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「Vtuberの見た目と魂は一致しないらしい」―中編1―



                    3



 ピンポーン!ピンポピンポピンポーン!!ピンピンピンピンピンポーン!!!


 早朝からけたましく鳴り響くチャイムの音で春矢は目を覚ます。と言うよりも目を覚まされたのほうが正しいが。

「はーい!今出まーす!!」

 もはや騒音レベルのチャイムに負けないよう大声で返す。ベッド脇のデジタル時計を見るとまだ早朝の七時。

 ―人が起きる時間だけど、こんなに鳴らしたら他住民への迷惑になるぞ…。


 ピピピピピンポーン!!!!ピピピピピピピピピピンポーン!!!!!


 鳴り止むどころかより一層激しくなるチャイム音。ロフトベッドの梯子から飛び降り、急いで玄関へと向かう。

「はいはーい!今向かってますからね!」

 なんとなくチャイムを鳴らしている相手がわかってきた。

 第一に我が家に尋ねてくるような友人は限られている。咲人は絶対に一言メッセージを送ってから来るし、そもそもこんな朝早くにあいつは起きていない。咲人以外で交友関係のある人間と言えは同じ学部のやつかバイト先の人ぐらいだが、家に呼ぶような関係の人は(非常に悲しいことに)いない。

 ―こんなことする人はたった一人だけだ。


 ピンピンピン!ピンピンピン!ピンピンピンピンピンピンピンポーン!!!!


「今出ますって言ったでしょうがぁあああああああああ!!!」

 チャイムと同じくらい近所迷惑な大声ともにドアを開けると、眼前には想定どおりの人がいた。

「…どしたのいきなり。朝からそんな大声出したら近所迷惑だよ?」

 両手で耳を塞いでそう言う白葉さんが顔をしかめながら立っていた。

「こっち!の!!セリフだわ!!!」

 怒号交じりのツッコミが五月の青空に吸い込まれていった。


 爆音チャイムを鳴らして現れた白葉さんは昨日のように寝起きの姿ではなかった。

 胸元に大きく「成長期」と筆文字で書かれた白のビッグサイズTシャツにオレンジのクロックス。相変わらず履いているのか、履いていないのか分からないTシャツの裾からは細いが確かな肉感のある白い太ももがスラッと伸びていて、官能的な美を纏っている。昨日までは寝癖だらけだったロングヘアーも丁寧に梳かされて左右で二つに纏めてあり、これまためちゃめちゃ可愛かった。

 やはりきちんとしたヘアメイクを施したら、もっと可愛さが爆発するという自分の読みは当たっているなと再確認。

 可愛いと言いたい気持ちを抑え、腕を組んで眉根を寄せて彼女に聞く。

「なんでこんなに鳴らしたんですか。普通に一回でいいじゃないですか」

「だって爆睡してて一回じゃ起きないかな~って思って」

「普通、二、三回で人は起きますから…」

「いや私、チャイム鳴ってるの気付かなくて宅配便三回スルーしたことあったから…」

「どんだけ熟睡してるんですか…」

 ―宅配業者さん、本当に気の毒だったろうな。

「いや~それほどでも~~」

「褒めてないですからね!」

 ―どういう読解力があったらこの文脈から褒められているって思考になるんだ?

「朝からあんな爆音で起こされて怒らない人はノーベル平和賞受賞者ぐらいですよ?」

「あーもしかして、あなたはその受賞者の方ではない感じですかね…?」

「そうですね。生憎、該当しないですね」

「……。」

「………。」

 数秒の静寂。

 先に耐えきれなくなったのは白葉さんだった。

「ほんとにすみませんしたぁ!以後もうしませんから許してくだせぇ!」

 ペコペコと頭を下げながら、平謝りする彼女に鋭い眼光を目元に宿しながら言う。

「次はないですからね」

「ひぃいいいいいい!!!!」

 大きなため息をまた一つ溢して、両手を上げて分かりやすく怯えている彼女に聞く。

「それで朝からいきなりどうしたんですか」

「いやー珍しく早起きしちゃって暇だから来た!」

「それだと俺は早朝の暇つぶしってことになりますが?」

 ―朝のニュース番組を見るよりマシ。と惰性で見る教育番組みたいなこと言われても…。

「まあまあ固いこと言わない言わない。毎日、彼女に会えたら嬉しいだろ?」

 白い歯を見せて彼女は言う。

 さっきまでの悪行を水に流してもいいと思えてしまうぐらい、可愛いと思ってしまった自分が悔しい。

「…まあ、立ち話はなんですからとりあえず入ってください」

「やったー!押しかけ成功ー!」

「どこかの誰かさんが急に来たせいで散らかった部屋ですけど」

 お決まりの一言を添えて白葉さんを招き入れる。

「そのどこかの誰かさんってダレナノカナ~」

 そう言いながら彼女はオレンジのクロックスを脱ぎ捨ててトタトタとリビングへ。


 ―さてここで再度、国語の勉強をするとしよう。

 「散らかった部屋で~」という言葉は、来客に備え予め部屋の掃除を行い綺麗な状態ではあるが、念の為に使用される社交辞令チックな文言である。

 しかし、また同時に常日頃から掃除が行き届いていて改めて掃除する必要がない場合でも使用可能な文言である。

 今回の使用例は後者。つまり俺の部屋は予め掃除をする必要がないくらい常に綺麗なのだ。

 そんな部屋を見て白葉さんは一言、

「…そうは言うけどやっぱり綺麗じゃん」

 予想通りの感想を頂いたので、ピースを掲げて完全勝利と言わんばかりの勝ち誇った顔で言う。

「いいですか?これが『散らかった部屋でごめんね』の正しい使い方ですよ」

「ぐ、ぐぬぬぬ…」

 悔しげに頬を膨らませる白葉さんを見てピースはダブルピースに進化した。



  ◇



「まーまーそんなに怒らないでくださいよ~。あ、コーヒー淹れますけど砂糖とミルクどうしますか?」

「あら捜ししてやろうと思ったけど、ここまで綺麗な部屋だとは…。あとコーヒーじゃなくてミルクだけ貰えない?」

「あれ?もしかしてコーヒー苦手ですか?」

「い、いや朝はミルクと決めてるんでね」

「でも白葉さんの冷蔵庫には牛乳なかった…ですよね?」

「うぐっ。…なんか今日の春矢は意地悪だな~」

「いや~今日の目覚めは〝最高〟でしたからね」

「その節はホンマすんませんした」

 音速謝罪。

 ―これ以上、擦るのは申し訳ないのでこの辺でやめておこう。

 キッチンに向かい、いつものようにコーヒーを淹れ始める。

「なあ、春矢って毎朝、コーヒー飲んでるの?」

「ええ、もちろん毎朝必ず。目覚めの一杯は格別ですからね」

「目覚めの一杯か~それなら私も毎朝、モンライ飲んでるぞ!」

「モンライってあの緑の顎のエナジードリンクですよね?あれ毎日飲むとか健康に悪くないんですか?」

 モンライ、正式名称はモンスターライフというゲーマー御用達のエナジードリンクのことだ。

「そんなことないぞ!多分だけど」

 腰に手を当て、目元に横ピースしながら「てへぺろ」と言わんばかりに舌を出してキメ顔で言う。

「多分ってちょっと怖いな…」

「あ、でもたまに飲んだ後すぐ寝ちゃうと起きた時に心臓がバクバク鳴るぞ」

「絶対、健康に悪いじゃないですか」

「でも飲まないと起きられないんだよね~今日も飲んできたし」

 ―部屋の片付けしに行った時も飲んでいたっけ。

 ふと昨日見た双丘のことを思い出してしまい心臓の鼓動が早くなる。

 いかんいかん。そういうことを白葉さんの目の前で考えるの失礼だ。

「…それカフェイン中毒って言うんですよ」

「それを言ったら毎朝コーヒー飲んでる春矢だって似たようなもんでしょ。むしろコーヒーは自覚症状が出ないからカフェイン摂りすぎになりがちでしょ」

 ―手痛い指摘。

「っぐ…。いや!コーヒーはポリフェノールがたくさん含まれているんですぅ~~~~!」

 言葉に一瞬詰まった俺の反応を見て、彼女は小悪魔めいた笑顔を浮かべる。

「ふ~~~ん。じゃあポリフェノールってどういう効能があるのよ?」

 ―再び手痛い指摘。

「そ、それは…と、とにかく用量を守れば健康にむしろいいんです!」

「じゃあ毎日、コーヒー何杯飲んでるのさ」

「朝に一杯、朝食昼食夕食の後にそれぞれ一杯、風呂上がりにもう一杯。それ以外に作業中とか諸々で…あれ?」

 白葉さんがショーパンのポケットから取り出した水色のスマホで何かを調べだした。

「ちなみにコーヒー一杯に含まれるカフェインは大体80 mgだって」

 水色のスマホの検索結果を意気揚々と見せつけてくる。

 一体何が言いたいのかキョトンとしている春矢を見てフッと口角を上げて続ける。

「それで、モンライ一缶に含まれるカフェインは大体140 mg。私は一日三缶飲むから合計で420 mg。そして春矢は最低でも一日五杯はコーヒーを飲む。あとは分かるよね?」

 ―コーヒー一杯80 mg×5は400 mg。それプラスでもう何杯も飲んでいるということは…。

「用量を守れば健康がなんですって?」と目元にピースを作ってニコッと笑う。

 ―意趣返しとはまさにこのことだな…

「今、意趣返しってこのことだなって考えてたでしょ」

 え。なんで。と驚いた春矢の表情を見て彼女のピースはダブルピースに進化した。



  ◇



 部屋中にコーヒーのいい香りが漂う。

「おまたせしました。はい、ホットミルクです」

 リビングに敷かれた緑のカーペットに座る白葉さんにホットミルクの入ったカップを差し出す。

「ありがとう。結局、コーヒー淹れたんだね」

 そう言いながら彼女はカップを受け取りニヒルに笑う。

「ああそうですよ!俺もカフェイン中毒ですよ!」

「〝俺も〟って?私は認めてないけどな?」

「いえ、あなたは十分中毒です」

 数え切れない空き缶を潰したの忘れてないからな。と思いながらコーヒーを一口。うん。今日も最高の出来だ。

 思わず顔がほころんだ自分を見た白葉さんがローテーブルにミルクを置いて興味津々そうに聞く。

「ねえ、そんなにコーヒーって美味しいの?」

「そりゃあ!もちろん最高ですよ!折角ですから一回飲んでみますか?」

 そう言いながら彼女にコーヒーカップを差し出すと、彼女はおずおずと受け取る。

「これ苦くないのか?砂糖は入ってないのか?」

「全然苦くないですよ!大丈夫です!初心者にもオススメです」

 幸いにも今日のコーヒーはブラジル産のもので、コーヒーの苦味や酸味がマイルドな誰でも飲みやすい銘柄だ。

 まじまじと黒い液面を眺めた彼女は意を決したのかグッと口に運ぶ。

「ど、どうですか?お口に合いますか…?」と問いかけた次の瞬間、表情は一変する。

「うんんげえええええええええ!!!にっっっっっっっっっっっが!!!!!」

 ごくんと飲み込むやいなや絶叫。そしてすぐさまミルクのカップを掴み一気飲み。

「だ、だいじょうぶですか!?」

 空になったミルクのカップを俺に差し出しながら言う。

「ケホッ。ケホッ。゛こ゛め゛ん゛も゛う゛一゛杯」

「今持ってきます!」

 急いでキッチンから持ってきた牛乳パックを手渡すと、パックの注ぎ口に直接口つけてゴキュゴキュと一気飲み。

「プッッッッッハー!!!死ぬかと思った!!!こんな苦いの毎日飲んでるのか?」

「いや、まさかここまで苦手だとは…」

「ここまで苦いとはまさか思ってもなかったから…てか牛乳一気飲みしちゃってごめんね」

 空になった牛乳パックを振って中身がないことを伝えながら彼女はそう言う。

「あーいや!大丈夫ですよ!明日、近くのスーパーの広告の品になりますから」

 最寄りスーパー三軒の特売日のメモが書いてある壁掛けのカレンダーを見て春矢は言う。確か、明日はイトーインカドーの牛乳と卵の特売日だったはずだ。

「ちゃんとメモってあるのマメだね」と苦悶の表情をまだ浮かべている白葉さん。よほど苦かったのであろう。

「節約しないと仕送りやバイト代だけじゃ生活できないですからね~」

「でもあのコーヒー豆とかコーヒーメーカー?みたいなの高そうじゃん」

 キッチンに鎮座しているコーヒー豆の袋とミルを指差し言う。

「まあ実際、コーヒー関連のもの買うために節約してるところありますね」

「私も趣味のためならじゃんじゃんお金使っちゃうタイプだな~。持ってるクレジットカード三枚、ガチャに使ってたら全部上限行って公共料金の支払いできなかったことあったもん」

