぽれのことが好きに違いない!』だとか事あるごとに、私信だ!と騒いでいた。今思うとこんなのを相手にしていたのかよ。白葉さん大変だったな…。

「ま、とりあえずこのゴタゴタが解決したら、知り合いのイラストレーターさんとかモデラーさんとかに連絡してみるよ」

 スマホを三回ほど、縦にスクロールしながら言う。恐らくツテのあるイラストレーターさんのアカウントをいくつか見ていたのであろう。再始動に向けて少なくとも好意的であるのは嬉しかった。

「じゃあ、そのゴタゴタを解決しましょう。一緒に!」

「と言っても、具体的にどうするのさ。まさか直接捕まえるとか言うつもりじゃないよね?」

「え?そのつもりですけど」

「え?ん?えーと。え?」

 鳩が豆鉄砲くらったように目をぱちくりとさせる白葉さん。人って冗談半分で言った事が、的中した時、素っ頓狂な顔になるよね。

「いや、最初に言い出したのは咲人で―」と咲人とのやり取りを話す。

「…は、はぁ。それで言いたいことは分かったけど、いくらなんでも危険すぎない?」

「危険も承知の上です」

「んー。私としては彼氏を危険な目に遭わせたくないんだけど…。まあ言っても聞かなそうだし、解決したいのは山々だし…。」

 一応、怪訝な面持ちではいるが了承はしてくれそうだ。

「じゃあ、早速なんですけ―」

 待って。と彼女が遮る。

「春矢だけ危険な目には遭わせたくないし、私も参加する。じゃないと許可できないかな」

「あ、いや、流石に…」

 暫しの沈黙。両者の視線がぶつかる。

 ―仕方ない。と視線を外して彼女に言う。

「分かりました。無茶だけはしないでくださいね」

「それは春矢もだけどね」

 ストーカー被害から守る対象を参加させるのは些か危険な気がするが、当人がどうしてもと言うのだから仕方ない。

「とりあえず咲人を呼んで作戦会議といきましょうか」

 スマホを取り出し、彼に『仲直りできたからこっち戻ってきてくれ』と連絡。三限のレポートがどうたらと言っていたがアイツのことだ、とっくの昔に終わらせているだろう。数秒後、案の定、OKの二つ返事。本当にいい友達を持ったな。と思う。

「あ、この部屋じゃ…流石にマズイから俺の部屋に行きましょうか」

 と自分の部屋への移動を促す。親友と謂えど、彼女の部屋に上げるのは、彼氏として嫌だった。

 背後から「ひゅーう!ちゃんと彼氏してんじゃーん!」と囃す声が聞こえたが、無視しておこう。てかなんで茶化す側にいるんだよ。

「あと、服ちゃんと着ておいてくださいよ!下着も!」

「彼氏かと思ったらおかんだった…」

「幼稚園児にしか言わないセリフですよ?これ」



  ◇



 十分後、相変わらず軽そうなリュックを背負った咲人が到着。三人で俺の部屋に集まり、まずは顔合わせということで話始めた咲人。

「とにかく。そのストーカー男についての情報が欲しい。春矢と白葉さんは顔を知っているとはいえ、俺もそいつの顔は確認しておきたい。もしかしたら俺も知ってるやつかもしれないしな。お!ありがとう、いただきます。」

 淹れたてのコーヒーを俺から受け取って一口含んで続ける。もちろん白葉さんには、コーヒーではなくホットミルク。

「それに素性を把握しておくことで此方の対策も立てやすいし、知っておくことに損はないと思う」

 俺と白葉さん、どちらも頷く。

 ぱっと見地味めの中肉中背の男。目深にキャップを被り、無造作に伸ばされた髪から覗く、目には狂気と愛憎が渦巻いていたのが印象的だった。

 それについてなんだけど…。と小さく手を上げる白葉さん。

「もしかしたらストーカーになる前に、あの人と現場か何処かで会っている気がするの。それも多分ファン側で」

「ほぅ…。となると、やはりあいつも元々はオタクだったか。となると春矢とも一度は会ったことあるかもしれないな」

「ああ、確かにな…。一応、リズムちゃんの出演するオフイベントは全部参加してたしな」

「結構誇らしげに言ってるけど、オフイベ自体十回も無かったけどね」

 白葉さんが苦い顔しながらボヤく。

「でも十回程度なら、ある程度絞られてきそうだな…。それに会ったことあるかもって言うぐらいなんだから、交流イベントとかで会ったことがあるんだよね?」

 咲人が顎を手で撫でながら言う。ファン交流イベントといえば…と自分の脳内を掘り起こす。

「あれ…?ファン交流イベントって確か…三回ぐらいしかやらなかったでしたっけ?」

 白葉さんの方を見やりそう投げかけると、こくん。と頷く。

「えーとね。確か、三回目の時にプレゼントに変なもの仕込まれてたのと、現場で交流について揉め事があったから、運営判断で以後は辞めたんじゃなかったかな」

「変なもの?それに揉め事って?」

「分かりやすくぬいぐるみの中に盗聴器が仕込まれてた。マネさんが楽屋に持ち運ぶ前にチェックしてくれたから、被害自体は無かったんだけどね。それ以降、プレゼントに関しては通販で送れる物かお手紙だけって縛りが出来たの」

