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安全地帯まで

「……うぅ」

「大丈夫?」


 ボクは眠るミツキのそばによって体を揺すった。

 ミツキは頭を押さえながらゆっくりと起き上がった。彼は周囲を見渡して状況を確認する。すでに目を覚ましていたアディンさんは同じく眠っているリュシくんを揺り動かしていた。


「ここは……」

「ここは迷宮の中だよ。中に入った途端、みんな気を失ったみたい」

「そうか……。慣れたと思ったんだけどな……」


 ミツキは伸びをして立ち上がった。リュシくんも目を覚まし、アディンさんはシュリを起こしにかかっている。

 ボク達がいるのはレンガ造りらしい小部屋だ。壁には植物のツタが絡みついており、遺跡が植物に浸食されているようにも見える。

 この小部屋には外に出るための扉は一つある。この先が迷宮探索の本番となるのだろう。


「ああっ! 迷宮に入ったショックで気絶するなんて初心者ッ!? こんなの何年ぶりよ……」

「刻印を持った状態で迷宮に入るのは初めてだからな。迷宮内に転移したときの衝撃は刻印なしで中に入る時よりも大きいのかもしれない。気にするな」


 歯噛みするシュリをアディンさんがため息交じりに宥めていた。

 普通、迷宮の入り口に足を踏み入れると探索開始地点に転移させられる。初心者はこの時の衝撃で気絶する事もあるらしい。シュリはそれなりに場数を踏んできた自分が気絶するのが我慢ならなかったようだ。


 ちなみに、休眠中の迷宮は転移が発生しないそうだ。

 ボクが迷い込んだ迷宮は休眠中だと思っていたが転移が行われていた。ボクがその事を伝えたら、アディンさんはいくつか仮説を立てた。

 一つ目は休眠中の迷宮は転移する場合としない場合があるという考えだ。休眠中の迷宮は普通の迷宮と違って法則が理解されていない所も多い。

 二つ目は休眠中ではなく罠に特化した迷宮で、魔物がいないタイプの迷宮だったという考えだ。これなら迷宮の探索開始地点のすぐそばに出口が無かった事も頷ける。

 休眠中の迷宮を発見する事はごく稀だという事なので、ボクとしては二つ目の考えの可能性を推したい。こっちだと休眠中の迷宮に潜って楽に刻印を手に入れたという嫉妬を向けられないで済むし。

 今となってはどちらが正しいのか分からないが。


「傷の状態は大丈夫か? 問題ないようなら先に進むぞ。今日中に次の安全地帯まで進んでおきたい」


 アディンさんの掛け声に従ってボクは自身の傷を確認した。

 迷宮に踏み込む前にアディンさんの刻印で効果が増した薬を塗ったおかげで問題なく動けそうだ。そこまで深い怪我ではなかったが、切り傷の数が多く、出血による体力の低下を防ぐために普通はポーションを使う場面だったそうだ。それをアディンさんのおかげで普通の傷薬だけで済ませられている。

 ボク以外のメンバーも治療の甲斐があって問題なく動けるようだ。腕が潰れてしまっていたミツキも問題ないようだ。

 それを確認してからリュシくんが扉に罠が無いかを調べ始めた。そして、すぐに見解を口にした。


「うーん。流石に初めの扉に罠はないかな……。それじゃあ、僕が先行するから後ろは頼みます……」

「ああ、頼んだ」


 リュシくんは扉を開けてその先に延びている通路を進んだ。ボク達もその後に続く。

 迷宮内の通路も古ぼけたレンガ造のような素材で作られていた。所々もろくなっており、力のある魔物ならばレンガごと破壊して通路の向こう側から奇襲をかけられるかもしれない。

 ボクは奇襲に備えて自身に刻印の力を行使した。感覚を弄られている不快感が体を包むが、それ以上の恩恵もある。痛覚をある程度抑えることで痛みに怯まず、事に冷静に対処する事ができる。戦闘に慣れていないボクは怪我をすれば痛みでパニックになりかねないからだ。