「それはちょっと度がすぎてると思います…」

 常軌を逸しているお金の使い方に唖然とする。せめて払わなきゃならない金だけは確保しておいてほしい…。でもそんなにお金が使えるってことは結構稼げていたということにもなる。

 オタクの応援はちゃんと還元されてたんだなと安心する。良かったな過去の自分よ。

「さてさて、そろそろあれやっちゃいますか!春矢のお部屋チェーック!」

 お。ついに来たかと内心思う。自慢じゃないが自分の部屋は一人暮らし大学生の中でも相当綺麗な方だと自負している。

 日の光がよく入る大きな窓の左隣にはシングルサイズの白いベッドと大量の本が並ぶ本棚。部屋右側、窓に面した方には大きめのL字デスクがあり、モニター二枚と光るキーボードとマウス、ヘッドホン、タブレットが置かれている。部屋中央には目に優しい緑の円形のカーペットが敷いてあり、その上に小さめの四角いローテーブル。

全体的に白を基調としたシンプルなデザインの家具で統一し、壁面クローゼットに衣服類をしまうことで生活感のないオシャレでスッキリとした部屋を目指している。

 ―正直、同じ学部いや、学科、学年の中でもトップのコーディネート力はあるぞ。

 飲みかけのミルクのカップをローテーブルの上に置いた白葉さんは春矢の部屋をグルーっと見渡す。

「どうです?結構綺麗じゃないですか?」

「私の部屋が恥ずかしく思えてきちゃうぐらい綺麗!てかめっちゃオシャレ!」

 ―さっきまで恥ずかしく思ってなかったんかい。という思いを口の中で噛み砕く。

「そういや春矢って結構、読書家なんだね」

 ズラッと小説からマンガ、図鑑などが並んでいるリビングの壁一面を占拠する巨大な本棚を見て言う。

「一応、物心ついた頃から本を読む習慣はありましたね。なんでも読むんで気づいたらこんな量になっちゃって…。今は電子書籍で読むことも増えましたね」

 デスクで充電しているタブレットにも大体三百冊程度はマンガや小説がダウンロードされている。

「あ!これ鬼撃の刀じゃん!私、アニメでしか見てなくて続き気になってたんだよね」

 鬼撃の刀といえば、アニメ化および映画化もされた国民的大人気マンガである。

 自慢ではないが、週刊誌連載開始してすぐにこのマンガは伸びるぞ!と目をつけてSNSで布教活動していたので、人気になってから読みだしたオタクとは違うんだぞって内心思っている。

―流石にそれでマウントを誰かにとったりするのはダサいからやらないが。

 アニメですでに一回は見たであろう一巻をパラパラとめくる白葉さんに提案する。

「めっちゃ鬼撃おもしろいですよね!アニメも今度二期来るらしいですからね。マンガ貸しましょうか?」

 アニメ化されたのは八巻までだったはずだが、折角なら最初から読んでほしい。

「え?!マジ!めっっちゃ助かるー!壱のやつ倒してからどうなったか気になってたんだよね!」

「これは匂わせになっちゃうんですけど…」

「ちょ、ネタバレはなしだよ…」

「最終決戦、激アツすぎて俺何回も泣きました」

「最高の匂わせty(thank you )。読んだら感想教えるね」

 匂わせ宣言され、不安げな表情を浮かべた彼女の表情は一転してパっと明るくなる。

「最高の感想、楽しみにしておきます」

 小さくサムズアップしながら笑って応じる。

 ―これってだいぶ彼氏彼女っぽいやりとりじゃない?

 なんて思ってニヤニヤしていたら白葉さんに、

「いきなりニヤニヤ笑ってどうしたの?ちょっと気持ち悪いよ?」

 と言われてしまったので今後、ニヤけないように努めようとも思った。



  ◇



 棚にあるマンガ談義に花を咲かせ、白葉さんに貸す本の冊数が百を越したあたりで、「気になることがあるんだけど。」と前置きしてから口を開く。

「…リズムちゃんのグッズってどこにあるの?もしかして全部捨てちゃった?」

 Vtuberのオタクなはずなのに今の所、部屋のどこにもオタクグッズの影も形もないことに疑問を覚えたのだろう。

 ―それもそうだ。なぜならリズムちゃんのグッズは見えないところに置いているのだから。

「ちゃんとしまってるというか飾ってますよ。見ますか?」

 そう言ってフローリングから立ち上がり壁面クローゼットの扉をガラガラと開ける。

 そこには祭壇のようにオタクグッズたちが一面に飾られていた。棚の上にはアクリルスタンドフィギュアから大量の缶バッジ、クリアファイルがそれぞれ立てかける形で、壁面にはタペストリー、イラストTシャツがぶら下げられる形で並べてある。

 シンプルで物が少なくスッキリとした部屋の中、明らかに異質な空間がそこにはあった。

「うっひゃー!こんなに私グッズ出してたっけ!」

「一応ほぼ全てのグッズ、コンプリートしてありますよ」

「うわ!これ登録者五千人記念Tシャツじゃん!限定五十枚しかないのに!」

 多くのグッズが並ぶ中、額縁に入れられていて一際異様な存在感を放っているTシャツに気付く。

「あの時はガチで激戦でしたよ…」

 当時、まだまだオタクの人数は少なかったが、その分オタクパワーに溢れる人が多く争奪戦になることも多かった。限定Tシャツの時は、購入ページを何度も何度もF5連打したっけなと思い馳せる。

買えた瞬間、リズムちゃんに「買えたよ!」とリプライを送ったのも懐かしい。(ちなみにその後、ボコボコに掲示板で叩かれてました。怖いね。)

「もしかして私のグッズ、全部持ってる感じだったりする…?」

「いえ、さっきもチラッと言いましたけど〝ほぼ全て〟です」

 〝ほぼ全て〟というのは限定五個しか販売されなかったマグカップのみ持ってないからだ。数の少なさもあってフリマアプリでの出品すら見たことないという激レアアイテムである。

 といってもグッズをフリマアプリで買うことだけは絶対にしない、全て公式に金を落とす。と春矢は決めているので、出品されたとしても購入しないのだが。

「あー流石に持ってないやつもあるよね~限定数しか販売しないやつもあったしさ~。お!このアクスタ!結構可愛くて実は私も大事に持ってるんだよ!」

 アクリルスタンドを手に取り、懐かしそうに眺める白葉さん。

 ―地味に推しとお揃いのアクスタを持っていたオタク歓喜情報が舞い込んできた。なんたる僥倖だろうか。

「あと、このリズムちゃんデザインのデイパック、マジでお気に入りで!未だに大学行くときに使ってます!」

 そう言いながら取り出すのはリズムちゃんがデザインしたオリジナルデイパックだ。

 「外でも使いやすい」をコンセプトに白を基調としつつ淡い水色と深い紺色のラインがアクセントに入っているという代物で、バッグにはリズムちゃんの自筆サインが書かれているのもあってオタクからも好評のグッズだった。

「これね!まーーーーじで大変だった!デザイナーさんと毎日のようにこうですか?ああですか?って話して二度とオリジナルデザインはやりたくねー!ってなったんだけど、最高の出来になってよかったなあって思ったんだよね~」

 ―開発秘話まで聞けてしまうだなんて僥倖も僥倖がいいところである。

 デイパックを愛おしそうに抱きしめながら、棚の祭壇を見つめている白葉さん。

「春矢って本当に初期の初期から応援してくれてたんだ…よかったぁ…」

 そう言う彼女の声に暖かさと一抹の哀愁を感じる。

 気付かれないようチラッと彼女の方を見ると目にうっすらと涙をためていた。

きっとVTuberとして活動する中で楽しいことだけじゃなく、辛いことや上手くいかないこと、大きな壁にぶち当たったこともあるはずだ。そんなVTuber時代を振り返って涙の一つや二つ出ないわけがない。

 目元の涙を手の甲でそっと拭いながら彼女は続ける。

「…本当にありがとうね!こんなにも魔ノ宮リズムを愛してくれて…」

 チャンネル登録者が一万人超えた時。配信の同接が初めて千人超えた時。投稿した歌ってみたが初めて一万回再生された時。どれも自分のことのように喜んでお祝いしたことを思い出す。

 リズムちゃんの配信で元気を貰っていたのはこっちの方だ。VTuberとオタクという近くて遠い関係ではあるが、リズムちゃんと過ごした時間はかけがえのない大事な時間だった。

「こちらこそ毎日、最高の時間でした。本当にありがとうございました」

 懐かしい思い出に浸りながら微笑み、彼女にそう返す。

 彼女は春矢の言葉を聞いて何度か頷いた後、春矢の方を振り返り…、

「おなかすいたんだけど」

 ニコッと笑いながら言った。

 ―あーあ。さっきまでのやり取り、全部台無しだよ。



  ◇



「あー春矢のつくったご飯、本当に美味しかったな~」

 穏やかな平日の朝、暖かな日差しを浴びながら、食後の紅茶を飲む白葉さん。

 あの後、春矢の朝ごはんが食べたい!食べたい!と駄々をこね始めたので、仕方なくありあわせの食材でサッとサラダとオムレツ、トーストを振る舞ったのだが、思った以上に気に入ったらしくずっとニコニコしている。

 ―どうせならもう少し気合の入れた朝食を振る舞いたかったのだけどな…。と冷蔵庫の食材がなかったことを悔やむ。

「いや~どうせなら、もっとオシャレなご飯作りたかったですよ…」

「じゃあ!次は食べたい!いつでも呼んで!」

そう言ってニコーっと満面の笑みを浮かべる白葉さん。

 その言葉を聞いて、また食べに来てくれるんだ。とつい顔が綻んでしまう。

「あ~また来てくれるんだ~って今喜んでたでしょ!」

「そ、そりゃあ嬉しいですよ!」

 すぐ表情に出ていることを指摘され、顔が真っ赤に染まる。

「てかそうやって一人でニヤけるの禁止!普通にちょっと気持ち悪いよ?」

 ビシリと指摘され、うぐ!と声が出る。

 ―彼女、もとい元推しにハッキリと言われると結構来るものがあるな…。

 頬を膨らませながら白葉さんは続ける。

「こういう時はね、素直に嬉しいです。とかありがとうございます。って言っておくの!これ女の子と付き合うときの必須テクニックなんだから」

 ぐうの音も出ない一言だった。自分のスキル不足を戒める。

「あ、ありがとうございます…」

「そう!それでいいの!オシャレな朝食楽しみにしてるからね!」

「任せてください!腕によりをかけてつくりますからね!」

 破顔する白葉さんに応じるように最大限の笑顔と共に自信たっぷりに言った。

 ―次つくるレシピ、考えておかなきゃな。

 そう思いながら鼻歌まじりに皿洗いに向かった。



  ◇



 それからというものの、白葉さんが毎朝、インターホンを鳴らし、押しかけ女房よろしく転がり込んでくるようになってから早五日。流石に怒られて反省したのか、けたたましくピンポーンと鳴らさなくなったものの、俺が起きるまでは継続して鳴らすので最早目覚まし時計代わりとなっていた。

「今日も朝ごはん食べにきてやったぞ~」

「おはようござ、もう!またそんな薄着で!朝はまだちょっと冷えるんですから!」

「はいはい、おかんみたいなこと言わない言わない」

 本日も『まだ成長期。』と胸元に大きく書かれたTシャツ一枚で部屋にやってくる白葉さん。五月といえど、まだ朝は肌寒い。そんな格好で寒くないのか心配である。

 それにブカブカのビッグサイズTシャツ一枚だけだと、ふとした拍子に慎ましやかな双丘や細身だけど白くもっちりとした太腿が見えたりと、目のやり場に困るのだ。

 ―あと、その胸元の謎格言Tシャツはなんなんだ…?

