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第一章です。
月夜の晩、見晴らしの良い丘の上。
石を積まれて作られた巨石墓が、丘の上に聳え、月光に照らされて影が長く伸びていた。
その巨石墓の傍で、緑灰色のローブを纏い、樫の杖を手にしたマーリンが、風を受けて立っていた。
マーリンの目の前には、白い衣服、長い金髪の女が一人、佇んでいる。
「お久し振りです。また、この世界にやって来たのですね」
マーリンは「ええ」と、少し目を伏せて、女に言った。
「お久し振りですね。この世界、ハイ・ブラセルの主。女神ブリギッド」
微笑むマーリンに、ブリギッドと呼ばれた女も微笑み返した。
「ケルトでは神。そして、キリスト教では聖女。……ブリギッド」
女は微かな微笑を残して、その姿はすっと溶けるように消えていった。
マーリンの、肩まで伸びた金色の髪を、夜風がそっと揺らした。
風は夏草の匂いがした。マーリンの肩からは、相棒ピュタゴラスが翼をバサリと広げ、空へと飛び上がる。
「この世界の主人と、挨拶は済ませたようだな。マーリン」
「ええ」と、複雑そうな表情で笑うマーリンに、ピュタゴラスが言った。
「それじゃ、わしはちょっと夕食に行ってくるぞ、マーリン」
「はいはい。どうぞ。行ってらっしゃい。僕は、向こうにある村に行きますからね」
「うむ」とピュタゴラスは頷くと、森の方へ飛んで行ったので、マーリンも、自分が行くべき方向へと足を向けた。
「さーて。久々のブリテンだ。グウェン。グゥエンドロエナ。君は僕のこと覚えてるかな?」
マーリンが向かう先には、煙や湯気を数本生やし、幾つか明かりを灯したサクソン族の小さな村があった。
村の端に、その、こじんまりとした酒場はあった。
樫の杖を手に、マーリンは酒場の扉を潜った。
燭台の灯りが煌々と照り、男達の賑やかな笑い声が響き渡り、酒や肉を焼いた匂いがした。
カウンターには、肉や野菜、魚、果物が入った籠が幾つか並んでいる。
マーリンは、カウンターで杯を磨く髭面の店主に、軽く話をした。
そして、店主から了承を得ると、背負っていた荷物から、獅子の骨で出来た竪琴を取り出した。
マーリンは、酒場の脇、漆喰の壁にもたれかかりながら、竪琴を奏で、美声で歌い始めた。サクソン族にとっては異民ブリトン人の歌だったが、ブリトンの旅の詩人は決して珍しくはないのだろう。
誰もマーリンが歌うことを気に止めやしなかった。
寧ろ、マーリンが中々の美青年だったので、幾人かの女が彼に見とれていた。
マーリンが竪琴を手に歌っていると、やがて狩人らしき男が、弓矢を手に疲れた顔で酒場の扉を潜り、カウンター席に座った。
狩人の男は、手を挙げて主人に酒を頼んだ。
マーリンを目の端に入れるが、ついぞ気にも留めず、近くに座る口髭を生やした男と話しを交わし出す。
その近く、テーブルの上に置かれたランプの周囲を、蛾が一匹飛んでいたが、火に焼かれて死んでいた。
「よう、獲れたのか」
「まあな」
そう言う男の近くでは看板娘の女が季節の花を髪に飾り、杯を手にして笑っている。男達は皆、看板娘の周りに座って、彼女を口説くのに必死だった。
足元では、誰かが連れて来た、まだ幼い女の子が猫を追い掛け、また、他の誰かが連れて来た男の子が、つまらなそうにジュースを飲んでいた。
マーリンは、一通り歌い終えると、カウンター席につき、麦酒を注文した。
狩人の男が、マーリンに話し掛けて来る。
「あんた、ブリトン人かね。ブリトン語の歌だった」
