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Vtuberの見た目と魂は一致しないらしい ―前編―



                   0



 ――それは、鈍色に光るナイフであった。


 一突きで人命を奪えるだけの暴力性を孕んだ物を持った男が眼前に迫る。

「ち、近づかないで!」

「黙れ!」

 虚勢張って言ってみるものの男の放つ大声に呆気なく掻き消される。

 夕暮れに照らされ赤熱したアスファルトがじわりじわりと黒い影に飲まれ、急速に熱を失っていく。太陽を背にした男の口角は歪に釣り上がっていた。


 ドロリとした漆黒の恐怖が全身を支配していく。じんわりと脂汗が滲み、視線は男の持つナイフに注がれ、肺は空気を取り込むのを拒み、指先は小さく震え、脚は言う事を聞かず逃げ出すことも出来なかった。

 ―私は誰かを笑顔にすることを生業にしてきたはずなのに。

 まさか誰かを幸せするために費やしてきた時間が、大きな不幸となって自らの身に降り注ぐなんて微塵も思いもしないだろう。


 こんな状況なのに私の脳裏に過ったのは、幼き頃に見たとある物語だった。

 あまりにも場違いな空想を走らせながら、男からは視線を外さず、一定の距離を保ち続ける。


 背中にザラリとした感触。気づけば壁際まで追い詰められていて、腕を伸ばせば簡単に届く距離に男は迫っていた。

「どうしてそんなに逃げるんだい?」

 男はニタリと嗤いながら歩みを進める。

「こ、来ないで!」

 必死の思いで吐き出された小さな拒絶を示す声は、真っ赤に染まった空に吸い込まれ消えた。

 衝動と怒気と愛憎が渦巻いた目をした男はナイフを突きつけて言う。

「僕は悪くない。君が悪い。そうだ!君がこれは僕を裏切った罰なんだあぁぁぁ!」

 振り下ろされる鈍色の暴力が描く軌道を見て、私は必死に思い出す。


 そんな物語の続きは―



                    1 



 GW明けの学校というのはいつも等しくかったるくて仕方ない。

 新生活および新年度がスタートし、環境の変化に順応すべく常に神経を張り、ただ慌ただしいだけで終わる四月。その忙しさから解放してくれるかのように待っているGWは多くの学生にとって希望の象徴であろう。こと人生の夏休みとも言われる自由の象徴、大学生にとってのGWは、友達と一緒に旅行に行ったり、サークルメンバーでBBQしたり、彼女とデートしたり、青春を謳歌する期間のことでもある。


 まあ、残念ながら自分はそんな日々を過ごせてはいないのだが。

 

 人生の輝きであった推しが去年の冬に引退してしまってからというもの、ぽっかりと空いた心の穴を埋めてくれる何かが現れることなく色褪せた日常を過ごしていた。

 気づけばいつも推しのことを考え、暇な時はもういないあの子に思い馳せ、思い出ばかりを振り返る寂しい夜を少なくとも既に半年は繰り返している。

 もちろん例に漏れずGWも気の抜けた炭酸ジュースのように味気のない退屈な休日として過ごしてしまった悲しきオタク、それがこの自分。葛木春矢である。

 僭越ながら自己紹介だけでもしておくと、身長体重どちらも標準。顔も普通。性格も可もなく不可もなく。出自も大学が通わさせてくれるぐらいの中流家庭。

 高校時代に「アニメのモブで出てきそう」「平均点ぴったしの顔」「いい印象も悪い印象も残らない感じ」 と、どちらかと言ったら悪口に分類されるような評価を頂いたぐらい、とにかく普通の大学生である。

 唯一特徴を挙げるとするなら母親譲りの柔らかい茶髪ぐらいしかないが、こちらは頭髪検査の度にあらぬ疑いを掛けられ続けたのであまりいい思い出はない。


 ―自己紹介終わり。


 少々話が逸れたが、特筆することのない自堕落なGWを過ごした訳だが、それでもやっぱりいつも通りの日常に戻るのは億劫なのだ。

 兎にも角にも足取りが重い。自宅から大学まで歩いていける距離だが、とんでもなく遠く感じるのだ。

 五月のからっと晴れた青空すら少しうざったく感じてしまうし、照りつける日光もお断りしたいぐらいだ。何より目に嫌でも入るイケイケ男子大生ときゃぴきゃぴ女子大生が目に毒すぎる。大学へ向かう足取りは五月の陽気とは不相応なくらい重く、まだ大学生の空気を纏いきれていない新入生たちとは対照的なものであった。

 一つため息をつき鉛のような足を持ち上げては前へ進める動作を繰り返していると、

「おぉぉぉい!春矢ぁぁぁ!」

 いかにも今を楽しんでいます!といった元気な声が聞こえ、振り返ると爽やかスマイルでこちらに駆けてくる青年がいた。

「あぁ。なんか元気の押し売りでもしてんのかと思ったらお前かよ」

「おいおい!こんなに晴れてんのにそんな暗い顔してどうしたんだよ?」

 ―こちとらずっと心は雨模様だっつーの。

「お前の元気が今は羨ましくて仕方がないよ…」

 小走りでこちらに来て、肩を組んだのは大学のオタク友達の渡会咲人であった。

 彼は大学入学直後SNSを通じて仲良くなり、今ではオタク飲み会を毎週のようにする自分の数少ない大学での友人であり親友である。

 小学生にして深夜アニメの評論を掲示板に書き込んでいたという根っからのオタクなのに、180 cm近くあるスラッとした背丈に、その気になればイケメン俳優としても食っていけるぐらいの整った顔面、それでいて運動神経バツグンで、学力も特待生として入学できるくらい優秀で、朗らかで誰とも別け隔てなく接する絵に描いたような好青年。マジでなんなんだよ中学生が考えたキャラ設定かよ。

「いい加減、そろそろ新しい推しを見つけようぜ?そうやって悲しそうな顔してたらリズムちゃんも悲しむぞ?」

 ばしばしと春矢の背中を叩きながら言う。

 ―今日もその爽やかスマイルを見て、恋に落ちている女子大生がいることを自覚してほしい。

「そうすぐに新しい推しなんて探せねえよ…。リズムちゃんは俺の生きる意味だったんだよ…。毎日配信を楽しみにて、祝い事があったらお祝いスパチャして、極稀に出るグッズは全部買って、俺の生活全部捧げてきたのに…。おいそれと忘れられるわけねぇだろ」

 再び、ため息が路上にこぼれ落ちる。

 ―リズムちゃんというのは、大手配信サイトWe tubeにて自分の顔の動きとイラストが連動する2Dモーション技術を用いて、配信活動する「Virtual Wetuber」略して「VTuber」の一人で、自分の最推し〝だった〟魔ノ宮リズムのことである。

 VTuber自体三年ほど前からブームに火がつき、大手の中にはすでにチャンネル登録者百万人突破しているチャンネルもあり、大規模なライブイベントや大企業とのタイアップ、地上波出演など、今ではオタクカルチャーの最前線と言っていいほど一大コンテンツである。

 そして春矢が一番推していた「魔ノ宮リズム」は国内四本の指には入る超大手Vtuber事務所の「インテグリアル」に所属のゲーム実況を中心に活動していたVTuberであった。

 「さぁ!刮目せよ!私達の時間だ!」でお馴染みの彼女は、魔界の由緒正しい貴族「魔ノ宮」家の令嬢で麗しく紺色のきらびやかなドレスを身に纏い、爽やかな青色の瞳に、淡い金色の髪、凛々しい顔立ちながらもカラカラと笑う女の子で、その愛らしい容姿と天性のゲームセンス、そして快闊なトーク力も相まって男女問わずファンは多く、業界内でもかなりの数字を持っている大手Vtuberだった。

―ただ、既にお察しの通りだが〝だった〟とあるように彼女はもう既に引退している。

 一年ほど前、一週間ほど配信をお休みしたのを境に活動頻度が少しずつ落ち、公式配信やオフイベントへの出演回数も減っていき、その後もグッズも出ず、3Dモデルのお披露目もなく、掲示板やSNSでは引退するのでは?とまことしやかに噂されていた中、十二月をもって引退を発表。


 そしてファンに見送られて彼女の活動は幕を閉じた。

 それから半年。正直、未だに飲み込めていない。

 配信が三度の飯よりも大好きで、平均配信時間はおよそ十時間超えの配信モンスターとして有名で活動三年目の記念配信で「一生配信者として生きてたい」と言っていたぐらいの彼女が何故突然、配信しなくなり引退までしてしまったのか謎に包まれている。

 掲示板では「どうせ彼氏に辞めろって言われたんだろwww」とか「結婚でもしたんじゃねwww」と心のない書き込みが目立っていたが、どうもそんな感じとは思えないのだ。「新しい挑戦がしたい!」と発表時には言っていたが、それも本心に感じられず、未だに引退理由について考察するスレが定期的に立てられているぐらいだった。

 ―今もどうしてなのか俺は知りたい。

「まあまあ、そんな辛気臭い顔すんなって!まあそろそろ新しい推しを探そうぜ?俺の最推しの月ノ瀬ちゃんを一緒に推さねえか?」

 最近、染めたばかりの赤メッシュの入った前髪をさっと分けながら布教活動に入ってくる咲人。

「咲人が好きなのはASMR系だろ?布教なら他を当たってくれ」

 ―残念ながらASMR系は趣味ではない。耳がムズムズしてどうも苦手なのだ。

「じゃあ彼女でもつくるか?俺は今まで面倒くさくて断り続けたから恋愛相談は厳しいけど、サポートなら任せとけ」

 と、咲人は青空をビシッと指さしながら言う。

 ―こう言っているが、彼なりに慰めようとしてくれているのが伝わってきて申し訳なくなる。

 というか「今まで面倒くさくて断り続けた」という咲人の言葉は聴き逃がせないが、今日のところはその優しさに免じて無罪放免とす。

 だがそれとこれとは話が別だ。

「残念ながら恋人にしたい人はもうすでにいますぅー」とそっぽ向きながら返す。

推しが彼女だったら。と妄想するオタクは数多い。かくいう春矢もその一人だが。

「でもその人はすでに卒業してますけどね」

「うるせえ。リズムちゃんはいつか俺のところに来てくれんだよ」

「夢物語は夢の中で見てもらって。まあ今日も推しについて語りながらトコトン飲み明かそうじゃないか!」

「ったく、俺は明日二限からだぞ…教授怖いから休みたくないんだが。それに課題提出もあるし」

 こいつと飲むといつも潰れるのは自分だ。おまけに飲んだ次の日はいつだって二日酔いに悩まされるのも自分だ。

「っしゃ!んじゃ授業終わったら買い出ししてくるわ!場所はもちろん春矢の家な!」 

 そういって了承を取ることなく咲人は足早に大学へ小走りで向かっていった。

 他の同級生にも挨拶しながら走り去っていく彼の後ろ姿を見て三度、ため息をつく。


 ―二日酔い対策ドリンク、また買わないとな…。


 その夜のオタク飲み会はいつにも増してお酒を飲んだ気がする。ものすごく後悔。



  ◇



 頭を劈く痛みで目を覚ます。

カーテンから射し込む朝日におもわず目を細める。昔から朝は苦手だ。部屋を見回すと咲人の姿はとっくになく机の上には「先に帰るわ!」と書き置きが一枚。

 このご時世、チャットアプリでなく書き置きというのはなんとも古典的ではあるが、どうやら自分が起きる前に家に帰ったようだ。

傍らに置いてあったペットボトルを手に取り、水を口に含む。我が家はこの銘柄の水はない。どうやら帰る前にわざわざ自分のためにコンビニで買ってきてくれたらしい。どこまでも優しくてかっこいいやつだ。