 進む通路の壁に空いた穴やヒビからはツタが伸びていた。

 迷宮は人が入るたびに形を変える。また、同じ迷宮に複数のパーティで入っても中では遭遇しない。このことから、迷宮の入り口に誰かが足を踏み入れた瞬間に『迷宮』が異空間に生成され、探索者は新しく生成された『迷宮』に飛ばされているのではないのか? という仮説があった。

 けれど、それならばなぜこんなボロボロの迷宮を作り出す必要があるのだという疑問が沸いてくる。

 ボクが頭を悩ませていると、シュリが能天気そうな声を上げた。


「それにしても、ツタかぁ。ツタがあるって事は水場が結構あるのかも。今回の探索では水に悩まされることはなさそうねっ!」

「そうだな……。だが、別の事に悩まされそうだがな」

「なによ? なんか異常があった?」


 釘を刺すようなアディンさんの言葉にシュリが首を傾げた。アディンさんは天井からぶら下がっているツタを指差した。


「ここに齧られた跡がある。他にも何本か噛み跡のあるツタが見つかった。ツタだけじゃない。壁にも歯形があった。そんな事をする生き物に心当たりはあるか?」

「うへっ……。ぞれじゃあ、この迷宮に住んでいる魔物って……」

「ああ、十中八九、『喰い荒らす餓え蜘蛛』だろうな。というか、ピティも餓え蜘蛛がいると言っていただろう」

「えへへ……。アディンがいるから下調べは任せていいかなって思って……」

「全く……」


 ボクは彼らの話を聞いてげんなりとした気分になった。群れで出てくるから相性が悪いんだよな。餓え蜘蛛。けれど、戦闘面での相性ではなく、シュリは別の面を心配していたようだ。


「餓え蜘蛛がいたら資材が喰いつくされてる事もあって儲からないんだよなぁ……。王鳥を突破してこれじゃ、リスクとリターンが釣り合わないわね」

「全くだ。だが、オレたちの目的は資材じゃなくて『遠景に潜む影』だ。こいつの謎を解き明かす事が名誉となる」

「って言ってもなー。アタシはそこまで信じてないし。アディンはほんとに信じてるの? 結界を破る魔物なんて」


 シュリは胡散臭そうな目でアディンさんに問いかけた。先行するリュシくんも似たような目で見ている。シュリに無理矢理連れてこられたっぽい彼はなおさら信じられないようだ。

 一方、この世界に来て間もないミツキは、彼らが頑なに結界を破れないという感覚が分からないらしく、どちらとも言えないと思っているようだ。ボクも似たようなもんである。

 アディンさんは何かを考えるように顎に手を当てた後、口を開いた。


「オレは『遠景に潜む影』の存在は信じているが、奴が結界を破れるとは信じていない」

「ん? それはどういう事――」


 シュリが疑問の声を上げようとしたが、その声はミツキが彼女の口を押さえた事で中断された。一瞬だけシュリは彼に抗議しようとしたが、何かあったのだと察しておとなしくなった。

 ミツキが唇に指をあててボク達を黙らせると、小声で重要な情報を呟いた。


「今、足音が聞こえた。もうすぐ魔物と遭遇する」


 ボク達は足を止めた。

 しばらくするとカサカサという足音が聞こえてきた。そして、通路の曲がり角から蜘蛛の手足が覗き――


「――『幽冥への光焔』」


 シュリの声と共に青白い炎が視界を埋め尽くした。

 通路が炎で満たされ、蜘蛛を焼き払った。熱波がボク達の髪を揺らす。しばらくすると炎が収まった。

 通路の曲がり角を曲がり、リュシくんが餓え蜘蛛の状態を確認した。


「……十三体。動いている蜘蛛はいないよ」

「ふふっ! 楽しいねっ! 楽しいなっ! 前ならここまで威力が出なかったのに……。やっぱり刻印はすごいなっ!」


 シュリは右の手の甲の刻印を抱きしめながら無邪気に笑った。


 刻印『憧憬の炎』

 通常よりも少ない魔力で炎を生み出し、炎魔法の成立速度と威力を向上させる。


 餓え蜘蛛はその強化された炎になす術もなく焼かれていった。

 黒焦げになって動かなくなった餓え蜘蛛を踏み越えてボク達は先に進んで行く。

 それからの道筋は簡単だった。リュシくんが落ちてくるギロチン、落石、落とし穴、毒針と言った罠を見つけては工具を使って解除する。誤って罠を作動させてもリュシくんは刻印で傷一つ負わないため、多少荒っぽくてもスピード重視で解体できるのだ。