「そう。竪琴を手に、あちこち旅をして回っているのですよ」
酒に酔った看板娘がやって来て「あら、いい男」とマーリンの頬に口付けるのを鼻で笑いながら、狩人の男は杯の酒を揺らし、話し出した。
「ブリトン人は皆、ウェールズかスコーティアかフランクか、アイルランドにでも行っちまったと思ってた。でも、たまにあんたみたいな詩人を見るな」
「今、このブリタニアの土地はあなた達、サクソン族が多く住み着いた」
「だが、俺達サクソン族も、今は新たにやって来たノルマン人に農奴扱いされている。まあ俺は、狩人家業で妻子と気ままに暮らしているがね」
狩人の男は溜息を吐いた。傍では、餌を獲り終えたのだろう……マーリンを追い掛けてやって来たフクロウのピュタゴラスが、女達に可愛い可愛いと、もみくちゃにされて取り合いされていた。
「なあ、あんたがさっき歌っていた歌。ブリトン人のアルトリウス王の歌か。前も違う詩人が歌っていたのを見たよ。名前は確か、マーリンと言う爺さんだったかな。でも歌の内容は違っていたよ」
「おや。私もマーリンという名前なのですよ」
「そりゃ奇遇だね」
「アルトリウス王の話もマーリンも沢山いるのです。僕が見たものも、ある一つの異世界の話に過ぎないのですよ」
マーリンは、そう言ってウインクした。
「これは、現実に瓜二つの妖精の世界。アヴァロンの向こう側。ハイ・ブラセルの物語なのです。最期、アヴァロンに運ばれるとき、アルトリウス王はこう言いました。『アヴァロンで傷を癒して戻ってくる』と。アルトリウス王の民、ブリトン人はひたすらに信じ続けました。彼らの気高き王、アルトリウス王が戻ってくることを。そして、その思いが伝説を遺しました。結局、彼らの思いは、アングロサクソンに手を焼くノルマン人に利用されたというだけで……」
「……ああ、アングロサクソンを敵視している、ノルマン人にね」
狩人の言葉に、マーリンは頷き、続けた。
「その通りです。アルトリウス王の話はブリテン、フランクに広まりはしたものの、王自身が戻ってくることはありませんでした。残念ながら。けれど、僕のいた世界では……アルトリウス王は実は、皆の元にやり直してたんです。一度だけね」
「へぇ」
「これは、そのお話なんです。どれ、ちょっと歌いましょうか」
そう言うと、マーリンは竪琴を爪弾き、良く響く声で歌い始めた。
猫を抱いた女の子と、つまらなそうにジュースを飲んでいた男の子が、顔を上げてマーリンを見つめた。
西暦四一○年。
ローマ帝国は、北方からゲルマン人が押し寄せ、崩壊への道を辿っていた。
ゲルマン人が多くローマに押し寄せた理由については、多数意見があるが、良く挙げられるのは、彼らの故郷に、恐らく寒波が広がったのだろうということだ。
ローマ皇帝ホノリウスは余裕がなくなり、辺境の地に存在した属州国『ブリタニア』を放棄することを宣言した。
ブリタニアの地に残されたブリトンの民に、ホノリウス皇帝は『自力で敵を防げ』と残したのだ。
ローマがブリテンに築いた『ブリタニア』の地には、北や西から『古の民』である、肌を青く塗った蛮族ピクト族や、スコット族が襲い掛かっていた。
この頃、ブリタニアには小国が沢山集まっており、それを、中心となる国が『宗主国』として一つに纏めていた。
ブリタニアという大きな国を一つに治める宗主国が、ログレスだった。
国王は、ローマ提督から血を引く、ローマ提督の子孫だ。
そして、ローマ帝国がロシアで征服した騎馬民族、サルマティア人の血も流れている。