「今日は火曜日だから燃えるゴミの日…そんで授業は二限からか…」

 ―回収の時間に遅れてゴミとの共同生活がもう一週増えるのはごめんだ。

 まだ覚醒しきってない脳みそをなんとか動かして起き上がる。部屋に散らかる宴の跡を片付け、寝ぼけ眼をこすりながらゴミ袋を両手に持つ。

「えーと、鍵カギ…っと」と玄関の棚の上から鍵を手に取り、外へ出る。両親が共働きで昔から鍵っ子だったから、どんなに近くでも家を出る時は戸締りをしっかりする癖がついている。

 リズムちゃんのラバーストラップのついた鍵をズボンのポケットに雑に入れ、カツカツと階段を降りてゴミ捨て場へ。ちなみにこのラバストはチャンネル登録者千人突破記念の限定品だ。

「なんか今日、ゴミが少ないな」

 いつもゴミ捨て場の一角を占拠するダンボールの山があるはずなのに、今日に限って姿形もなかった。どうやらみんな今日が燃えるゴミの日なのを忘れてしまっているみたいだ。

「さて授業に行くかぁ」欠伸をふわりとしてアパートまで戻ると隣の部屋のドアが開く音。どうやらお隣さんもちょうどゴミ出しのタイミングだったらしい。

 ―そういやお隣さんってどんな人か知らないな。

 このアパートに住み始めて一年経つが、未だに隣の人がどんな人なのか知らなかった。そもそも住みだして最初の三ヶ月、ずっと空き部屋だと思っており、郵便受けから吐き出された郵便物と置き配の存在で空き部屋でないことを知ったぐらいだった。

 防音性能に優れた住居のため、隣から話し声が聞こえてこないのもあって、男か女どっちなのかすらも分からない謎の住民だった。

 なんて考えているとドアからごみ袋を抱えた見知らぬ女の子が現れた。

 ―へぇ。女の子だったんだ。同級生なのかな。

 身長は160 cmぐらいだがひどい猫背で、雪のように真っ白な肌に眠たげな目の下には真っ黒な隈、ボッサボサで寝癖だらけではあるが艷やかで日差しが当たるとキラキラと光る白い髪、ストーンとまっ平らな胸元には「貧乳はステータスです!」と書いてあるヨレヨレな大きめの白いTシャツを着ていて、両手に詰まりに詰まったゴミ袋を持ち、気怠げさが全身から滲み出ている。

 一年以上住んでいてまさか新発見があるんだなあ…と彼女をなんとなく見ていると、流石に不審に感じたのだろう。おずおずと女の子はこちらに警戒しながら口を開いた。

「あ、あの…なんか用ですか?」


 その声を聞いた瞬間だった。

 眠気はすべて飛び去り、目が覚める。そして自分の脳内アーカイブが叫ぶ。この声は2020年7月13日配信タイトル【飲酒配信】久しぶりにお酒飲みながらビスケット消化する~【魔ノ宮リズム/インテグリアル】の2:47:56頃。お酒に弱いにも関わらずに飲酒配信を敢行し、寝落ちしかけたタイミングで配信に来た同期の子からのコメントに返した時に発した声とほぼ同じだと。

 衝撃が全身を貫く。

 何百何千時間と聴いた声だ、間違えるはずなんてない。

 いやここまで似ている人がこの世界に存在するだろうか。

 別にリズムちゃんは特徴的な声ではないが、ここまで酷似しているとは。

 驚き立ちすくんでいると、目の前の女の子はその場から逃げるようにゴミ捨て場へ。

 そして配信アーカイブを確認しようと出したスマホに映る「12:30」の文字を見て再度驚くのに、数秒もかからなかった。



  ◇



「―んで一体全体なにがあったんだよ。こちとら休日を思う存分楽しんでいたんだぞ」

「だから!リズムちゃんが俺の隣に住んでいたんだよ!」

 何回も確認して疑惑が確信に変わった時、春矢は咲人に電話をかけていた。

「あーはいはい。寝言は寝て言えってさっきまで寝てた俺からのメッセージです。もう寝ていいか?」

「寝言じゃねえって!マジなんだよ!本当にリズムちゃんなんだってば!かくかくしかじか…」

 こうして興奮冷めやらぬまま数分前のことを説明したが、電話越しの彼から返されたのは懐疑的な相槌だけだった。

「春矢の言うそのお隣さんがリズムちゃんだって言いたいのか?いくらなんでも声が似てる人間なんてこの世界のどっかにはいそうだけどな」

「これは大マジのマジだぜ。いいだろう。俺は実家の犬の魂も賭けよう」

「春矢のしょうもない賭けに魂が使われるワンちゃんが可哀想でしかたないよ。そこまで言うんだったら今度、ちゃんと確かめればいいんじゃないか?」

「推しのプライベートに顔を突っ込むのはTOとしてどうかと思うが…」

 TOとはTOP OTAKUの略称で、その界隈で一際目立つトップオタクのことを指す。

 かくいう春矢は自他共に認めるリズムちゃんのTO「すぷりんぐ。」として界隈ではそこそこ有名であった。

「でも本音は知りたいんだろ?」

「まあそうだけど…」ゴクリと生唾を飲み込む。

「なんなら仲良くなれたらいいなって考えてるんだろ?」

「ま、まあそうだけど…」ゴクリゴクリと生唾をまた飲み込む。

「そしてゆくゆくは付き合えたらな~~~なんて考えちゃってるんんだろ?」

「それは高望みがすぎるだろ!」

 思った三倍大きな声が出てしまい、電話越しの咲人にごめん。と謝る。

「…まあ兎にも角にも話は決まりだ。とりあえずさっさとそのお隣さんにでも話しかけることだな。俺はもう一度シエスタを楽しませてもらうよ。女の子の接し方については花宮に聞けばいいだろ。それでは健闘を祈る」

「っておい!勝手に切るなって!そもそもなんて…」

 話しかければいいんだよ。と言い切る前に電話は切られていた。

「花宮に聞けって…アイツは頼りないだろ…」

 花宮というのは同じく学部の花宮雛のことで、Vtuber繋がりで仲良くなり、咲人と共にオタク活動を日々勤しむ春矢にとって数少ない女友達である。ちなみに推しはイケボ系の男性Vtuberではなく、ロリボイスの幼女系Vtuber。筋金入りの日曜の女児向けアニメを毎週涙しながら見るロリコンオタクだ。そんな彼女に電話をかけようとしたが、彼女は電話を苦手としているのを思い出しゲーマー御用達の青紫色アイコンのチャットアプリを立ち上げる。


『ふな、起きてるか?相談したいことがあるんだけど』


 ふな というのは花宮のことだ。なんでも「はな」みや「ひな」だから次は「ふな」でしょ。とつけたらしい。あまりにも適当がすぎる。

 画面を見つめ返信を待つが返信は来ない。というかオンライン表示ですらない。

 花宮は趣味のアニメ鑑賞のために夜遅く、というか朝まで起きているため基本的に昼過ぎ、酷い時は夕方まで寝てることが多い。チャットの返信が遅いどころか気づかないこともザラである。送ったところで返信が来ないことは想定済み。

 画面から目を離しどう話しかけるか思索しはじめるとピコン!っと通知音が鳴る。


『なんすか?すぷさんが相談なんて珍しいじゃないっすか〜』

『お前がこの時間起きてるなんて珍しいな?健康にでも目覚めたのか?』


 お前も夜更かし族だろ。と自分にツッコミながら返す。


『いや、今から寝るところっすね〜』

『生活リズムどうなってんだよ…』

『今期のアニメの一話一気見してたらこの時間っすよ~。てか今期めっちゃ豊作っすよ!なんて言ってもあの「ごちラビ」の三期が来るっすからね~!』

『今期のアニメまだチェックしてねえわ…んじゃなくて!相談したいことがあるんだよ!』


 あやうく脱線しかけた。コイツ、リアルで話す時はおどおどしてるくせに、チャットになると饒舌になるんだよな…。花宮は所謂ネット弁慶というやつでトゥイッターでもその弁慶っぷりはいかんなく発揮されており、界隈でも有名なトゥイ廃だった。

 このことはトゥイートすんなよ。と釘を差しつつ事のあらましを花宮に説明した。

 途中『まさにラブコメだ!』『それなんていう同人誌ですか?』『これは運命っすよ!』とちゃちゃが入ったが最終的には、

『普通にお隣さんからいきなりVtuberの〇〇ちゃんですか?って聞かれたら通報しません?』

 と至極全うな意見を頂戴した。

 うん。自分も同感だ。


 しかし、やはりどうしても気になってしまうのがオタク、いや人間の性である。

 それがただの有名人ではなくて、自分の推しとなると尚更だ。

 自分がずっと配信を見ている時、隣で配信をしていたのだ。

 ―寧ろ何故、今日まで気づかなかったのか不思議なくらいだった。

 アパートの防音性能の高さと日中寝て夜中活動する行動時間のズレが要因だと思うが、それにしても少なくとも一年は住んでいたら気付く要素ぐらいあってもおかしくないだろう。自分の鈍感っぷりに思わずため息が出てしまう。

 ぼんやりと天井を見つめながら、彼女のことを思い出す。

 ―リズムちゃん、中の人も可愛いんだ…。

 寝癖と目元の隈が酷かったが、パッと見でも目を引く可憐さが確かにあった。猫背ではあったが背も高く、スラリと伸びた白い脚、ぼさぼさであるが透き通る白髪。同じ事務所のVtuberたちからも「オフでもめちゃめちゃ可愛い」と絶賛されていただけはある。