 確かに大昔。それでこそ、まだリズムちゃんの登録者が一万人も行っていなかった頃は、プレゼントに関するルールが無かったが、ある日を境に制限を設けられてたな。

 当時、『こばさま』が『これじゃあ!リズムちゃんに結婚指輪贈れないじゃないか!』ってブチギレてたな…。というかアイツ、本当にキモイな。

「なるほど、盗聴器か…。それで、揉め事っていうのは?」

 訝しげな表情を浮かべながら、咲人は訊く。

「揉め事に関しては、マネさんから人伝い程度でしか聞いてないからハッキリしたことは分からないんだけど。現場のセキュリティさんと揉めた人がいたみたいなの。それも他の参加者と比べて、俺の時間が短い!ってイチャモンつけられたみたいで…」

 これに関しては俺も知っている話だ。イベント終了間際、出入り口付近で騒ぎがあったってTLで話題にもなっていたはず。

 それで…。とそのまま白葉さんは続ける。

「当然、その人は出禁。そして当時まだウチも弱小で、これ以上の人手は増やせなかったのもあって、当分の間は実施しないようにしましょう。ってことになったの」

 次のオフイベントについての発表がされた時、交流イベントが無いことに疑問が集まっていたがこういう背景があったのなら納得だ。

 ちなみに『こばさま』も大変お怒りで、『リズムちゃんとぽれの愛のラブラブ交流タイムが無くなってしまったじゃないか!これじゃリズムちゃんに直接、結婚指輪をはめてあげられない!』とコメントを残されていた。本当にマジでキモイな。

 と、ここまで聞き入っていた咲人が口を開く。

「となると、やはりその三回目の交流イベントがあった回が怪しいな。あれって確かいつ頃開催したか覚えているかな」

 日時についてなら俺にお任せあれ。と勢いよく手を挙げ答える。

「はい!二年前の十月六日です!」

 それを聞いて苦笑いする白葉さんと、より深く思考の海へ潜っていく咲人。

 さりげなく白葉さんにキモがられているけど、イベント開催日くらい覚えるのは当たり前では?と首を傾げる。

 そんな苦笑いしていた白葉さんが、ふと何かに気づいたようだ。

「私、その二ヶ月後くらいから…ストーカーされてたかも…」

 え?と俺と咲人の視線が彼女に集まる。

「正確な日付とか覚えていないんだけど、なんとなく違和感に気づいたのは確か十二月だったはず。街中がクリスマスムードだったから間違いないと思う」

「十二月か…」

 クリスマスの喧騒の中、誰かにずっと監視されていては楽しむものも楽しめなかっただろうと想像する。

 それに二年前の十二月から被害に遭っていたということは、かなり長い間付き纏われていたことになる。そのことを考えるだけでも怒りで頭がどうにかなりそうだった。

「おーい。春矢、顔に怒りが出てんぞー。今、怒ったところで仕方ないんだから」

「あーすまんすまん」

 どうやら表情に出ていたらしく、咲人に宥められてしまった。反省。

「えと…当時の会場がキャパ二百人規模のライブハウス!?今じゃ、三千人規模のライブハウスを何公演もする事務所さんのオフイベントがこの規模だったとはなぁ…」

 スマホで当時の現場について調べていた咲人が驚く。

 まあ無理もないだろう。今でこそ所属タレントは五十人以上、男女問わず有名配信者が揃っている事務所にまで成長したが、立ち上げ当時は1LDKのマンションの一室から始まったのだから。当時の苦労話は初期組の語り草である。

 スマホを仕舞い、よし!と手を合わせた咲人が続ける。

「とりあえず、まずは春矢と白葉さん。二人はそのイベントについて特に揉めた男について調べてくれ。俺は作戦について考えるから。なんか分かったら逐一報告ヨロ!」

 どうやら咲人の中で方針が決まったらしい。

そんなこんなで最初の作戦会議は終わった。


「それで話って?」

 咲人が家に帰る前、ちょっと話があるとアパートの廊下に呼び出された。彼の表情を見る限りそこまで深刻なことではなさそうだが。

「あーまずは仲直りおめでとう。見た感じ、しっかり話し合ったんだなってのがなんとなく伝わってきたわ」

「いやーちゃんとしっかり話したよ。と言っても半ば、俺がただただ白葉さんに想いを伝えただけな気もしなくないけど…」

 今、思い出すと結構恥ずかしいこと言っていたような気もするが、思い出しても共感性羞恥に苦しめられるだけなので良い思い出。ということにして細部は割愛しておこう。

 それと聞いた咲人はハハハ!と含みのない笑いを飛ばし、ポンと俺の肩に手を置く。

「いいか?ああ見えても、女の子は繊細だからな。お前がちゃんと接してあげるのが一番、心のケアになるんだからな」

「ああ、分かってるよ。それで?〝まずは〟ってことは他にもあるんだろ?」

 察しがいいな。と言わんばかりに、咲人は此方を指差す。

「端的に言えばだな…。多分速攻で身元は割れると思う。ただ、そいつをどのようにして捕らえるかが問題な訳。それでだな、俺から白葉さんにお願いしにくいことがあってだな…」

