デイジーの村で 3
※2019年1月13日推敲。2101文字→2135文字 話の流れに影響はありません。
「っ……!」
頬に涙をこぼしたまま、意識を失いかけている少年の身体をどかせてその陰から出ると、瘴気の風が、水に濡れた長い髪のように、まともに絡みついて来る。眼に映るすべてのものが色褪せる。その持つ精気が、激しい流れにもみくちゃにされるように根こそぎ奪い取られ、じわりじわりと枯らされていく。
これが始まってしまえばもう、息をひそめて終わるのを待つしかない。予兆があると、みな家の中に閉じこもる。──若く体力のある者なら、さえぎるものもない場所で穢魔の風に出会っても、辛うじて生き残ることができるとは言われている。だが、今ここにいる二人は年は若くても、一人は病人、一人は怪我人……。
──死んでたまるか、俺はお師匠様に文句を言うんだ。そして、<バルドの竪琴>を返す!
強く、強くそう念じながら、リーフィアスは何とか竪琴を手につかんだ。まだ慣れないが、その木の暖かい感触に少しだけ気が休まる。
師のシダリアスは、七日も禍つ風に吹かれたデイジー村には、何かおかしなものがあるはずだとリーフィアスに語っていた。──師は、かつてこのあたりに立ち寄り、再生の祝詞を歌ったことがあるという。
禍つ風に荒れ、気枯れていた土地や風は、長い祝詞が終わるとよみがえり、草木が伸びて生き物たちが戻ってきた。言霊の韻律で、穢れを振り祓われた陽光と月光は、確かに明るく澄んで冴え渡り、世界をめぐる力に再びつながったことを感じてホッとしたと──それは、シダリアスに付いて旅をしていたリーフィアスも、よく知っている光景。
緑の弥栄を、またひとつ見届けて旅に戻り、そうして訪れたいくつもの穢魔の地。そのうちの海辺の寒村で、死にかけているリーフィアスを見つけたのだと、師は教えてくれた。
吟遊詩人の旅は、よほど急ぐのでもない限り、自分の足で歩くものと決まっている。その拠点とも言うべき神殿では、偉大な吟遊詩人であり、大神官たるシダリアスは気ままに動くことができない。歌神官たちに崇め奉られ、下にも置かない扱いをされる上、いらぬ仕事を頼まれたりもするからだ。
それを嫌い、主に僻地を経巡っていたという師は、目立たぬよう地方の小神殿に寄った折りに、各地の情報を集めてはいたらしい。──デイジー村の惨事の頃は、小神殿すらない荒れ野で、緑の弥栄の祝詞を歌いながら、弟子を育てていたのだという。
遍歴をその宿命とする吟遊詩人だが、“凪”を許される時期もある。それは子を育てるときだ。
幼い子供は、過酷な旅に身体が保たない。それ故、子を連れた吟遊詩人は、その子供が旅に耐えられる程度に育つまで、あるいは手放すまで、ひとつところに留まっていても力を失うことはないとされる。
“凪”は風の小休止。流れの向きが入れ替わるためには必要なもの。常にめぐり、めぐり続ける神々も、時には立ち止まることがある。息を継ぐために。また、新しい動きを生み出すために。
リーフィアスが十になり、旅に付いてくることができる体力がついたとき、そこから一番近い小神殿にて、シダリアスはリーフィアスを己の弟子として登録した──。師はそのとき初めて、己が一度浄化した土地に、またも災厄が訪れたことを知ったのだ。
急ぎ、シダリアスはデイジー村に一番近い神殿を目指した。そこで詳しい事情を聴くと、歌神官たちにリーフィアスを預け、単身荒れ地を横断し、瘴気に蝕まれる村に駆けつけた。
そこには、かつて取り戻したはずの緑の弥栄はなかった。この地の、せせらぎのようだった瑞々しい流れは止まっていた。世界をめぐる流れにつながることができず、ただ不気味に静まり返っていたのだ。それは“凪”ではなく、停滞。どこにもつながらない澱みから、新しい流れの生まれようもない。
シダリアスの他にも何人か吟遊詩人が訪れて、そのたびに浄化の儀式は行われたという。だが、回を重ねるごとに祝詞が響かなくなり、緑がほんの少し勢いを取り戻すくらいにしかならなくなったという話だった。
吟遊詩人たちも数人訪れているようだが、吟遊詩人の祝詞ですら現状維持がやっとの状態で、目に見えるほどの変化をもたらすことはできていない。
湖が次第に水を減らし、森の恵みが激減し、いくら耕しても畑は不作。残っていたデイジーの村人たちも、ここは呪われた土地だと、ほとんどが村を捨てて出て行ったと、シダリアスは神殿で聞いていた。
それでも、シダリアスは祝詞を歌った。儀式のために念入りな用意もしたし、時間も掛けた。それなのに、かつては湧き上がる泉のように盛り上がり、繁りに繁った緑が弥栄の歓びを歌った地には、とぎれとぎれの呟きのような声が谺すだけだったという。
己に対する落胆の溜息を噛み殺して、まだ残る少数の村人に力及ばなかったことを謝り、シダリアスは大神殿に戻った。そうして文献を調べ、手懸りが無いと知ると、今度は今に残る古歌を探しに旅に出た。デイジー村のような例が歌われているかもしれないと考えたのだ。再びリーフィアスを連れて各地を経巡りながら、歌には残っていない口伝を、その地の古老から聞いたりもした。
そしてとある地で、シダリアスは何かの手懸りを得たようだった。──リーフィアスが独り立ちを促されたのは、それからすぐのことだ。
師はリーフィアスに言った。デイジー村には何かおかしなものがあると。それは存外、お前の歌と相性が良いかもしれないと。
次回、ようやくおっさん草の登場です。