 ―やはり、心が可愛い女は、外見も可愛い論は正しいようだ。

 腕を組んでは解き、組んでは解きを繰り返しながら。あれやこれやと思索する。

 リズムちゃんなのか調べて何になるのかと言われたらきっと何もないのだろう。推しに近づきたいとか、推しの知らない一面を見てみたいといった欲望も確かにあった。

 もしかしたら親しくなれるかもしれない。その先だって可能性は0ではない…と邪念すらも過った。

 ただそれよりも似て非なる存在、リズムちゃんであってリズムちゃんではない。精神は同じだが魂と宿す器だけ異なる存在。

 そんな彼女に単純に興味が湧いた。というのが一番の感情であった。

 オタクと推しが繋がるなんて…苦い顔していたオタク時代の自分はもういない。この壁を隔てて存在しているのは一人の元Vtuberと一人の元オタク。

 そして今の自分はオタクではない。だから声をかけるのは問題ないことなのだ。むしろお隣さんにご挨拶しないなんて非常識にも程がある。と自分の思考を正論に仕立て上げていく。

 さてこれでお隣に話しかける口実、もとい理論武装は完了した。回りくどいように感じるがオタクにとって大事なことなのだ。と、なると今度はどうやって話しかけるか。が問題になる。いきなりピンポンして「魔ノ宮リズムさんですか?」って聞いた日にはストーカー容疑をかけられ通報はまず免れないだろう。

 しかも相手は一年間隣に住んでおきながら、さっき初めて顔を合わしたということは日頃外に出る機会はかなり少ない、もしくは活動サイクルがズレているかのどちらかということになる。これだと外でバッタリ会っちゃいました!みたいなのも想像し難い。

 考えれば考えるほど犯罪臭が増していく。なにかスマートな方法はないものか。

「なにか…切っ掛けさえあれば…。だーーーーっ!ダメだ!思いつかねーっ!」

ぐしぐしと頭を掻き、オーバーヒート直前の頭を冷やすべく窓をガラガラと開ける。

 そのとき、初夏の悪戯な風が東から西へとベランダを駆け抜けていった。

 

 ―切っ掛けなんて想像もしていないところからやってくるものだとこの時知った。



  ◇



 ここで一度、春矢が住むアパート「ひいらぎ荘」について話しておく必要がある。

 「ひいらぎ荘」は二階建てで一階二階にそれぞれ三部屋ずつ合計六部屋のワンルームアパートで、元は築五十年のボロアパートで金無し大学生の寝床だ、なんて言われてた物件を現在の大家が数年前にリフォームを行い、今では近所の大学生から人気の物件となったアパートである。

 それもそのはずでお手頃な家賃に対して日当たりもよく、キレイなキッチンと使いやすい収納、もちろんトイレと風呂は別で、さらに小さめではあるがベランダもあり、そして異常に整ったネット環境があるという良条件を超えた物件。

 また大学とからの距離も近く徒歩五分圏内にコンビニとスーパーがあり、自転車を少し転がせば駅前の商店街と、生活には困らない上にアパートの周りにはちょっとした木立が並び、落ち着いた立地でもあるのが特徴でもある。

 なんでも大家の姪っ子がここに住むことになった際に、姪っ子のためなら。ということで大リフォームしたとのこと。姪っ子さんグッジョブがすぎる。

 そんな最高物件「ひいらぎ荘」の一階の三部屋には、大学ラグビー部に所属している男子大学生たちが住んでいる。筋骨隆々な彼らは日々部活に明け暮れており、毎日必ず夕方になると外でトレーニングし始めるので、住み始めた頃は正直怖かったが、今では挨拶する程度の仲である。(これでも頑張った方だ。筋肉怖い。)

 そして二階の真ん中二○二号室に住むのが自分。でその隣、西側に位置する二○三号室は大家曰く事情があり現在空室らしい。同じく隣の東側に位置する二○一号室は今まで静かな人が住んでいると思っていたが、件の彼女が住む部屋とついさっき判明した。

 さてここでなぜここまで丁寧にアパート紹介なんてしたか?

「東から西」へとベランダを駆け抜けていった風がもたらしたものが原因である。


 それはそれは綺麗な黒の女性用下着が風と踊りながらベランダに舞い降りてきたのだった。


 ―見間違いか?

 じっとベランダの一点を見つめる。

 きめ細かなレース、すべすべとしたシルク素材、陽光に照らされ神秘的に煌めく特徴的な逆三角形のフォルム、妖艶な雰囲気を纏う黒、何度見ても女性用の下着だった。

 ―見間違いじゃないらしい。


 ―じゃあ夢じゃないか?

 一度、目を瞑る。再び開けると黒の布はまだそこにあった。

 ―夢じゃないらしい。


 一旦、事態を把握するためにドキドキと高鳴る胸の鼓動を抑え、思考を巡らせる。

 下の階に住むのは全員男子大学生。

 そして西側の部屋は空室。

 風は東から西側へと吹いてきた。

 これらの要素から導き出される結論に至るまで、春矢の脳内コンピューターは一秒もかからなかった。

 ―この黒の女性用の下着、いや黒のパンツは件の彼女のものであると。

 意を決しベランダの窓を開き、舞い落ちてきた下着を恐る恐る摘み上げる。

 光沢のある黒にシンプルではあるが、レースが所々に施されており、さらさらとしたシルク生地の手触りがとても良い、まさに男が理想とする黒いパンツであった。

 彼女は普段これを身に着けているのか。と邪な妄想が一瞬、脳裏を過ぎる。

身に残る理性でそれを振払いその先を考えないように努める。一応、元推しかもしれないのだ。推しには清廉潔白でありたい。そう思うのが春矢のオタクマインドである。

 ―となると流石にこのまま預かっているのも問題だな。

 とかぶりを振り冷静ぶってみるが、高鳴る胸の鼓動を誤魔化せないのは事実だった。


 そんなわけで思わぬ形ではあるが切っ掛け自体は出来たのであった。

 話題が黒のパンツだという点に目を瞑れば千載一遇の好機だ。これを逃す手はない。

 善は急げ、思い立ったが吉日、命短し恋せよ乙女、自分のスローガン三点セットを胸に廊下へと飛び出し、お隣の二○一号室の前へ。

 小さい頃、友達の家のインターホンを押す時やけに緊張していたのを覚えている。

 インターホンに応じてドアから出てきたのが見知った友達の顔でなく、友達の父親だった時、唇が乾いて用件を伝えられずそのまま走って帰ってしまったこともあった。

 あれから十年近くたった今、まさかまたインターホンを押すのに緊張するとは。

 恐らくだが、この緊張はインターホンを押すことだけが由来でないことは確かだが。

 緊張をほぐすまでに数分。

 話す内容を考えるのに数分。

 やっぱり返さずに自分の物にしてしまおうか葛藤するのにもう数分。

 流石にそれは下着泥棒と変わらないと己を律するのにさらに数分。

 再度、緊張をほぐすためにもうさらに数分。

 ドア前で呼吸を落ち着かせて大きく一息、覚悟は決まった。


 ピンポーン。


 静寂なアパートの廊下をインターホンの音が響き渡る。

 しかし反応する音はなく、静寂に再び包まれたのであった。二度三度とインターホンを鳴らすが反応がない。

 さっきまであんなに緊張していたのが嘘のように気づけば何度も押していた。

「―あの、私の部屋になにか用があり…」と後方から声が途切れ、ドサッとビニール袋に入った荷物が落ちる音がする。

 声と音の方へ首を傾けるとそこには、片手に自分のパンツを持った男を唖然とした表情で見つめる女の子がいた。

 ―ちなみにその男とは自分のことだ。

 目と目が合った数秒後。女の子の顔は真っ赤になり、彼女の拳は自分の頬を貫く。体を大きく吹っ飛ばされ廊下に倒れゆく瞬間、綺麗な太ももの先、大きめのTシャツの中がチラリと見える。

 ―なんだちゃんと短パン履いてんじゃん。

 と少し残念に思いながら意識は白く薄れていった。



  ◇



 頬を劈く痛みで目を覚ます。

 昼もどこかしらが痛くて目覚めたことを思い出す。

 カーテンの隙間から朱色に染まった光がぼんやりと部屋全体を満たしていた。

 どうやらいつの間にかすっかり自分の部屋の床で寝ていたらしい。

 ズキズキと痛む頬を手で抑えながら体を起こした。

「あ、ようやく起きた!よかった~」

 声のする方へと視線を向けるとそこには意識を飛ばした女の子が正座していた。

 絡み合う視線、二人の間に沈黙が流れる。

 ようやく事態を把握し気がつけば「ほえ?」と間抜けな声が出ていた。


「―いやさっきはごめんね~。まさか自分の部屋の前に自分のパンツを持った男がウロチョロしてる経験なんて今までなかったからさ。下着泥棒が己の罪の重さを自覚して返却しに来たんだと勘違いしちゃって…。気がついた時には手が出ていたよね」

「こ、こちらこそ驚かせちゃってすみません。ぜ、全然痛くないので大丈夫です!」

 まったくの嘘だ。今も滅茶苦茶痛い。

「それにしても愉快な飛びっぷりだったね。あとTシャツの下はショーパン履いてたからね?見えるかもって一瞬期待させちゃってごめんね~」

 心でも読まれてるのか?と思いながらハハハと愛想笑いを返す。

 恐らくなにかしらの武道を嗜んでいないとあの威力は出せない。その思わせるくらいには痛かった。

「そのまま気失っちゃって、流石に私の部屋に入れるわけにはいかなかったから鍵借りて君の部屋に運んじゃった。勝手に鍵使ってごめんね」

 ようやく頭の中がしゃっきりとしてきた。

 どうやら自分は下着泥棒に間違えられて一撃をくらいそのままKO。そして部屋に運び込まれたようだ。

 ―女の子に自分の部屋まで運ばれるだなんて恥ずかしい…。

「あ。一応、部屋の物は何も触ってないから安心して。通帳とか絶対に触ってないからね」

 ―むしろそう言われると触ったんじゃないかと疑いが強まってしまうのだが…

「それにしてもほんとにごめんね。気絶するだなんて思ってなくて」

 目の前に座る件の女性は申し訳なさそうに手を顔の前で合わせながら言う。

 改めて近くで見ると眠たそうではあるが吸い込まれそうなくらい澄んだ亜麻色の瞳に長く艷やかな睫毛、瑞々しい淡い桃色の唇、かなり整った顔立ちをしているのがわかる。但し残念なことに昼間に見た時と変わらずの姿で隈や寝癖が目立っているのだが。

 ―ただそれを差し引いても、めちゃくちゃに可愛い。

「わざわざ恥ずかしいかもしれないのにありがとうね。大体の男の子ならこういうのはそっとポストに入れて返すか、そのままこっそり自分のものにしてしまうと思っていたけど、まさか直接返しに来るだなんて」

 ほんとビックリしたよー、と言いつつ机の上のパンツをパーカーのポケットに雑にしまう。

「ま、まさかそのまま盗んじゃうなんて少しも考えませんでしたし、すぐ返そうと思いましたよ」

 そのままこっそり自分のものにしてしまう、という言葉につい反応してしまう。

「本音は?」

 フッと微笑みを浮かべながらこちらを見る。流石に嘘はつけないようだ。

「ちょっと自分の物にしようと考えました…」

 自らの邪な考えを正直自白すると、目の前の彼女はコロコロと笑いながら、

「まさか正直に言うだなんて!君、面白いね!」

 褒められているのか褒められていないのかよくわからないが、可憐な笑顔が頂けただけ有り難いとしよう。

「あ、ちなみにそのパンツは昨日のものだよ」

「!?」

 吃驚仰天な情報を提供されフリーズする春矢を見て、また彼女はコロコロと笑う。

 ひとしきり笑い、ようやく落ち着いた彼女がコホンと咳払いをして言う。

「そういや自己紹介がまだだったね。私は鷹谷白葉。鷹揚の『たか』に、峡谷の『や』、白夜の『しら』、葉緑素の『は』で鷹谷白葉。覚えやすいでしょう?」

 鷹の『たか』、渋谷の『や』、白鷺の『しら』、葉っぱの『は』ではダメなのか?という疑問が湧き上がるが、態々言及する必要はないだろうと喉元で留めた。

「えと、俺は葛木春哉です。葛切りの『くず』に、木々の『き』、春雨の『はる』、弓矢の『や』で葛木春矢です」

「春矢くんって言うんだ、じゃあ春矢って呼んでいい?私のことは白葉って呼んでいいから」

 ―とんでもないスピードで距離を縮めてくるじゃないか。

 今まで経験したことのない距離感の詰め方にドギマギしてしまう。女の子ってみんなこんな感じなの?