 あ~眠いよ~。と言いながら、白葉さんはドッチャリとソファに転がる。

 緩い胸元からチラリと白い肌と鎖骨が見えたので、思わず目を背けキッチンへ。

 ―しかして、なにしに白葉さんは毎日ここに来るんだろう…。

 朝弱くて…とリズムちゃん時代に言っていた白葉さんが連日、尋ねて来るのは意外だった。と言っても何をするでもなく、ただ他愛も無い話をダラダラとしながら部屋で寝そべっているだけなのだが。

なんなら朝ごはんまだ~?と三日目から催促し始めるし。

 二日目は連日部屋に来るなんて思ってもなかったから、また平凡なスクランブルエッグとベーコンとトーストになってしまったが、三日目からは前日しっかり卵液に漬け込んだふんわりフレンチトーストを、四日目はソテーしたズッキーニと生ハムのパニーニを、どちらも腕によりをかけて作った自信作を振る舞った。

 もちろん白葉さんにどれも大好評で、朝食を拵えるのがちょっとした楽しみになっているのだけど。

 さて本日の朝食のメニューはエッグベネディクト。芳醇なバターの香り広がるオランデーズソースからつくる本格派だ。

 ソファでぐーすか眠る白葉さんを眺めて、今日も美味しいって言ってくれたらいいな。そんなことを思いながら卵の殻を割った。


「さて!そろそろ動きますか!」

「え~。私おなかいっぱいで眠いんだけど~」

 今日も腕によりをかけて作った朝食を幸せそうに平らげ、暖かい太陽の光を受けて二度目の睡眠に興じ始めた白葉さん。

「さて、とりあえずお皿洗わないと。それに洗濯とゴミ出しもやんなきゃ」

 ソファの上でうとうとしている彼女を横目に立ち上がり、一度両手を上に向け全身を伸ばす。ポキポキと背骨から音が鳴り、肩を何度か回し肩と背中の筋肉がゆっくりとほぐれていくのを実感。

「しかして今日はいい天気ですね」

「んだなぁ~こんなにお日様がポカポカだと体溶けちゃうよ~」

 窓の外を見ると今日も雲ひとつない青々とした晴天が広がっていて、初夏の爽やかな空気に満ちていた。アパートに面した道路には、早朝のランニングを楽しむ年配ご夫婦や犬を連れて散歩するお姉さん、学校に小走りで向かっていく小学生たちの姿が見える。アパート前に植えられた桜がすっかり葉桜へとなり、葉っぱもみずみずしい淡い色をした若葉から青々と濃く生い茂る青葉へと染まり、気づけばもうすでに夏の足音が聞こえ始めていた。

 なんて春から初夏へと季節の移り変わりを感じていると、足元で完全にドロドロに溶け切った白葉さんの声がする。

「今日は何する~?ゲームにする?gameにする?それともゲ・エ・ム?」

「ゲーム以外の選択肢ないじゃないですか」

「だって私は一にゲーム、二に睡眠、三四に睡眠。五に睡眠だからね」

「ゲーム推してたくせにほとんど睡眠」

「ちなみに『春眠暁を覚えず。』って言葉あるけど、私の場合『春夏秋冬眠暁を覚えず。』だからね」

 ―孟浩然が草葉の陰で泣いてるぞ…。

「こんなに天気いいのに外でないのは勿体ないですって」

 リズムちゃん時代から引きこもりのような生活を送っていたはず。たまには外に引っ張り出さないと彼女の健康にも良くないだろう。

「それに白葉さんの冷蔵庫の中、何にもなかったじゃないですか?」

「いや、モンライとカロリーバランスはあるよ?」

「逆にそれ以外何もないじゃないですか!」

 ポストアポカリプスの世界を思わせる悲惨な冷蔵庫内。肉や野菜おろか調味料の類すら存在してなかったはず。

「…た、偶には外でご飯とか食べましょうよ!」

 この手の誘い文句を言った経験が著しく少ない俺が捻り出した言葉はどうやら彼女の耳にハッキリと届いたらしい。ドロドロに溶けていた彼女はその一言を聞いた瞬間、あっ。と小さな声を上げて人の形に戻り、悪戯めいた笑顔を添えて言った。

「んじゃ、天気いいしデート行こっか!」

 彼女から紡がれた言葉を理解できずキョトンとしてしまう。

―デート?なんで?そうなるんだ?

まあ彼女と外出かけるならそれはデートになるのか。そうだよな。ふむふむ。

それに彼女とご飯に行くならそれもデートになるよな。そうだよな。ふむふむふむ。

 白葉さんが立ち竦んでいる俺を見て、キョトンと表情を浮かべる。その大きな両目がぱちくりぱちくりと二度瞬きをした。

「で、デデデデデデデデデデデート?!」

 思わず口から出た言葉にプッと吹き出す白葉さん。

 ―恥ずかしすぎる…。



  ◇



「…んー。どっちがいいかな」

 シャワーを浴び、髪のセットを終わらせて、鏡の前で服を合わせて悩むこと三十分。

 シンプルに無地のTシャツに黒のデニムを合わせるべきか、ダボッとしたパーカーでゆったり感を出すか。

「流石にパーカーは暑いか」

 今朝の天気予報は晴れで最高気温は三十度近くまで上がる夏日とのことだった。

 ハンガーラックにパーカーを戻し、白のTシャツとのネイビーのpオープンカラーシャツを袖に通す。

 今回はあくまでも散歩という名目。ラフな感じで行くことにしよう。

 自分の身支度が完全に整い、後は集合時刻になるまで待つだけ。ゲーミングチェアに腰を下ろして一息つく。

「んじゃ!春矢!私、準備するから一時間後、玄関前で待ち合わせね」そう言い残し、颯爽と自室へ戻っていった白葉さんだが一体どんな格好をするのか想像がつかない。

 ―白葉さんの私服ってどんなのだろう…。

 前に部屋の掃除をした時洗濯したのは主に謎デザインのTシャツに、だぼっとしたパーカー、それとショーパンと下着ばかりで部屋着しかなかったはず。

 頭の中で白葉さんのコーディネートを思い浮かべてみる。

―全く想像つかない。

 そうこう妄想を膨らませているうちに時計の針は集合時刻を指し示していた。

ワクワクとした気持ちとデイパックを背負い玄関のドアを開けると、予報どおりの青空が一面に広がっていて燦々と降り注ぐ陽光が眩しく思わず目を細めてしまう。

 瑞々しい五月の空気を感じながら待っていると、

「ごーめん!ちょーっと待たせちゃった!」

 ドアがガチャリと開く音と陽気な謝罪が一緒にドアの向こうから飛んでくる。

「あー全然!ちょうど今さっき出たところなので!大丈夫ですよ!」

「そっかー!それはよかった!」

 ドア越しに聞こえる明るい声と裏腹に何故か部屋から出てこない白葉さん。

「…。」

「……。」

 しばしの沈黙。

「…あれ?ど、どうかしましたか?」

 一向に姿を見せない白葉さんに思わず尋ねる。

「いやー?ちょっと靴履くのに手間取ってね~。うんちょっとだけ待って!」

「あー別に全然いいですけど…」

 声のトーンと対照的に躊躇しているようにも聞こえる彼女の声に首を小さく傾げる。

 またもや沈黙。白葉さんは何をしているんだ?と疑問が浮かぶ。

「えーと…お、おはようございます…。」

 ギシィと小さくドアが開き、ドア越しの声からドアの隙間からの声になる。

「お、おはようございます」

 ヘンに改まって挨拶されるとこちらまで改まった挨拶になってしまう。

「えーと…その…あんましこういうお洋服を着る機会ってなくて…可愛いって思ってポチったはいいんだけど…。今日初めて着るから似合ってるか分からないっていうかなんていうか…」

 白葉さんが薄く開けたドアからおずおずと顔を出す。

「おはようございm…」

 ドアの隙間から現れた彼女を見て言葉が途切れた。

 寝癖だらけでボサボサだった髪は丁寧に梳かされていてハーフツインテールに纏めてあり、降り注ぐ陽光を受けて白くキラキラと輝いている。また透明感のある肌には素材の良さをさらに増すナチュラルメイクが施されており、耳元には小さな星型の青いピアスが揺れている。

 首元から下に目を動かすと、ふわふわなフリルを全体にあしらった甘めな白のブラウスに、ハイウエストですっきりとした印象の黒のプリーツスカート、シックな黒の厚底ローファーが合わせてあり、腰には青色のハンドバックが色のアクセントとして添えられている。

 髪型と相まってパッと見はガーリーで可愛らしさが目立つが、青と黒のアイテムが多めに配置されていることでクールな雰囲気を纏っている。

 ―好み超どストライク。

 想像の五千倍は優に超すレベルで魅力的であった。

「ど、どうかな?」

 あまりの可愛さに言葉を失っていると不安げな白葉さんがチラチラと視線をこちらに向けて反応を伺っていた。

「あ!め、めちゃめちゃに!可愛いです!」

「ほ、本当に?そ、それはよかった!久しぶりにメイクしたから失敗するかと思って結構ドキドキしたんだよね~」

 固くなっていた表情も徐々に綻びだし、笑顔を全面に現れていく。

「着ること無いかなってずっと部屋の隅に追いやってたんだけど買ってよかった!」

 と言いながら、その場でくるりとターン。柔らかなスカートの裾がふわりと舞って顕になった白いスラっと伸びた太ももに目を奪われる。

 春矢の目線を察したのかピタリとターンをやめ、じとーとした目線を此方に投げる。

「今、太もも見てたでしょ。ヘンタイ」

「い、いや!違いますよ!きょ、今日はどこに行きますか!」

「すぐ話題逸らす辺り図星と見たね」

「そ、そんなことないですって!」

 廊下の手すりと天井で四角く切り取られた青空に目をそらしながら弁明するが、これでは自白しているようなものである。

「…す、すみません!こればっかりは男の性なので!」

「ま!そうやって見られるのも悪くないけどね~。てかもっと褒めないと女の子は拗ねちゃうよ?」

「あああ、すみません!そ、その今まで女の子のこと褒めたことなくて…」

「冗談だよ、冗談。その反応だけで十分可愛いって思ってくれてることはわかるよ」

 そう言いながらニっと白い歯を見せて笑う。

 ―危うく気分を損ねるところだった…。

 改めて全体を見ると、顔面戦闘力の高さとスタイルの良さが際立つコーディネートである。まさに『俺は真に驚くべき彼女の可愛さを見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』といった感じだ。フェルマーもこの可愛さにはビックリであろう。

「そんじゃ!早くいこいこ!」

 ふと右手がふわっとした感触に包まれる。

 感触の先を見ると白葉さんの華奢な手が自分の手を握っていた。

「ッ!?」

 右手を包む暖かさに声にならない声が出てしまう。

「…ん?春矢どうかした?」

 驚きの音を聞き、キョトンした顔で振り返った白葉さんは春矢の視線の向けられている先を理解したようで、いつものようにニマっと笑う。

「まーた耳まで赤くなってんぞ〜」


「…んでこれからどこに行くのよ」

「あ、いや特にこれと言って行き先とか何も考えてなくて…」

「思いつきで結構な勝負に出るタイプだ」

「後々で後悔するのだけは嫌ですからね」

 と言葉を交わしながら住宅街を歩くこと数分。

 まだ右手を包む柔らかい感触に慣れないまま行き先もなくフラフラしていた。

 歩道に敷かれたレンガと白葉さんの履くローファーがコツコツとぶつかって鳴る音を聞いているだけでも正直、満足なのは内緒にしておこう。

「さーてどうしましょうかね~」

 軽く体を伸ばして五月の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込む。

「そうだ、おなか減ったしご飯とか食べたいかも」

 左手の腕時計をちらっと確認すると十一時を示していた。

「確かにちょうどお昼時ですし、ご飯いいですね!なに食べますか?」

「う~ん。そうだな~~~。ムムム…」

 こめかみに指をトントンと当てながら悩み出す白葉さんを見て、ふとリズムちゃんもなにか考え事するとき、必ずムムム…って言っていたことを思い出す。

 謎解きゲーム配信では五分に一回は口癖のように言っており、コメントで「ムムム助かる」「ムムムカウント」「魔ノ宮ムムム」って言われていたな。

 ―やっぱりリズムちゃんなんだな…。と改めて思う。

 実際、数日ほど白葉さんと接しているが、リズムちゃんらしさ感じる一面とリズムちゃんからは想像できない一面を交互に垣間見ている気がする。

 まあ基本は想像できない一面のほうが多いのだが。

 でもそれで失望したとか幻想が崩れたなんて思ったりはしなかった。

 むしろ、その事実が彼女の存在をこの世界に確定してくれたから。


 ―そもそもVtuberは〝実在〟しているか不確定なのだ。


 言ってしまえば相手は顔も見えない声と2Dモデルだけの存在。

 配信というツールで同じ時間を共有しているが、結局は画面越しの存在。

 ふよふよと揺らめく陽炎のような或いは幻のような所在のない存在。

 彼ら彼女らが実在しているか正しく観測できる人間なんてごく僅かだ。

 ―もしその正しく観測できる人間が口裏合わせていたとしたら。

 最近の調声ツールは高性能だからやろうと思えば、他人が本人を騙って活動することも不可能な技術ではないし、3Dモデルだって別の人が真似て動くことだって可能ではある。 

 だいぶ突飛な極論であり悪魔の証明ではあるが、ただの一般視聴者からしたら本人がこの世界に実在しているのか証明できない。また彼ら彼女らが実在しているか正しく観測できないということは、引退してからの動向も掴みにくい。

