ルールその2『迷宮に存在する安全地帯の中には、いかなる手段を用いても外界からは干渉できない』
アディンさんの経営する《白の家鴨亭》
その一階は酒場になっており、二階は宿泊客用に解放されていた。
初めは二階に泊まっていたボクは、酒場で働き始めてからしばらくして、一階の酒場の奥、関係者以外立ち入り禁止と表示された扉の先にある従業員用に割り振られた部屋に移動していた。
職員用と言ってもボクが来る前はアディンさん一人しか住んでいなかったため、ほとんど彼の自宅となっている。
物置になっている部屋があったり、厨房になっている部屋があったりとやりたい放題であった。仕事用の厨房とプライベートの厨房は分けておきたいという事だろうか。
そんな彼の職場兼実家の部屋を一つ借りてボクは住み込みで働いている。
ボクは今、定期的に卸される食材や酒で足りなくなってきた時には買い出しにでたり、水汲みで町に出た時に町の奥様方とあいさつを交わしたり、刻印の練習台を探して森に入っては同じく森に入った探索者とあいさつを交わしたりと町の人たちと交流を深めていった。
しかし、ここ数日はどうにも落ち着かずに部屋の中を歩き回っている事が多かった。夜も眠れず、朝顔を洗ったときに見た水面に映った顔には酷いクマが出来ていた。
とにかく何かをしていないと落ち着かなかったので、話し相手になってもらおうとアディンさんの部屋まで足を運んだ。
「……アディンさん。少しいいですか……」
「ユキ君か。入れ」
ノックしながら控えめに声をかけると、彼は抑揚のない声で入室の許可を出した。
扉に手をかけて開くと、部屋の中からスッとする香りが漂ってきた。彼の部屋のいたるところに置いてある植物の香りだ。
花や果実、ハーブといった匂いが混ざった部屋で、彼は椅子に腰かけて手元の冊子に目を落としていた。机の上には似たような冊子が何冊か積み上げられている。
彼は手元の冊子から目を離さずに口を開いた。
「それでどうした。仕事以外で部屋から出てくるなんて珍しい」
「人を引きこもりみたいに言わないでください。アディンさんの前に出てないだけで、外には出てます」
一応、お使いだとか刻印を練習するための生き物の調達だとかは外でやっているのに。特に生き物については森まで入って調達している。絞める前の肉屋の在庫にちょっかい出すわけにもいかないし。
その他にも性転換の呪いを解除する方法や、元の世界に引き返す手がかりを探して聞き込みをしているが、いっこうに手がかりは見つからなかった。
それよりもとボクは本題を切り出した。どうにも声が震えている気がする。
「ミツキ達が探索から戻ってきません。予定だと二日前には帰ってきてるはずなのに……」
「迷宮の構造は入るたびに変わるんだ。予定通りに行くことの方が少ない。それに、今回は迷宮主を狩るつもりだと言っていただろう? 作戦立案に時間をかけているんだろう。気長に待て」
「でも……」
ボクはその先を口にしようとして口ごもった。酒場では帰還予定日を大きく過ぎても帰ってこない探索者の事が話題に上がる事は珍しくもなかった。町を出たんじゃ? という意見も上がるが、行方不明者の人柄や境遇を加味して『間違いなく死んでいる』という結論にたどり着くまでに長い時間はかからなかった。
入口が同じ迷宮でもパーティごとに別の空間に飛ばされるのか、不活性迷宮という例外を除いて探索中に別のパーティと遭遇する事はない。ゆえに、行方不明者の生死の判断は不可能で、推測くらいしか出来ないそうだ。
ミツキ達の帰還が遅れて二日目。まだ迷宮攻略にてこずっているだけだと判断してもおかしくない時間だ。それでもボクは不安で落ち着かなかった。
……特に今回はミツキと連携が取れるようになってきたことを加味し、迷宮主の討伐を予定しているらしかったからなおさらだ。
アディンさんは初めて顔を上げると、ボクの顔に浮かぶ深いクマをまじまじと観察してため息を吐いた。
「オレ達に出来る事はない。それよりも仕事まで寝ておいた方がいい。体を壊されてはたまらん」
「落ち着かなくて眠れませんよ」
「……仕方がないな」