「春矢は彩央大学の学生なんだよね?去年の春に引っ越しがあった気がするから…。今は二年生?」

 まだ心の準備ができてないのに、下の名前呼びされて心臓の鼓動が高鳴る。

「せ、成績は終わってますが、ギリギリ二年生になれました」

 春矢の成績はボロカスではあったが、咲人の情報収集と追試対策講座のおかげでなんとか進級できた。

 ちなみに咲人は。というと後期試験の間に推しのライブに行ってたにも関わらず、ほぼ全ての授業でS評価という超人っぷりを見せつけてきた。

 顔がいいにも飽き足らず、頭までいいとはなんとも腹立たしいやつである。

「し、白葉さんもここに住んでいるってことは同じ大学ですよね?今、何年生なんですか?」

 上昇する心拍数を悟られぬよう声を張りながら話題を逸らす。

 問いかけに対し、白葉さんはフッと軽く息を吐き、口を開く。

「私の学年なんてどうだっていいのよ。唐揚げにレモンを最初にかけるか否かの話と同じくらいどうでもいい」

 と肩をすくめながらそう語る白葉さんの目にはどこか諦めを感じるものがあった。

 ―というか唐揚げレモン問題に関しては割と重要な議題ではあると思うが。

「あと白葉さんじゃなくて白葉って呼んで。私のパンツを見た仲でしょ?」

 ―パンツを見たら下の名前呼びしていいのか?女の子はイマイチわからないものだ。

「し、白葉……さん…」

 頑張って呼び捨てにしてみたが、どうしても気恥ずかしさが勝ってしまい掠れるように「さん」をつけてしまった。

 それを聞いた白葉さんはぷはーっと笑いながら、

「慣れるまではさん付けで構わないから!頑張った感は十分伝わったから!」

 さて、ここまで白葉さんと少し言葉を交わして感じたことがある。

 ―本当にこの人はリズムちゃんなんだろうか、と。

 声は確かに似ている。ただリズムちゃんはこんなに適当なことを言わない。

 彼女の言動は常に凛としていて女性リスナーからも憧れの女性ってコメントされることも多かったのに…。

 ―やはり他人の空似だったのだろうか。

 でも気が抜けた時の発言はこんな感じだったような気がしなくもないのだが…。

 ―うーん。考えているうちにわからなくなってしまった。

 とりあえず一旦、咲人にはお昼寝の邪魔をして悪かったと後で謝っておくか。

「んじゃ!春矢も起きたし、パンツも返してもらったし、帰ろっかな!」

 立ち上がった白葉さんがうぐーーーっと背伸びして言う。

 シャツの裾から覗く白いお腹がなんとも官能的で思わず目を逸らす。

「い、色々とお騒がせしてしまってすみませんでした…」

「いやいや~!こちらこそ楽しかったか………。」

 言葉の端が不自然な位置で止まる。

 彼女の視線の先を追えば、そこにはリズムちゃんのラバストがついた鍵が。どうやら起き上がったときにポケットから落としていたらしい。

「え…なんでそれを…?」

 震える声の主を見れば、瞳には動揺が浮かんでいた。さっきまでと表情が一転して、肩を震わせている彼女。

 ―刹那、困惑しきった互いの視線が絡み合う。

「え、あ、これは俺の推しのリズムちゃんの―」

「も、も、もしかして私が魔ノ宮リズムってこと知ってるの?」

 驚きと困惑と畏怖が入り混じった表情で彼女はそう言ったのであった。


 想定外の反応に静止する世界。

「え?ほ、本当にリズムちゃんなんですか?」

「え?な、なんで私が魔ノ宮リズムってこと知ってるの?」

 あからさまに様子がおかしい白葉さんを見て、再度同じ質問を返す。

「ええ?ほ、本当に?リズムちゃん…なの?」

「ええ?な、なんで?なんで私が魔ノ宮リズムってこと知ってるの?」

 互いに壊れた機械のように同じセリフを返し合う。

 ―でもやはり、自分の直感は間違っていなかった。

 直感と理性が絡み合って上手く言葉が出ない。沈黙が二人の間を流れる。

「え、えーと嘘じゃないですよね?」

 驚きよりも疑問多めの声色で尋ねる。

 同棲生活ボイスを買って、推しとの同棲生活を妄想していたといえど、まさか推しが隣の部屋に住んでいるだなんて想像しえないことだからだ。

 でも今、眼前にいる女の子が推しであることが彼女の発言から確定してしまった。

「ま、まさか違うよね?そうじゃないよね?そうだよね…?」

 その眼前の女の子は異常な慌てっぷりというか、寧ろ肩を縮こませ怯えているようだった。

「え、えとたまたま声が似ていて~もしかしたらそうなのかな~って思ったんですけど…あ、決してストーカーとかそういうのじゃなくて本当に本当に偶々、隣に住んでいただけです!」

 なんで自分も焦ってるんだと内心思いながら必死に弁解する。

 こういう時はろくろを回すジェスチャーをしながら話すと説得力が上がるとエンジニア界隈では有名な話である。

 もちろん、自分もそれに習って必死こいて虚空をこねくり回す。ストーカー疑惑なんて向けられ、通報されたら下着泥棒+ストーカー容疑で確実に大学生活おろか人生の終わりだ。

「ほ、本当に違うんです!信じてもらえないと思いますけど、ただの一ファンなだけです!」

 その言葉を聞いた当の本人は肩をカタカタと震わせて、

「本当に…ストーカーとかじゃない…?本当に偶然なんだよね…?」

 ついさっきまでの朗らかな表情が嘘のように怯えながら言葉を紡ぐ。

「本当に偶然です。驚かせちゃってすみませんでした」

「ほ、本当なんだよね…?そ、そういうなら信じるよ…?」

 頭を下げてそう言う春矢の姿を見て安心したのか、彼女は安堵のため息をついた。

 どうやら誤解は解けたみたいだ。

 落ち着きを取り戻した白葉さんはまじまじとこちらを眺めて首を傾げている。

「あれ、もしかして…?うんまさか…でも思い出してみれば…確かに…」

 すっかり安心した彼女は顎に手をあてて、あれでもこれでもないとぶつくさ小声で言いながら考えだす。

少しの間が過ぎて考えがまとまったのか、右手の手のひらに左手の拳を打ち、いいことが閃いたと目を輝かせながら言った。

「一つお願いがあるんだけど―」

「流石にわかってます。誰にもこのことは言いません。身バレはVが一番怖がることですからね」

 身バレは活動者にとってかなりの痛手だ。それもVtuberとなれば重さは段違いだ。

「それはそうなんだけど、別のお願いがあってね…」

 ―ん?それはそうなんだけど?

 何よりも最初に出てくるであろうお願いが、それはそうなんだけどレベル…?

「お、俺で出来ることならなんでも言ってください」

 白葉さんはスッと息を吸い込み、言葉を世界に声として出力する。


「―なら私と付き合ってほしいんだけど」


 ―ん?

 ああ!もちろんいいですよ!と反射的に答えそうになった口は、言葉を理解した脳によって強制的に閉じられ、思い切り舌を噛んでしまう。

 口の中に鉄の味が広がるがそんなことはどうだってよかった。

「…え?白葉さん。今、なんて言いました?」

 彼女の言葉に思わず耳を疑ってしまう。

全くもって彼女の言葉の真意がわからなかった。いくらなんでも脈絡がなさすぎるにも程がある。

 ―身バレから、なんで付き合いましょうと言われなくちゃならないんだ?

「付き合ってほしいと言ったけど?」

 キョトンとした表情で言葉を返されると今度はこっちが言葉に詰まってしまう。

「あ!あれっすよね!買い物に付き合ってほしいんすよね!」

「いや恋人として付き合ってほしいと言ってるんだけど」

「え…?」

 その言葉を聞いて春矢を中心とし、半径五十 cmの時間が止まる。

 ―推しと付き合える。

 オタクからしたらこの上のない喜びではあるが、しかしその手の想像にはちゃんとした経緯が必要なのを春矢はよく知っている。

 推しとの妄想小説に寄せられたコメントに「どのような過程でこの子と付き合えたのかがわからなかったので、感情移入ができず、物語に集中できませんでした」とあったのを目にしたことがある。

 恋は実るまでが一番楽しいというのは流石に言いすぎだとは思うが、付き合うまでの過程を大事にしない恋愛は上手くいかないことぐらいは恋愛経験のない春矢でもわかることだ。

 脳の思考回路はとっくに渋滞しており、会話の先の言葉が一切浮かばない。

「もしかしてもう彼女とかいたりする感じ?」

 ストンとその場に座り、混乱する春矢に尋ねる。

「いえ!人生で一度も彼女なんていたことはありません!」

 背筋をシャキっと伸ばして答える。なんとも悲しい解答内容には眼を瞑ってくれ。

 生まれてこの方、女っ気がないことで家族から心配および笑い者にされてきた。

 特に二つ上の姉と二つ下の妹には「あんたはさっさと彼女連れてきてよ」「まあお兄ちゃんには無理だろうけどね(笑)」と嘲笑われて心苦しい思いをしていた現実を思い出す。なんて悲しいことを言ってんだ…。

「それじゃあ嫌だった?」

「いや!そんなことないです!めっっっちゃ嬉しいです!だけど―」

「だけど?」

「なんで俺なんですか?なにか理由とかあるんですよね?」

 まさか身バレしたことを他人に言いふらさせないための脅しか?