 はあ…とぼやけた返事を返して彼の相談事について聞く。少し危険ではあったが、方法としては問題ないように思えた。

「うーん。間違いなく説得自体はできると思う…。でも少々危なくないか?」

「まあ、そこんところはお前次第だな!」

 ―と言われましても…。

 とりあえずは件のストーカーについて調べるところからか。

 オタクの情報網と言えば。さっきから度々登場している人に訊くのが早いだろう。

 カタカタとスマホの画面を叩きダイレクトメッセージを送信する。

 ―そういえば。

 ふと思い浮かんだ疑問。それを彼に尋ねる。

「なあ、咲人はどうしてここまで俺と白葉さんに良くしてくれるんだ?」

 それを聞いた彼は、フッと小さく笑う。

「んなもん。俺の親友とその彼女が困ってるからに決まってるだろ。…それに俺、こういうこと許せなくてさ。女の子に怖い思いさせるのだけは絶対に嫌なんだ」

 そう言う彼の横顔はどこか寂しげだった。

 しかしすぐパッと笑顔に切り替え、俺を鼓舞する。

「まあそんなところだ!ヨロシク頼んだぞ。正式な彼氏さん!それじゃあな!」

 咲人はパァンと気持ちのいい音を立てて、俺の背中を叩きそのまま去っていった。

 本当に俺はいい友達を持ったな。と改めて思う。

夕焼けに照らされ伸びた彼の影が見えなくなるまでその後ろ姿を目で追った。



  ◇



「咲人くんとは何話してたの?もしかして私についてとか?」

「まあ、そんなところです。それに来週のレポートについてちょっとばかし」

 玄関で靴を脱ぎ、リビングへ戻る。

「それでなんですけど、これ見てもらえますか?」

 彼女にスマホの画面を見せる。映っているのは『こばさま』からのメッセージ。

「あー!なっつかしい~!この子ね!覚えてる覚えてる!週一でビスケットに怪文書送ってくるから読むの楽しみにしてたもん!」

 ―アイツ毎週怪文書送りつけてたのかよ…。本当にマジで救えないぐらいキモイな。

「へ、へえ~。そうだったんですか…」

 あまりのキモさに冷ややかな笑いしか出なかった。

「でもね!あれでもリズムちゃんに対する愛はホンモノだったんだよ!怪文書も異様な文が連なっていること多いけど、読み込んでみると意外と文章構成がしっかりしてて、一個の怪文書内で起承転結がちゃんとあるのが寧ろ好印象だったなぁ」

 ―良かったな。お前の怪文書はちゃんと読まれていたみたいだぞ。文学的読み物としてだが。

「それで『こばさま』がどうしたの?てか春矢と仲悪かったんじゃなかったけ?」

「実はリズムちゃんの引退後、仲直りというか、停戦協定を結んだというか、戦う理由を失くしたというか…で、なんだかんだメッセージ送り合う仲になったんですよ」

「昨日の敵は今日の友ってやつだ。」 

「まあ、そんなところです。それで『こばさま』にあくまでも昔を懐かしむって体で、三回目のファン交流イベントについて訊いてみたってところです。そしたら爆レスが来て…」

 画面に映ったメッセージ履歴を縦にスクロールする。ちなみにこの間にも新規メッセージが届いている。本当にキモイなコイツ。

「この怪文書を一緒に読み解きましょうって話です」

 鳴り止まないスマホを片手に、苦笑いしながら彼女に言う。

 それを聞いた白葉さんも、アハハ…。と苦笑いしながら応じた。


 それから、複雑怪奇な怪文書を解読し始めて三十分ほど。概要だけは掴めてきた。

 『こばさま』からの情報によると、そのトラブルを起こした参加者はどうやら、以前から厄介オタクとして界隈の一部から嫌われていたらしい。

 ―俺はリズムちゃん一本だったので、そこまで知らなかったのだが。

 拗らせた愛を語ったり、他のオタクに対して高圧的な態度を取ったり、自分の思い通りにいかなかったらお気持ち表明をしたり、と煙たがられている人だったようだ。

 現に過去いつまで経っても恋人シチュのボイス販売がされないことに、お気持ち表明長文メモスクショ四枚を貼ってTLで物議を醸したことがあり、そのトゥイート主がトラブルを起こした厄介オタクだったらしい。

界隈の揉め事に疎い俺でも知っているぐらいTLが荒れていたはず。

 また他にも粘着質なところもあり、意見の合わないオタクにネチネチと絡んでいたらしい。

「このアカウントなんですけど…。見覚えあったりしませんか?」

 『こばさま』から教えてもらった、その厄介オタクのアカウントを彼女に見せると、あぁ…この人かぁ…。と零し、眉根を寄せた。

「その反応見る限り、白葉さんも知ってる感じですね…」

「うん…。正直、運営からもマーキングされてた人だね…。私も事務所の子も、なるべく触れないようにしてた」

 となると、かなりの要注意人物であるのは確かだ。

「うっわ…。コイツ結構エグいこと呟いてますね…。白葉さん、これは見ない方がいいかもしれないです…」

 彼の呟きを遡る。直近の更新は直近ないものの、どれも拗らせた愛を感じる内容で見るだけで気分が悪くなるモノだった。

「大方、拗らせた恋愛感情がオフイベントで出禁になったことで、転じてストーカーになったという感じでしょうか」

「そう、みたいね…」

 歪んだ愛情が悪い方向に昇華し、悪質なファンになることは珍しくない。この厄介オタクとストーカーは同一人物であると考えていいだろう。

 『こばさま』にうわ~そんなやついたよな~。と当たり障りの無いメッセージを返すと一枚の写真を送られてきた。見れば厄介オタクも参加していたオフ会の集合写真のようだが…。