アディンさんが冊子を閉じて立ち上がると、乾いた植物を取り出して乳鉢ですり潰し、水に溶かして容器に詰めてから差し出した。ボクは首をかしげながらもそれを受け取った。
試しに鼻を近づけるが、植物が希釈されているためかほとんど臭いは感じない。
「よく眠れると評判でな。持っていけ」
「はぁ……。睡眠薬ですか……。副作用が怖くてあんまり使いたくないんですが……。それより、アディンさんは何を読んでいたんですか? 寝るより話していた方が不安がまぎれます」
「寝ないで体調を崩されてもこっちが困るんだが」
「あはは……、ありがたくいただいておきます……」
ボクが難色を示すと彼は珍しく顔の筋肉を動かして不機嫌そうになった。ボクはごまかし笑いを浮かべながら、ひとまず薬をポケットにしまった。そして彼は納得したようにうなずいた後、閉じていた冊子を開いてパラパラとページをめくり始めた。
「これはオレが探索者だったころに付けていた日記だ。迷宮の事も書いてある。……ユキ君の呪いを解除する手がかりがないかと思ってな」
「す、すいません……。貴重な時間を割いてもらって……」
「いや、いい。久しぶりに読み返すのもなかなか面白い。ユキ君も読むか?」
「いいんですか? それならお言葉に甘えて……」
アディンさんにばかり任せてはおけないと、ボクも彼の日記をありがたく手に取った。
彼の日記には、挑んだ迷宮に出てきた魔物の動きや種類、利用できそうな資材の情報、パーティメンバーと思わしき名前と連携の改善点などが事細かに記されていた。
……本当にボクがこれを読んでもいいのだろうか? この日記はアディンさんたちが集めた貴重な情報が事細かに書かれている。迷宮で死なないための情報はお金にできないほどの価値があるだろうに。
それでもボクはページをめくって解呪に関係ありそうな記述を探す。しかし、それに類する情報はなかなか見つからない。
効率よく読めているのかと聞かれれば首を横に振らざるを得ないだろう。分からない単語が多くて読む速度が落ちているのだ。
探索者の間では常識的な単語なのだろうが、あいにくボクは探索者の常識に疎かった。
「……この安全地帯っていったい何です? なんとなく想像は出来るんですが、よくわからなくて」
解呪の方法を探すには必要ないが、ボクは手記を読んで気になった部分をアディンさんに尋ねた。あたかも常識のように書かれているが、不可解な記述も多い。
アディンさんは手元の日記から目を離さずに疑問に答えた。
「迷宮には安全地帯と呼ばれる小部屋がある。小部屋の中央に置かれている水晶玉に触れると結界が張られ、中は外から干渉できない完全に隔絶された空間になる。結界の張られた安全地帯の中には一切攻撃がとどかなくなるんだ」
「でも、日記を見る限り見張りを置いてますし、安全地帯で火を使ってますよね? 本当に外と隔絶されているなら見張りは必要ないですし、火を使えば酸欠を起こすはずです。中の人が無事だという事は外と完全に隔絶されてないんじゃないですか?」
アディンさんはほぅと感心したような声を上げた。何がおかしいのか、彼のほとんど動かない表情筋が珍しく動いている。
「迷宮のルールを疑う奴がいるなんて久しぶりだな。……まず、見張りを置く理由だが、安全地帯の様子は外から視認することが出来る。だから、知恵の回る魔物に取り囲まれて援軍のない籠城戦を強いられるのは避ける必要がある。安全地帯で火を使っても問題ない理由だが……これは全く解明されてはいない。だが、先人たちが検証した結果、外からは毒ガスの類を流し込む事は出来なかったそうだ。他にも考えうる限りの魔法や武器で安全地帯を攻撃したが、結界の中には一切干渉できなかった。にもかかわらずに清浄な空気だけは通すのは不思議としか言いようがないな。今では『安全地帯の外から結界の中に干渉するのは不可能である』というのが不可侵の常識になっている」
「そうですか……。では、その試した攻撃の中には光を使った攻撃はありましたか?」
外から視認できるのなら光は安全地帯の結界を透過するはずだ。レーザーのような攻撃ならば中に届くかもしれない。しかし、アディンさんの答えはそっけないものだった。