 いや脅しなら此方側にダメージのある条件を提示してくるはずだ。

 付き合ったところで春矢自身にとって損どころか得でしかない。それに秘密にすると言ったとき、白葉さんは「それはそうなんだけど」と言っていた。

 言い方からして黙っていることよりも付き合ってほしいというお願いの方が、重要度が高そうじゃないか。

「理由とか今はいいの。とにかく私と付き合ってほしいの。ダメかな?」

 あれやこれや考えても全く結論がでない。

 しかし彼女の瞳はじっとこちらを見つめてくる。

 実際の時間で言うと数秒にも満たない思考時間ではあったが、春矢にとって数分、数時間にも及ぶ思考時間の後、

「わ、わかりました…」と完全に押しに負けてしまった。

 推しと付き合えるオタクなんて、全世界で探しても指で数えられるぐらいしかいないであろう。事情や理由など一切わからない上に、突然すぎる話ではあったが、日頃の行いと今までのオタク活動が実を結んだ結果だろうと納得することにした。

 ―というかそう納得しないとどうにもならない気がする。

「それじゃあこれからよろしくね。春矢」

「は、はい!白葉さん!」

 安堵の表情を浮かべながら微笑む白葉さんを見ていると事情とか理由とかどうでもよくなってくる。とにかく付き合えたことに感謝。それでいいじゃないか。

 なんてことを考えながら目を閉じて感慨に耽っていると、

「それじゃあ明日のお昼十二時に私の部屋に来て!よろしくね!」

 声と共に颯爽とドアを開ける音がして

「あ、はい!…って白葉さんの部屋!?それってどういう―」

 ことですか?と聞こうとした時には既にドアがバタンと閉まる音がした。

 なにはともあれ、こうして春矢には彼女ができたのであった。



                   2



 窓から差し込んだ穏やかな朝の日差しが春矢の目を覚ます。時刻はまだ朝の八時半、いつもは苦手なはずの朝日も今日はむしろ心地良いまである。

 なにせ今日は白葉の部屋に呼ばれているのだ。脈絡は変わらず不明だが。

 目覚めたら熱めのシャワーを浴び、専門店で購入したコーヒー豆を自分の手で挽いて淹れるのが春矢にとっての最高の休日の朝だ。

 濡れた髪をゴシゴシと適当にタオルで拭きながらキッチンに向かい、棚からコーヒーミルを取り出す。ミルに豆を入れ、ゴリゴリと挽いていくとコーヒー豆の芳醇な香りがキッチン全体に広がり、目覚めたての体を刺激する。

 豆が挽かれる音に耳を澄ませば、誰だって穏やかな気持ちになれると信じている。

 今日の豆はキリマンジャロ、アフリカの傑作とも言われるスッキリとした酸味と重厚感のあるコク、フルーティーで甘酸っぱい香りが特徴の誰でも知ってる銘柄だ。

 お湯が沸いたのでカップに注ぎ、上にソーサーを被せ温めておく。カップの温度はコーヒーの味にも大きく影響する。こういう小さいテクニックの積み重ねが美味しさへ直結するのだ。挽きたて香り豊かな豆をペーパーフィルターに移し、サーバーにセット。上からお湯を少し注ぐ。

 今回は店員さんに深煎にしてもらったので豆自体が持つ華やかで甘めの香りとローストによる香ばしさが相まった強い香りが爆発する。

 さて、ここからコーヒーを淹れる上でもっとも大切な作業、蒸らしに入る。

 二十秒ほど待ち、香りを引き立たせた後、再びお湯を中心からそっと静かに注ぐとフィルターから滴り落ちる艶のある深い黒がポタリポタリとサーバーに溜まっていく。

 温めておいたカップにコーヒーを注げばキリマンジャロコーヒーの完成だ。

 奥ゆかしい黒色の液面を眺めてスゥーっと香りをまず楽しむ。華やかでフルーティーな香りと香ばしい香りがたまらない。

 そして一口飲めばキレのある爽やかな酸味と豊かなで味わい深いコクが口いっぱいに広がり多幸感に包まれる。

「う~ん!やっぱりこの豆にして正解だったな。リピ確定」

 アフリカの大自然に思いを馳せてもう一口飲み優しく息をつく。

 窓を開けて朝の風を全身に受けながら飲むコーヒーは至福の一言に尽きる。

 昨日の夜、白葉さんと付き合うことになったのが嬉しくて仕方なく、小躍りしながら部屋の掃除や洗濯、洗い物、全ての家事を済ませたので約束の時間までなにもやることがなかった。なんなら今日の夕食用に豚ロースを生姜焼きダレに漬け込み冷蔵庫に休ませてあるし、近場のコンビニで少しばかりお金を下ろして外出資金も調達済み。

 ―準備は完璧だ。と悦に浸る。

 PCデスク脇のゲーミングチェアに腰掛け、コーヒーの湯気を燻らせる。

 ―でも自分がリズムちゃんと付き合うだなんて…。

 嬉しさが先行していたが、改めて考え出すと不安が押し寄せてくる。

 勢いでOKしたはいいが冷静になって考えると、とんでもない話ではある。理由もわからない上に、何故自分が。という疑問に、付き合うだなんて自分には土台無理な話なのでは…。とも思う。そもそもこういうのはお互いのことをもっと知ってからじゃないのか…。

 ため息でコーヒーから立ち上る湯気が揺れる。今更、成り行きで了承したことに後悔しても遅いのに…とカップで揺らめく黒い水面には喜びの感情が伺えない男の顔が映っていた。

 ―それに彼女と付き合ったところで、自分は何をしてあげたらいいんだ?

 恋愛経験のない自分からしたら一番の不安要素はそれだった。

 相談するにも彼女がカノジョなため難しいのが一番のネックで、恋愛マスターっぽい咲人にすら頼れないのがより頭を悩ませる。

「…まあ、考えても仕方ないか…。」

 とわからないことに気にしたところで正解は出るわけがない。そう結論をつけ、思索に耽るのをやめる。そしてこういうモヤモヤした感情に包まれた時こそインターネットの情報を浴びまくれば、気持ちも晴れるもんだとトゥイッターを開く。

 何気なくのタイムラインをスクロールし、流れてくる情報を網膜に映す。

 Vtuberのおはようトゥイート、それにおはようと返すリプライ、推しVのイラスト、バズトゥイーヨ、料理動画、ゲームのクリップ…etcエトセトラ。

 パッと目についたのは、有名女性声優のストーカー被害や誹謗中傷被害に対して、事務所側が法的手段に出るといった内容のニュースぐらいで、他は変わらず平和なタイムラインだった。

 朝方のトゥイートは皆大して内容がないので適当に目端に流し、あらかた見終わったところで、春矢もおはよう。とトゥイートする。再び流れてくる文字列を眺めていると、ポツポツといいねとリプライが通知欄に並ぶ。

 一応、この界隈ではそこそこな有名人でフォロワーも一万人超えなのもあり、それなりにはリアクションが返ってくる。それを丁寧に返していくのも朝のルーティーンのひとつだった。

 春矢自身、承認欲求は少ないほうではあるが、共通の趣味を持った友人たちからのリアクションが来ると嬉しいものは嬉しい。

 「今日も頑張りましょうね~」とか「昨日の配信やばかったですよね!」とフォロワー別に返していく。

「あ、珍しく『こばさま』からもリプライ来てんじゃん。朝弱くなかったかコイツ」

 フォロワーの中でも一際存在感を放つフォロワーから『すぷちゃんおはよ!』と顔文字だらけのリプライが来ていた。

 目に入れるだけでも色鮮やかな返信を寄越してきた、『こばさま』はリズムちゃんのオタクNo2で、全盛期はバチバチにTOの座を争っていた謂わばライバルのようなオタクである。

 その過激な発言と高額スパチャ、そして極めつけはリズムちゃんへのおじさんみたいなリプライからついたあだ名は『赤スパ魔王』。

 穏健派の『すぷりんぐ軍』と過激派の『赤スパ魔王軍』とオタク派閥が存在しており、日々どっちのほうが推せているのか、どっちのほうがリズムちゃんから好かれているかなど無意味な争いを繰り広げていた。ただ現在はリズムちゃんの引退をもって和解し、今ではすっかり仲良しのフォロワーさんだ。

 『相変わらずおじさんみたいなリプライすんな。おはよう』と適当に返そうと指を滑らすと、今の状況を相談するならコイツしかいなくないか?と指を止める。

 といっても状況も状況なので、当たり障りの無い会話で。それでいて的確なコメントが欲しい。相反する要素を抱えながら先程の文章を削除し、また画面を指でなぞる。


『おはよう。今日のリズムちゃんが隣に引っ越してくる夢見たんだが、お前だったらどうするよ』

 オタク特有の推しが登場する夢を見たという体で、それとなく相談してみる。程なくして、

『え?ぽれだったら、モチのロンで速攻、愛の告白しちゃうカナ~。ぽまえを愛してるヨってね!てかすぷちゃんそんな夢見れて裏山~!ぽれなら二度寝してもう一度会いに行くけどネ!』

 と相変わらずきっしょいリプライが飛んできた。マジでコイツブロックしよっかな。

 でも図らずとも推しとの恋愛の話になった。この機を逃しては勿体ない。

『本当にお前はキモいなwww でも推しと付き合えると思うか?普通に生活リズム合わなさそうだし…可愛い推しの知られざる一面とか見ちまったら…とか考えたら怖くね?』

『でもぽれしか知らない推しの姿が見れるのは役得でしょ!それに推しとお揃いのシャンプーじゃなくて、推しが使ってるシャンプーで髪を洗えるのはそこんじょそこらのオタクとは格が違うね。』

 と気持ち悪さといつもの一般オタクを下に見た過激発言がミックスされた怪文書が届く。しかも文と文の間にはこれでもかと顔文字絵文字が多用されており、パッと見ても気持ち悪い、しっかり読んでも気持ち悪いという二段構えの文章。こんなものを日々リズムちゃんは日々浴びていたのか…。

 こみ上げてくる吐き気を抑えながら返事を入力していくと、

『でも、ぽれだったら推しのことを絶対に幸せにしてやりたいな。そのためならなんでもしちゃうヨ!』と追加で返信が。

コイツのキモさは天下一品だが、それと同じくらいリズムちゃんのことを愛しているのは自分と変わりない。

 ―なら自分もやることはただひとつなのかもしれない。

 経緯はわからない。不安要素はたくさんある。推しの知られざる一面を垣間見てしまうかもしれない。本当の姿を見て失望してしまうかもしれない。

 それでも彼氏として向き合っていくのが正しい彼氏の姿であろう。

 ―どんなリズムちゃんでも受け入れてみせるぞ。

 決心がついた俺はスマホをベッドに放り投げ、清潔感のある服に着替える。


 もちろん「こばさま。」からの返信は無視した。これ以上あの文章を摂取したアナフィラキシーショックでぶっ倒れそうだからね。



  ◇



 神妙な面持ちで白葉さんの部屋の前に立つ。

 一度息を吸って吐き、恐る恐るインターホンに指を置く。


 ピンポーン!


