二日目:募る疑念、気付かぬ心(2)
普段からは考えられないほど早い時間に自邸に戻った呼舷は、門の前で供をさせている部下と別れ、門をくぐって厩へと向かう。厩につくと厩番の伴鴻が呼舷を迎え、一言二言交わして愛馬を預けた。
伴鴻は隠密の頭だ。日に焼けた肌は浅黒く、壮年というには早い歳の割に深い皺が刻まれている。気配を殺していない今の伴鴻を見た武人であれば、この男が深い皺を持つだけの経験を積んだ只者でないことに気付くだろう。それでも隠密であるが故に、一見しただけでは冴えない村人のような雰囲気を纏っている。伴鴻が本気で気配を消せば、道ですれ違ってもすれ違ったことに気付かせないほど隠密として有能な男である。
ふと呼舷が視線を厩の中に向けると、焔子が連れて来た馬が大人しく佇んでいた。焔子の連れて来た馬は団栗馬といい、一般にはどんぐり馬と呼ばれている品種だ。軍馬と比べればその違いは一目瞭然で、胴は一倍半ほどあり、足が短いので重心が低くずんぐりとしている。そのため速く走ることは出来ないし、見た目は牛に近い印象だ。その代わり、軍馬と同じ距離を歩かせるのならば軍馬の三倍の荷を曳くことが出来る。
なんとなく興味をひかれた呼舷は焔子の馬に近寄った。焔子の団栗馬は伏せていた目をゆっくりと開き、呼舷を見つめると、ゆったりとした動作で甘えるように鼻を寄せた。そのことに呼舷は少しばかり驚いて、半ば無意識で焔子の馬の顎を撫でてやっていた。焔子の馬の濡れた黒曜石のような瞳が、心地良さそうに閉じられた。
「焔子様の団栗馬、いい馬でしょう?」
呼舷の様子に伴鴻はひどく楽しそうな笑みを浮かべて声をかけた。
「おっとりしていて可愛い奴ですよそいつ。きっちり躾けられていて、人によく慣れています。遠邇も気に入ってるようですよ」
「遠邇が?」
伴鴻の言葉に呼舷は目を見開いた。遠邇とは呼舷の愛馬で、自慢の軍馬だ。だが、非常に気性が荒く、気位が高い雌馬なため、主人である呼舷すら時々手を焼くほど嫉妬深い。戦場でその物怖じしない気性の荒さはまたとない優秀な働きをするのだが、こうして厩に居る時などの遠邇の嫉妬深さは、呼舷に対してだけではなく、伴鴻が他の馬の世話をすることにすら良い顔をしない日があるほどだ。その遠邇が気に入るとは珍事といってよかった。
にわかに信じ難かったが、実際、今こうして呼舷が焔子の馬に構っているのに遠邇は大人しいままだ。普段なら、苛立たしげに嘶いたり、地を踏みならして気を引こうとする。伴鴻の言ったことは確からしいと納得した。
伴鴻は焔子の馬の首を少々乱暴にも思われる手つきで撫でながら、可愛くて仕方ないと言った様子で馬を見つめながら口を開いた。
「阿古という名前だそうです。この子はほんとに良い馬ですよ。気遣い屋で、優しくて、控えめで…なんか気弱な感じがしたりもするのにどうかするとちょっと頑固で…そこがまた可愛い。焔子様とお話した時に、なんと言いますか姉妹っぽいと言うんですかね、焔子様と一緒に育って来たんだろうな、と思いましたよ」
「焔子殿と話したのか?」
「ええ。今朝がた少し。といってもご挨拶してほんの世間話程度ですが」
「そうか…伴鴻、おまえは焔子殿をどう思う?」
「正直に言えばよく解りません。隠密の匂いはしませんが、州刺史のご息女と信じるにはいささか引っかかる部分があります。かといって裏があるようには思えません。個人的な意見を言えば、好感の持てる方です」
「…ふむ」
「私が接した印象としては、阿古と良く似てると思います。お優しくて、気遣い屋で控えめで、でもちょっと頑固で…あ、あと働き者」
「…働き者?」
「ええ。焔子様ときたら今朝俺よりも早い時間に阿古の世話をしにお見えになったんですよ」
「おまえより?」