その、当のブリタニア、ログレス王国では、ローマ提督血筋である国王コンスタンティンが、ピクト族により刺殺されるという事件が起きていた。
外も中も、ブリタニアは大混乱の状況に置かれていたのである。
コンスタンティン王には、三人の王子がいた。
長男コンスタンス。次男アンブロシウス。三男ウーゼル。
長男コンスタンスは官臣フォルティゲルンにより王位に就かされた。
だが、それは傀儡に過ぎなかった。
官臣フォルティゲルンは、ピクト族を使いコンスタンス王を暗殺し、王位を簒奪した。
……ブリタニアは中も外も、敵だらけでめちゃくちゃだった。
次男アンブロシウスと三男ウーゼルは、フォルティゲルンの手から逃げるため、南の海を渡り、ガリアのベンウィック王国に亡命した。
王位に就いたフォルティゲルンはローマ撤退後、王の仕事として、ピクト族の侵入を防ぐため、ゲルマンに住むサクソン族をブリテンの地に呼んだ。
他の部族を敵にぶつけるのはローマの古くからのやり方だったが、これが仇になった。
寒く作物の生りにくいゲルマン、デーンの土地に住んでいたサクソン族の目に、ブリテンの土地は輝いて映ったのだろう。彼らは故郷の同胞達を呼び寄せた。
そして、ゲルマン人……アングル族、サクソン族、ジュート族がブリテンに大挙して押し寄せることとなり、その上、『古の民』であるピクト族、スコット族らと共闘し出したのである。正にブリタニアは四面楚歌の状況に置かれていた。
フォルティゲルンはこれらの手が届かないよう、ウェールズの北西部にあるディナス・エムリスの山に、堅固な塔を建てようとした。
だが、上手くは行かず、塔は何度も崩れ、工事は停滞していた。
「また、塔の工事は失敗か」
赤く長い顎髭を撫でながら、半分にも至らない塔を見つめ、フォルティゲルンは苦く呟いた。赤髪が風に靡く。
奴隷達が岩を切り、石を積んでいたが、何度積み上げても崩れてしまうので、奴隷達も諦めた顔をしている。だが、手を休めれば見張りの兵士が鞭で叩くので、溜息を吐きながら、何度も岩を切り、石を積み続けている。もう、何度目の工事だろうかと、フォルティゲルンも溜息を吐いた。
水を張った盆を抱えたローブ姿の魔術師が、フォルティゲルンに跪きながら言った。
「占いの結果、父なし子の生き血を基礎部分の石に振り掛ければ、成功するとのことです」
「……ではその父なし子を、早く見つけて連れてこい」
フォルティゲルンの命令に、頭を低くして魔術師は下がった。
「御意に」
そして、その日の内に、魔術師は兵士らを伴い、息を切らせてフォルティゲルンの元にやってきた。何かしら成果があったようだ。魔術師は、数名の兵士を後ろに連れながら、言った。
「……王様、カマーゼンにてちょうど父なし子として産まれ、流されるところだった赤子を連れてきました」
もう何度、崩れたかわからない塔を見つめていたフォルティゲルンは、魔術師の声に振り返った。
だが、魔術師が言う『赤子』はどこにも見えない。
「赤子? 赤子がどこにおるのだ」
「えっ、そこに……」
「老人ではないか!」
「!」
フォルティゲルンの言葉に、魔術師は驚いて後ろを振り返った。
魔術師の後ろ、鉄の鎧を纏った騎士達が連れていたのは、くたびれた緑灰色のローブを着た、長い白髭の老人だった。その老人は、長く古びた樫の杖を手に、緑色の瞳を細め、皮肉げに口元を歪めている。フォルティゲルンは、戸惑いながら声を出した。
「この老人が、一体どうしたというのだ」
老人は、樫の杖をトンと突いて、フォルティゲルンを見つめ返した。
「老人の姿が不本意か、やはり赤子の姿がよいか。それとも少年の姿かな」