「………。」

 虚しく響くインターホンの音。それがすぎると再び辺りは静寂に包まれた。

「あ、あれ?白葉さん?白葉さーん?」

 インターホンを続けて鳴らすが全く反応がない。ドアノブに手をかけ捻ると鍵はかかっていない。

―もしや。と嫌な想像が一瞬脳裏を過ぎる。

「…白葉さーん入りますよー」と一声かけ意を決し中に入ると、

「おー春矢かー。おはようー」

 一糸纏わぬ姿の白葉さんが眠たそうに目を擦りながら立っていた。

 白く透き通ったなめらかな肌と控えめな双丘、きゅとしまったボディライン、細身ではあるが女性的なシルエットがカーテン越しの光に照らされて、なんとも官能的な光景であった。

「…わ、わわ!わわわわわわわ!!!!白葉さん!?!?!」

 と思わず目を逸すが、既にこの目にはバッチリと焼き付いて離れない。

 ―見てしまった…。まだ付き合って一日しか経ってないのに、彼女の裸を見てしまった…。こういうのは付き合って二年経ってから!って決めていたのに…。

 と気持ち悪い童貞思考がぐるぐる巡る。

 そんな慌てふためく春矢を見た彼女は、自らの胸元に目を落とす。

「ああ、ごめんごめん。今、上を着る」と部屋にすごすごと戻っていく。

 ―寝ぼけているのか、それとも羞恥心がないのか。どっちなんだ?

「て、てか鍵開いてたんですけど…」

「さっき宅配便が来たからそのときに閉め忘れちゃった」

「まさかその格好で出たんじゃないですよね?」

「ううん?ついさっきまで寝てて、宅配便で起こされちゃって。で受け取ったらもう外が暑くて脱いだって感じ」

 ―流石に成人向けコンテンツによくありがちなシチュエーションではなかった。

「もう着たから大丈夫だよ」

 と言いながら部屋から戻ってきた白葉さんは「モデル体型」と大きくプリントされたビッグサイズのTシャツのみを着ており、シャツの裾からスラリと伸びる白い脚に目が奪われる。

 ―普通にエッッッッなんだが…?と出かけた言葉を飲み込む。

「あのー、一応聞いておきますが、下の方は…」

「自分の部屋なんだし、別によくない?…あれ?もしかして今ドキドキしてる?

 自分のことのように恥ずかしがっている春矢を見て彼女はコロコロと笑う。

 付き合ってほしいとお願いしたときはあんなに顔が真っ赤だったのに、自分の裸体を見られても何も思わない辺り、白葉さんは少しズレているのかもしれない。

「ま、立ち話もなんだしさ。散らかった部屋でごめんだけど入って入って」

「あ、確かにそれもそうですね。じゃあお邪魔しま―」


 ―さてここで少し国語の勉強をするとしよう。

 自分の部屋に友人を招き入れた際にほぼ発せられる言葉「散らかった部屋で~」これは来客に備え、予め部屋の掃除を行い綺麗な状態の上で使用される社交辞令チックな文言である。

 春矢も今までの人生で幾度となく使い使われた言葉であるが、どの場合においてもある程度部屋は片付いていた記憶しかない。


 しかし白葉さんは違った。

 部屋に入るなり目に入ったのは、大量の空き缶とビニール袋とゴミ、脱いでそのままの衣服たちが散乱している踏み場のない床。物で覆われベッドとしての機能を成していないベッド。そして鼻を突くケミカルなエナジードリンクの匂いが部屋中に充満していた。

 と、玄関では逆光で見えていなかったがとんでもない惨状が広がっていた。

 そんな惨状を見て春矢はつい、

「え。汚ったな」と声が漏れていた。



  ◇



「女の子の部屋に向かってそれは酷いよ~」

 プシュ!と軽快な音を立てながらエナドリを開けた惨状の主がフラフラと近づいてくる。酷いのは貴方の部屋の様子ですが…とグッと飲み込む。

「朝はやっぱりこれに限るね~」

 と一口飲んだ彼女は春矢の肩に顎を乗せて、背中に全体重を預ける形でピタリとくっつく。背中から伝わる仄かな温かさと控えめではあるが柔らかな双丘の感触。

「し、白葉さん!その…背中に…当たってます…。」

 エナジードリンクの匂いと女の子の匂いが混じってクラクラしてくる。

「あーこれはこれは失敬。ブラつけてなかったや」

 さっき見てしまった裸体が脳裏に過る。あれが背中に衣服越しと言えど、密着している事実にさらにドキドキしてしまう。

 忘れろ忘れろと頭を振り、眼前の惨状について聞く。

「これ最後に掃除したのいつですか…?」

「う~ん覚えてないかな~記憶力なくてさ~」

「記憶力ないとかそういうレベルじゃないでしょ…」

「いやーこれでも一応ゴミ袋だけでも昨日、捨てたんだけどねー。昔から片付けるのが苦手でね」

「ゴミ袋捨ててこれですか…」

 じゃあ昨日までどんな様子だったんだ…と唖然とする。

 あのリズムちゃんがこんな汚い部屋で生活および配信していたという事実に打ち拉がれそうだ。確かに配信の中で片付けはあまり得意じゃないとは言っていたが、苦手の度合いを越しているレベルだった。

「そ、それじゃあし、失礼します…。」

 恐る恐る部屋に足を踏み入れるとコツンと足先が何かに触れる。見ると白葉さんの手元にもある、緑の顎の絵がデカデカと目立つエナジードリンクの空き缶だった。確かリズムちゃんもこれを一日三缶は飲むって言っていたっけ。

 ―これでリズムちゃんと白葉さんが同一人物なことを再確認したくなかった…。

 改めて部屋を見渡してみると、箱のままでうず高く積まれているダンボールの山、床には散乱した衣服とペットボトルおよびエナドリの缶たち。

 恐らくローテーブルと思しき、それの上にはおびただしい量のコンビニ弁当、冷凍食品、カップ麺、出前の容器たち。ちなみに中身の有無についてはノーコメントとさせていただく。

 唯一整理されていると言えるのは、煌々と七色に光るゲーミングPCとディスプレイが並ぶデスク上のみ。ただし、その周辺をグルリと囲うようにペットボトルとエナドリの缶たちが立ち並んでいるのだが。

「あーそれ気になる?ちょっとお高いPCなんだよ?どのくらいだと思う?」

 薄暗い部屋の中、七色に輝くPCたちを眺めていると横から白葉さんが訪ねてきた。

 他にも聞きたいことは山ほどあるのだが…。と思いつつも返す。

「えーとどのくらいですかね、五十万円ぐらいとかですかね?」

 春矢も一応、ゲーミングPCは持っているので相場ぐらい分かる。大体ちょっとお高いといったらこのへんだろう。

「ブブー!それ百万とちょっとぐらいだよ」

「ひゃ、ひゃく!?」

 想定外の値段だった。いや百万はちょっとお高いの範疇を越している気がするが…。

「正直、オーバースペックなところあるんだけどね~。でもほら、中もキラキラで可愛いでしょ!」

 PC本体側面、中が見えるよう窓付きになっており、各パーツがそれぞれ1680万色の輝きを放っていた。

「うわ、しかも水冷式じゃないですか…?これお高いやつですよね…」

「フフフ…。よく気づいてくれたね。実はこれ完全オーダーメイドで組んでもらった、世界でひとつしかないモデルなんだ!」

 愛しい我が子~とPCを頬ずりしながら自慢気に言う。

 よく見れば各種パーツ、どれも最新のもので揃えられており、その上で扱いの難しい水冷式を組み込んでいるとなると、寧ろ百万でもちょっとお安い気がしてくるが…。

「…さて時に。あ、この時に。っていうのは話題が転ずる時に使う接続詞のことなんだけど」

 ―わざわざ解説までつける必要あるか?と思いつつ頷く。

「春矢をわざわざ呼んだのはワケがあってね…」と、右手と左手をもじもじさせながら言う。

 今のところいい予感は全くしてこない。少なくとも小綺麗な格好と用意した現金は必要ないのがなんとなく伝わってくる。

「…部屋を片付けるの、手伝ってほしいんだ」

 と恥ずかしげに頭をかきながら彼女はそう言った。

 ―やっぱりか…と深めのため息を付きながら「いいですよ」と返すしかなかった。


 それからおよそ二時間、部屋の片付けは難航を極めた。

 まず部屋に転がっている空き缶を全て拾い集め中を洗おうとキッチンに運んだが、予想通りキッチンも地獄の様相を呈していた。最後にいつ使われたのかわからない食器たちが水を張ったシンクの中に鎮座していて、シンク周りにも食器と空き缶が摩天楼のように並んでいた。

 ハァ…と思わずため息が出る。まず最初にここを掃除しないといけないようだ…

「…それじゃあ、自分はまずキッチンの掃除をするんで、白葉さんは手当たり次第ゴミをまとめておいてください」

 りょーかいです!と彼女は意気揚々と敬礼し、各々持ち場へと向かう。

 ―正直、ゴミをまとめるのすらできるか不安であるが、こうもしないと日が暮れてしまう。苦肉の策ではあるが、流石にちゃんとやるだろう。

 と時折、白葉さんの方に目をやりながら、水中で揺蕩う食器たちを引き上げて一つ一つ丁寧にテキパキと洗っていく。

 洗い物するときは洗剤をたっぷり使ってゴシゴシ磨くように洗うよりも、水に曝して浮き上がらさせた汚れを流水の勢いで剥ぎ取るイメージの方が楽だったりする。

 ―数ヶ月前まで洗い物が少し楽しみだったなぁ。

 こうして皿洗いをしているといつもそんなことを思う。

 というのもちょうど夕食を終えて片付けを始めるタイミングでリズムちゃんの配信が始まり、皿洗いをしながらよく見ていたのだ。

 ―一人暮らしにとってちょっと憂鬱な皿洗いも配信見ながらだと億劫でなかったな。

 思えば毎日ずっとリズムちゃんの配信を見ていた気がする。リズムちゃんの配信は基本的にゲームか雑談か歌の三つで、基本的にやりたいことをその時やるというスタンス故に、予定表も事前告知もほとんど無いのがおなじみであった。

 ゲーム配信では軽快なトークを交えながら敵を粉砕していき、雑談配信では「メンマは割り箸を醤油に漬けたものだと中学生まで思っていた」という天然な一面を見せたり、歌配信ではそのハスキーな歌声と豊かな表現力でリスナーを魅了していた。