「白葉さん!見てください!コイツ!」

「あ!ホントだ。やっぱりそうだよね…」

 じっくりと写真に目を凝らすと写真の右端、件のストーカーが他の参加者とはひとつ距離置いて佇んでいた。

 写真に写る彼の目はやはり狂気と愛憎が渦巻いていた

 そして『こばさま』からの追記。『右端にいる男がその厄介オタクだよ^^』


 想像通り、厄介オタク=ストーカーであることが確定した瞬間であった。



  ◇



 夜は白葉さんと牛丼の宅配を頼んだ。今日は色々と疲れていたのと、冷蔵庫に材料がなかったので、たまにはいいよね。ってことで俺から提案したのだ。

俺がシンプルな牛丼で、彼女はおろしポン酢牛丼に温玉トッピング。サッパリとコッテリで微妙だと思っていたが、味見させてもらったところ、意外にも相性良くてビックリした。

 食事を済ませるとそろそろ帰るね。と白葉さんが席を立って玄関へ向かう。

ああ、おやす―まで言いかけて、ふと思い立ち、俺も合わせて一緒に外に出た。

 ドアの向こう、外の世界はすっかり深い夜の闇で満ちていた。見上げれば一部分だけ丸く、くり抜かれたお月様が独り寂しそうにぽっかりと浮かんでいた。不完全な満月から伸びた真っ白な月明かりに照らされ、二人の影を足元に落としていた。

「昼間は結構暑かったけど、夜は結構涼しいですね」

「このくらいが過ごしやすいから、これ以上暑くなってほしくないな~」

 夜風は昼間の熱気を感じさせない涼やかで、とても心地よかった。

 と、俺の声を聞いた白葉さんは、キョトンした顔で振り返る。

「あれ?なんで春矢も?外に出る用事でもあった?」

「あ、いえ。特に理由ないですよ?」

「ん?じゃあなんで一緒に外に?」

 ―白葉さんってば、こういう時に限って察しが悪いんだから。

「おやすみなさいって言いたくて」

 そう言いながら微笑むと、白葉さんは目を丸くした後、嬉しそうに頬を緩める。

「おやすみ春矢」

「おやすみなさい白葉さん」

 ただの挨拶だけど、今日このやり取りは忘れたくないな。と胸に刻み込んだ。



  ◇



 それから一週間後。変わらず俺と白葉さんは情報を集めて、咲人は作戦について進めていた。

 そして三人、いや四人は俺の部屋に集まっていた。

 なぜ一人増えたかと言うと、部屋の隅で縮こまっている友人が新たに加わったからだ。

「―それで…。なんでいるんだ?」

「えっと…。どちら様?」

 俺と白葉さん、二人の視線が隅で居心地悪そうに小さくなっている友人に注がれる。

「なんでってそりゃあ、人手は沢山いたほうがいいだろ?なあ、花宮」

 咲人に名前を呼ばれ、ビクッと背筋を伸ばした友人―花宮は小さく口を開ける。

「あ、あの…。さ、咲人に言われて…。わ、私の力が…必要?みたいで。や、役に立てたら、嬉しいなって…」

 垂れ目がちの瞳をあちこちに泳がせ、か細い声で喋る花宮。その姿、まるで雛鳥のよう。

 ―相変わらず、チャット上とリアルとまるで別人だよな。

 というのも花宮は極度の人見知りの緊張しいで、目を合わせて話すのが苦手なのだ。

 チャットのようなテキストメッセージだと「~っすよ!」と元気いっぱいなのに、実際に会ってみてそのギャップに俺も驚かされた。

 艶のある黒髪を無造作に束ね、黒縁眼鏡に化粧っ気がなく、ダボッとした白いパーカーを着ている彼女を一言で表すのならば、理系学部に必ず一人はいる、サブカルクソ女である。というか彼女がそう自負している。

 ―でも実際、重たい印象を与える黒縁眼鏡を外して、メイクをきっちり整えたらリケジョの中でも相当高いレベルになれると思うのだが。

 それはさて置き、言いたいことを言い切ったのだろう。膝を抱えて黙り込む花宮からバトンを引き継いだ咲人が言う。

「とまあ。俺たちの作戦には、花宮の力がどうしても必要ってことで今回呼んだんだ」

「なるほど…。ということは白葉さんについても話したんだな?」

「いや、流石に承諾なしには言えないことだし、それとなく濁してはある。できれば春矢と白葉さんの口からもう一回説明してもらえると助かる」

 ―流石、俺の親友。その辺抜かり無いな。

「えと、コイツは俺のもう一人の親友の花宮。見ての通り、かなり口下手なやつだけど、悪いやつではないから安心してほしい」

 隣にいる白葉さんにそう紹介する。そして今度は花宮の方を向き、

「こっちは鷹谷白葉さん。俺の彼女で―。魔ノ宮リズムその人だ」

 その言葉を聞いた瞬間、花宮の首が音速で彼女の方へ。

「ま、魔ノ宮リ、リ、リズムちゃん!?」

 さっきまでのか細い声はなんだったんだ?と思うぐらい素っ頓狂な声を出して驚き、目ん玉ガン開きにしながらそのまま完全にフリーズ。

 ―そりゃあ無理もないよな。と二週間ほど前の自分も同じ反応だったし。

「え、えと…。鷹揚の『たか』に、峡谷の『や』、白夜の『しら』、葉緑素の『は』で鷹谷白葉って言います。魔ノ宮リズムとして活動してました。花宮さん、よろしくね!」

「あ、その名前のくだり、またやるんですね」

「え?結構、漢字難しかったりするから覚えてもらおうと思ってやってるんだけど…」

 ―音読みと訓読みがぐちゃぐちゃだから却って分かりにくくないか…?