驚く騎士や魔術師達の前で、老人は樫の杖を振った。
そして、赤子、やがては金髪の少年の姿に変わって見せた。
驚くフォルティゲルンや魔術師、兵士達を後目に、少年に変わった老人は静かに語る。
「私は、時を逆さに生きるさだめにある。つまりは、赤子ということは老人ということでもあるのです。……して、どうやっても、塔が崩れるということですかな」
何と言おうか迷っているフォルティゲルンを置いて、金髪の少年は咳払いをして、物憂げに首を傾けた。
「父なし子の生き血を振りかけよ……とは。全く。今時の神官や魔法使いは、かつての古いしきたりや魔法を殆ど忘れ、覚えているのは忌まわしき古き慣習ばかりでいかん。基礎部分を掘ってみなさい」
フォルティゲルンはぽかんとするが、少年に「掘るのだ」と言われ、兵達に工事の基礎部分を掘らせた。兵士達が暫く掘り進めると、やがて底からは水が溢れ出し、底が抜けた。
そして、一帯に大きな池が現れた。底からは、ぶくぶくと泡が吹いている。
「これは……池? 小さい泡が吹いているが」
驚いて、池を見つめるフォルティゲルンや魔術師、兵士達の後ろで、コホン、と少年が咳払いをした。
「二匹の竜が眠っておるのです。片方はブリタニアの赤い竜、もう片方はサクソンの白い竜。この竜達は、昼は寝ているが、夜毎に目を覚ましては殺し合うために、塔が崩れるのです」
フォルティゲルンは目をひん剥いて、少年を見つめた。
「竜達を追い払えるか」
「ええ、さすれば塔も建つでしょうな。竜達も戦う運命にあるが、一時は、休めましょう」
「……ブリテンの竜が……赤い竜が勝つのか」
フォルティゲルンの詰まるような言葉に、少年は瞼を伏せた。
だが、次の瞬間、見開かれた少年の瞳は、何かに取り憑かれたように、怪しい赤色に染まっていた。少年は淡々と、語り出す。
「いいや。いずれ白い竜が勝つ。だが、それは完全ではない。そして、その前に赤い竜は、自らの分身と殺し合わなければならない。だが、その分身がいずれ、白い竜に負けた赤い竜自身を助けるのだ」
フォルティゲルンは驚いて少年を見つめた。少年の赤い瞳は、ずっと遠くを見つめている。
(なんだ、こいつは……急に、話し方も目付きも変わった)
臆するフォルティゲルンに、少年は淡々と続けた。
「いずれ、ブリタニアを救う偉大なる王が現れる。それは一時かも知れぬが、永遠とも言える。そしてそれはフォルティゲルン、お前ではない。お前は、お前が殺した前王の弟達の手により、塔の中で炎に包まれ焼き死ぬことになる。その前王の弟達も優れた王とは言えるが、違う。だが、偉大なる王は、その血筋から現れるのだ」
フォルティゲルンはすっかり面食らって、少年を見つめた。
「お……お前は一体、なんなのだ! 何者だ!」
遠くを見つめていた少年は赤い瞳で、笑みを浮かべながら振り返った。
「魔術師マーリンだ」
少年の瞳の色はやがて穏やかな緑色に変わり、ふっと、顔つきも柔らかくなり、笑みが浮かび上がった。
「生まれる前から、古き神々の国で書物ばかり読みふけりすぎたせいで、生まれた途端、灰になるところでしてな。だが、予言という仕事により、どうにか逆成長の呪いに留めてやりましたわ」
少年は、そう微笑んだ。
マーリン……ブリテン風に言うとマーリンは……大きな樫の杖を振り、魔法で池を宙に浮かせた。
穴は空っぽになり、宙に、二匹の竜を包んだ水が球体に浮かぶ。
「どれ、ディナス・エムリスの山奥に移動させましょう」