 一方、ミツキは罠を見破るための情報を入手しても知識不足からそれが罠であることを認識できていないようだった。


「うーん。意外な弱点だな……。危険を全て回避できると思ったんだが……」

「それでも十分役に立ってるよ。……やる事のないボクと違って」


 確かに事前の話に合ったほどの凄まじい効果ではなかったが、敵の奇襲が来る前にどこから来るのかを正確無比に予測してしまっていた。罠を予想できなくてもそれだけで随分安全に探索を進められる。

 後はシュリが事前に用意していた火力で焼き払うだけだ。魔法の遅れ(ディレイ)を補うために持っている拳銃を一度も使わずに済んでいるほどに順調だ。

 ボクはといえば出番は全くと言っていいほどになかった。ほとんどの魔物(と言っても餓え蜘蛛ばかりだが)はボク達に近づく暇もなく死んでいくのだ。一番大きな役割は王鳥を押さえる事だったと分かっていても微妙な気持ちになってくる。

 素材の採集にしても、物の良し悪しが分からないので手を出せないし、そもそも餓え蜘蛛に食い散らされていてほとんど採集ができなかった。

 一度だけ役に立ったのは『死を呼ぶ追撃者』と呼ばれる熊に似た魔物が襲ってきたときだろうか。森で出会った普通の熊よりも体格が一回り大きく、腕の筋力が異常に発達していた。人間など一撃殴られるだけで死んでもおかしくはない。

 そんな化け物がボク達の足元で物言わぬ死体となって転がっている。対して、ボク達は全員無傷であった。


「意外と簡単だったわねー。これで今日の分の肉は確保っと。餓え蜘蛛は数が多いくせに食べられないとかほんと害悪よね。飢え蜘蛛以外の獲物が近づいてきたのは幸運だわ」

「いや、普通はこうはいかないからね……」


 熊肉を解体しながら呑気な声を上げるシュリにリュシくんが苦言を呈した。

 追撃者は脆くなっていた壁を破壊し、ボク達に奇襲をかけた。けれどもミツキに気付かれて奇襲に失敗。シュリの先制攻撃を食らったのだ。

 餓え蜘蛛とは違って魔法一発だけではまだピンピンしていたが、残り火が攻撃対象になるように幻覚で誘導し、その間にリュシくんが手足の腱を切断して動きを奪い、ミツキが襲撃者の喉元を切り裂いた。最期の抵抗にミツキに噛みつこうとした襲撃者だったが、眼球に打ち込まれたシュリの銃弾に脳を破壊されて即死した。

 人間とは筋力差がありすぎて真正面から斬り合えば全滅は免れない相手だったが、刻印を駆使することで蹂躙できてしまった。シュリが浮かれるのも無理はないだろう。

 リュシくんとシュリ、それにミツキが肉を解体している横でアディンさんが方眼紙に地図を書き足していた。……ボクはと言えば彼らの邪魔にならないように通路の隅っこで丸くなっているだけである。出来る事がないのは辛い。


「おかしいな……」


 アディンさんがポツリと呟いた。

 ボクは話し相手が出来るかもと思ってそそくさと彼の元に近づいた。彼の手元の地図を見ると、どこにどんなトラップがあったのか。どこで何と戦ったのかという事が記されている。ボクは何がおかしいのか分からずに首を傾げた。


「おかしいって何がです?」

「ああ、ユキ君か……。探索初心者なら分からなくても当然か。迷宮の難易度が刻印を手に入れる前とほとんど変わっていないのが解せないんだ。罠の凶悪さも、魔物の強さも、資材の希少さも、刻印なしで挑んだ時とほとんど変わっていないように思える。……資材については餓え蜘蛛に喰われただけとも考えられるが」


 迷宮は挑戦者の所持する刻印の数によって難易度が変わる。そして、刻印を四つ所持した状態での迷宮踏破は不可能だと言われるほどに難易度が高くなる。それが……無い?


