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練習帳

嘘吐きたちの話

作者: くまみ

 今日は嘘吐きの話をする。


 彼女の恋人は、頭のおかしな男だった。

 焦点のあっていない目で、いつも何かをみていた。伸びた髪をかき上げ、何度も何度も何度も、彼の考案した、素晴らしい発明のことばかり語っていた。

 世界を救う発明だった。その機械がすべての社会問題を解決してくれるのだという。彼女は、唾を飛ばして早口でしゃべる彼の言葉をずっと微笑みながらきいていた。

 壁も床も真っ白な施設の、窓のない部屋だった。――これはずいぶん昔の話だから、今の倫理の基準には当てはめないでほしいのだけれど、彼は足枷を付けられてベッドから下りられないまま、ずっとしゃべり続けているのだった。

 自分が拘束されているという自覚もないのか、ずっとずっとずっと楽しそうに、どこか中途半端な虚空を見つめたままで、聞き取れないほどの早口で、独自の理論を展開していた。


 彼女は微笑みを崩さずに、いつまでもいつまでも彼の話をきいていた。軽い相槌以外は何も言わずに、ベッドの横にちょこんと座ったままだった。

 ときどき、彼がしゃべり疲れて言葉を途切れさせると、いつのまにか淹れていた珈琲をそっと彼に渡した。職員に対してはいつも暴れて手が付けられない彼も、その時ばかりはおだやかな顔をして、マグカップを手に取り、こぼさずに飲むことができるのだった。


 同じ部屋の患者たちは、彼のことを羨んでいた。

 社会から切り捨てられた施設の中で、面会に来る「外」の人間というのは稀だ。もう何年も親族にさえ会っていない者が何人もいた。そんな中で、こんな男のもとに……もう二度と「外」に出ることなどできないであろう男のもとに、毎日のように訪れる若い女などという存在は、まるで奇蹟としか思えないものだった。


 そんな日々は、じつはそれほど長く続かなかった。彼女が彼に愛想をつかしたのではない。彼は死んでしまったのだ。癌だった。

 彼のベッドは空になり、彼女もそれきり見かけなかった。他の患者たちは、嫉妬の対象がいなくなったことに安堵しただろうし、彼女の微笑みをもう見ることが出来ないと悲しんだかもしれない。今ではもうわからない。

 その施設はだいぶ前に取り壊されて、もうどこにもない。

 そして、今だから打ち明けてしまうけれど、じつは彼女は彼の恋人じゃなかった。


 彼の実家は大富豪だった。大富豪なりのプライドや世間体があったので、頭がおかしくなった彼は早々に一族から切り捨てられた。だが、彼の身体に癌が見つかり、余命が幾ばくもないと知らされたとき、そのまま施設でひとりさみしく死なせてしまうのは気の毒だ、と思う程度の情はあったと見える。

 とは言え自分たちが見舞いに行くのも憚られた。

 そこで選ばれたのが彼女だった。

 彼女は莫大な報酬を受け取り、彼が死ぬまで恋人のふりをし続けるように頼まれた女優のたまごだった。彼は肉体的な接触を求めることもなかったから、実質的にはにこにこしながら話をきいているだけで良かった。破格の好条件だったと言える。

 彼女は、誰にもその嘘がばれないまま、最後までやり遂げたというわけだ。


 なぜそれを知っているかというと、ぼくが彼女の本当の恋人だったからだ。


 彼女は金目当てで仕事を引き受けた。最初のうちはしょっちゅう愚痴を聞かされた。あいつどうかしてるよ、はやくしなないかな。ぼくは何度も彼女をなぐさめた。励ましもした。少し言い争いみたいになったこともあったかもしれない。他の男の恋人ごっこが気にくわないと思うことはあったけれど、その報酬はぼくら二人にとってあまりにも魅力的だったから。

 そのうち彼女は、彼との出来事を、どちらかと言えば楽しそうに話すようになった。今日はこんなこと言ってたよ。これなんて実現できそうな理論じゃない? 珈琲を飲んでくれたんだ。最近たまにあたしと目が合う気がする。……わかってる、そんなんじゃない。でも、明日も、行っていい?

 よくわからない記号や文字がぎっしり書き込まれた紙の束をみせてくれたこともある。これ、世界を救う機械の設計図なんだって。ぼくは、とんだがらくたを押し付けられてしまったね、と笑ったんだけど、彼女は返事をせずに、微笑んだままでその設計図とやらをずっとながめていた。

 ぼくはそのころには、だいぶ不安になっていた。だから、彼が死んだと聞かされた時はほっとした。これでようやくぼくらの日常が戻ってくるって。もうあんなことしなくていいんだって。

 なのに、彼女はぼくの前からいなくなった。


 机の上に、報酬が振り込まれたままの預金通帳と印鑑が残っていた。

 以前、彼女が彼にもらった、世界を救う機械の設計図とやらがなくなっていた。きっと彼女が持って行ったのだろう。彼女が彼のかわりに世界を救うつもりなのかもしれない。

 あんな妄想のらくがきの束からは、どうやったって何も生まれないだろう。彼女は感応精神病に罹ったのだ。残念だ。ぼくは救えなかった。かわいそうな彼女。もうぼくにしてあげられることは何もない。できるかぎりのことはしたんだ。通帳に残された金はきっとぼくへの餞別のつもりだったのだろう。

 そう思って、嘘吐きの彼女の話は終わりにするつもりだった。


 ――ああ。

 それでもぼくは、少し夢想する。

 ある晴れた日に、彼女が巨大な機械を持って現れ、世界を救う姿を。

 彼と彼女とぼく、それぞれに吐いたすべての嘘がひっくりかえる、その瞬間を。

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