 オタクたるもの、推しが表舞台から去ってもその後の人生が豊かで笑顔で溢れていることを望むだろう。そして可能ならば幸せに過ごせていることを知りたいはず。

 例えば、普通の芸能人ならば引退後、芸人から飲食店の経営者に、アイドルから女優に、俳優から声優へと転身し、新たな活動を始めることはよくあることだ。

 要は芸能人にとっての引退は新たな門出であり、応援しているファンは新天地に旅立つ推しを引き続き応援でき、その後の人生を引き続き見守ることができる。

 ただVtuberはそうはならない。

 顔も名前も不明な声だけの存在の動向なんて追いかけるのは難儀を極める上に、そもそも引退後は一般企業で働いたり、家業を継いだりと公の場に出ない人が多い。

 中には舞台女優や声優の道を志したり、芸能タレントになったり、配信者として再スタート切る人もいるが、本人と特定できる要素も「声」だけなのもあって、その存在に気づける人は極少数である。

 仮に表舞台で活動していたとしても契約上の理由か個人的な事情があるのか、Vtuber時代のことを語る人は極少数であり、界隈のオタクたちも暗黙の了解ということで表立って言わない。故にそもそもその存在に気づけない人だって多かったりする。

 そしてVtuberの存在が希薄な理由は界隈の文化にもある。

 Vtuberたちは引退時、自分のチャンネルを消す慣例があり、活動が終わると同時に、今まで残してきた足跡も消えてしまう。同様にトゥイッターアカウントも消え、事務所公式HPからも姿を消し、グッズ販売も停止し、まるで今まで幻を見ていたかのように、ふっと夜露のように消えてしまう。

 一応、配信の切り抜き動画や他チャンネルでのコラボ配信などで、過去の一部を閲覧することは可能だが大部分の記録は電子の海に沈んでいく。

 もちろん、その先の未来で新しく思い出が紡がれることもない。

 ―そしてそのうち時が流れ、皆の記憶からも薄れて忘れてしまうのだ。

 

 『この世界に存在している証明ができないこと。』

 『引退した後の足取りを追えないこと。』

 『この世界から生きていた証ごと忽然と消えてしまうこと。』


 Vtuberを推すということは常にこれらの可能性と隣合わせなのだ。

 でも白葉さんの存在がリズムちゃんの存在を証明してくれた。

 それに今も変わらず元気でいてくれたことを観測できた。

 リズムちゃんの生きていた証は失われてしまったけれども、また一から思い出は紡いでいけばいいのだ。


 ―とにかくリズムちゃんとまた出会えて本当に嬉しい。


 …と我ながら気持ちの悪いことを考えてしまっているなと自戒する。

 確かに白葉さんはリズムちゃん本人かもしれない。

 でも今は『鷹谷白葉』であり、経緯こそ分からないが自分の彼女なのだ。リズムちゃんではなく白葉さんとして、推しではなく彼女として接するのが当たり前だ。

 そこだけは絶対に履き違えてはならないと自分をさらに強く戒める。


「…ってどこ見てんの~!お~~~い!戻ってこ~~~い!」

 顔の前でブンブンと手を振られ考え込んでしまっていたことに気づく。物事を脳内で整理し始めると、目の前が全く見えなくなってしまうのは昔からの悪い癖だ。

「あぁ!すいませんすいません!ちょっと考え事してて…」

「コラコラ~可愛い彼女を前にして一人で考え事とは何事だ~!」

「いやー白葉さん可愛いな~!ってずっと考えてましたよ!」

 慌ててそう返すとふーん。と一言零してから流し目でこちらを見て言う。

「ちょっと嘘っぽいのが癪だけど、本当だったら嬉しいからそういうことにしておいてあげる」

 別にやましいことを考えていたわけではないが、話しても楽しい話題では無いのでハハハと笑って誤魔化す。

「ま!とりあえず、バスに乗って駅の方に向かいますか」

 その歯切れの悪い返答に不服げではあったが、すぐどうでも良くなったのかニコッと効果音が聞こえるぐらいにこやかに笑って先を行く。

 ―ふと立ち止まり、自分よりもちょっと先にいる。彼女の後ろ姿を眺める。


 雲一つないどこまでも続く快晴。

 風に吹かれサワサワと揺れる街路樹。

 ぷしゅーという音と共にゆっくり停まるバス。

 歩けばとかとか鳴る、綺麗に敷き詰められたレンガ通り。

 少し先には、こちらを振り返って笑う彼女。

  ―うむ。どこをどう切り取っても絵になるな。


「…それでどこに…。あれ?あれれ?ちょ、ちょいちょいちょーい!」

 カメラを構えるように両手でフレームを作っていると隣に春矢がいないことに気づいた白葉さんが小走りでこちらに戻ってくる。

「おーい!なんで可愛い可愛い彼女を一人にするんだい!」

 ぷくぷくと頬を膨らませながら春矢にそう言う。

 ―自分で可愛い可愛いって…と思ったが事実を述べているだけだしな。と自己完結。

「あ、白葉さんの可愛い姿をカメラに収めようとしてました」

「スマホもカメラも構えてないのに?」

「まあ心のカメラってやつですよ」

「心のカメラじゃなくて普通に撮ってよ~。せっかく可愛くしてきたんだし!」

 再度、その場でくるりとターン。ふわりとスカートが舞う。

 またチラリと白い脚に目が奪われそうになるが、ぐっと堪えて彼女に応える。

 ―経験値の少ない自分からしたらあまりにも刺激的すぎる。よく耐えたぞ自分。

「え!あ!はい!いいんですか!」

 そう邪念を振り払い、ワタワタとポケットからスマホを取り出し、胸元で構える。

「はいダメー。全然ダメー」

 白葉さんはやれやれと言った表情で春矢のスマホを取り上げて言う。

「いい?真正面から撮影すると盛りにくいの。特にスマホのカメラって魚眼レンズが使われてて、顔と平行にして撮ると鼻が大きく映りやすいの」

 そう言いながら春矢の左隣に来て、スマホを頭上斜め上に構える。

「でもこう斜め上から撮れば小顔に見えるし、顔の輪郭もシュッとするでしょ?」

 インカメにしたスマホの画面に映るのはもちろん白葉さんと自分。

 ―うっわ…カメラレンズ越しでも滅茶滅茶可愛いな、おい。

「あとの光の向きも大事で逆光で撮ると顔が暗く映っちゃうから、必ず顔に光が当たる方向で撮ることが大事」

 ―てか、もしかしてこれって彼女とのツーショットってやつ!?

「後、二人で撮る時はできる限りくっついて撮ると、写真全体がまとまって見えるし、後ろの背景のスペースも確保できるの」

 と、言いながらおもむろに春矢の左腕に密着してくる。

 ―ちょちょちょちょ!いきなりくっつくのは反則だって!

 控えめであるがふっくらとした柔らかな感触とほんのりと暖かい彼女の体温を感じ、心臓の鼓動はテンポアップしていく。

 ―手を握るのとはまた別ベクトルの破壊力があるぞこれ!

「…てか春矢聞いてる?」

「あ!はい!聞いてます!」

 高鳴る鼓動に気づかれないように、大きめの声で返すがひとつも話が入ってこない。

「んじゃ!撮るよ〜セイチーズ!」

「え!まだ心のー」

 ―準備が!と言い終わる前にシャッターボタンを押す白葉さん。

 カシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ。

「はーい!終わり!いいの撮れたかな?」

  何事もなかったかのように写真の写りをチェックし始める。

 ―いや撮りすぎだろ。急いでカメラの方を見たのに全然間に合ったわ。

「ほら!見て見て!これとかいい写真じゃない!?」

 画面に映るのは無邪気に笑う白葉さんと不自然な笑みを浮かべる自分。

 レンズをしっかり見て目線が合う白葉さんと画面に映る二人を見てそっぽ向いてる自分。

顎のラインを隠すように添えられた愛らしいピースと胸元にただ置いているピース。

写真映りバッチリな白葉さんと写真慣れしていない自分が同じ画角に写っているなんともちぐはぐな写真だった。

 ―アイドルとオタクのツーショットチェキみたいだ…。

「他の写真とかないんですかね…」

 三十枚近く撮っていたのだ、もう少しまともな写真の一枚ぐらいあるはずだ。

「ないよ?他ぜんぶ春矢が目瞑ってたり、顔がブレてたりして全くダメかな〜あ!これとか傑作だけど見る?」

 スマホに映し出されているのは、半開きの目に、笑みを浮かべようと片方の口角だけが上がっていて、ピースも半分しか形作られておらずクワガタの鋏のようだった。

 ―これは確かに傑作だ…。

 プププ…と笑いながら、写真と春矢を何度も見比べる白葉さん。

 ―自撮りすることなんて人生で一度もねえよ!

 笑い続ける彼女からスマホを取り上げ、速攻で当該写真を削除。

「えー消しちゃうの?いい写真ばっかだったのに〜?」

「ついさっき全くダメって言ってたじゃないですか」

「それは私の写真としては―ってことで、春矢らしくて結構いいと思うんだけどな〜」

「それは褒めてるんですか?絶対違いますよね?」

「んー?どうでしょーか☆」

 ―うん、やっぱりバカにしてたわ。



  ◇



 それから再度、二人で写真の品評会を夢中にしていたところ、バスが来ていたことに気づかず空っぽになったベンチだけが待っていた。

「春矢~~~もう疲れた~~~あっちいよ~~~」

 ―たった数メートルの距離歩いただけなのに、ここまで疲れるか普通。

「地味にさっきのバス逃したの痛すぎるな~」と言い、なんとか木陰のベンチに腰掛けるなり全身を背もたれに預けて液状化する白葉さん。

 季節はすっかり春めいた陽気どころではなく初夏へと移り変わっていて、日向にいると汗ばむくらいだった。

「まだ歩いて十分も経ってないじゃないですか…」

「私の行動範囲、徒歩五分圏内のコンビニまでなんだが?」

「それはもう少し動きましょうよ…」

 白葉さんの冷蔵庫の中身があそこまで悲惨だった理由はやはりここにありか…。

 ベンチ脇に設置されている自販機でコーラを買って白葉さんに手渡す。

 何がいいですか?と聞いた際、白葉さんは案の定、自販機右上に鎮座している緑のエナジードリンクを指差したが健康的憂慮から却下した。

 ―目覚めの一杯はモンライだからな~と今朝言っていたの忘れてないぞ。

 はぁ…。とため息付きながら白葉さんの隣に腰掛ける。隣と言っても密着するのはなんだか恥ずかしいので、拳三つ分くらい開けてだが。

 コーラのプルタブをぷしゅっと捻るとコーラの甘ったるい香りが広がる。

 ―コーラは断然、缶で飲む派だ。

 もちろんペットボトルで飲んでも缶で飲んでも、コップに注いでも味は変わるはずないのだが、何故か缶で飲んだほうがより美味しく感じるのだ。

―ちなみに瓶で飲むコーラもまた格別である。

 隣の白葉さんに目線を動かすと、くぴくぴとコーラ缶に口つけており、ぷっはー!と豪快に息を吐く。

 両手で缶を持って飲んでいるあたり女の子らしいのに、一気におっさんっぽくなるんだから…と苦笑する。

「もう春って感じ終わっちゃったね」

 頭上でサワサワと優しく揺れる萌黄色の葉っぱの向こうに広がる澄んだ青空を眺めて言う。

「部屋に引きこもってばっかだと、知らない間に夏来ちゃいますよ?」

「あ、それ去年の私だ…」

 ―というか一昨年もその前も…と指折りしながら通り過ぎた夏を数えだす。

「知らない間に春が終わって、あっという間に夏が来て、暑くて引きこもってたらあっという間に冬になりがちだよね」

「気づかれもしない秋に合掌」

 両手を合わせて不憫な秋に思いを馳せる。

「毎年、暑いのが本当に嫌でさ、早く夏終われーなんて思ってたし。なんなら夏が来るの憂鬱だったりするんだよね」

 木陰のベンチに腰掛けるなり暑いと蕩けていた白葉さんからしたら真夏の熱気は灼熱の地獄のそれと同じなはず。

真っ青に染まる空を仰ぎ、彼女は続ける。

「朝起きても暑くてさ、昼間はもっともっと暑くて、夕方になってちょーと落ち着いたかな?って思ったら普通に暑くて寝付けなくて、次の日も暑くて目が覚めてさ、本当にもうやんなっちゃうって感じ」

 ふらふらと揺らしていた脚を止めて、こちらを見つめて言う。

「―でもね、今年はちょっとだけ夏が楽しみかも」

「…?なんでですか?なんかイベントあったりしましたっけ?」

 夏になれば、ゲームやらアニメやらのイベントが開催されるのはお決まりだが、まだ発表されるような時期じゃないはずだ。いやもうされているのか?