 平均十時間以上、なんなら枠を変えて配信し続けるという配信モンスターであり、アーカイブを追っている間にまた長時間アーカイブが生成されるともっぱら話題であった。

 しかもそれをほぼ毎日続けているのだからモンスターの名は伊達じゃなかった。

 なんて思い出に浸りながらどんどん皿を洗い進めていく。

 洗った皿の置き場なんて当然のようにないので、洗ったらすぐに布巾で水気を拭い棚へ収納していく必要があり、自宅でいつもやっている倍の時間がかかってしまった。

 八割がた終わったので、洗い物を片付けている間にゴミをまとめてほしいと指示した白葉さんの方を振り返ると、

「うおおお!これずっと探してた『ギオギオの不思議なアドベンチャー第五部』の七巻!」「こ、これは!『王国ハート』のⅡ!やりたかったんだよな!」「ポキカのデッキ!こんなところにあったのか!」

 とお宝さがしに明け暮れており、部屋を片付けどころかさっきより汚くなっていた。

「白葉さん…なにやってるんですか…」

「ん?ゴミをまとめていたら探しものがたくさん出てきてな!宝探しみたいで片付けって楽しいもんだな!」

 ―普通は宝探しができるぐらい汚くならないんですよ…と大きなため息をつく。

「この空き缶のゴミを洗ってきてください…ゴミは代わりにまとめておきますから…」

 と戦力外通告を出し、「重い~」とか「外出るのやだ~」とあーだこーだ理由を述べる白葉さんに大量の空き缶が詰まった袋を持たせ、ゴミ捨て場へと向かわせる。

 ―掃除のときに最もやってはいけないことは物へのリアクションだ。

 懐かしいものであったとしても、感傷に浸ってしまえば時間のロスにもなるし、捨てるものと捨てないものの分別がつかず結局片付かない。掃除の極意は淡々と物を捨てていくこと。これに限る。

 といっても今回は白葉さんの物なので、あからさまにゴミ以外は捨てないが。

「しかし汚すぎるな…」

 目下床一面に散乱するゴミたちを片っ端からゴミ袋に突っ込んでいく。

 ―自分は彼女の部屋に行って何をしているんだ?

 考えても答えの出ない途方もない疑問はため息と共にゴミ袋に放り込んだ。



  ◇



「…さてこんなもんかな」

 パンパンに詰まった袋が五つほど並んだ頃ようやくフローリングの姿が見えてきた。

「ありえないぐらい疲れた…」

 まさかゴミをゴミ袋に入れるだけでここまで疲れるとは…。

 ちなみになんで部屋に下着が散らばっているのか、帰ってきた彼女に聞いてみると曰く、

「畳んでしまうのがめんどくさいから洗濯したらポイッてしてる。てか基本、下着って自宅でつけるものなの?ちなみに私は部屋だと服を着ないことはよくあることだぞ」

 とオタクでも絶句なトンデモ解答が返ってきたので深く考えることをやめた。

「白葉さーん!そっちは終わりましたか?」

 ベッド周りを掃除するように指示したはずの白葉さんは、服やカバンにコスメが散らかったベッドの上でくつろいでいた。

「ん?一つも終わっとらん!」

「なんでそんな誇らしげにサボってるんですか…」

「まー何から片付けていいのか分からないから!」

「だからってサボらないでくださいよ…。ていうかこんなベッドで普段、どうやって寝てたんですか…?」

 少なくとも人が寝れるような様相を呈していないが…。

「ん?いや普段はゲーミングチェアで寝てるから使ってないぞ?」

「それってよく寝れるんですか…?」

「朝起きると全身バッキバキだぞ!」

 またもや誇らしげにサムズアップしながら彼女は答える。

「とにかく!まずベッドの服をどかしましょう。その後コスメとかまとめてください」

「あいよ~~~ん」

 そう気の抜けた返事を返し、ガサガサとベッド上に散らばる衣服やコスメをまとめ出す。昨日からほぼ寝起きの姿(今朝に至って寝起きに遭遇)だったけど一応、コスメやスキンケア用品は持っているあたりちゃんと女の子なんだなって思う。(大変失礼ではあるけど)


 …よく見ると使われている形跡がないどころか、包装のフィルムすら剥がされてなかったのは見なかったことにしておこう。


「…んしょっと。これで全部まとめたよ~」

「おつかれさまで…ってどんだけベッドの上に放置してたんですか…」

 ゴミ捨てから戻ると両手にこんもりと山盛りの衣類を持った白葉さんが立っていた。

「いつも脱いで放置してたからなぁ‥ほれピンクのブラもあるぞ!」

「ちょちょちょっ!なに見せるんですか!」

「いや~春矢にちょっとしたご褒美にいいかな~~って思って」

 ピンクのレースが入ったブラジャーを揺らしながら彼女は悪戯っぽく笑う。

 片付けの最中何回も見たものの、わざわざ見せられるとそれはそれで困る。

「でもちゃんと服はまとめたぞ~~褒め称えよ」

「あ~すごいっすね~~」

「反応が薄くて困るな~~~んじゃこれ後はシクヨロ」

 と言いながら大量の衣類を春矢の両手へ。さりげなく人に仕事押し付けたぞこの人。

「ところでこの服たちって最後にいつ洗ったのか分からないんですよね?」

「あぁ、確かに脱ぎっぱなしだったからよくわかんないな」

 両手を頬に当てながら白葉さんはそう返す。

「じゃあ全部洗いましょう」

「え、でもそうしたら明日着る服がないじゃないか」

 キョトンとした顔で返される。うぅ…。改めて見ると顔がめちゃめちゃいい…。

「さっきあなた、部屋で服を着ないことはよくあるって言ってたじゃないですか…」

「まあ、それはそうだけど」

「ていうことで白葉さんはこれから洗濯しに行ってください」

「洗濯しに行く?家に洗濯機はあるが?」

 あからさまに怪訝そうに眉根を寄せる。

「コインランドリーですよ。どう見ても量多いじゃないですか。」

「な、何回かに分けてやれば家でも出来るでしょ」

「これ洗濯しようと思ったら何時間かかるか分かりませんよ…」

 白葉さんの洗濯機は一人暮らし用の小さめサイズのものだったので、白葉さんには近場のコインランドリーに行くように指令を出す。この間に残りの掃除を一気に進めてしまおう。

 歩くのめんどくさ~いと彼女は言ったが、片付けのほとんどは誰がやってると思ってるんですか?と質問すると、ぐぬぬ…と言いながら渋々洗濯物を受け取る。

「めっちゃ重いんだけど!」

「白葉さんが溜めたんですから責めるなら過去の自分ですよ…」

「拝啓。昔の私へ。洗濯物は溜めないようにしよう。敬具。」

 なんてぼやきながら白葉さんがえっちらほっちらと、洗濯物が入った紙袋を両手に玄関へ向かう。

 ふと今朝のことを思い出す。

 …そういえばこの人、服着てなかったよな…?

「白葉さん、下履いてから外出てくださいね」

 と念の為に釘を差すと、「ああ確かにと」とそそくさと下着とショーパンを履き始める。

 やっぱり気づいていなかったか…。

「そんじゃ!いってきま~す!」

「はい、気をつけて」

コインランドリーへ向かう彼女を見送った春矢はシャツの袖をまくり

「さてラストスパートがんばりますか…」

 と一人呟きながら掃除機かけ始めるのであった。


 それから白葉がコインランドリーに向かってからおよそ二時間後、見違えるように綺麗になった部屋を眺めて達成感に浸っていた。

「ただいま~もう重たくて疲れたよ~。てか!床が見える~~!」

 ドサッと洗濯物が入った袋をおき、フゥと息をつくと床が見えることに気づく。

「遂に終わりましたよ~本当に長かったです…」

「ここまで綺麗になるんだね~。いや~本当に疲れたよ~」

「疲れたって言っても白葉さん、ゴミ捨てとコインランドリーに行っただけでしょ…」

「私からしたら重労働なの!」

 そう言いながら清潔感に溢れた部屋をぐるっと見渡し、こちらに振り返り、

「…ねえ、春矢」

 亜麻色の瞳がこちらをじっと見つめてきて、照れくさくなって目線を逸してしまう。

 白葉さんが改まった表情で口を開く。

「―幻滅した?」

 あやうく口に含んでいた水を吹き出しかける。

「だ、大丈夫?!」

「ゴホッゴホッ!だ、大丈夫です。それよりなんでいきなりそんなこと…」

「だって魔ノ宮リズムのファンだったんでしょ?その本人がこんなにも汚い部屋に住んでいるだなんて、ファンからしたら失望するでしょ?」

「い、いや前に配信で片付けが苦手だって言ってたからそこまで…」

 口端を手の甲で拭いながら答える。

 ―幻滅しなかった。と言ったら嘘になる。

 現にあの汚部屋を見た瞬間、儚げな幻想は音を立てて崩れたのだから。

「本音は?」

 フッと微笑みを浮かべながらまたこちらを見る。やっぱり嘘はつけないようだ。

「ちょっとだけしました…」

「だよね~~~流石に女の私でもあの汚れっぷりは引いちゃうわ~」

 さっきの改まった態度が嘘かのようにあっけらかに笑いながら言う。

「自分で引くならちゃんと片付けしてくれませんかね…?」

「う~~ん!それは無理かな!」

「無理って諦めないでください…」

 肩をすくめながら言うと、それもそうだね。と白葉さんも苦笑する。

 窓の外はすっかりと夕焼け色に満ちていて、彼女の横顔も茜色に染まっていた。

「春矢!本当にありがとね!」

「いえいえ!彼氏として当然のことをしたまでですよ!」

 満点の星空のようにきらめく笑顔で感謝を伝える彼女を見ると、頑張って掃除した甲斐あったなと思う。

 一段落ついてほっと一息つくと疲れがドッと押し寄せてくる。

 今となってはその疲れすら心地よく思えた。


 あの後、大量の衣服を丁寧に畳み、服の種類別に収納する場所を決めたりしていたらあっという間に時間は過ぎてしまった。

 部屋の時計に目をやると気付けば時計の針は六時を指していて、窓の外はすっかり日が落ちて紺碧に包まれている。

 窓の外から目を離すと、なにやら言いたげな白葉さんと目が合う。

「そうだ。春矢、今日うちでご飯食べない?」

「え!?いいんですか!?」

 暫定、生活力皆無の白葉さんから想定外の提案が飛び出して、春矢は目を真ん丸にして驚く。

「と言っても私、なんにも作れないんだけどね」

 もしかしたら白葉の手料理が食べられるかも。と淡い幻想はそう答える彼女のドヤ顔で無に帰した。どうやったらその自信に満ちた表情ができるのか教えてほしい。

「じゃあなんで提案したんですか…」

 肩を落としながら彼女に言う。

「もしかしたら春矢がつくってくれるんじゃないかな~という希望的観測に基づいてご提案しました」

 ―また当然のようにつくってもらう気だこの人…

「はぁ~~わっかりましたよ。任せてください。これでも料理にはそこそこ自信があるんで」

 ―逆に自分の手料理を推しに振る舞えるいい機会だ。そういうことにしよう。そうしよう。

「おぉ~~!やった~~!やっぱり頼んでみるもんだな~~」

 目を輝かせながら嬉しがる白葉さんを尻目に冷蔵庫の前へ。

「じゃあ白葉さんの冷蔵庫の中のもの、お借りしま―」

「あ。まってその中には…」

 とおもむろに冷蔵庫を開けると、中には大量のエナジードリンクと黄色のパッケージでお馴染みのブロック状バランス栄養食たちが鎮座しており、野菜や肉などといった食材の姿は一切なく健康とは真反対の箱がそこにはあった。