「考えうる限りの攻撃を試したと言っただろう? 光系統の魔法も中まで届かない。後はそうだな……。目くらましの閃光を放った場合だが、見え方に違いはないが、結界の中にいれば光を直視しても目を傷めることはないそうだ」
「なんですかそのむちゃくちゃな現象は……」
「確かにな……。だがそういうものだと思って慣れろ。迷宮の機能に論理的な回答を求めようとしても無駄だ」
話をまとめると『原理は何も分からないが安全地帯の中には外からの攻撃は届かない』という事か。安全地帯の不可侵性は、人類が迷宮探索を始めてから一度も破られたことがないというのが世間の常識だそうだ。たとえ原理が分からずとも、その積み重ねてきた歴史が結界に対して絶対の信頼を築いているようだった。
安全地帯の抜け穴を探して思いつく限りの案を上げてみるが、その全てはアディンさんに却下された。ボクがすぐに思いつくような抜け穴は先人があらかた試してしまった後のようだ。
よって、ボクは安全地帯の抜け穴を探すという不毛な作業を中断して手記を読み込む作業に戻っていった。
連携の改善案や魔物や罠の情報以外にも、迷宮を探索している様子が事細かに書かれているページが何度も見つかった。そのほとんどの結末は主を避けて迷宮から脱出していた。
しかし、ページを進めていくと、たった一度だけ迷宮主を撃破したという記録が残っていた。
迷宮主を撃破したという記録の後にはアディンさんのパーティが手にした刻印の能力についての考察がびっしりと書き込まれていた。アディンさんを含め、彼のパーティメンバーの刻印はどれも一目でわかるほどに強力だった。
「さっきの薬、気休めじゃなかったんだ……」
日記に出てくる登場人物の中で、名前が分かるただ一人の能力を読んで呟いた。
アディンさんの刻印は薬物の効果を引き上げるというものだった。彼からもらったハーブが刻印によって効能を引き上げられているなら、本当に効くのだろう。香りを嗅いだ瞬間に昏倒してもおかしくはないと思う。
彼らは刻印という不可思議の能力を理解しやすくするために名前を付けていた。アディンさんの刻印には『酷烈なる薬効』というメモ書きがされている。この世界の人間のセンスなのだろうか? これまで登場していたアディンさん達以外の人達も、刻印の効果に似たような名前を付けていた。ボクも何か考えた方がいいのだろうか? 子供心をくすぐられて楽しくなってきた。
ボクの興奮は置いといて、彼の刻印についての考察を読み込んでいく。強力な力ではあるものの、ボクの刻印と同じように制約があるようだ。
薬効を上げる効果は望んだ薬効のみを引き上げるようで、副作用は増幅させない。傷を瞬時に回復させるポーションという薬が何度か記述には出てきたが、アディンさんは傷口を塞ぐ程度の効果しかないポーションを、体の欠損を回復させるほどにまで効果を引き上げていた。にもかかわらず、元々、酷かった味がさらに酷くなる事はなかったそうだ。しばらく経過を観察しても服薬者が予想外の副作用に侵される事はなかった。
ちなみに、ポーションの原料は何かアディンさんに尋ねてみると、原料は迷宮でしか入手できない植物で、栽培にも成功していないという答えが返ってきた。迷宮の重要性が伺える。
一方、効果を引き上げた薬はアディンさんのすぐそばでないと効果を発揮しない。具体的には部屋を二つほど跨げるかどうかといった距離だそうだ。この範囲の外に持ち出すと薬効の引き上げの効果は失われる。ただし、効果を引き上げた物を範囲外に持ち出した後、有効範囲に持ち込みなおした場合には刻印の力を使わなくても効果が増幅されるという検証結果が出ていた。
この制約があった事は彼にとって幸運だったといえるだろう。この制約が無ければ証拠を残さずに所かまわず毒殺を行う事が可能になってしまう。危険視されて殺されても不思議はない。
ボクが刻印の考察に集中していると、アディンさんに不意に声をかけられた。
「……ユキ君、呪いの手がかりになりそうな記述はあったか?」
「うーん。まだそれっぽいのは見つかって無いですね……」
まずい。アディンさんの刻印の検証を読むのに夢中で探していなかった。ペラペラとページをめくって参考になりそうな情報を探す。
刻印については意識から外し、ページを流し読みしながら紙をめくっていくが、呪いを解く手がかりになりそうなものはなかなか見つからない。しかし、とある記述で指が止まった。