「ブランクがありすぎて気が付いてないだけじゃないんですか?」

「いや、それはないな。アディンさんはともかく、俺たちはついこの前まで迷宮に潜っていたんだ。その時とあまり手ごたえが変わらない。むしろ、刻印で楽に進めているくらいだ」


 熊肉の解体中だったミツキが振り向いて言った。

 ……べったりと顔に血を付けて言われたら怖いんですが。そんなんじゃ百年の恋も冷めますよ。追撃者の喉を割いた時のかっこよさが吹き飛んでしまいそうだ。ボクが恋してる訳じゃないけど! 恋してる訳じゃないけどっ!

 ボクが妙な事を考えて悶々としている間にアディンさんは口に手を当てて異変の原因を考察していた。


「難易度が変わらないとなると……。迷宮のリソースが他に回されている可能性が高いな」

「リソースですか?」


 ボクは首を傾げて言った。

 アディンさんは頷いて見解を口にする。熊を解体していた三人もこちらに注目していた。


「ああ、仕掛けの凶悪さや魔物の強さがそこまで上がっていない分、一体の魔物の強さだけが別格になっているという可能性が高い」

「……それが『遠景に潜む影』」

「そういう事になるのだろうな」


 アディンさんの宣言に沈黙が辺りを包む。

 けれど、それを打ち破ったのはやはりというかシュリであった。


「そういえば、餓え蜘蛛が襲ってきてうやむやになっちゃったけどさ。『遠景に潜む影』の存在は信じているけど、結界を破れるとは信じていないってどういうことなの?」

「ああ、それか。すっかり忘れていた。そうだな……。そのまんまの意味だ。『遠景に潜む影』と呼ばれる魔物は存在する。だが、結界を破る事は出来ない。別の能力のせいで結界を破れるように見えているだけだとオレは考えている。大体、結界を破るような魔物が存在するわけがないだろう?」


 シュリとリュシくんはなるほどーっと納得したように頷いた。

 例外的に、結界は絶対に破られないという確信が持てないボクとミツキは、そこまで共感する事ができなかったのだけれど。

 ボク達は解体し終えた肉をバックパックに詰め込んで先に進んだ。その間にもアディンさんの推測が進んでいく。


「オレが奴と遭遇した時に見たのは、破られた結界とオレ達一行が負傷したという事実だ。後はそうだな……、奴の影を見たという程度だ。奴が結界を破る姿を直接確認したわけじゃない。これはピティの話でもそうだった。さて、これらを踏まえて『結界は外からは破れない』という至極当然の常識と矛盾せずに結界を破るにはどうしたらいいか分かるか?」


 アディンさんはボクたち全員に問いかけた。

 リュシくんとシュリは首を傾げている。どうやら彼らは常識に刷り込まれた『結界は破れない』という法則に捕らわれて、抜け道を探そうともしていないようだ。

 一方、そんな常識を欠片も持ち合わせていないボクやミツキにはすぐに分かった。考えてみれば随分と簡単な話だった。


「内側から結界を破った。そうですね?」

「結界の内側に潜んでたんじゃないのかな?」


 ボク達は同時に同じ答えを口にした。アディンさんはその通りだと頷いた。


「ああ、結界が絶対不可侵だと言っても、それは外からの攻撃に対してだけだ。内側からならば、結界の核である水晶に触れる事で簡単に解除できてしまう。……そうでなければ、オレ達は餓死するまで結界の中に閉じ込められる事になるからな」

「で、でもっ! そんなのおかしいでしょうっ!? 流石に結界の中に魔物がいたら気が付くはずだってッ!」


 納得できないというようにシュリが叫んだ。

 確かに結界を張る前の安全地帯には魔物も入り放題だろう。けれど、魔物が安全地帯に居る状態で結界を作動させる訳がない。結界を閉じる前に魔物が中に居るという状況はありえないのだ。