少年はそう言うと、竜を包んだ水の球体を浮かべ、呆気に取られるフォルティゲルン達を置いて、木々の間に消えてしまった。
その後は、魔術師マーリン……マーリンの予言通りになった。
コンスタンティン王の次男アンブロシウスと三男ウーゼルが、ガリアより援軍を率いて帰還。
フォルティゲルンは、二人によって塔に火をつけられ、焼かれて死んでしまった。
フォルティゲルンに次ぎ、アンブロシウスが王位に就いた。
彼はサクソン族の王ヘンギストを倒したが、フォルティゲルンの息子パスケントに毒殺されてしまった。
王族の歴史は、どうしようもなく、血に塗れていた。
アンブロシウスに次いで、三男ウーゼルが、ブリタニア国王の座に就いた。
ウーゼルは、何ら家系的背景を持たぬローマ系の家臣、ナタリオドゥスを軍の司令官に任じたせいで、ブリタニア王国の半分を、残酷なゲルマン人に……サクソン族に奪われてしまった。
ブリトン人はサクソン族によって、多く、土地と畑を焼かれ、民を殺され、作物や金品を奪われた。
そして、時代は下る。
マーリン……マーリンは生まれ故郷カマーゼンがある、ウェールズ南部に広がる森に暮らしていた。
その森は、『古の森』と呼ばれた。
ずっと昔から生えている、苔むした大きなオークの木が根や枝をいっぱいに広げる森だ。
大きな茸や不可思議な植物が生えて、鳥や鹿やリス、狐など、動物達が縦横無尽に駆け廻り、鳴き声を挙げる。
奥は深く、夜のように暗く肌寒く、真っ白な霧が立ち込める。
蔦やシダにまみれた小さな小屋に、マーリンは一人住んでいた。
マーリンは老人姿で、眼鏡を掛け、沢山の書物に囲まれて、様々な魔法の研究をしていた。
ときどき、森を抜けて村に顔を出せば『変人』とか、『不思議な老人』と呼ばれていた。
そんなマーリンの元に、あるとき、二人の男が訪ねてきた。
マーリンが、書物をめくりながら、ドラゴン肉と薬草を、ゴリゴリと乳鉢ですり潰して薬を作っていた時だった。
梟のピュタゴラスや、イノブタ、トゥルフ・トゥルイスは、賑やかに話していた。
梟のピュタゴラスは眼鏡を掛けていて頭が良く、マーリンに色々と教えてくれたり、突っ込んだりしてくる。
イノブタ、トゥルフ・トゥルイスは、かつて王様だったのだが、森で走っていたら偶然出くわしたドルイドに、イノブタに姿を変えられてしまい、ずっとそのまま、イノブタでいる。
昔の栄光を忘れられないのか、頭に王冠を乗せているが、大体、文句ばっかり呟いている。
ヘチは、朝鮮ニンジンを採るためにマーリンが東方に旅していたとき、加羅という国で友達になった。寝るのが好きで、いつも呑気に過ごしている。
その隣では、赤い犬、ターメリックが欠伸をしていた。
トゥルフ・トゥルイスがなんだか、わけ知り顔で、ぐだぐだこぼした。
「いや、この前、狩人に矢を撃たれてね。どうにか崖を飛び下り、海を走って事なきを得たが。まあ、本当に、やってられないよ」
と、何だかわけ知り顔で溜息を吐いては、梟のピュタゴラスに「いい加減にその止まらない口を閉ざせ。黙れ。他人の迷惑を考えろ」と怒られていた。
「……まあまあ。お二人共、喧嘩なさらず」
「私は、こいつの文句には、いい加減、我慢出来んのだ! 毎日毎日、言いたい放題。やることと言ったら昼寝と文句とお散歩。他にすることがあるであろう」
トゥルフ・トゥルイスは鼻を鳴らした。
はいはい、とマーリンは本をめくり、ドラゴン肉と薬草を、ゴリゴリと乳鉢ですり潰し、薬を作る作業に戻った。
マーリンが座る机には、火が灯された燭台や、林檎の木の灰で作ったインクが入った角壺や、埃を被った何かの骨、真鍮製天秤、大鷲の羽根で作られたボサボサの羽根ペンなどが置かれていた。