「アディンさんこれ……。これって呪いを解いているところじゃないですか?」
それは迷宮にいた魔物の攻撃でパーティメンバーの体の一部が化け物に変わってしまったという記述だ。しばらくすると、罠にかかった人物の姿は元に戻っている。まさに求めていた場面ではないか。
しかし、アディンさんは首を横に振った。
「その呪いは術者を殺したら解けた。ユキ君に掛けられている呪いとは全然違う」
「そうですか……」
しばらく手記を読み込むが、手がかりになりそうな情報はページの最後まで見つからなかった。
日記を読み終えては机上に積まれた次の日記を手に取る。この動作を繰り返していると、そのうちの一冊に違和感を覚えた。ボクは他の手記を押しのけて気になったその日記を引っ張り出した。
それは全ての日記の一番下に置かれていた。何がおかしいのかとよく観察してみると、小口の色がやけに白っぽく、他の日記に比べて新しい冊子だったのが違和感の正体だったようだ。
ボクはその本をペラペラとめくって中身を検めたが、相変わらず呪いを解くためのヒントは見つからない。
しかし、呪いの手がかりには関係ないが、この手記の中身は他の日記よりも異彩を放った内容であった。日記の序盤は迷宮攻略の内容であったが、ある魔物に出会ってからは、日記がその魔物に関する記述で埋め尽くされていたのだ。
「『遠景に潜む影』……?」
その記録の不可解さは眉を顰めるのに十分なものだった。
その魔物はアディンさんを含むパーティを襲撃して消えない傷を刻み込んだ。
数日に渡る攻防の末、命からがら迷宮を脱出する事に成功したアディンさん達一行は、その時の傷や恐怖が元で探索者を引退している。日記の文章も支離滅裂で、アディンさんもこの魔物には並々ならぬ思いを抱いているのが見て取れた。
この冊子のほとんどは、この魔物の恐ろしさを綴ったものだった。単純な戦闘力もさることながら、この魔物の持つ特性が異彩を放っていた。
一つ目、誰もこの魔物の姿を直接見ていない。巨大な影を見た、暗闇で襲われたという記述はあれど、その姿を直接見たメンバーは一人もいないと記されている。
二つ目、その魔物は安全地帯にいたアディンさん一行を急襲した。安全地帯に張られた結界はことごとく破られ、不意を打たれた彼らは酷い傷を負ったと記されている。
安全地帯とは迷宮に存在する絶対不可侵の領域ではなかったのか。これまでのアディンさんの説明とは大きく矛盾する内容に、ボクは眉を顰めた。
別の手記を読み込んでいるアディンさんに問いただそうと考えるが、それは躊躇われた。この手記からは彼の魔物に対する恐怖がありありと伝わってきたからだ。
ボクがどうしようかと戸惑っていると、おもむろにアディンさんが口を開いた。手元の日記に集中しながらもこちらの様子には気を配っていたようだ。
「気を使うことはない。オレはあの時の事をもう何とも思っちゃいない……と言ったら嘘になるか」
「……辛いんですか?」
思わず口から言葉が漏れた。
アディンさんは顎に手を当てて考え込むと「どうかな?」と言って首を傾げた。
「オレ達は常識を超えたその化け物に恐怖して探索者を止めた。だが、今はそこまで恐れてはいない。そうだな……。もう一度ソイツに出会えるのなら――」
――今度こそ殺してやる。
彼はいつもの無表情を崩して獰猛に笑った。
夕方になり酒場で働く時間が来た。
よくよく観察してみると、アディンさんは客から迷宮の情報を集めている事が分かった。たぶん、あの魔物を殺すためなの準備なのだろう。これが、アディンさんが引退後も迷宮に関わっている理由か。
一方で、ボクが迷宮に関わる理由たるミツキ達は、今日も帰還することはなかった。
仕事が終わり、丑三つ時になっても眠気が来ない。相も変わらず不安で眠れないため、昼間にアディンさんからもらった睡眠薬を口にした。一口飲むと、それだけで抗いがたい眠気が襲ってきた。彼の能力で効果が引き上げられているため効果は劇的だった。
ボクは何とか体が動く間にベッドに倒れこむと、久しぶりに意識を完全に失った。
しばらくはコレが手放せなくなりそうだ。