 まあ、本人が気に入っているのなら、わざわざ言う必要もないか。

「リ、リ、リリリリリリズムちゃちゃちゃんんんん」

「花宮さーん!お~い!ダメだ!春矢、完全に花宮さんがブルスク吐いてる!」

 見れば泡拭いて壊れたおもちゃみたいになっていた。だめだこりゃ。

「それで、進捗はどうなんだ?集めたってことはある程度、形になったのか?」

 本日の集まりの主である咲人に問う。

「もちろん!というかほぼ実行寸前って感じだ」

 自信有り気にそういう彼は、手元のタブレットをローテーブルの上に置く。

「春矢から貰った情報を元に、花宮に色々と調べてもらったんだが。驚くべきことが分かったんだ」

 置かれたタブレットをスライドして、切り替わったのはインターネット掲示板のスクリーンショット。スレッドタイトルは『魔ノ宮リズムとかいうオワコンVtuber wwwwww』

「うっ。なんだよこれ。気悪いもん見せんなよ」

 所謂アンチスレと呼ばれる、匿名掲示板でのやり取りだった。

「あー。この手のスレね…。たまにPV稼ぎのために悪質なまとめサイトがこういうスレッドで記事作ってて、エゴサしてるとよく引っかかるから困ってたんだよね…」

 げんなりとした表情で画面を眺める白葉さん。アンチによって引退に追い込まれた彼女にとて、正直見たくも無いようなものだが。一体これをどうして。

「このスレッドが最初に立ったのは大体二年前の十二月。スレ主が書き込んだ後、十数件書き込まれて最終的には四十件ほどの書き込みで更新が止まった過疎スレだ」

 画面に映るのは、リズムちゃんに対する悪意のある言葉の数々。活動に対する不満点から、炎上を誘うような言論。中には人格否定まで。

 ―こんな悪意に日々晒されてきたのか。と思うと腸が煮えくり返りそうだった。

 奥歯を噛み締めている俺を横目に、咲人は淡々と続ける。

「この後、リズムちゃんが配信する度に似たようなスレッドが乱立して、どれも同じように数件書き込まれては更新が止まるのを繰り返していた。それもかなりの間続いていたみたいで、最後に似たスレが立ったのはリズムちゃんが引退してから二ヶ月後だった」

 ―そんなにも長期間、一人に対しての怨嗟を書き連ねられるなんて、相当筋金入りのアンチがいたらしい。

「それで乱立するスレの内容に目を通したんだが、どのスレに現れるやつがいてな」

 コイツなんだが。と画面を拡大する。

「『次の雑談配信、開始から一時間後に皆で連投して荒らしませんか』だって?」

「そう。このID末尾169の奴、定期的にスレに現れては、募集していたんだ」

「確かに言われてみれば、荒らしが一気に湧くの大体、配信始めて一時間後とかだったかも」

「てことはリズムちゃんの配信に荒らしが大量発生したのは、コイツの仕業だったのか…」

 白葉さんを苦しめていた荒らしの主犯格の書き込みに、『いいっすね!』『便乗!』とレスが続く。どのレスも悪意こそ感じるが、その悪意がもたらす影響について誰一人として考えていないようだった。

 ―おそらくこのスレの住民は感覚がとうに麻痺してしまっているんだな、と思う。

 匿名性の高いインターネットの世界では、自分の発言や行動に対する責任感が薄れやすい。数年前、『アホッター』とも呼ばれる、悪質な悪戯行為を動画にし、それを投稿する人たちが大勢いたことがその最たる例だ。

 現実世界では自分の顔と名前、つまり個人の特定が容易であるため、自分の発言、行動ひとつで周囲からの評価は大きく変わってくる。過激なことを言えば周囲から人は去っていくし、逆に孤立しないために、内心思っていたとしても発言しないのが一般的である。

 ところが、ネットの世界では話が少し変わってくる。

 皆、アイコンとハンドルネームを用いることで、ネット上の顔と名前を持っているため、個人の特定が容易ではない。したがって、自分の発言、行動によって自身の評価に影響が少ない。故に自身の発言・行動に対する責任感が薄れてしまい、インターネットなら何をしてもいい、何を言ってもいいという風潮が蔓延してしまうのだ。

 またネット上のやり取りは基本的に文字がメイン。

 現実世界にて対面で話すのとは違い、声の抑揚によるニュアンスの違いや、表情の変化による感情の機微が文字からは読み取りにくい。どの文章も平坦で感情が乗ってないように見え、次第に会話の相手が血の通った人間であるという認識が希薄になり、画面の向こう側にも自分と同じく人間が座っている事を忘れ、文字列を吐き出す機械と錯覚していく。

 ネット上での言動に対する責任と、相手は血の通った人間であるという認識のどちらも薄れた結果が、ネット上での誹謗中傷に繋がっているのだと思う。

「…やっぱり許せないよな。こういうのって」

 咲人が小さく呟く。

 ―コイツらは軽い気持ちで、彼女を苦しめていたのか。

 ちょっとした嫌がらせ感覚の行為が、どれだけ彼女を悲しませたのか。彼らは知る由も無い。

 隣の白葉さんに視線をやると、当時を思い出したのか小さく肩を震わせていた。

「白葉さん、大丈夫ですか。無理しなくてもいいんですよ」

 そう言いながら俺はそっと彼女の手を取る。握られた彼女の手は凍えるようだった。

「ありがと、春矢。でも私もちゃんと知りたいんだ」

「しんどくなったら言ってくださいね」

 そうして咲人に視線を投げ、話を続けるよう促す。彼は小さく頷き口を開く。

「それで、だ。次はこれを見てほしい」

 咲人は画面をスライドすると、また同じような掲示板のスクショが並ぶ。ただ今回のスレタイは『Vtuberに愛を囁きたい』とある。どうやら今度はファン同士のスレッドらしい。