呼舷はまたも驚いて目を見開いた。伴鴻の朝は屋敷の誰よりも早い。この早春の日が昇る一刻前には起きだして馬の世話を始める。その伴鴻よりも早いとは。
「〝刺史のご令嬢〟ということですから、馬の世話をしにいらっしゃるとは夢にも思いませんでした。だから今朝お見えになった時はほんとに驚いて…最初馬泥棒かと思ったほどですよ。けどあのご様子だと、ご実家でもずっとあれくらいの時間に起きて馬の世話をしてらしたんでしょうね。殿だからこそ言えることですが、今までの奥方達よりも、従仕の俺らにもきちんと接して下さる焔子様のような方のほうが余程大切にしようと思います。素性が確かなら、ですが」
「…そうか…」
焔子の素性が怪しいことはこの屋敷の中ではこの隠密頭の伴鴻と従仕頭の托苑、そして今朔州へ赴いている若い隠密のみ――他の隠密の中には勘付いている者もいるだろうが――だ。その事情を知っている上で、伴鴻が焔子をよしとしている。これは信じてもよいのではないのだろうかと呼舷が気を緩めそうになったのを伴鴻が釘をさした。
「ただ…殿」
「何だ?」
「焔子様に武辺があることはお気付きでしょう?」
言われ、呼舷は焔子が屋敷に訪れた時のことを思い出す。明らかに武を積んでいる者が知らず取る姿勢で立っていた焔子。あれは意識しても簡単に隠せるものではない。
「隠密の匂いこそありませんが…どうか、油断召されますな」
「――心得た」
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伴鴻の元を離れ、屋敷に入った呼舷はふと玄関をぐるりと見渡した。いつもとなんら変わりのないように思うのに、漂う空気が清々しく感じられた。呼舷は不思議に思いながら、土を落として屋敷の中へと歩を進めた。
普段なら帰宅すれば数名の従仕が呼舷を出迎えるが、この時間に帰って来ることを伝えていなかったため玄関には誰もいない。静かなそこをがしゃがしゃと軽装備の鎧をわずかに鳴らして廊下を進むと、見慣れない従仕が熱心に廊下を拭いていた。
――はて、新入りを入れる予定は聞いていないが…
なにやら見覚えはあるため警戒はしなかった。元から居る従仕が髪型でも変えたのだろうかと声を掛けようとするより先にその従仕が顔を上げ、呼舷を見つけて驚きに目を見開いた。そして、呼舷も目を見開いた。
「呼舷様!?」
「焔子殿!?」
見慣れない従仕と思って当然だ。焔子はこの屋敷についた時と同じ、使い古した旅装束に前掛けをして、手には雑巾を握っている。焔子の着ていた旅装束は首都であるこの抄都周辺ではあまり見掛けないつくりであるから呼舷が見慣れないと思ったのも当然だった。いや、気にするべきはそんなことではない。呼舷は呆然としながら焔子に問いかけた。
「…何を…一体何をなさっておいでだ?」
「あ…その……お掃除を…」
「…はぁ…掃除を…」
「も、申し訳ありません、こんなに早くお戻りだとは思わず…お見苦しい格好を…」
恥ずかしそうに前掛けを握った焔子を見た途端、呼舷の頭にカッと血が上った。
「托苑ッ!!」
廊下が傷まぬように静かに歩く常の呼舷からは想像もできないほど、どすどすと荒々しい音を立てて廊下を進み、托苑を何度も呼びつけた。後ろから慌てた様子で焔子が追って来ていたが、それを気遣う意識は今の呼舷には抜け落ちている。しばらくすると、主人の帰宅に気付いていなかったことに驚き恐縮した托苑が姿を現した。
「殿!?お早いお戻りで――」
「貴様どういうつもりだッ!?」
「ひっ!?」
「呼舷様!?」
帰りの挨拶もせず怒鳴りつけた呼舷に、托苑は小さく悲鳴を上げて身を縮め、追って来た焔子も怒鳴った呼舷に驚き顔を青ざめさせた。それでも、呼舷の勢いは治まらなかった。
「貴様には焔子殿が心安く過ごせるよう、屋敷を案内して自由に使って頂くようにと言い置いたはずだ!なのに何故焔子殿に掃除をさせているッ!?」
