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第一迷宮主『腐臭を刻む悪夢』

「ぅっ……、うぐっ……」


 扉をくぐり終わると、扉は自動で閉じる。

 僕は部屋に充満する鼻をつく異臭に思わず顔をしかめた。ただでさえ吐きそうな体調に追い打ちをかけられ、耐えきれずにその場でえずく。不幸中の幸いなのは吐しゃ物の臭いに異臭がかき消された事だろうか。

 びちゃびちゃと混じりけの無い胃液が床に広がった。

 僕は腕で口元を拭って周囲を見渡し、この部屋の様子を探る。

 部屋は大きな円形になっており、中央には一回り小さい円形の足場が作られている。

 僕が入った扉から中央の足場までの道はレンガ状の材料で作られており、人がぎりぎり一人通れるほどの太さしかない。

 それでは道ではない場所がどうなっているのかと言うと、『何もない』

 何処まで続くとも知れない奈落が待ち構えており、底が見えない。万が一足を踏み外せば命がない事は容易に想像することが出来る。先ほどの吐しゃ物が垂れ、奈落に落ちた。

 そんな部屋の対岸、僕のいる道の丁度向こう側には階段が設置されており、そこには日光と思わしき光が差している。僕はその階段の上に出口があると直感的に感じた。


「やっと、出口が見えた……っ!」


 僕は頬を緩ませ、これが最後の頑張りだと足を踏み出した。

 階段まで向かう細道から足を踏み外せば命は無い。それでも僕は恐怖を感じる事は無かった。

 このままここで彷徨って野たれ死ぬ恐怖に比べれば、この程度の事は恐怖でも何でもない。

 一歩、一歩と中央の足場に向けて歩いて行く。階段まで直線状に進むのが一番短い道のりであるし、そもそも中央を通過しないと階段にはたどり着けなかったからだ。

 しかし、中央近づくにつれて異臭が酷くなっていく。部屋に入った時は嘔吐による刺激臭に上書きされてあまり感じなかったが、ここまで酷くなれば無視することが出来ない。

 それは甘い匂いだった。しかし、甘美な香りは腐りきり、毒々しい甘ったるさがこの部屋に満ちていた。


 部屋の中央にはこの異臭の原因と思わしき物体が鎮座していた。


 僕はそれを石像だと判断した。

 極限まで醜く歪ませた人の顔を持ち、痩せこけた裸体を両腕で抱きしめている。おそらく男性の像だ。

 下半身は人間や小動物の頭骨や体を混ぜて圧縮したような肉塊で、製作者の趣味の悪さが滲み出ている。そのあまりの醜さは、人間ではなく悪魔をモチーフにして作られたと言われてもしっくりくる。

 腐った甘い臭いは、その像から漂ってきていたようだ。

 しかし、近づいてみるとその考えは間違いだったと気付いた。

 こいつは像ではなく『生きている』。下半身の肉塊はどくどくと脈打ち、上半身も呼吸をしているように脈打っていた。僕が頬を引き攣らせて後ずさると、像の目はゆっくりと開かれた。

 像の眼球が瞼の裏側にぐりんっと回り、人間ではありえない挙動を示した。そして、グルグルと回っていた視線はいつの間にか僕に向けられ、像はニタァっと笑う。


「――――――――ッ!?」


 僕は恐怖に叫ぶと化け物に背を向けて道を引き返した。

 永遠に続くと思った通路が天国のように思えた。体をふらつかせ、何度も足を踏み外しそうになりながらも石造りの扉まで引き返す。

 僕は吐しゃ物を踏みしめるのにも構わずに扉を開けようと手をかけるが――扉はピクリとも動かなかった。


「な、何で……? ()かないっ、()かないっ、()かない()かない()かないッ! (ひら)けっ! (ひら)けよぉッ!」


 力の限りに扉を叩くが何の反応も示さない。壁の向こうの通路が土に埋まってしまったような固さだ。本当にこの向こうに通路があったのか不安になってくる。

 予想外の扉の固さに気を取られていると、何やらぶよぶよとした感触が足に触れるのを感じた。

 嫌な予感を覚えて視線を落とすと足の周りに触手のような肉塊が絡みついている。触手の元をたどると、予想通り化け物の下半身に繋がっていた。耳まで裂けた化け物の口が歓喜に歪む。ケタケタと耳障りな嗤い声が部屋に反響して耳が痛い。


「た、助けっ……、みつきっ、みつきっ! ぁぐッ!?」


 触手を振りほどこうと自由な足で肉塊を蹴りつけるが、ビクともしない。

 もう一度蹴ろうと身構えるが、その前に掴まれた足が凄まじい力で引きずり込まれた。

 唐突に片足を惹かれた事で転倒した僕はなす術もなく化け物の元へと引きずられていく。ささやかな抵抗として石床の継ぎ目に指をかけるが、手が擦り切れ、爪が剥がれるだけだ。引きずられていく体を止めることは出来ない。

 気が付くと仰向けに寝かされた僕は、至近距離から化け物に覗き込まれていた。

 焦点が定まらない血走った眼球がぐるぐると回っている。奇声と共に開かれた口元からはぬらぬらした粘液が僕の顔に垂れた。

 そういえば剥がれた爪に痛みが無いな。アドレナリンの異常分泌が起こっているのだろうか? 甘ったるい腐敗臭に犯された僕の頭はそんな的外れの思考を続けていた。


「ひ、ひひっ……。ひひひっ………」


 化け物の唾液に濡れた頬が火に炙られたような熱を持ち始めた。その熱は次第に全身に回り、体からは軋むような音が鳴り始めた。

 恐らくは体中に痛みが走っているのだろうが、生憎と痛みを痛みとして感じられない。現状と熱の正体が分からない恐怖、僕を押し倒している化け物という状況に引きつった笑いが漏れた。