 衝撃の光景を目の当たりにし、唖然とする春矢。

「白葉さん…?」

「えと…いつも出前でご飯済ませたりしてたもんで」

 えへへ…と分が悪そうに頭をかきながら白葉は答える。

 ―どうしてあそこまで自信に満ちた表情ができてたのか本当に教えてほしい。

「今までどうやって生きてきたんだこの人は…」

 部屋は汚い、掃除ができない、冷蔵庫には食材の影もない。女子力いや生活力がここまで無い人だとは思わなかった。

 ―ここまで来ると汚い部屋で「汚部屋」ではなく終わっている部屋で「終部屋」と呼んだほうが正しいな。

「一応、カロリーフレンドで栄養はとれてるから大丈V!」

「大丈Vなんて死語ですよ…」

 今日だけで何度目か分からないドデカイため息をまたついて、

「とりあえず俺の部屋から食材持ってくるんでちょっと待っててください」

 と一言残して部屋を出る。


 その後ろ姿を見て「やっぱり優しいんだなぁ」と玄関で一人呟く白葉には、当然気づくはずもなかった。



  ◇



 トントンと包丁の音がテンポよく葱を刻んでいく。隣ではすでに鍋がコトコトと煮えており、辺りは出汁のいい香りに包まれていた。小さめの四角に切り揃えた豆腐を入れ形が崩れないように優しくかき混ぜて、乾燥わかめをざざっと入れる。最後に味噌を溶き小口切りにした小葱を散らして味噌の香りが飛ばないよう火を止める。

「うわぁ~味噌のいい匂い~~~てか春矢めっちゃ手際いい!毎日やってるでしょ?」

 白葉さんがリビングからパタパタとこちらに来て、春矢の手際の良さに関心する。

「一応、ほぼ毎日自炊するようにはしてます。といっても偶にサボっちゃうんですけどね」

「ほぼ毎日?!私は…今まで…何回した…?」

 自炊した回数を指折りで数え始める彼女を横に次の工程に入る。大きめのフライパンに油を引き火を付け温め、昨晩漬けておいた豚ロースを焼いていく。

「一人暮らしする時に苦労しないようにって小さい頃、母に教えてもらってたんです」

「お母さんに教えてもらえるなんて羨ましいなぁ…」

「と言っても、高校生になったら料理を俺に任せるつもりで教えてたみたいなんですけどね」

 高校生になった時、「今日からあんたが料理担当よ」と母に命じられてから三年間、毎日朝食と夕食、昼食のお弁当を作り続けていた。母曰く、「これでようやく家事から解放される」「小学生の頃から仕込んだ甲斐があったわ」とのことらしい。自分の母ながら策略家だなと思う。

 肉の両面にいい焼き目がついたのを確認し、フライパンに漬けダレを流し入れる。ジューッとタレが跳ねる音と立ち上る生姜と醤油のいい香りが食欲をより一層掻き立てる。タレが煮詰まり程よくとろみがついたところで、キャベツの千切りと共に皿に盛り付け、プチトマトを添えたら生姜焼きの完成だ。

 味噌汁をお椀に注ぎ、胡瓜の浅漬けを小鉢に盛って、

「最後にご飯をよそえば、生姜焼き定食ご飯味噌汁おかわり付きで八百八十円の完成!」

「うおぉぉぉ!!!」

 白葉さんも歓喜の雄叫びを上げながら両手を天に突き出して喜んでいる。

「早く食べよ!早く食べよ!」

「あ、でも箸とか出してないですし…」

「心配ご無用!こんなこともあろうかと先にご用意しております!」

 彼女はキメ顔でそう言う。

「どんだけ早く食べたいんですか…」

「そりゃあ!キッチンからジュウジュウコトコトずっと聞こえてきたら誰だっておなかすくでしょ!」

「ならこれ持ってってください。熱いんで気をつけてくださいね」

「あいよ~~~ん!!!」

 そう言いながらウッキウキで料理の乗った皿を運んでいく。

 ホカホカと湯気を立てるご飯と味噌汁、そしてメインディッシュの生姜焼きが全て揃った。

 目の前の白葉さんは食べたくて仕方ないようでジーッと並ぶ料理を見つめている。

「ねえ~まだ~?もう食べたい~!」

「はいはい、今行きますからね」

 子どもみたいに言う白葉さんをなだめ、食卓につく。

「いっただきま~す!」「いただきます」

 と両手を合わせて言うなり肉厚な豚ロースにかぶりつく。

「おいし~い!」 

「うん!美味しいですね!」

 漬けダレに一晩つけたおかげで、しっかりと味が染みこんでいて柔らかく仕上がっている。噛めば噛むほど溢れ出てくるジューシーで肉々しい旨味とタレの鍋肌で焦がした醤油の香ばしさ、パンチのある生姜がよくマッチしていてご飯が止まらない。

 添えられたキャベツによくタレを絡めて豚肉と共に食べればシャキシャキ食感がプラスされこれまた絶品だ。

 昆布と鰹節からとった味噌汁の淡く優しい味わいに心癒され、胡瓜の浅漬けを箸休めにポリポリとつまめば口の中はスッキリ。たまらず次の生姜焼きを口に放り込めば玉ねぎと豚の脂の甘さが口全体に広がり、ご飯がどんどん消えていく。

 ―我ながら、また傑作を作ってしまったな…と感慨に浸る。

 無我夢中で生姜焼き→ご飯→味噌汁→浅漬け→生姜焼きの無限ループを繰り返していると、

「おかわりください!ご飯大盛りで!」

 お茶碗を左手に掲げながら高らかに宣言する白葉さん。見ればご飯どころか味噌汁のお椀も空っぽだった。

「もしかして白葉さんって結構大食いだったりします?」

「女の子に大食いですか?って聞くのはデリカシーないよ~?」

「あんな汚い部屋見せておいてデリカシーとか今更じゃないですか?」

「それもそうだな!」

 ダハハと笑う彼女を横目に茶碗に大量のご飯を盛り彼女の元に差し出す。

「うっひょ~い!米だ米だコメダ珈琲だ!」

「コーヒーは関係ないでしょ…」

「こういうのは語感が大事なんだよ」

「はぁ…」

 満面の笑みを浮かべながらバクバクと米と生姜焼きが消えていく。

 ―炊飯器に後、どのくらいお米が残ってるかな…。


 それから白葉さんはもう二回ご飯と味噌汁、キャベツをおかわりして箸を置いた。

「あ~美味しかった!ごちそうさまでした!」

「めっちゃ食べましたね…俺の三倍は食べてましたよ…」

「だって春矢の料理が美味しすぎてね~。それに人につくってもらう料理食べるの久しぶりだったから」

「にしても食べすぎじゃないですか?まあでも喜んでもらえて何よりです」

「掃除も料理も得意だなんて春矢、良物件すぎない?」

「褒めてもなにも出ませんよ!」

 ここまでべた褒めされると徐々に恥ずかしくなってくる。

 顔を見られまいと自分の食器を持って急いでキッチンへ。

「といいつつ嬉しいくせに」

「あーもう!皿洗うんで片付けてください!」

 顔が赤くなってることを悟られぬように顔を流しに向けて言う。

 カウンターに食器を置いた白葉さんが去り際に一言、

「耳真っ赤になってるよん」

 ―残念ながらバレてたようだ。



  ◇



「―今日も濃い一日だったな…」

 皿にこびりついたタレを洗い落としながらそう呟く。

 昨日初めて顔を見たお隣さんが元推しだと分かって、何故か付き合うことになって、その次の日に彼女の部屋の片付けをして、手料理を振る舞って…ってよく考えると本来踏むべきステップをいくつか超えていないか…?一般的恋愛ロードマップにはもう少し外デートをしてからおうちデートするはずでは…?少なくとも自分の知っているラブコメマンガはそうだった気がするが…。

 それに元推しがこんなにも生活力のない人だったとは露にも思っていなかった。ゴミだらけの汚い部屋に住んでいて、服は脱いだら脱ぎっぱなし、冷蔵庫の中身はエナジードリンクと携帯食料のみ、家事は一切できない。改めて考えると幻滅ポイントしかないぞ…。

「まさかここまで汚いなんて思ってもなかったよな…」

 油汚れの酷いフライパンを二度洗いし、キッチンから戻ると、

「もう食べられないって…」

 とベタすぎる寝言を言いながら白葉さんは爆睡していた。

 食事が終わって洗い物が終わるたった十分ぐらいの間に寝たんだこの人…。

「白葉さん…腹出しながら寝ないでくださいよ…」

 口元から垂れる涎をティッシュで拭い、冷えないよう布団をかけてあげる。

「それに俺も一応、男なんですから危機感ぐらい持ってください…」

 一応、彼氏という立場ではあるらしいが、一昨日まで赤の他人だった男をいきなり部屋に上げて無防備な姿のまま寝るだなんて、彼女の危機管理能力は働いているのか不安でしかない。

 これは彼氏として信用されているのか、それとも男に思われていないのか。どちらにせよ心配になる。

 そんなこと露知らず、くかーくかーと寝る彼女の寝顔はとにかく幸せそうだった。

「こうやって改まって見るとめちゃくちゃ白葉さんって可愛いな…」

 生活における残念ポイントが目立っていたが、それを差し引いても余りある可愛さが彼女にあるから困ったものだ。多分、メイクやファッションを整えれば、大学のミスコンは軽々と優勝できるぐらいのスペックを秘めている。

 今までVtuberの中身とか前世とか大して興味がなかったが、正直ここまで可愛い人がVtuberやってるとは考えたことなかった。

 ―世界線が違えば、美少女ゲーマーとして活躍していたのかもな…。

 白葉さんも寝てしまったし、ぼちぼち帰るか。と持ってきた食器を手提げに詰める。

「それじゃあ、俺はもう帰りますね」

 まだ全然知らない彼女のことを明日はもっと知れたらいいな。だなんて柄にもないことを思いながら、

「おやすみなさい。白葉さん」

 幸せそうに眠る彼女を起こさないようにそっと静かに告げて部屋を出た。


 パタリと静かにドアが閉じる音を聞き、白葉はゆっくりと目を開ける。

 ―めちゃくちゃ白葉さんって可愛いな…

 微睡みの中、薄ぼんやりと聞こえた彼の声をゆっくり思い出す。

「…可愛いって直接言ってほしいんだけどな‥」

 そう呟く彼女の顔は真っ赤に染まっていた。


中編と後編に続きます。

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