「呼舷様!」
「事と次第によっては私にも考えがあるぞ托苑!」
「呼舷様!お待ちください!私が言いだしたんです!」
呼舷の腕に縋り、叫ぶように訴えた焔子の言葉が、ようやく呼舷の耳に届いた。
「…焔子殿が?」
「て、手持ち無沙汰で…書庫を案内して頂いたり、お庭も散策しました…戯将駒の棋譜や楽器も自由に使えるようにして頂きました。ですが、その…どうしても落ち着かず…托苑殿に掃除をさせて欲しいと、私がお願いしました…」
「……」
「托苑殿は花嫁である私にそんなことはさせられないとはっきりとおっしゃいました。一度は断られたものを呼舷様がお帰りになる前に終わらせ見つからないようにしますと食い下がり、無茶を通したのは私です!ですからお咎めを受けるなら私なんです!托苑殿は、私に言われて仕方なく…!」
始めはしょんぼりと言い訳を並べる子供のようだった焔子だが、次第に托苑に咎めがいくことをはっきりと自覚したのだろう。最後の方はあまりに必死で、涙声になっていた。
「…托苑」
「…焔子様がお掃除をと仰ったのは事実でございますが、焔子様に我らの仕事をさせ申しましたのは弁明の言葉もございません。如何様にも処罰を受ける所存にございます」
「托苑殿!」
「相解った…」
托苑は早々に腹を括ったらしく堂々と頭を下げ、一方の焔子は青い顔で手を震わせていた。咎めを受けるべき者がまるで逆の有様だ。
呼舷は呆れにも似たため息をひとつついた。
「焔子殿」
「は、はい…」
「屋敷の掃除は、従仕の仕事です。貴女の仕事ではない」
「…はい…」
「ですが、余程丁寧に掃除をしてくださったのは屋敷に入った時に解りました。空気が澄んでいて、清々しかった。私の従仕は仕事熱心です。それでも貴女の仕事の方が素晴らしかった。お恥ずかしい限りだ」
「そんなことは…!」
「そも、貴女にこんなことをさせてしまったのは私の配慮が至らぬせいです。托苑に責めを負わせるのであれば私も同罪。此度のことは、私に免じて何卒お許し頂きたい」
「そんな、呼舷様!許すもなにも、私、わたくしは…!」
どういえば良いのかとオロオロする焔子に呼舷は苦笑する。世渡りが下手な女だと思う。こういったやりとりを見たことも聞いたこともないのだろう。朔州が主従関係の稀薄な余程ほのぼのとした場所だったのか、それとも本当に偽りの身なのか。ますます疑う余地が増しているというのに、憎めないのは何故だろうか。
呼舷はそっと焔子の肩に触れた。
「お詫びに、今夜は楽師でも呼びましょう」
「ええ!?」
「楽師よりも舞や唄の方がよろしければ仰ってください。私が留守の間は戯将駒の棋士や詩人なども呼び寄せましょう。ああ、それより商人に布や飾りを持たせましょうか。いずれにしても、焔子殿が退屈されぬよう手配させます」
「そんな、呼舷様…ッ」
「それに、婚儀までの間、毎日私はこれくらいの時間には戻ります」
「…え?」
「総大将より、婚儀までの間は最低限の軍務でよいとお許しを頂きました」
「本当ですかッ!?」
「ええ。荒事以外に能のない私では大したおもてなしは出来ませんが、暇つぶしの相手くらいにはなりましょう。それに、明日は非番です。焔子殿さえよろしければ遠乗りでもいかがですか?」
「――ッ、ありがとうございます!」
嗚呼、と。
呼舷は知らず嘆息していた。
焔子が笑った。また、見ることが出来た。花も恥じらうこの笑顔を。全身で嬉しいと伝える焔子の笑顔。凡庸な、下手をすれば枯れ木のような女。
なのに、堪らなく愛らしい。
呼舷は未だ気付かない。托苑が呆然と自が主を見つめていたことにも、自分の胸が温かく満たされていることも、それによって自分がどんな顔をしているかにも――。
2015.09.13 ルビ追加・一部修正