三日目:遠乗り(3)
伴鴻と合流し、簡単に事の次第を伝えるとやはりすぐに屋敷に戻ることになった。しかし、焔子が負ったであろう打撲のことを考え、馬を走らせるよりは振動を抑えてゆっくりと帰ろうということになった。ゆっくりと戻れば倍の時間がかかるものの夕暮れまでには戻れるだろうし、代わりに瘍医を呼んでおくために伴鴻を先に戻らせたので、ちょうど良い時間になるだろう。呼舷は来た時と同じく焔子を自分の前に乗せ、遠邇をぽかりぽかりと歩かせた。
ゆったりと流れる景色。しかし、焔子は沈んだままだった。こんなつもりではなかったのにと呼舷の心も少しばかり沈む。焔子の正体を少しでも探ろうと思ったのは事実。だが、禍斬が言った通りに遠乗りに焔子を誘ったのは、心のどこかに焔子を楽しませてやりたという思いがあったのだと今になって呼舷は気付いた。
あの笑顔をまた見たいと、心のどこかで思っていたのだ。
こんな沈んだ焔子は見ていたくなかった。
「…焔子殿」
「……はい…」
「焔子殿は花がお好きですか?」
「え?」
「いや、花に限らず、素朴ながら美しいものがお好きなご様子。他に好まれる物はなんでしょうか?」
「…好きなもの…ですか…」
焔子の気をあのガレ場の事故から逸らせることが出来ればなんでもよいと、呼舷はゆるやかに柔らかく問う。すると焔子は戸惑うようにしながらもやっと顔を上げ、呼舷の問いに首を傾げた。
「…好きなもの…そうですね…そういうわれると、なかなか……わかりません」
「好きなことは?戯将駒はお気に召したご様子でしたが、頭を使うことと体を動かすことはいずれがお好みでしょう?」
「う…うーん…体を動かす方が性に合っているように思います」
予想通りの答えを返した焔子の頭を目の端に捉え、崩れて歯が剥き出しになっている口元が知らず知らずの内に緩んだ。呼舷は続ける。
「蹴鞠や羽根つきでしょうか?」
「あ、う…その、そんな華やかな遊びなどではなく…その…お掃除とか、棒術とか、です…」
ぴくり、と。呼舷の引き攣れた眉尻が跳ねた。
「――…棒術?」
他愛もない話が、思いもよらぬ言葉を引き出した。
呼舷の顔が一瞬にして武将のそれに変わる。伴鴻が釘を刺した焔子に武辺ありとの言葉と、そしてつい先ほど宙を舞った焔子が地に叩き付けられることなく降り立ったあの身のこなしが脳裏によぎった。
呼舷は声音を変えぬよう注意を払いながらも、焔子が見せた綻びに手をかけた。
「武芸を嗜んでいらっしゃったのですか?」
「え!?」
「州刺史のご息女が棒術とは。少々意外です。一体何故?」
「あっ、その、あの…えーっと…」
「……」
「朔州は…、…熊が出ますので…」
「ご冗談を」
しどろもどろに言葉を濁す焔子に、からころと笑いながらも呼舷の目は鈍く光る。声音こそ柔らかさを保っていたが、そこには焔子の正体を暴こうとする刃が潜んでいる。呼舷にとって敵が見せた綻びは無理にでも手をねじ込んで広げ、中に潜む物を引きずり出す為に存在する。逃すはずはない。
「武芸を学ばれたからとて熊を相手にはなさいますまい?」
「もちろん相手にはしません。熊を見つければ逃げます」
「…ほう?」
「逃げる為には体が動かねばなりません。朔州は寒いです。夏でさえ朝夕は肌寒く、上掛けを箪笥に仕舞うことがないほどです。寒いと体は動きません。体を自在に操るには筋肉と熱が必要です。そのために朔州民は退路を得る為の体づくりとして武芸を嗜みます」
呼舷は黙って話を聞いた。苦しい言い逃れだと思っていたが、なるほどと思わないではない。加えて焔子のこれまでの言動を考えれば、これほど筋の通った出任せを即座に堂々と言えるとも思えない。となれば、朔州民が自衛の為に武芸を嗜むことは嘘ではなさそうだと呼舷は考えた。だが、それならば焔子が口籠った理由が解らない。
そこを暴く糸口を探しているうちに、焔子はまた語り始めた。
「朔州の武芸は戦う為のものではありません。山と共に生きる手段のひとつです」
「…山と共に生きる?」
「はい。朔州には『生山一族』という言葉があります。朔州民は山に育てられ、山に返ります。山に生きとし生けるものは全て家族だという意味です」
焔子は淡々と続ける。
「山に添って生きれば、人間が万物の長であるなどという考えが如何に傲慢かと気付きます。己が必要とする分だけ鹿や猪や兎、鳥、茸や木の実、山菜など、山の命をいただく。逆に私たちが狼や熊に食われることもあります。地滑りや雪崩、遭難で山に殺されることも当然あります。山に生きれば人間はあまりに無力です。生まれて山に育てられ、生きて山を育て、老いてなお山に育てられ、死んで山に還り、また次の命を育みます。山はひとつの命です。家族です」
「…しかし、結局は命の奪い合いではありませぬか?それでも家族と?」
「そうです。それが生山一族の考え方です。その証拠に朔州では法で禁じられるようになった3年前まで当たり前のように還葬を行っていました」
「な…!」
還葬とは、乾抄のごく限られた地域に非常に古くから存在する埋葬法だ。髪や髭、爪など、腐らない体の一部だけを墓に入れ、それ以外の部分は自然に返るように山に放置したり、川や海に流すのである。それも、動物が早く見つけ食べやすいようにわざと遺体に傷をつけて血を流して放置し、衣服も局部を隠す程度の飾り布と木の実などで作った装飾品のみにし、動物に食われるのを妨げないようにするのだ。地域によっては、動物が食べた後に残る故人の骨を拾いに行き、道具に加工して使うこともあるという。
