三日目:遠乗り(2)
「…う、わあ……」
山頂につき目を開けるよう言われた焔子は眼前に広がる光景に思わず嘆息した。
雲ひとつなく、空気が澄んだ山頂は吸い込まれそうなほどの鮮やかな青。その青に添うように広がるのは見渡す限り真っ白な花の絨毯だった。黒い岩肌を覆う小さな小さな白い花。まるで雪景色のごとく美しいそれが、風に揺れて時折ふわりと花びらを飛ばす。
「……綺麗…」
そっと地に下ろされる焔子。しかし、地に足がついても呼舷の腕に自分の手を添えたまま、呼舷から離れることもせず、目をきらきらと輝かせて白と青の世界に魅了されていた。ついさきほどまで呼舷に抱かれ、爆発しそうな心臓を抱えていたことなどすっかり飛んでいる。
「……」
まさかここまで気に入るとは。
地に下ろした途端、逃げるように離れるだろうと思っていた焔子は、未だ呼舷に触れたままだ。そのことに呼舷の方が何やらむず痒いようなこそばゆいような落ち着かない気にさせられる。
焔子が魅了されている雪苔と呼ばれるその花は、山頂付近の岩屑が重なる所謂ガレ場の岩の表面に根を張る高山植物で、地上が三寒四温で気温の変化が大きくなるほど長く咲く不思議な植物である。呼舷がこれを見たのは隣国・殷真との戦の最中だった。呼舷がまだ歩兵だった頃、母国・乾抄の地形を洗い直すという名目で方々の高い山に登り、調査を行った際に偶然目にしたのだ。焔子との遠乗りにここを選んだのは、雪国である朔州の山を彷彿とさせるのではないかという思いからだった。
雪苔のこの景色は焔子にとっては見慣れた雪景色のように映り、白けるかもしれないと、道中にふと過った呼舷の心配は杞憂に終わり、焔子が気に入ったのなら何よりだと呼舷は未だ自身の腕に添えられている焔子の手にそう感じていた。
ふいに焔子がふらふらと呼舷から離れた。白い絨毯に引き寄せられ、雲の上を歩くような足取りで進もうとする焔子に、呼舷は寒気を覚えた。
「焔子殿、気をつけられよ足下は――」
呼舷の言葉が最後まで紡がれるより先に、
焔子の足場が崩れた。
「焔子殿ッ!!」
ガラガラと大きな音をたて、焔子は足下に転がる岩屑を置いて坂を転がる。すぐにでも追いかけようとして、呼舷はそれを一瞬の判断で思いとどまった。それは、決して助けずに殺してしまえという思いからではない。助けたいが故に思い留まったのだ。
このガレ場で足下が崩れたということは、足下が非常に不安定になっているということ。今呼舷が下手に動けば、かろうじて転がらずに留まっている岩屑をさらに落としかねない。そうなれば岩屑は焔子に当たるだろう。状況は最悪になる。
――止まれ!止まってくれ!
止まれば助けに行ける。心の中で叫ぶ呼舷。それを嘲笑うかのように、転がり続けていた焔子の体は岩に跳ねて宙に舞った。
まるで雪苔の花びらのようにふわりと舞った焔子の体。焔子の首に巻かれた大判の白い布が広がるそれは、場違いなほどにゆったりと穏やかな光景だった。そして九尺(約2.7m)の高さにゆっくりとたどりついたかと思うと、焔子は恐ろしい速さで落下する。
「焔子殿!!」
呼舷は走り出した。到底間に合わない。それでも走らずにはいられなかった。呼舷は何も考えてはいなかった。
ガレ場が崩れ、まともに走れない。自身も転びそうになる。追いついたところでまともに受け止められる保証はない。それでも。
助けなければ。
助けなければ。
焔子を、助けなければ。
己の花嫁を、助けなければ。
「焔子ーッ!!」
呼舷が叫んだ。その瞬間。
閉じられていた焔子の目が見開かれた。
地面が迫るわずかの間。焔子はくるりと宙で一回転すると、すたりと音もなく着地した。
「ぅあー…びっくりしたぁ…」
まるで物陰から猫でも飛び出して驚いたのとさして変わらないような様子で、目をぱちぱちさせて呟く焔子。呼舷は今見た光景が信じられず呆然としていた。だが、ぱたぱたと服の埃を払い、呼舷に気付いてへちょりと苦笑した焔子を見て、呼舷は再び駆け出し――
焔子を強く、抱きしめた。
「こッ!?こッこッこッこッ呼舷様ッ!?」
「……よくぞ、ご無事で…」
呻くようにそれだけ言うと、焔子が息を飲んだのが解った。呼舷はさらに焔子を締め上げるほどに強く抱きしめる。ただただ安堵が胸を満たした。呼舷はずるずるとその場に跪き、大きくひとつ息を吐くと、焔子の両手を恭しくとり、泣きそうな顔を真っ赤にして「ごめんなさい」と繰り返す焔子を見上げた。
「ガレ場であることをよくよくお伝えしなかった私に非があります。お側にいながらこのような…なんとお詫び申し上げればよいか…本当に申し訳ありませぬ」
言葉を重ねる呼舷に、焔子はただふるふると首を横に動かす。自責の念に潰れてしまいそうな焔子の表情は、岩にぶつかって所々汚れほつれた服よりも痛々しかった。
「動かぬところはありませぬか?捻った様子は?」
「…ありません。大丈夫です」
「頭を打たれてはおりませぬか?」
「はい…」
「よかった…ですが、念のため、いますぐ山を下り、麓の医者に診せましょう」
「いいえ、いいえ…呼舷様、私は大丈夫です…」
「ではせめて屋敷に戻り、私の瘍医(外科医のこと)に診せることをお許しください」
「…はい…ごめんなさい」
「どうか…もうそれ以上謝ってくださいますな。…貴女の非ではない」
あまりに悲痛な焔子の表情に、呼舷は堪らず焔子の頬に手を添えた。
それがいけなかったのだろうか。
焔子の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。呼舷はそれをそっと拭う。何度も何度も。必死に泣き止もうとしゃくりあげる焔子。胸に迫る何かに突き動かされ、呼舷は小さく「失礼」と囁くと、飴細工を持ち上げるような手つきで焔子を抱き上げた。
抱き上げられた焔子は泣き止めずちょっとした混乱状態で話すことが出来なかった。そのため、腕をつっぱってただただ首を振る。そんな焔子を横抱きにした呼舷は、有無を言わせず焔子をさらに抱き寄せ、自身の首元に焔子の顔を埋めた。
「伴鴻と合流する前には下ろします。ですから今だけは、どうか、お許しを――」
2015.09.09 誤字修正