梁からは乾いた薬草が何束も吊り下げられ、本棚には、トマス・ジェファーソンの独立宣言書やら、様々な本や巻物が並べられ、本棚に収まり切らずにうず高く積み重ねられている。その隣には、地球儀や天球儀も並んでいる。
マーリンが乳鉢を動かして薬を擦っていると、誰かが小屋の戸を叩いた。
マーリンは、梟のピュタゴラスと、イノブタ王トゥルフ・トゥルイスが喧嘩しているのを脇目に本を閉じ、眼鏡に手を当てた。
「来ましたね」
「来ましたねとは?」
王冠を被ったイノブタ、トゥルフ・トゥルイスが聞くと、眼鏡を掛けた梟、ピュタゴラスが突っ込んだ。
「マーリンは大体のことはわかる」
「お褒めに預かり光栄ですよ」
マーリンは少し外が暗かったので、火を灯した燭台を手にしながら戸を開けると、二人の、高貴な恰好をした男が立っていた。
一人は褐色の髪で髭を生やし、油断の無い鋭い目付きでマーリンをねめつけてくる。
もう一人はウェーブがかかった長い金髪で、白いマントを鎧の上から羽織り、細身で、いかにも高貴な出で立ちで、プライドが高そうな顔をしていた。
マーリンは戸口に立ち、驚いた顔一つせずに、先に口を開いた。
「ここに来ることはわかっておりました。ブリタニア国王ウーゼル陛下。それにお付きの騎士、サー・ウルフィウス」
マーリンの淡々とした言葉に、ブリタニア王ウーゼルは眉を動かし、愉快そうに笑った。
「ほう。私がブリタニア国王ウーゼルと見抜くとは。噂に違わず、不可思議な力を持っておるのだな。魔術師マーリン。さすれば、私の用件もわかっておるな」
ウーゼル王を、マーリンは静かに見つめ返した。
「コーンウォール公ゴーロイスの妻、イグレインを自分の妻にしたい。違いますかな」
ウーゼル王は口許に笑みを浮かべていたが、少し驚いた顔で、マーリンを見つめた。
「その通りだ。一目見て、忘れられずに恋焦がれておるのだ」
「既に私と、私の双子の姉ガニエダが占ってあります。一つ言っておけば……。姉の占託では悪しなのです。姉は、水の精である湖の巫女の総巫女長です。湖の巫女達の意は、得られにくいと思わなければなりません」
「男を殺し、その妻をめとることはお前達、古の民達のならわしであろう」
マーリンは心苦しげに返した。
「あまり良い慣習とは言えませぬからな」
「ならば、そうならぬよう、はからえばよい」
マーリンは溜め息を吐き、ウーゼル王に強い視線を送った。
「難しいでしょうな。だが、ウーゼル王。私は貴方に手を貸しましょう。何故なら、全てを見通した上で、それが偉大なる王の誕生に繋がると知っているから……。そしていずれ、長い時を経て、もつれた糸もほぐれると信じているからです」
ウーゼルは口許に笑みを浮かべた。
「手を貸してくれるならばありがたい。ウルフィウス、金貨を詰めた袋を」
「謝礼はいりません。ただ、誓って欲しいことがあります。それは全てを成し遂げた後で申しましょう」
マーリンは呪文を唱え、ウーゼルをゴーロイスに、ウルフィウスをゴーロイスの家臣ブラスティアスに変えた。
そして、二人と共に、ブリテン南西部の端っこにある……ウーゼルの軍に囲まれた難攻不落のティンタジェル城へと足を向けた。
マーリンの面持ちは、憂鬱げだった。
これから待ち受けている、悲しい出来事を知っているからだ。
だが、マーリンにとってそれは、通り抜けなければならない出来事だった。
どうしようもないことだった。
だから、マーリンは静かに、意を決したように瞳を開き、前を見据えた。