 けれど、アディンさんは首を横に振った。


「魔物がオレ達に気付かれずに中に入る方法はいくらでも考え付くだろう? 例えば、体色を背景と完全に同化させる能力を持っているだとか。例えば、人の影に潜るような魔法を持っているだとか。ほら、いくらでも考え付く」

「例えば、魔法で幻覚を見せられる……とかね」


 アディンさんの言葉に考えられるケースを追加する。ボク自身が使う手なのだ。思いついて当然だ。

 アディンさんは頷いて続きを話した。


「とまぁ、こんな風にいろいろ考えられるが、弱点もある。オレ達は襲い掛かる奴の影を見ているからな。正確な効果は分からんが、奴の潜伏スキルは完璧ではないんだ。閃光弾でも使えばどこにいるのか一発で分かる。ほら、話しているうちについたぞ。安全地帯だ。今夜はここで休むぞ。……休む前に『遠景に潜む影』と交戦になるかも知れんがな」


 アディンさんは彼らしくない獰猛な笑みを浮かべると、通路の先に現れた安全地帯に率先して入って行った。ボク達も彼の後に続く。


「魔物はいないようだな……。よし、結界を作動させるぞ」


 安全地帯は迷宮の通路の分かれ道、その片方の突き当たりにあった。もしもここがゲームの世界なら、ダンジョンRPGの正規ルートから外れて宝箱が置いてある辺りだといえば分かりやすいだろうか?

 そんな迷宮の一角にできた小部屋の中心には、聞いていた通りに水晶玉が一つ置かれていた。アディンさんが水晶玉に触れると、小部屋と同じ大きさ、同じ形の青白い結界が構築される。


「さて、これで外からは何も入ってこられない訳だが……。中に『遠景に潜む影』がいないか確認する」


 アディンさんはバックパックの中から何やら術式が刻まれた球を二つ取り出した。シュリの銃弾に刻んであるものと似ているが、感じる魔力はまるで別物だった。おそらく、先ほどの話に出てきた閃光弾だろう。


「小部屋中央の天井で炸裂させる。目を潰さないように気を付けながら周囲を警戒しておけ」


 ボク達は頷き、それを確認した後にアディンさんは閃光弾を使用した。

 その直後、部屋中に光が降り注ぐ。ボク達はいつ襲われてもいいように武器を構えながら息を飲んで身構えた。だが――


「いない……のか……?」

「いや、まだだ。天井付近に潜んでいる可能性もある。次は足元で炸裂させるぞ」


 アディンさんは続けて足元でも閃光弾を炸裂させるが、それでも『遠景に潜む影』の姿は確認できなかった。

 ボク達はそれを確認すると、ほっと一息ついた。これまで維持してきた緊張が一気に抜けていくのを感じる。


「どうやら……。部屋の中にはいないようだね……」

「そうだな……。俺の『カン』でもこの部屋には俺たち以外の気配は何も感じない」


 リュシくんがへたり込み、ミツキが部屋の中に違和感が何もない事を保証した。これで、打てる手は打った。これならば『遠景に潜む影』の襲撃を受ける事もないだろう。

 ボクは安心して自分に掛けていた刻印の力を解除した。




 ――

 ――――

 それから、ボク達は安全地帯の中で夕食の準備を始めた。

 鍋に水を沸かして先ほどの熊肉と持ち込んだトマトっぽい野菜を盛り込んだスープだ。迷宮内で保存食以外を食べられる贅沢に、ボクとアディンさん以外はホクホク顔である。ボクはそのありがたみをいまいち理解できておらず、アディンさんはいつもの無表情だったため他の三人ほど分かりやすくはなかったのだ。


「ふふーんっ! アタシ、この一番大きい肉もーらいっ!」

「おいシュリっ! それは俺が大事に煮込んでいた肉だぞっ!? 勝手に取るんじゃないッ!」

「ミツキのバーカバーカっ! これは戦争ッ! 早い者勝ちッ! 煮込み具合を見誤ったアンタが悪いのよ! これはアタシのモノッ!」

「てめぇッ!?」


 ボクは言い争うミツキとシュリに苦笑しながら、二人が喧嘩をしている間にいい感じに煮込まれた肉をとった。二人が率先して肉を取っていた時には野菜ばかり取っていたリュシくんも肉に手を出している。彼のパーティ内でのカーストを見せつけられてだんだん哀れになってきた。

