デイジーの村で 1
あ、と思ったときには、地面に倒れていた。
歌が途切れ、紡ぎかけの言霊が口の中で消える。
乾いた土に己の血が滲み込んでいくのを、リーフィアスは茫然と眺めていた。遅れてやってきた痛みは灼けつくようで、呻くことすらできない。
かつて百人もの村人の命を養っていたというデイジーの湖と、そのほとりの村。穢れが重く澱み、草も生えぬ荒地となったこの土地を、あと少しで浄化することができるはずだった。──リーフィアスの、これが初仕事だったのだ。
干上がった湖の周りを数日かけて歩き、師匠に教わったとおりに言霊の韻律で固めて整えて、穢れを祓い、魔を退ける祈りを声に乗せて歌った。リーフィアスたち吟遊詩人に伝わる、再生の歌を。──まさか、大地を癒し、緑の弥栄をもたらすための儀式を行っている最中の吟遊詩人を、害する人間がいるとは想像もしなかった。
「よお、バード」
地面に倒れ伏すリーフィアスの背中を軽く蹴って、軋るような不愉快な声が嗤う。痛みに、リーフィアスは声を上げたつもりだったが、空気の漏れるような音しか出なかった。
「お前もどうせただの囀るだけの鳥……バルドの偽物だろう?」
くっくっく、と耳障りな声が続ける。
「お前みたいなのが何人も来たよ。この呪われた土地を、元に戻してやるってなぁ……。そのたび、俺らのおっとうやおっかあが涙流して喜んで、お願いします、お願いします、ってさぁ、なけなしの食い物を差し出した……だけど、誰もこのデイジーの森を元の姿に戻すことはできやしなかったよ」
──あふれるいずみはちをうるおし、もりをやしなう。おお、みどりのもり、そはりょくちゅうせきのほのおのごとくもえあがり……
声は、つたなく吟遊詩人の祝詞をなぞってみせる。
「緑の森なんて、俺、見たこともねぇよ……! もう疲れたんだよ、バード。デイジーの村人はとうの昔に散り散りになって、この向こうのじめじめした窪地のさ、小っさい沼のほとりに、俺んちとロア婆さん、エメリ夫婦が住んでるだけだ。ああ、何度も何度も俺は言ったさ、俺たちももうこの地をあきらめよう、あきらめて出ていこうって……!」
朝日の昇る方角に向かって、ひたすらに歩いていけば、また緑の森に出会うことができると、昔この地に来て少しだけ過ごした吟遊詩人が言ってた、と声は続ける。
「だけど、俺の爺さんが言うんだよ、子供の頃、吟遊詩人が大地を癒す技を見たと。乾いた土が力を取り戻し、見る見るうちに草が生えてきて、虫が、鳥が戻ってきて、アプルの木が枝を広げてわさわさ葉を繁らせ、花が咲きたくさんの実がみのり、その実がどんだけ甘くて美味かったかって……本物の吟遊詩人なら、デイジーの村も……」
背後の声が、不意に途切れる。ぜいぜいと、咳をするのが聞こえた。乾いた大地に膝をつき、身を折って苦しんでいるようだ。この過酷な地で暮らし、身体が病を得やすくなっているのだろうとリーフィアスは察した。腰の薬籠に滋養剤があるが、今の自分にはどうすることもできない。
「──五日前、良くない風が吹いて、爺さんも、おっとうもおっかあも死んじまった。ロア婆さんもあっという間だった。皆弱ってたからなぁ……。エメリ夫婦は一昨日から帰ってこない。禿山の崖からでも身を投げたんだろう、手を繋いでさ、年とっても仲のいい夫婦だったから……。あの崖は昔、デイジーの花畑だったって爺さん言ってた。ああ、一面の花畑はきれいだったろうさ、朝焼け色に月色、たくさんの花が風に揺れて……」
爺さんが何度も繰り返し俺らに語ってくれた、だから目の前にその光景が浮かぶ、俺は生まれて一度も見たことがないのに、と声が湿る。
「なあ、バード。もう無駄な望みを持たせないでくれ。“禍つ風”に七日も吹かれて枯らされた土地が、生き返るなんてこと、あるわけないんだ。俺はこのデイジー村の最後の一人、だからもういい、俺もこのまま死ぬ。お前もどうせ偽物だ、上手くいくはずがない。ああそうだ知ってるぞ、気枯れた土地で祝詞を歌ったら、神殿で何か褒美をもらえるんだろう──?」
俺たちの村は、お前らの道具じゃないんだよ! ──血を吐くように声は叫ぶ。
「まあ、いいさ……最後にお前を道連れにしてやるよ、バード。恨むんなら、お仲間を恨みな。おきれいな嘘をついて、俺たちの胸を何度も、何度も切り裂いたお仲間たちをさ!」
「ぁ……」
リーフィアスは息の震えをもどかしく思った。声が、出ない。
──確かに、ほとんどの吟遊詩人が己のことを吟遊詩人だと言う。騙るつもりではなく、そのふたつが同じものだと思っているからだ。古歌にうたわれる伝説の吟遊詩人、英雄バルドにあやかる気持ちもあるだろう。
才あるものは、修行次第で歌うたいにはなれる。だが、さらに力の強い吟遊詩人になれる者は少なく、バードのうち百人に一人、千人に一人ともいわれている。それ故、人々の出会う吟遊詩人はほとんどが本当はバードなのだ。
それでも吟遊詩人たちは人々に敬意をもって迎えられる。ただの歌うたいであっても歓迎される。たとえ本物ではなくとも、彼らの歌にも僅かながら力は宿っており、風に揺れる雑草の影ほどは穢れも薄まり、髪の毛一筋ほどなら魔を留めることができる。確かな祝詞の発音とその韻律、歌の旋律に力があるからだ。
彼らが一晩歌うだけで瘴気が薄れ、消えることさえある。
穢れや魔が寄りつこうとするのを、歌の力が祓うのだ。
だが、これほど濃い穢れと魔の澱む地には、その程度の力では足りない。こうなると、たとえ吟遊詩人であろうとも一度で浄化することは困難だ。そして吟遊詩人は長く同じ場所に留まることができない──。
元日は無理でも、せめて三が日中には投稿したかったので、見切り発車。
この続きは早いうちに書くつもりです。