「まあ、タイトル的にまともに見えるけど、こっちもこっちで碌でもない内容なんだけどな」

「どれどれ…。え、あぁ…うわぁ…」

 そう言われ、中身を読んでみると咲人の言った通りだった。というのもこっちはセンシティブな内容が多く、推しの体のどこを舐めたいか。とか推しに〇〇○○させたいと(あまりにもひどいので伏せ字させてもらう)過激な書き込みが中心だった。

「そんなに…?見せてもらえるかな」

「ちょちょちょちょ!ストーップ!白葉さんはマジで見ないほうがいいです。後でオブラートに包んでお伝えするんで、直視だけは辞めた方がいいです」

 悪意を持った攻撃的な発言よりも、自身が性的な目で見られているという事実の方が不快に感じるものだ。

 彼女をタブレットから遠ざけてから咲人に訊く。

「どうしてこれを?」

「俺はまず、ストーカーする人間には、共通の趣味思想を持った人が集うコミュニティが存在しているのではないかって仮説を立てたんだ」

 そもそもストーカーの多くは、ストーキング対象に気づいてほしい。認知してほしいという承認欲求が行動原理となっている。ただ中には、それに加えてコミュニティ内で己の行動を誇示する動きも見られる。要は自分のストーキングした内容を仲間内で共有するのも楽しみの一つとしているのだ。

 悪行は癖になる。人が悪事に手を染める最初のきっかけこそ、人それぞれではあるものの、悪行を繰り返す人間の周りには、必ず共通の思想を持つ人間がいるのだ。

 本来、別の欲求から行われていた悪事では満たされなくなり、後ろめたさから公には出来ないが自身の行為を誰かに認めて欲しい。という承認欲求が膨らみ出す。初めは只々、むしゃくしゃした気持ちを発散するために暴れていた不良生徒が、ヤンキー集団に入り、仲間内に認めてもらうために暴れるようになるのと近しい。

 そしてヤンキーが仲間内で自分の悪自慢をするように、ストーカーは仲間内で自分のストーキング自慢をするのだ。

 イカれた感性ではあるが、十分にありえる話だった。

「アングラのコミュニティならきっとあるだろうとスレッドをいくつか探し回ったところ、妙にリズムちゃんの中身について詳しいやつがいたんだ。使ってるシャンプーから、化粧品、衣服のブランド、家具、食生活。全て網羅していたんだ。別に彼女が配信で話していたのなら、シャンプーやら化粧品の一つや二つぐらい覚えているオタクがいても可笑しくないと思う。…でもそいつの口ぶりが妙に気になってな。スレのログを掘り返していたんだ」

 そしたらな。と言いながらまた画面をスライドした。

 画面に映し出されたのは、日付と時間、駅名が羅列された文字列と、書き込み主のトゥイッターアカウントのIDのログだった。

「なんだこれ…?日記か?」

「そう俺もそう思ったんだよ。全く日付も時間も場所もバラバラで法則性も無い。不思議に思って、コイツのトゥイッターを覗いたんだよ」

 今度は駅に向かう女性の後ろ姿の写真が画面に表示される。それも一枚二枚ではなく、何十枚と同じように日付と時間、駅名が添えて投稿されていた。中には同じロケーションで別の画角から撮影された写真や、同じ日に別ロケーションで撮影された写真などが並んでいた。

 ―あれ…。この後ろ姿、どこかで…。

 白葉さんがその写真を見た瞬間、息を呑んだ。

「こ、これ…。私だ…。」

 怯えきった声でそう呟いた彼女。見覚えのある後ろ姿は彼女のものだった。

 彼女の反応を見て、やはり、か。と呟いた咲人は続ける。

「このアカウントの呟きは日付と時間、駅名、そして決まって街の風景の写真を添えて投稿していてな。そしてその写真には必ず、似たような背格好の女性が写り込んでいるんだ」