 ――まぁ、だからって容赦する訳でもないんだけど。

 ボクは容赦なく、鬼の居ぬ間に肉を掠め取った。リュシくんが微妙そうな顔でこちらを見つめている。けど、無視だ。大体もっと酷い人が隣にいるからね? アディンさんが無表情のまま黙々と肉を取り続けている。その動きは機械のようで無駄も遠慮もなかった。

 ボクは熊肉を口に運んで租借しながらミツキとシュリの肉の奪い合いを眺めていた。

 緊張感ないなぁ……。安全地帯の中だといつもこんなものなのだろうか? もしもそうなら結界への信頼度が本当に高いんだと伺い知れるものだ。


「甘い……」


 あまり音を立てないようにスープを飲んでみる。脂がいい感じに溶けていて直接肉を食べなくてもこれだけで美味しい。問題は調味料を持ち込めないせいで臭いがまだかなり残っている事だろうか。臭いさえ消してしまえばもっと美味しくなりそうなのに……。もちろん肉はスープよりも甘く、柔らかい。迷宮から出たらどこかの店でチャレンジしてみるのもいいかなと思った。

 夕食後、ボクとシュリは持ってきたタオルで仕切りを作って体をふいた。ミツキ達も仕切りの向こうで体を拭いているはずだ。水源が割と近くで見つかったから出来る芸当である。初めての迷い込んだ迷宮での飲まず食わずで体を拭く余裕もなかった探索とは快適さが雲泥の差だ。あまりの違いに涙が出そうだ。

 体を拭き終わって仕切りを外す頃になると、ミツキやシュリがあくびをし始めた。

 アディンさんは二人が眠ってしまう前にと話を切り出した。


「さて、見張りの順番を決めないといけない訳だが……。ミツキ君とシュリは初めの見張りは出来そうにないな。リュシアン君とユキ君はできそうか?」

「僕は大丈夫ですよ」

「ボクも全然いけます」


 ボクとリュシくんは頷いた。

 いくら結界の外から攻撃を受けないと言っても、ボク達が結界から出てくるまで待ち伏せされたらいずれ食料が尽きてしまう。そうなれば、体力の落ちた状態で魔物の群れと戦うことになる。それを防ぐために、安全地帯の中であろうとも何人か見張りを置いておくのが定石だ。

 アディンさんは申し訳なさそうに目元を押さえながら言う。


「すまないが、オレも初めの見張りには立てそうにない。体力が落ちたのか、眠くてしょうがないんだ。探索が初めてのユキ君よりも先に寝るのは情けないが……。初めの見張りは二人のどっちかでやってくれないか?」

「はい。分かりました」

「オレは三番目に見張りに立つ。ミツキ君とシュリは……。もう寝てるな……。オレの後は二人のどっちかだ。オレの気分でどっちかを起こす。後は頼んだ」


 そう言ってアディンさんは自身の着ていた白衣を床に敷いて、眠りについた。すぐに寝息を立て始めたことから、よっぽど眠かったと見える。

 二人残されたボクとリュシくんはどっちが先に見張りの相談を始めた。そして、ボクが初めての探索で疲れを自覚できていない可能性を考慮して、リュシくんが先に見張りに立つことになった。リュシくんも疲れてるんじゃ? と尋ねると、「いつも最初の見張りは僕が受け持ってるから大丈夫……」と言っていた。どこか遠い目をしていたのは気のせいだろう。深く考えたら悲しくなるからこれ以上は考えないでおこう。

 ボクはお言葉に甘えて先に休ませてもらう事にする。砂除けのマントを脱いで毛布代わりに床に寝そべり、目を閉じた。




 ……。

 結論から言えば、ボクはこの日に見張りをする事はなかった。

 これから、惨劇の幕が上がる。


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