 そうきょとんとしながら聞き返すと白葉さんは小さく首を横に振って、

「君がいるからだよ」

 そう言ってニッと笑った。


 次のバスが来るまでの十五分。

ゆったりと流れる二人だけの時間がなんだか愛おしかった。



  ◇



 終点の北浦和駅でバスを降り、電車に乗り換え一駅二駅揺られ、さいたま新都心駅で降りた。


 さて、ここで一度「さいたま新都心」について説明しておこう。

 さいたま新都心は大宮、浦和に並ぶ、埼玉県の三大都心の一つであり、国内最大規模の多目的アリーナである「さいたまスーパーアリーナ」や駅に併設された巨大なショッピングモールの「コクーンシティ」、ほかにも多くの国の機関や業務ビルなどが立ち並ぶ新興開発地域である。

 特にこのコクーンシティというのが、エリア最大級と言うだけあって一から三番館まで道路を一つ挟んで立ち並んでいる。映画館やフードコート、衣料品店にスーパー、家電量販店にスポーツ用品店など合わせて二百をゆうに超す店舗を構えており、近所の一大ショッピング施設としても有名。

 家から断然近いのは浦和駅ではあるが、大人向けというか高級志向を感じる浦和のデパートよりかはどちらかというとファミリー向け学生向けの店が多く、とりあえず困ったらコクーンに行けば大体なんでも手に入ると勝手に思っている。


 ―以上、説明終わり。


 改札口を出て左に向かえばさいたまスーパーアリーナ、右に向かえばコクーンシティに続く遊歩道を歩くこと三十秒。道路の真上を横断する形で建設された遊歩道を進めば、あっという間にコクーン一番館。

 入り口直ぐ側にはスタパことスターパークスコーヒーが目に入る。

 初夏の陽気も相まってかガラス張りの店内ではドリンク片手に涼む人たちで賑わっていた。

 ―確か昨日か一昨日ぐらいに新作が出たとトゥイッターで話題になっていたっけか。

 今月の新作はフラペチーノの上にティラミスがのったボリュームたっぷりな一杯と、同じくフラペチーノの上にプリンがそのままのった一杯の二種類だったはずだ。

 見るからに激甘だがティラミスのカカオパウダー、プリンのカラメルがそれぞれ苦味のアクセントとしてよく効いていて、ただ甘いだけじゃないって評判であった。

 コーヒーが苦手な白葉さんでもきっと甘々なフラペチーノなら飲めるだろう。


 ―なんかオタクの癖にスタパについて詳しいなこいつ。って思っただろう。

 こう見えても実はかなりのスタパ好きで、新作は必ずチェックしてるし、ドリンクだけじゃなくてフードも一通り食べてるぐらいだ。

 ちなみにスタパのフードTier1はほうれん草のキッシュがダントツ。絶対に食べてほしい。

 最初は陰キャゆえの謎の対抗意識剥き出しで、

「スタパと野郎系ラーメンのカロリーは一緒!」

「野菜も肉も炭水化物も取れる万能食、野郎系ラーメンのほうがいいだろ!」

「あんなカロリー爆弾飲んでるから太るんだ!」

 と言い張りクラス中の女子から顰蹙を買っていたが、結局のところ心の底でひた隠しにしていた憧れには勝てず、高校に入ってすぐにクラスの誰にも見つからまいと(見つかったところで誰も気にしないのに)わざわざ県外まで遠出してまで飲んでからすっかり虜になってしまい、足繁く通うようになった。

 ちなみにだが、野郎系ラーメンは量が多くて完食できたことがない。


 ―閑話休題。


 デートのスタートダッシュはスタパだ。と意気込む。

「白葉さん、スタパの新作出たみたいなんで―」

「とりあえず、ついてきて」

「え?」

 一緒に飲みませんか?と言い切る前に凛とした表情の白葉さんに手を引かれ、そのままエレベーターを下り、コクーンシティから遠ざかる方向に歩みを進める。

 ―女の子とスタパに行くなんて人生で初めてだったのに… 


 遠ざかっていくカフェに別れの挨拶を残し、線路沿いの並木通りを歩くこと数分。

先程まで目の前にしていたコーヒー香るオシャレカフェとは真逆の無骨な店の前にいた。

『麺屋 紫頂』とドデカく書かれた紫の看板に、店内から威勢のいい店員の声が響き渡り、辺り一面に強烈な匂いが漂っている。

 ―それも強烈ではあるが、食欲が刺激される〝あの匂い〟だ。

「白葉さん?えーと…。ここは…?」

 ―分かっているのにあえて質問する。

「見ればわかるでしょ。家系ラーメンだよ」

 腕を組んで仁王立ちする白葉さんは毅然とした態度で答える。

「…えーと、もしかしてなんですけど、行きつけのお店って…」

「もちろんここだよ?」

 即答。

 ―彼女との初デートの行き先が家系ラーメンって嘘だろ…。

 唖然とする自分そっちのけで、白葉さんはガララと戸を開け、店内へ。

 店の外まで溢れ出ている強い香りを一気に全身に浴び、脳がクラっとする。

「ちなみにここマジでむっちゃ美味しいからね!花○院の魂を賭けてもいいよ!」

「ラーメンの美味しさの担保として使わないでくださいよ…。ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから」

「………。ほうれん草はマシマシで…。卵はつけちゃおうかな…」

 ネタに乗っかって、エメラルドを巧みに操る男のように返したが、当の本人の興味は既に券売機に向いていた。

 そしてこの話を聞いていたであろう、先を並んでいた客の冷たい視線が鋭く刺さる。

 ―これじゃあ自分が滑ったみたいじゃねえか。

 白葉さんは券売機の前で少し考え込んだ後、ラーメンにほうれん草トッピング二枚、海苔煮玉子チャーシュートッピングに濃いめ硬め油多めという死の三段活用、そして極めつけにライス大盛りにするらしい。

 対する自分は白葉さんに「絶っ対増やしたほうがいいから!」とオススメされた、ほうれん草トッピングのラーメンの食券を購入。

 購入した食券を店員に渡し、厨房がよく見えるカウンター席で着丼を待つ。

「白葉さんってここ、どのくらい来てるんですか?」

「うーん。仕事で事務所に行った帰りは必ずってレベルだったっけ」

 先に手渡されたライスに胡瓜の漬物を乗せながら、初出しの情報を披露する。

 ―好きだとは言っていたが、そこまでとは…。

「配信とかで言うとさ~コメントで『ラーメンばっかり食べると太るよ』ってたくさん来てイラッとするから言わなかったんだよね~」

 大きめのため息をついて続ける。

「それもさ、昨日も今日もラーメン食べてるとは言ってないのに、毎日食べてるって思われてビスケットにラーメン食べ過ぎ!ってお叱り文章来ては普通に絶句したよね」

「うわ~。だいぶクソビスですね…」

 ビスケットというのは匿名でメッセージを投稿できるサービスで、その中でも匿名だからってわざわざ言わなくてもいいようなメッセージは総じてクソビスと呼ばれている。

「毎日行ってないし!多くても週四しか行ってないのに!」

 ―いや、ほぼ毎日じゃねーか。二日連続は確約されてるじゃねーか。

 口に出したら百パーセント怒りの矛先が此方に向くような言葉をグッと飲み込む。

「体型とか気にしたことないし、食べても太ったことないのに~!春矢は余計なお世話だと思わない!?」

 頬をパンパカパンに膨らませた白葉さんは憤慨しながら同意を求めてくる。

 ―太る太らないの前に普通に健康に悪いだろ。

 脳裏に過る「硬め濃いめ脂多め」の死の三段活用。

「た、たしかに女性に対して太るなんてデリカシーないですよね~ハハハハ…」

 残念無念、スキル不足の自分は、ぎこちない笑いを浮かべるしかできなかった。

「でも流石に健康に気を遣って、ラーメン食べた次の日はほとんど何も食べなかったな~。そもそも外に出ないとお腹減らないから、ラーメン食べてようとなかろうと外出してない日は食べないこと多かったけどね~」

―太る太らないの前に普通にもっと健康に悪い話だった。

「流石にそれはヤバくないですか…?」

「朝に寝て夕方に起きて配信し始めてそのまま朝コースって完全に生活リズム崩壊してたから、起きてもそもそもどこのお店も開いてないってこと多かったしな~。」

 確かにリズムちゃんの配信は基本的に日が沈んだ頃に始まり、日が出るタイミングで終わることが多かったが、食生活に悪影響を及ぼしていたとはまさか思わなかった。

 まさかの食生活について唖然としている自分に気づいて彼女は慌てて付け足す。

「でも一応栄養は取らなきゃ!って思って、カロリーバランスは食べてたから大丈夫だよ!」

「それでもプラマイ超マイナスですからね…」

 ―「硬め濃いめ脂多め」の死の三段活用がむしろ健康的なチョイスに思えてきたな。

「はい!硬めほうれん草トッピングのお客様!」

見るからに絶対に濃い豚骨を煮出しに煮出した褐色のスープからは湯気と強い豚の香りが立ち上り、鼻腔に掠めるだけで脳が痺れるようだった。

家系特有の短め中太麺の上には追加増量の青々としたほうれん草が並び、隣には薄切りのチャーシュー、そして丼の縁には大きめの海苔が三枚刺さっており、The家系ラーメンと言わんばかりの丼顔だった。

「そして、こっちもいつものやつでーす!」

「うっひょーー!!!今日も美味しそうがすぎる…」

 丼を受け取った白葉さんは恍惚とした表情で丼を眺めて息を漏らす。

 見れば濃いめのスープの上にはこんもりと盛られたほうれん草につるんとした煮卵、追加の炙りチャーシュー、丼の縁には壁のように海苔が展開されていた。

 ―あれ?自分の倍くらい量ないか?