 僕がケタケタと笑い、化け物もケタケタと嗤う。

 時間の感覚が無くなって来る頃、笑い続けて喉に痛みが走る頃に、化け物に動きがあった。下肢の肉塊が僕の耳に添えられて、少しずつ中に入って来る。混乱して状況を理解できなくなっている僕でも、何かよくない事が起こっているのは分かった。


「あっ、くっ……ぁっ!?」


 ぐちゃりぐちゃりと、頭に響く音を振り払おうと僕は絶叫する。

 けれども頭に響く音は消えてはくれない。暴れる僕を押さえつける化け物からはバキバキと骨が砕けるような嫌な音が響いて来る。僕の体から響く、何が起こっているのか分からない音とは違って、化け物の体の音の原因は一目で理解できた。

 化け物が人間に化けようとしているのだ。

 出来の悪い石像に見えた彼の者の体には瑞々しさが宿り、少しずつ肌の温かみを再現していく。毛の一本も存在していなかった頭からは艶やかな髪が生えて来た。生えた黒髪は化け物の腰ほどまで伸びきっている。

 どうやら化け物の変化は僕の頭に入って来る触手の浸食に比例しているようだ。僕が抵抗する度に変化は止まり、抵抗しきれずに侵入を許すと変化が起こる。

 ガリガリに角張って骨が浮き出していた体に脂肪が乗り、体つきまで人間味を帯びてきた。胸元には一回り多くの脂肪が多く集まり、変化の完成系が女性型である事が窺えた。

 眼球が零れ出しそうになるほどに目を開けきっていた顔がボコボコと音を立てる。

 のっぺりとして特徴の無かった顔には均衡がとれた起伏が浮き出し、柔らかな顔立ちに変わる。

 優し気な口元とは裏腹に、その瞳は釣り上がって強気そうな気配を醸し出していた。

 人間の女性に擬態した化け物は男勝りで勝気な笑みを浮かべてクスクスと嗤う。

 その退廃的な笑みは見る者の美意識を刺激し、男女を問わずに魅了するだろう。その半身が異形の化け物でなければの話だが。


「ひっ、あぁああああッ!!」


 美の最高峰といっても過言ではないかんばせの半分が、この世の醜悪で下劣なモノを集めに集めてこねくり回したような化け物に侵食されているように見えた。僕は目の前で行われる美への冒涜に恐怖し、悲鳴を上げた。

 僕は悲鳴と共に力の限りに化け物の顔面を殴りつけた。

 人間に化けた半身の力が見た目相応に弱まっているようだ。優しく耳をくすぐる女性の悲鳴と、ただただ不快なひび割れた悲鳴が混ざり合う。

 恐怖に犯された僕はがむしゃらに化け物に殴りかかった。

 触手がねじ込まれた耳からは血が溢れ出し、鼻や口からも血が溢れ出している。先ほどの一撃で拳が砕けて指が折れている事にも気づかずに、僕は力の限りに化け物を攻撃する。

 化け物の顔を殴ると、女性に化けた半身からは赤い血が溢れている。変化前の半身には傷一つつける事は出来なかった。

 それでも、頭が真っ白になっていた僕は化け物を殴り続けるだけだ。

 しかし、それも長くは続かない。始めの一撃で怯んだのは、化け物が僕の反撃を予想していなかったからだろう。

 二撃目以降の攻撃は、自分の筋肉の筋が切れるほどに力を込めても、自分の骨が砕けるほどの力を込めても、致命的な効果にはならなかった。

 化け物の下肢が蠢き、鋭い触手が放たれた。

 僕の目には迫りくる触手がやけにゆっくりと見える。その一撃を受ければ死んでしまうと何となく理解できた。

 こちらの攻撃はほとんど効果がないのに、相手は一撃で絶命させることが出来るだなんて理不尽だと、僕は怨嗟の呪いを吐き出した。


 こんな所で訳も分からずに死んでいく自分自身の不運を呪う。

 しかし、奇跡が起こった。


 必殺の威力を込められた触手が逸れて僕の頬を掠った。

 僕の最後の攻撃で化け物が足を踏み外したのだ。

 彼の者は脳みそを犯すような、聞くに堪えない悲鳴を上げて、奈落の底へと落ちていく。


「た、助かった……?」


 僕は呆然と呟くが、安堵はすぐに恐怖に変わる。

 僕の足と脳には未だに触手が絡みついているのだ。すぐに触手が伸びきり、足と頭に衝撃が走る。


「あっ……」


 人間大の大きさをした化け物の重さの全てが体にかかる。

 当然のように僕の体は底なしの穴に引きずり込まれ、内臓が浮き上がる気持ちの悪い浮遊感に晒された。


「――――ッ!?」


 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。

 ようやく見つけた階段からは優しい光が漏れ出している。僕はその光に必死に手を伸ばす。けれども、当然のように光は腕の中から遠ざかっていく。

 これまでの『死ぬかもしれない』という恐怖が『確実に死ぬ』という恐怖に上塗りされて、ついに限界を迎えた。

 奇跡的に保っていた意識が、ぷっつりと切れる。意識が無くなった僕はなす術もなく奈落の底へと落ちていくだろう。


 底へ、底へ、底へ……。何もない、光すら届かない地の底へ。


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