 ―あまりの悍ましさに絶句した。

 このアカウントの持ち主はストーキングするだけに飽き足らず、その様子をネット上に公開していたのだ。

 ―ハッキリ言って異常である。

「私…。付き纏われるだけじゃなくて…。写真撮られて…。それを全世界に公開されてたんだ…」

 白葉さんはその場で座り込み、項垂れて言う。

 自分が晒されていた悪意を一気に浴びたら誰だってこうなるはず。彼女の手をすぐ取り、柔らかく微笑みながら訊く。

「白葉さん大丈夫ですか?気分悪かったら部屋に戻りますか?」

「ううん、大丈夫。いや、正直全然大丈夫じゃないけど、春矢がいるから大丈夫かな」

 力なく笑う彼女の手を優しく握る。視線を咲人の方へ戻し、彼に訊いた。

「…それで、この二つのスレとこのアカウントと件のストーカーにどんな関係が?」。

 そもそも、大好きだから付き纏うストーカーと、大嫌いだから嫌がらせをするアンチでは方向性がまるっきり違う。

 ―咲人のことだ。きっと何かあるはずだ。

 それについてなんだが。と重々しく、そしてゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

「まず一見すると二つのスレ自体には、なんら関係が無いように見える。だけどこの二つのスレはどちらも〝同じ板〟に立っていたんだ」

「ん?板って掲示板のカテゴリーみたいなやつだよな?まあ同じVtuberの話してんだから、変なことじゃないだろ」

「そう。それに関しては至って普通なことなんだが…。これを見てほしいんだ」

 そう咲人がトントンと指差したのは書き込み者のIDだった。

「IDがどうし…。あれ、同じだ…」

 アンチスレとセンシティブスレ、どちらのスレにも同じIDによる書き込みがあったのだ。

 ―俺たちは勘違いをしていた。

 瞬間、独立していた事象たちが点同士だった事象たちが線へと結ばれていく。

「これは全く同じIDを持った人間が偶然、別のスレに書き込んでいたとかじゃない」

 ―好意と悪意は共存なんてありえないと考えていた。

 想像し難い現実は確かに存在していた。

「同じ板内では同じIDが表示されるからだ。そして同一IDは同じ板内では存在しない仕組みになっている」

 ―その固定概念自体が間違っていたんだ。

 咲人はゆっくりと言葉を選びながら答え合わせをしていく。

 核心に迫る音が響く。


「―つまり荒らしの主犯格とストーキングアカウントの持ち主は同一人物ってことだ」

 彼の言葉に天を仰ぐことしか出来なかった。


 ストーカー被害と配信の荒らし行為。独立して発生していると認識していた、この二つの事象は一人の人間の手によってもたらされていた。

 思いつきもしなかったが想像し難い訳ではなかった。好きな子に興味を持って欲しいからちょっかいをかける、という天邪鬼な行為は普遍的なものであるからだ。

 好意と悪意、裏返しの感情が肥大化しすぎた結果なのかもしれない。

 自分の身に降り注いでいた悪意すべてが自分への好意から来ているものだなんて想像もしえなかっただろう。ファンの幸せを願って活動してきた結果、巡り巡って不幸が自身に返ってくるなんて誰も思わなかっただろう。

 だが、現実は無情だった。

「咲人、一旦花宮を連れて、外に出てもらえるか」

 一連の話の最中一度も口を挟まずに聞き入っていた花宮にも目配せし、退室を促す。

 咲人らが部屋を出て、二人の間に沈黙が落ちる。

 震える彼女を俺は気づけばそっと抱き寄せていた。

 瞑目し、口を噤む彼女の体は冷え切っていた。

「…ねえ。私、間違ってたのかな」

 彼女の震える微かな声に耳を澄ませ一音たりとも聞き逃さないよう努める。

「…春矢。私怖いよ。やっぱりすごく怖い」

 先日の感情の吐露とは違い、激情を伴わない言葉。

「…私も春矢のこの前のお願いは叶えたい。私だって大好きな活動辞めたくなかったし、もう一度やり直そうって何度も何度も思ったけど。だけどまた同じことが起きちゃうんじゃないかって、そう思う度に怖くて怖くて。外にだって出られなかった。何をするにも脳裏に過った。本当は春矢と会った瞬間だって怖くて仕方なかったの」

 彼女も俺の背中に腕を回し、抱き合う姿勢を取る。

「……でもね。春矢といるとなんだか安心できるんだ。あの時、もう一度Vtuberやりましょうって言葉、すごく嬉しかった。きっと、きっとね。春矢と一緒なら同じことが起きても大丈夫なんだって、そう思えちゃうんだ」

 彼女の華奢な体を大事に抱きしめる。

「…だからお願い。私を…助けてよ」

 初めて発せられたその言葉。その言葉を大切に受け止め、ハッキリと確かに彼女の心に届くように言った。

「任せてください。俺が解決してみせます」

 良かった。と彼女が一言零し、啜り泣くような嗚咽が背後から聞こえた。



  ◇



「それで、白葉さんは?」

 部屋から戻ってきた咲人が訊く。俺は自室のベッドに視線をやる。向けられた先にはすぅすぅと寝息を立てる白葉さん。泣き疲れたようでぐっすりと眠っていた。

「…どうも色々と疲れちゃったみたいだね。春矢もお疲れ。場所変えようか?」

 敢えて何も言わなかったが、俺の右肩の染みを見て察してくれたのだろう。

「いや、ここでいい。寧ろ今は彼女から離れたくないんだ。目覚めた時に近くにいてあげたい」

「柄になく結構カッコイイこと言うじゃん。これが彼女持ちになった男ですか~。なぁそう思うだろ?花宮?」

 突然、話を振られビクッと背筋を伸ばす花宮。

「わ、私もそ、そう思うます」

 俯き目を伏せながらモジモジと答える彼女に返す。

「なんかいきなり大変なことに巻き込んじまったな。それにだいぶ長いことほったらかしにしちまって、悪いな」

「う、ううん。わ、私もリズムちゃんの、や、役に立てるかもって思うと、す、すごく嬉しい」

 途切れ途切れになりながらそう述べる。

 二人を居間まで招き入れ、ローテーブルを囲む。

「花宮、白葉さんの寝顔だけは見るなよ。メンバー限定コンテンツだからな」

 俺の背後で眠る白葉さんが気になるようで、そわそわしている花宮に釘を刺す。

「ず、ずるい!わ、私だってリズムちゃんの寝顔見て、ふふっこれは私だけが知ってる寝顔なんだな。って寝る前に何度も思い返しながら眠りにつきたいのに!というか、なんなら寝顔を見るだけじゃなくてもはや添い寝したい、リズムちゃんの体温と生命の鼓動を仄かに感じながら、彼女の寝息に合わせてゆっくりと入眠したいのに~!」