「いっただきまーす!!」

 唖然とする春矢を横目に麺を啜り、ご飯を頬張り、トッピング達を平らげていく。

「ん?美味しいから早く食べな?」

 まだ箸すら手に取ってない春矢に食べるように勧めてくる。

―正直、あなたの食いっぷりが良すぎてこっちはもうお腹いっぱいです…。



  ◇



「ふぅ。食べたねぇ〜」

 お腹をぽんぽんと叩きながら満足気に笑う白葉さん。

「いやー!本当に美味しかった!濃厚だけど豚骨特有の嫌な臭みも無くて、純粋な豚骨の旨みがたまらなかったですよ!」

 着丼した瞬間は強烈な匂いと威圧感のある風貌に食指も伸びなかったが、恐る恐る箸を伸ばしてみると、一瞬でその虜になってしまった。

 強い豚の旨みと香り、ガツンと来る塩分がたまらなくご飯と合うのだ。ラーメンとご飯のセットなんて炭水化物×炭水化物だろ。と昔から懐疑的な自分だったが、気づけばあっという間に丼ご飯を空にしておかわりまでしてしまった。

 スープと麺だけでもご飯が進むというのに、スープをひたひたに染み込ませたほうれん草と海苔の破壊力たるや。

 ―白葉さんがほうれん草増やした方がいいって言っていたのはこの事か。

 チャーシューも薄切りながら噛めば噛むほど肉汁が溢れるジューシーな仕上がり。ただでさえ美味いのに濃厚豚骨スープのベールを纏えば、もう最強のご飯のおかずだ。

 麺、スープ、ほうれん草、ご飯、海苔、ご飯、チャーシュー、ご飯、麺、ご飯。

 隣の白葉さんに目もくれず一心不乱に食べ進めていき、気づいた時には丼は空っぽであった。

「でも、結構ヘビーですね…。もう一年は食べなくていいかな…」

「フフッ。最初はみんなそう思うんだ。ついついスープまで飲み干しちゃって、もう二度と食べないと誓う。でも家に帰る頃にはあら不思議気づけば口が次のスープを求めてる。靴脱いだ頃には次いつ行くか考えだすよ。絶対」

 ―本当か…?と疑問が浮かぶが実体験のようにありありと語る白葉さんを見ると冗談でもホラ吹きでもないらしい。

「そんじゃ!行こっか!」

 春矢よりキツいカスタムを食べていたはずなのに、自分よりも元気なのは食べ慣れているからだろうか。スキップしながら駅方面へ向かっていく。

 覚束無い足取りでヘロヘロと彼女の後を追いかけることしか出来なかった。


「…さて、次はどうしよっか」

 コクーンのモール入り口前、白葉さんがこちらを覗き込むようにして尋ねる。

「…実はノープランなんですよね」

「それはさっきから知ってた」

 二人で入口に設置された館内マップを見つめながら言う。

「とりあえず、腹ごなしにブラブラ歩きませんか?外暑いですし」 

 と言いながら、空調の効いたモール内へ。

 左手にはオシャレカフェにソフトクリーム専門店、チョコレート専門店とスイーツを取り扱う店が並び、その真向かいには有名ブランドの衣料品店が並ぶ店内は平日の昼間だっていうのにガヤガヤと賑わっていた。

「あのチョコのお店っていつ出来たの!?浦和にもあったのは知ってたけど、ここにも出来たんだ!」

 と指さすのは、数十種類のフレーバーのチョコを自分が好きなように袋詰めして購入するタイプの有名チョコレート専門店。

「確かオープンしたの今年の冬頃だったはずですよ?」

「あ、意外と最近なんだ。…そういや私、久しぶりにまともに外出たかも」

「え?そうなんですか?」

「多分…半年ぶりとか?もしかしたらもっと出てないかも…。まあ近所のコンビニぐらいなら行ったりしたけど、基本ほとんど宅配便使って生活してたからなぁ…」

「あの部屋の汚さの理由がわかった気がします…」

 あの常軌を逸した部屋は半年以上に渡る引きこもり生活によるものだったか…。

 と俺が納得いっているのを、え?どゆこと?とキョトンとしている彼女に、

「活動してた時は外出る機会とかなかったんですか?流石に事務所での打ち合わせとかありそうですけど」

 でも、と疑問が過ったので素直に尋ねる。

「あ~それはね、運営さんも理解してくれててオンラインが基本だったかな~。ボイスとか案件での収録する機会とかもあったけど、色々面倒くさくて自宅で録るか、もしくは断ってたりしたしね」

 とまで言うと白葉さんの表情が曇る。

「…ほんと最後の方は不安にさせたり、寂しい思いさせてごめんね…。あの時は色々あってね…」

 申し訳なさそうに語る彼女に胸が詰まる。

 事実リズムちゃんが引退する直前の半年間、配信以外の活動はめっきり減っていた。

 ボイスドラマやグッズの新作が出なかったり、公式チャンネルでの配信や動画への出演、運営主催のオフイベントへの出演もなかったり、週一でデビューから続けていた同期とのラジオ番組も終了したりと、掲示板では「引退秒読みか!?」といったタイトルでスレが立つほどだった。

 先の見えない恐怖で胸が締め付けられそうだったこと思い出す。薄々、勘付いている自分に目を背け、蟠りを抱えながら配信を見ていた二月は凍えるように寂しかった。

 ―目を伏せ、口を噤んでしまった彼女になんて声をかけるのが正しいのだろうか。

 二人の間に、重々しい空気が流れる。

「お!誰かと思えばなんだ!春矢じゃん!?こんなところで珍しいな?」

 ―ん?この聞き馴染みのある爽やかイケメンを思わせる声は…。

 と振り返るとヨッと片手を上げ、爽やかスマイルと共に咲人がやって来る。

「よ、よう咲人。お、お前こそこんなところで何してんだ?」

 咲人には隣の住人がリズムちゃんの中の人じゃないか?と相談こそしたが、白葉さんの話はまだしていない。ここで変に騒がれても困るので平然とした態度で応える。

「なにって…いつもの通りバイトの帰りだけど?」

 頭上に大きなハテナマークを浮かべて咲人は言う。

「あ!今日、バイトの日だったか!お前いつもスーパーで働いてて大変そうだもんな!」

 ハハハ!忘れてたぜ!とぎこちない誤魔化し笑いを添えて返す。

 ハハハ!忘れんなよ!と五月晴れのような微笑みを添えて返される。

 ―ところで、ただバイトに行くだけだってのに、そんなにカッコイイのなんで?

 白のワイシャツに黒のチノパンとシンプルなコーディネートだが、スラッと伸びた長身も相まってファッション雑誌のモデルかと思わせる出で立ちだった。

 咲人の背後にいる女子高生たちが「あの人かっこよくない?」と色めき立っている。

 ―まずいな…。咲人のカッコよさで人の目が集まり始めている…。

 横目でチラリと見ると案の定、居心地悪そうに佇む白葉さん。

こんな状況で「この子がリズムちゃんの!」なんて言われることだけは避けたい。

 一応、引退したとは言えリズムちゃんは大手事務所所属の有名Vtuber。万が一リズムちゃんの存在をこの場に知っている人がいたら、身バレに繋がるのは間違いない。

 ―可能性としては限りなく低いが、変に危ない橋を渡るのは避けたい。

「は、春矢…。こ、この人は…?」

 後ろに視線を滑らすとそこには自分の背に隠れながら、上目遣いで不安げな言葉を漏らす彼女がいた。

 「コミュ障だから友達できないw」と配信で言っていたがなるほど。こういうことか。彼女は人見知りが激しいタイプのようだった。

 ―デリケートな話ではあるし、あまり大ごとにしたくない。

「…えと、後ろにいる女の子は?春矢のお友達?」

 咲人も存在にきづいたのか、俺の背後で小さくなっている白葉さんに目をやる。

「あ、あ~。いや~うん。えと、お、おう。そんなとこ」

 苦し紛れに誤魔化しあいうえおを披露すると、咲人はへぇ。と小さく溢し、縮こまる白葉さんをまじまじと眺め、俺と目を合わせて小さく頷く。

「…そーゆうことね。なんとなく把握した」

「え?な、何が?あ、あ~!こ、この人ね!お、俺のか、かの―」

「はいはい。言わんとすることはわかったから。楽しいデートの最中、水を差すことになって申し訳ないけど―」

 引きつった笑顔を浮かべた俺の言葉を遮り、一度辺りを見回して言う。

「―ここじゃなんだ。ちょっと場所変えよっか。彼女さんもちょっといいかな?」

 モールの出口をクイっと顎で指す。



  ◇



 コクーンの真向かいに建つ雑居ビルの一角、有名コーヒーチェーン店のボックス席。テーブル挟んで目の前には咲人。俺の隣には俯きながら居づらそうにする白葉さん。

 コーヒーの香りをぽわんと漂わせる店内に俺達はいた。

「―単刀直入に聞くぞ、春矢」

 真剣な眼差しを向け、口を開く咲人。確信に迫ろうとする問いかけに、ゴクリと唾を飲む。

「その子が、この前相談されていた子ってことでいいんだよな?」

 ―やはり、すぐ分かったか。

 さっき白葉さんが俺の背後で質問した時に声を聴いていたのだろう。ASMR好きの彼にとって音や声の聴き分けは造作も無いはず。(特に人の声なんて意識して聴けば分かりやすい)

 その声と白葉さんとのファーストコンタクトについて話した内容と、俺の誤魔化す態度を見て、この短時間でそこまで導き出したのか。

 ―相変わらず目から鼻へぬけるように賢いヤツだ。

 それに〝この前相談されていた子〟とぼかす辺り、配慮が行き届いているが分かる。

「ああ、咲人にこの前、相談した件の子が彼女、俺の推しだ」

 え?言っちゃうの?と白葉さんが驚いた表情でこちらを見る。

「大丈夫です。コイツは俺の親友なんで。それにもう気づいちゃってるみたいですし」

「渡会咲人って言います。春矢と同じ学部で、オタク友達として仲良くさせてもらってます」

 ニコっと爽やかな笑顔を添えて自己紹介する咲人。

 ―お前は恋人のご両親にご挨拶でもしてるんか。

「あ、あ、ああ、えと、た、鷹谷白葉って言います。」

 それに対してあまりにもカチコチな挨拶を返す白葉さん。

 ―さっきから白葉さんキャラ違わないか?

「一応、確認なんだけどさ、御本人で相違ないんだよね?」

「は、はい。えと、春矢からどこまで聞いているか分からないですが、ご想像と相違ないと思います。」

 咲人はそう彼女から聞くとコーヒーを一口飲み、ふぅと一息つく。

「オーケー、大体理解した。けど俺は春矢に色々聞きたいもんだなぁ。特に―」

 咲人はそう言って両手を後頭部で組み、座席に深くもたれかかる。

「〝春矢〟って呼ばれてる理由とかね」


「―なるほどねぇ。たまたま偶然、春矢の最推しが隣に住んでいた、と。それに一年以上隣に住んでいたのに、全く気づいていなかったと…。お前、本当に鈍感だな?」

 事のあらましを咲人に説明し、飲みかけのコーヒーがすっかり冷めた頃。呆れた表情を浮かべた咲人がため息をつく。

「だ、だって白葉さん外に全く出ないから!そ、それにまさか推しが隣に住んでるなんて、オタクのキモイ妄想でしかないだろ」

「だとしても一年も住んでたら、ちょっとは気づくタイミングあったろ…」

「し、白葉さんもなんとか言ってくださいよ!」

「もご、もごごご!?」

 助けを求めるように白葉さんへ視線を投げるが、当の本人は生ハムにボンレスハム、ボローニャソーセージを挟んだシンプルなサンドイッチを口いっぱいに頬張っていた。

 ―いつの間に頼んでたの?てかさっきまでの人見知りモードは?

「もご!もごごごご!」

「無理して喋らなくていいから!」

 さっき家系ラーメン食べたってのに、まだ食べるのかこの人…。

 ―もしかして白葉さんって案外大食い?

「…ふう。美味しかった~。でまあ、春矢が気づかないのも無理ないかな~。本当に引きこもりだったし」

 ゴクン。とサンドイッチを平らげた彼女は、ご馳走様でした。と手を合わせて笑う。

「白葉さん、口に食べカスついてますって!」

「え?とってとって~」

「ちょ、白葉さん!?」

 ずいっと口元をこちらに寄せる白葉さんに、またもやドキっとさせられてしまう。

 目を閉じて口を拭ってもらうのを待っているが、その表情、まさしくキス顔。

 ―新衣装お披露目のスクショタイムでよく見るやつだ…。

 まさか現実世界でも見れると思ってなかった表情差分に心臓の鼓動は高鳴るが、咲人に見られている手前、ここは冷静沈着に対応させていただく。

「はいはい、これでキレイになりましたよっと。」

 スッと口元を紙ナプキンで拭う。手が少々震えてたが、多分誰にも気づかれていないだろう。

 ―というか気づかれていないでほしい。

 そんな白葉さんとのやり取りを見て、穏やかな微笑みを湛えている咲人が優しい声色で言う。

「ま、とにかく二人とも仲良さそうだし、春矢のことよろしくお願いしますね」

「おいお前、保護者かよ。てかその顔なんだ?」

「よろしくお願いされました!咲人くんも春矢と仲良くしてね!」

「白葉さんも母親みたいなこと言わないで!」

 ガシっと両者の間で固い握手が結ばれる。完全に俺は置いてけぼりだが?