50年程前に一度国内の刑法が見直された際に梟首や鳥刑などが廃止された。それに伴って還葬は人道に反するとされる意見が増え、自然と無くなっていったのだと思っていた。将軍である呼舷は軍事以外の立法に深く関わらない。そのため、還葬が法で禁じられたのがわずか3年前だとは知らずにいたし、未だに還葬を行っている地域があるなどとは思ってもいなかった。
「人間の家族だって家督争いや口減らしで殺し合います。それから考えれば、殺して終わるのではなく、何かしらに食われて生きる糧になるのですから生産的で健全だと思います」
「…なるほど、手厳しい」
「それに奪い合いではありません。そこに恨みも憎しみもありませんから」
「――ッ!」
世間話をするように、なんてことないように言い放った焔子。だが、呼舷はその言葉の裏にあるものに背を震わせた。
焔子は争うことのなんたるかを理解している。そして――
――死を、理解している…
戦場に生きて来た呼舷には尊崇する物がふたつある。
ひとつ。それは純然たる武力。個人の武芸であろうと戦を動かす戦術であろうと問題ではない。戦い、勝つ。そのための絶対的な圧倒的な武の力。
そしてもうひとつが、死を受け入れた人間だ。
死を深く理解し受け入れて生きている人間は、潔い。
自分は死など恐れないと豪語する輩の多くは、いざ死に直面するとみっともなく死を拒否し、酷ければ汚い手を使って――例えば仲間を売って自分だけ助かろうとしたり――生き残ろうとする。
だが、本当に死を理解し受け入れて生きている者は、自身の力で死地を切り抜けようとする。自分の生を丁寧に生きようとするのだ。他者に協力を求めることはあっても貶めるような真似はせず、生き抜く術を探し、動き、そして何をどうしても助からぬと悟れば潔く死を受け入れる。それは例えどんな最期であったとしても呼舷が敬意を示すのに躊躇うことはない。ましてやそうして死地を切り抜け生き抜いた人間ならば尚のこと。人間の深みを感じさせられ、畏怖にも近い感情を抱く。侮ってはいけないと身が引き締まる思いがするのだ。
そして、こういう人間は強いと呼舷は経験的に知っていた。武力ではない。精神が強いのだ。柳や竹のようにしなやかで、簡単に折れない。焔子に対して感じたのはまさにそれだった。
「…『生山一族』…。その教えを生んだ朔州の山を見てみたい…」
強靭な精神は一朝一夕で育めるものではない。同じように軍事訓練を施しても、肉体が強くなり戦場で使えるようになったとしても、精神が育ちきらないものは少なからずいる。それを生活の中で自然と育んでいる場所がある。それは呼舷が…いや、強くありたいと願い、軍を任されている呼舷だからこそ、喉から手が出るほど欲しい環境だった。
「朔州の山はみな険しく年の半分は雪に閉ざされます」
そんな呼舷の内心を知ってか知らずか、焔子はまたぽつりぽつりと語りだした。
「朔州の山は、酒造り用の穀物はよく育つものの、米や野菜は州民の食い扶持を賄えるほどの量は収穫できない痩せた土地です。山裾は緩やかなので段畠や棚田にしていますが、農耕が出来る範囲はほんのわずか。それほど傾斜が急な険しい山です」
「……」
「それでも、獲物や山の幸はよく採れます。山のおかげで今まで州民が飢えたことはありません。ただ、傾斜が急だからか雪崩が起きやすく、地盤が脆いようで採掘場はよく落盤します。対策を怠っているわけではありません。それでも毎年何人もが犠牲になっています…」
「…左様か」
焔子が、ぎゅっと奥歯を噛み締めたのが解った。
「山を侮ってはいけないんです。山はいとも簡単に私たちをその懐に連れ戻します。私はそれを身に染みて解っているべき朔州の人間です。…なのに、あの体たらく…私は、自分が恥ずかしい…」
「…焔子殿」
項垂れた焔子。呼舷は無意識の内に片手を手綱から離していた。焔子の肩に手をやり、慰めてやろうとしていた。それを、寸でのところで思いとどまる。
今、焔子が求めているものは慰めではない。
「…浮かれていたんです。お慕いする呼舷様のお側に一日中いれるのだと、浮かれて山を侮りました」
「慕っていた?…私を?」
「……はい」
今にも泣きそうな。なのにどこか幸福を滲ませる焔子の声。
唐突に、呼舷の脳裏にとある存在が蘇った。
齢十五、六ほどの少年であろうと思う。しかし解るのはそれだけだ。靄がかかったようにその少年の何もかもが判然としない。誰であったのか、何処であったのか、何時であったのかさえ解らない。しかし、確かにどこかで会ったことがある。確かに思い出した存在。
思い出したのは少年だ。焔子は女性だ。
それでも。
全くの別人であると思いながらも呼舷は問わずにおれなかった。
「…どこかで、お会いしておりましたか…?」
呆然と問うた呼舷に焔子はわずかに振り返り、ほんの少し、ただ笑んで見せた。
焔子が口を閉ざしたのを機に、会話はぷっつりと途切れた。焔子が武芸を嗜んでいるのは本当に朔州の習慣によるものなのか、武芸を嗜む理由を話すことを躊躇ったのは何故なのか、暴こうと思いながらそれは叶わず仕舞いだ。それでも。呼舷はこれ以上、話を掘り下げる気にはなれなかった。
結局、呼舷の私邸につくまで、ふたりは黙したまま遠邇に揺られ続けた。