 ―うわ、コイツ急に早口で饒舌になりやがった。さっきまでの辿々しい喋り方はどこいったんだよ。

「お前、オタク出てるぞ」

「や、やっぱりこうやって会って話すの苦手…。か、会話のテンポ早い」

「いや、会話のテンポっていうか、お前が一人、早口で話してたけど?」

 オタク特有の早口が度々出るのが、彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。

 そんな二人のやり取りを見て、笑っていた咲人はさて!と一拍手を打ち、切り出す。

「花宮も落ち着いたところだし、どうしましょうかね」

「―俺に一つ提案がある。聞いてくれるか?」

「お?なんだ聞かせてくれ」

 ―今度は俺たちの番だ。と拳を握りしめる。

 作戦会議は時計の針が天辺を回っても続いた。



  ◇



 翌朝。

「……て。…きて」

 頬をむにむに引っ張られる感覚と薄ぼんやりと聞こえる声。

 白く染まった光に瞼を焼かれ、うっすらと目を開けるとそこには白葉さんの姿が。

「あ、ようやく起きた!おはよう春矢!」

 どうやら俺は朝方まで続いた会議の末、そのまま座っていたゲーミングチェアで寝ていたらしい。靄のかかった脳みそで、白葉さんが起こしてくれたことを理解する。

「白葉さんですか…。おはようございます…」

 そう言いながら欠伸を噛み殺すと、眼前の白葉さんは、あれ?と不思議そうな面持ちでいた。

「んん?あれ?普通、彼女に起こされたらびっくりしたり、喜んだりするもんじゃないの?」

「ああ。確かにそうですね…。すみません。寝起きがそんなに強くなくて…」

 ラブコメ漫画だったら絶対ビックリするはずなんだけどな…?と小首を傾げながら言う。

 ただ残念ながら、俺は朝に弱い。正確に言うと起きて意識覚醒までに時間が掛かるのだが、その時間を短縮するために毎朝コーヒーを淹れているのだ。

 ―さて、今日も日課のコーヒーを…とバキバキに凝った体を捻り、起き上がろうとした時、ふと部屋にほんのり漂うだしの香りに気づく。

 その様子を見て、ニヤっとしたり顔の白葉さんが口を開く。

「ふふ。どうやら気づいたみたいじゃん。待ってて!」

 そのままトタトタとキッチンに向かう白葉さん。しばらくしてローテーブルに並べられたのは味噌汁とおにぎりだった。湯気がうっすらと立ち昇る味噌汁からはだしと味噌のいい香りが広がり、不揃いに切られた葱が浮かんでいた。隣の皿に置かれたおにぎり三つはどれも不格好で大きさもバラバラだけど、ピカピカと米一粒一粒が輝いている。

 目をまんまるにして二品と彼女を繰り返し交互に見ていると、

「み、見様見真似だけど、春矢たち頑張ってたから…私もなにかできないかな…って」

 彼女は頬を赤く染めて俯きながら言う。

 その姿が愛らしくて仕方なくて思わずおにぎりに手を伸ばしかぶりつく。口に広がる優しい塩気と米の甘み、梅干しの後を引く酸味、だしの効いた淡い味つけの味噌汁。

 美味しい?美味しい?と不安そうに隣で訊く彼女に微笑むと、満足気に彼女も華を咲かせた。

 ―多分、幸せってこういうことを言うんだな。

 気がつけば、おにぎりどころか味噌汁のお椀も空っぽだった。

 彼女に、疲れた体に沁み入るようでした。と感謝の言葉を述べて手早く皿を洗う。

「白葉さん、この後ちょっといいですか?」

 朝食を振る舞い満足気に帰ろうとする彼女を引き止めて、昨日決めた作戦を早速彼女に伝える。

 彼女は終始、作戦内容に驚いていたが無事に承諾してくれた。



  ◇



 それから俺たち四人は毎日のようにコクーンに訪れた。

 白葉さんと俺、咲人と花宮の二手に別れて目的のために淡々と行動した。

俺たちは毎日同じ時間に駅に集まり、コクーン一号館内の雑貨屋、輸入食料品とコーヒーのセレクトショップ、書店の順番で立ち寄り、最後にカフェでコーヒーを飲んで帰る。それを二週間毎日、繰り返す。

手を繋いで店を周り、時には例のダサTをお揃いで買ったり、春矢お気に入りのコーヒー豆を買ったり、二人が読んでいるマンガの最新刊を買ったり。

まるでこの前の事なんて覚えていない様に振る舞いながら、幸せを周囲に振り撒きながら二人で歩いた。

―実際、めちゃめちゃ幸せだったので演技する必要もなかったが。


 最初の一週間は(コイツら毎日来ているな)と店員に訝しげな視線をぶつけられていたが、そのうち「またあの子ら来てるわ~。本当幸せそうね~」と微笑ましいカップルと認識されていた。

 勿論、ただ二人で彷徨いていたわけじゃない。時折、立ち寄る店舗の順番を変えたり、二号館などにも行ったりしてなるべく自然を保った。

―実際めちゃめちゃドキドキし続けていたので演技するのが大変だったが。


デートの終わりは毎回必ず駅で別れ、白葉さんは別行動を終えた咲人と花宮らと落ち合い一緒に帰宅してもらい、俺は時間差で別の電車に乗り帰宅する。これを日々繰り返す。それだけしか俺たちはしなかった。


そうやって五月の下旬に差し掛かった頃、咲人から準備が整った。と連絡が入る。

 ―ようやくあのストーカー野郎に目に物見せてやれる。

 そう思うだけでここまでの苦労とコーヒー代の元は取れそうだった。

 作戦の総仕上げは明日。

―覚悟しておけよ。クソ野郎が。

後編に続きます。

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