「んじゃ!俺、この後用事あるんで!春矢もなんかあったら相談するんだぞ」

「おう、てか寧ろいろいろと聞いてくれてありがとうな。誰かに聞いてもらってスッキリしたから助かったわ」

「なら良かった。お二人ともデート楽しんで!」

「な、お前!」

「咲人くんまたね~」

「白葉さんもお元気で!ほんじゃ、ごちそうさんでした!」

 そう言い席を立った咲人は、ぴゅーと店から出ていってしまった。

「ほんと、仲いいんだね」

「なんかすみませんね、慌ただしいやつで」

 カラララーンとドアベルが鳴った方を見て、白葉さんは目を細めて言う。

「でも羨ましいなぁ~。ああいう友達がいるの。私、コミュ障だから友達ほんと少なくてさ~」

「あ、そういえば咲人と初めて会った時、後ろに隠れてましたもんね」

「いや~どうしても初対面の人になると、いつもああなっちゃってね。直したいとは思うんだけど…」

 たはは、と面映ゆそうに笑う白葉さん。

「でも最後、結構仲良さそうにしてたじゃないですか」

「春矢の親友だし、悪い人じゃなさそうだからね~。それに〝当時の名前〟で呼ばないように気遣ってくれてたみたいだし」

「周りにああやって、気を遣えるいいヤツなんすよ」

 窓の外、人が絶えず出入りするコクーンと駅を繋ぐ遊歩道を眺めて言う。

 大学のオリエンテーションで咲人と出会えたのは僥倖だったな、と思う。

 あいつと出会ってなければ今頃、一人で学食の飯を食う、ぼっち大学生だったかもしれないと思うと寒気がする。

 ―今度、お返しがてら飯でも奢ってやるか。

「…てかあいつお金どうしたんだよ」

 飯の奢りで思い出したが、咲人も確かコーヒーとアボカドサーモンのサンドイッチを注文していたはず。

「ん?お金ならこっちあるよ?」

 ちょいちょいと白葉さんが紙ナプキンの上に置かれた現金を指差す。

「あ、ほんとだ。―あれ?ちょっと多くないか?」

 コーヒーとサンドイッチなら大体千円ぐらいなのに対し、置かれていたのは三千円ちょっと。

「ねえ春矢、もしかしてこれ、三人分の代金なんじゃない?」

 白葉さんに言われメニュー表を見て、計算するとぴったしの額だった。

「…本当に、なんで俺と友達なんだろ?ってぐらいイケメンすぎません?」

 眉目秀麗で、頭も良く、明るく朗らかで気が遣える。その上、さらっと三人分支払い去っていくスマートさ。どこをとっても完璧すぎる。

―せめて性格ぐらい悪くないと、釣り合い取れないだろ…。

 折角だしここは一つ、お言葉に甘えることにしよう。

「そんじゃ、咲人にご馳走になるってことで、俺たちも行きましょっか!」

「今度咲人くんにお礼言っておいて。コーヒーとサンドイッチ美味しかったよ。って」

「わかってますって。てか、白葉さん家系食べた後によく食べられましたね…」

「ふふん。実は日頃食べないだけで、案外いっぱい食べれちゃうんだよね。前に一日三ラーメンしたこともあったし」

「食べ過ぎじゃないですか…?てかラーメン三食って流石に飽きません?」

「そんなことないぞ!朝は軽くちゅるんと喉越し良いつけ麺。昼はガッツリ家系。夜はあっさり塩ラーメン。そんでもって夜食の博多豚骨ラーメンね」

「ん?夜食にラーメンってそれ四ラーメンですよね?」

「夜食食べたときには、日付変わってたから、その日は三ラーだよ」

 否!と言わんばかりに掌を出すが、この人の言っている意味が分からなかった。

 ―食べ盛りの高校生、大学生なんかよりも食べるんじゃないか?この人…。

 今度は期間限定のサンドイッチを食べるんだ~。と嬉しそうにスキップする白葉さんと共に店を出る。さて、これからどうしましょうか?と切り出そうとした時、ブブッとスマホが鳴る。

『お前、さっき口拭いてる時、めっちゃキモかったぞ笑』

 通知欄にあるメッセージの送り主―咲人の文字を見て、ため息が漏れる。


 ―前言撤回。やっぱり性格良くないです。



  ◇



 喫茶店を出て、俺たちは遊べる本屋をコンセプトにしている雑貨店にいた。

 ユーモアあふれる黄色のPOPが印象的な店内には、アニメやゲームのグッズや、パーティーグッズ、よく分からないインテリア、珍しいお菓子、食べ物や生き物を模した可愛いクッション、幅広い種類のスマホケースに、お洒落な小物、使用用途が不明な雑貨が所狭しと並んでいる。

 もちろん本屋なので書籍も取り扱っているのだが、ただの本屋とは違ってアイドルの写真集の隣にタコイカ限定の図鑑が置かれていたり、宝石の結晶構造について記された学術書の上にはアニメキャラのフィギュアがデカデカと飾られている。

 また店内には春アニメのOPや地下アイドルの新曲MV、Vtuberのカバーアルバムのティザー動画が流れており、視覚的にも聴覚的にも騒がしく、端的に言えばカオスな店である。

「見てみて!この服めっちゃ可愛くない?」

「え?は、はぁ…」

「えーなんか反応薄いんだけど、そういうのは女の子に嫌われちゃうぞ」

 胸元に鮭の切り身といくらが寄り添いあって「なかよしファミリー♡」とあるTシャツを広げて言う。

 ―これのどこが可愛いんだ…?

 鮭の切り身もいくらもデフォルメされていたらまだマシに思えるが、どちらもやけに光沢感のあるリアルテイストなイラストのため、見ているだけでも生臭さを感じるものだった。それに「なかよしファミリー♡」って、いくらを持つ鮭は身が痩せてしまうために食されることは少なかったはず。

 ―まずい。この人の美的センスがまったくわからない…。

 そういえば、この鮭いくらTシャツ以外にも「貧乳はステータスです!」とか「モデル体型」と筆文字で書かれたものを着ていたし、それ以外にもローストビーフのイラストの下に「失われた牛『ロストビーフ』」と書かれたものも部屋に転がっていたことを思い出す。

 ―流石に焼き鳥のメニューがズラリと書かれたTシャツを見つけたときは呆然としたな…。

「春矢にはまだこのセンス分からないか~~~」

 白葉さんはあちゃーと右手で頭を抱えながら言う。

 頭を抱えたいのはこっちだよ。と言葉をぐっとこらえて、ハハハ…と苦笑いを浮かべることしかできない。

 見れば同じようなイカレたデザインのTシャツが何点を並んでおり、それらをキラキラと目を輝かせながら選ぶ白葉さん。もちろん両手には既に購入確定のイカレTシャツが。

「それ、ぜんぶ買うつもりなんですか…?」

 怪訝な表情を浮かべながら尋ねると、もちろん!ととびきりの笑顔を咲かせて言う。

「本当は今日この服着るか、似たようなオシャレTシャツ着ていくか真剣に迷ったんだよね~。せっかくの初デートだから気合い入れてこっちにしたけど、Tシャツのほうが良かったかな?」

 ―どうやらこのダサTシャツと並んで歩いていた世界線もあったらしい。

 今後も是非、気合を入れていただきたい次第である。

「い、いや!今日のお洋服のほうが白葉さんにも似合ってますし、俺はこっちのほうが好きです!朝見たときにあまりにも可愛すぎて言葉失っちゃいましたもん!な!の!で!今日以降もぜひこっちの路線で!何卒!」

「え?あ、そう?ならそうしよっかな…」

 本心をありのままに伝えると、えへへ…と嬉しそうに頬を赤らめる白葉さん。

 ―よし。ダサTシャツでのデートは回避。

 ここで変にダサTのことを悪く言っても彼女の機嫌を損ねるだけ。ならば今日のコーディネートを褒めちぎることでダサTを回避すればいい。我ながらスマートな解決法である。

「じゃ、じゃあ!これ買ってくるね!」

 あ、それは買うんですね。


 カオスな店内から出て、白葉さんと次どうしようか。と話しながらモール内をのんびり歩く。

 あの後、春矢も買わないの?とダサTを勧められたが、やんわりと遠慮させてもらい、代わりに夏服を一緒に何店か周り選んでもらった。さっきのダサTのくだりで白葉さんのセンスについては若干不安だったが、デザインのセンスが壊滅的なだけで服のチョイスは良く、爽やかなマリンブルーのYシャツや動きやすいスキニーなど何点か購入した。

 ―彼女と服を選ぶだなんて、まさにデートのそれじゃないか。

 なんて思いながら、白葉さんと並んで歩く。彼女もルンルンと鼻歌まじりで楽しんでくれているようだ。

「ご飯も食べて、服も買いましたし、このあとどうしましょうね?」

「あーうんどうしよっかな~。実は私、あの家系が食べたくて新都心まで来たから、この後のこと何にも考えてなかったや」

「ついさっき家出た辺りで、行き当たりばったりだねって言ってたのはどこの誰やら」

「あはは!それを言われちゃったら仕方ないね」

 図星を突かれたと頬をかきながら笑う。

 それと同時に、俺の右手に柔らかい感触が滑り込んでくる。

 ―大丈夫。もう動揺したりしないぞ。

 チラリと視線をずらせば、したり顔でこちらを覗き込む白葉さん。

 散々やられっぱなしは癪だ。ここは何食わぬ顔で対応させていただく。

 ―いや、ちょっとダメそうだけど。

 うっすらと熱を帯びた両頬に勘付かれぬよう、少し声を張って言う。

「じゃあ映画でも見ます?」

「お!いいね!最近、家で映画見ること多かったから、劇場のおっきなスクリーンで見るの久しぶりかも!」

 デートといえば!と恋愛経験の薄いオタクが、必死に頭こねくり回した提案だったが思ったよりも好感触。これには小さくガッツポーズ。

 ―付け焼き刃の知識だけど、朝、スマホでチェックしておいて良かったな。

 

「さて、なに観よっか。」

「話題の実写化映画に、ハリウッド名作の続編、人気アニメの劇場版…。どれにしましょうか…」

 それから俺と白葉さんは、コクーン一番館二階にある映画館、MOVIXさいたまのロビー内、至るところに貼ってあるポスターを眺めていた。

 ―平日昼間の映画館はちょっとだけ異世界だ。

 親子連れやカップルで賑わう休日とは打って変わり人気が無くガランとした館内をオレンジの灯りが寂しげに照らしており、それでいて予告編を流す大型モニターの光や上映アナウンスの音、券売機のタッチ音で満ちている静謐さと喧騒が共存する不思議な空間。

 自動ドアを隔てた外とは別空間のようで、ちょっとした非日常を味わえるよな。とロビー中央に備え付けられた大型モニターを見上げて一人思う。

「よく考えたら今まで観たい映画を観るため映画館に来てたから、映画館で観たい映画を探すってのは初めてです」

「んー。確かに、私も経験ないかも」

 上映中の映画一覧には恋愛系にアニメ映画、ホラー映画にマンガの実写化、有名アイドルの初主演作品、ミュージカル映画がずらっと並んでおりどれも魅力的に映る。

「てか白葉さんってどういう映画見たりするんですか?あんまりこれっていうイメージないかも…」

「うーん、結構幅広く見るかな~。あ!でも夏と冬の特撮映画だけは絶対に見るようにしてるかな」

 サムズアップしながらニッと笑う白葉さん。

「こう見えても平成作品はどれも網羅しててね。個人的に好きなのはやっぱりオー…」

 ―あ、この人、特撮オタクだったのか…。と知る。そして同時に後悔する。

「本来、敵幹部サイドなのに主人公とバディを組むのが、とにかく良くてな!もちろん意見の相違で仲違いすることだったり、勢力図の変化で主人公の元を去ったりするんだけど…」

 そう特撮オタクは語りだすと止まらないからだ。

 ―一度スイッチが入ると脇目も振らず、熱く語りだすから困るんだよな…。

 親しい友人にも一名、厄介特撮オタクがいるので慣れてはいるが…。

「~~~~ん?聞いてる春矢?」

「あ、はい。聞いてます。えと、なんの話でしたっけ?」

「私、ライダーの決め台詞全部言えるの!それでね。一番好きなのは指輪の魔法使いの『さぁ、ショータイムだ』ってやつで、どんな逆境でもクールに言い放つのがもうほんっっとにかっこよくて!」

 彼女のオタク語りは加速する。

「――それでねライダーキックってひとえに言っても沢山種類があってね。例えば一般的なキックの角度って六十度ぐらいだけど、中には上から圧殺するようにするキックとか、ほぼ水平にするやつ、逆に上へと上昇していくキックもあるんだよ」

 ―ああ、だめだこりゃ。もう止まらない…。

「は、はあ…。結構、白葉さんってライダーキック好きなんですね…」

「そりゃあそうでしょ!ヒロインにピンチが迫り、あと一歩のところで敵に殺されてしまうかもしれないっ!そんなときどこからとも無く、キックで突っ込んでくるシーンで胸が熱くならない人間なんていない!全人類が感極まってスタンディングオベーションだよ」

 ―あれ?この人、こんなに熱く語る人だった?

 配信のときは結構抑えていたが、かなりのオタクだったらしい。

 リズムちゃん、そして白葉さんの知らない一面を知れて嬉しい反面、知りたくなかったな…と思う自分がいたのも事実だった。


 そんなこんなで、俺たちは迷いに迷った挙げ句、『大ヒット公開中!』の八文字で、世界的大人気魔法ファンタジーを観ることにし、チケット購入する。

「映画までちょっと時間あるし、早めにポップコーンとか買っちゃおっか!」

「そうですね!早めに席について、予告編観るのも楽しいですし!」

 発券されたチケットに書かれた時刻まであとニ十分ほど。上映直前はレジも混むだろうし、早めに買っておくのが良さそうだ。

 いそげいそげ~とパタパタとレジへ向かう白葉さんを追う。

「ポップコーンの匂い嗅ぐと映画館に来たって感じがする~」

「それめっちゃわかります~」

 と言いながら二人、目を閉じて、レジ前に漂う塩バターポップコーンの香りを堪能する。

「白葉さんは何味派なんですか?俺はキャラメル派です」

「ん?あー私はねホットドッグかな~。ポップコーン、もさもさしてるのあまり得意じゃないんだよね」

 ―じゃあ、なんでポップコーンの話をしたんだ…?

 リズムちゃん時代にも度々、こういう異次元発言をしてコメント欄をざわつかせていたけど、あれはキャラ作りじゃなかったのか…。


 俺は塩バターポップコーンとコーラのMサイズ、白葉さんはホットドッグとシェイクポテトのベーコンフレーバーにコーラのMサイズを注文した。

 こんもりと盛られたポップコーンから、塩気の効いたバターの香りが鼻孔をくすぐる。ポップコーンの匂いは映画館の匂いだと改めて思う。

 ちなみにキャラメル味派と言っていたのに、塩バター味なのかについては、単純に売り切れだったからである。残念、無念。

 とポップコーンたちが乗ったトレイを受け取るとちょうど、上映十五分前のアナウンス。

「もうそろ、始まるんで、今のうちにお手洗いと買った服をコインロッカーに入れてきちゃいますね!」

「りょーかい~。私お手洗い大丈夫だから急いで行ってきて~」

 トレイを彼女に手渡し、映画館から出て一階のコインロッカーへ。


 モールの吹き抜けで四角く切り取られた青空から眩い陽射しが降り注ぐ。手庇をつくり真っ青に塗りつぶされた空を見上げると、ところどころに帯状の薄雲がたなびいていた。

 お手洗いを済ませ、二階に戻ろうとするとポケットに入れたスマホが揺れどうせ咲人のことだろうと思ったが、通知欄を覗くと花宮からのチャットだった。


『おーっす!すぷさん元気っすか?ふなは今さっき起きたっすよ』

『お前はなんつー時間に起きてんだよ…。それでどうかしたのか?』

『こっとんさんから話は聞きましたっすよ?例のアノ子とお楽しみだそうで~。そんで女の子と遊ぶ時のアドバイスをしてほしい。ってこっとんさん直々にお願いされたんすよ~』


 こっとん、これは咲人のハンドルネームで、渡会の「わた」から取っているもの。

 つまりアイツは花宮にも事情を説明したらしい。大方、俺からの相談を受けた花宮は好奇心から俺と一番仲のいい友達である咲人に質問したに違いない。適当にはぐらかしておけばいいものを勝手なことをしやがって…。と眉間に皺を寄せる。


『前にすぷさんが、お隣がリズムちゃんかもしれない!って言ってたんで、もう気になって気になってしょーがなかったんすよ!』


 ―やはり案の定。

 俺がなんて返そうか迷っている間に、花宮がどんどんチャットに連投していく。


『それにしても結構すぷさんも隅におけないっすよね~!お隣さんの正体は分からなかったみたいっすけど、それでもまさか二人でお出かけなんて~コノコノ~』


 と思ったら流石は咲人。白葉さんの正体については伏せた上で、付き合うことになったのでアドバイスしてほしい。と白葉さんのことを「リズムちゃんかもしれない人」ではなく「友人の彼女」とし花宮の関心をリズムちゃんかどうか。からずらしたのだ。

 マジでグッジョブ咲人。思わず小さくガッツポーズ。


『それでなんすけど!ふなから女の子について、ありがたーいお言葉を授けようと思うのです』

『あーこの後、映画だからなるだけ完結なものにしてもらえないか?』


 大体、講釈垂れるときの花宮はとんでもない長文になりがちなので、予め釘を刺しておく。以前、特撮についてチラリと聞いたところ六時間にも渡って平成二十作品について語られた上に、その中から一作品見て論文を書くように。と言われてゲンナリしたのを覚えている。

 ちなみにだが、もちろん、未だに一作品も見ていない。


『そう言われると思いまして、既に考えてあるのです!』

『お前にしては準備がいいな。それで?』


 ほんのちょっとだけ入力が止まり、ピコっという音と共に一言が投じられる。


『いかなるときでも、常に彼女の傍にいてあげること。これが一番大事です』


 ―この時の俺は知らなかった。

 確かにその通りだけど、それだけでいいのか…?と思っていたこのアドバイスが如何に的を射たものであるか、身に沁みるほど思い知ることを。


 ありがとう。と感謝を花宮に伝え、二階へ戻るエスカレーターでもう一度、空を見上げた。傾き始めた太陽が遠くの分厚い鈍色の雲を照らしていた。



  ◇



 異変に気づいたのは、ロビーの自動ドアを抜けた時だった。

「ちょ、ちょっと、だから知らないですっ」

「そ、そんなこと言わないでってば、僕知ってるんだよ?君のこと」

 入り口からすぐ右手、さっきまで二人でいた場所に二人の男女。

 白葉さんと――。

 見知らぬ男だった。

 灰色のパーカーにジーンズを合わせ、黒のキャップを被った中肉中背の男と白葉さんが何やら話し込んでいる。それも只ならぬ雰囲気を醸し出しながら。

「だ、だから私、知らないです。そ、そんな名前の人」

「ほんっとそういうのはもういいから。ずっと探してたんだからさぁ…。本当に疲れたんだよ?君のためにわざわざこっちまで住んでさ、君と出会うために僕は…ここまで苦労してきたんだよ?」

 辺りにいる人たちも、二人の間に流れる異様な空気を不審に思っているようで、遠目に視線が二人に集まっているのを感じる。

「な、なんなんですか。貴方い、いきなり話しかけてきて」

「い、き、な、りじゃないでしょ?前々から君のことを見てたんだから。気づいているんでしょ?僕が誰なのかーって。てか本当にさっき隣にいた男は誰?まさか彼氏じゃないでしょ?」

「さ、さっきから、な、なんなんですか!あ、貴方は!」

 ―マズイ。と直感がそう騒ぐ。

「あの、どちら様でしょうか―」

 足を早め、二人の会話に割って入ろうとした時だった。

「あれまだ知らないフリする気?まあいいや。僕、知ってるんだよ?」

 ―もう少し早く、違和感に気づけばよかった。

 目深にキャップを被った男の口角がグニャリと歪むのが見え、


「―君が魔ノ宮リズムだってことを。ずっと君のことを追っかけてきたんだからさ」


 彼女を取り巻く悪意をこの時、初めて知った。



  ◇



 指先が震え立ち竦んでいる白葉さん。彼女の肩を掴み、「魔ノ宮リズム」と発した男。パット見は地味めな出で立ちだが異様な雰囲気を纏っていた。

 ―この男は白葉さんに明確な害意を持っている。

「誰ですかいきなり。僕と彼女になにか用ですか?」

 二人の間に割って入った俺に害意の籠もった視線をぶつけてくる男。

「どちら様か存じ上げませんが、彼女が怖がっているのでその手。どけてくれませんか?」

 怯えた彼女の視線を捉え、(大丈夫、なんとかしますから)と小さく頷く。

「僕、いますごく忙しいから邪魔しないでもらえるかな」

 不機嫌さを体中から漂わせる男がイライラしながら言う。

 ―コイツは誰なんだ?どうやら白葉さんのことを知っているようだが。

「彼女、怖がっていますから。とにかくその手どけてくれませんか」

「あー面倒くさいなぁ…。誰なんだよホントに…」

 目深に被ったキャップと、無造作に伸ばされた前髪の隙間から見える彼の目を見た瞬間、悪寒が走る。

 目は口ほどに物を言う、ではないが彼の目には狂気と愛憎が渦巻いていた。


 ―とにかくこの場から今すぐ離れたほうがいい。


 直感で感じ取った俺はガッシリと白葉さんの肩をつかむ男の腕を払い除け、彼女の手を握り出口へ。

「サクラさん、行きましょう!」

「おい!待て!」

 不意をつかれ狼狽える男を後目に足早に映画館を出て、急いで駅まで走る。

 ロッカーに荷物入れっぱなしだが、そんなことはどうだっていい。

 さっきまでジリジリと照りつけていた太陽は、鈍色の分厚い雲に覆われ、その姿を眩ましていた。

 後ろをチラリと振り返るとキャップの男が追ってくるのが見える。

 ―このままただ走っても追いつかれるだけだ。手っ取り早く逃げられて、それでいて彼を撹乱できる方法はこれしかない。

「サクラさん!電車乗りますよ!」

 硬く握られた手の持ち主に〝あえて〟大きな声で言う。

「え?え?私、サクラじゃないんだけど…」。

「いいから早く!俺についてきてください!」

 異なる名前を呼ばれた彼女は困惑した表情を浮かべながらも、俺の言った通りに改札を抜け、電光掲示板を確認しホームへ続く階段を降りる。

 さいたま新都心駅には、京浜東北線が通る一・二番ホームと宇都宮・湘南新宿ラインなどが通る三・四番ホームがある。

 大宮行き四番線ホームにちょうど電車が滑りこんで来たので、車両に飛び乗る。

「え、逆方向だけどいいの?家とは真逆だよ?」

 息を切らしながら電車に乗り込んだ白葉さんが尋ねる。

 その通り、我が家のある最寄りは北浦和。大宮とは真逆の方向にある。そして何より三・四番ホームには北浦和に止まる路線は存在しない。

 『―あれ?よく見たらさっきまで一緒にいた男じゃん。』というキャップ男の発言からして、俺たちのことをつけていたことは明白。そしてこのまま真っ直ぐ帰ってしまうのは自分たちの最寄り駅を教えているのと同義。ここは一旦、多くの路線が連なる大宮駅に行き、キャップ男を撒かないと。

 大宮駅にはJRだけで一番から二十一番ホームまである。後をぴったりと追われていない限りは、どの路線の電車に乗ったか推測するのは困難なはず。

 後はキャップ男から見つかり同じ車両に乗られないようにするだけ。平日お昼時もあってか車両内に人は少ないので、少しでも見つからないようにとホーム端の車両へ。

 ちょうどその時、反対側の一番ホームに電車が到着する。視線をずらせば件のキャップ男がその電車に飛び乗って探し回っていた。

 電車の扉が閉まり、二人を乗せた車両はキャップ男の乗る電車とは反対方向へと動き出す。

「な、なんとかなりましたね…」

 息をつき、額の汗を手の甲で拭って言う。

「…ごめん」

 虚ろげに視線を揺れ動かす白葉さんが所在なく謝る。握られた右手はまだ微かに震えていた。

「…なにがあったか聞いてもいいですか…。家に帰ったらでいいので」

「…ここで嫌だって言うほど、私は秘密主義に見えるかな」

「無理しなくてもいいんですよ」

「ううん。これは私の話だから、ちゃんと君に言う必要がある」

 そう俯きながら言う彼女の目には仄暗い絶望が宿っているように見えた。

すみません。中編2と後編になってしまいました…。(文字数の都合で…)

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