十日目:式の朝、花ふたつ
本日2回目の更新です
幾許かの眠りの後、呼舷は托苑に起こされ目を覚ました。挨拶をする托苑は深い皺の刻まれた顔にやる気を漲らせている。呼舷が幼年の頃から仕えているこの従仕にとって、此度の婚儀は相当に思い入れがあるようだ。
「仰せの通り、朝餉は簡単に済ませられる果物をご用意しております。湯浴みの用意も既に。婚礼の御衣装は東の間に全て揃えてございます」
「相解った」
「それから、南極将様がお見えに」
「禍斬が?」
「左様にございます。なんでも涙を拭く手ぬぐいを持って来られますようにとの仰せで…」
「まことかッ!」
眠気が吹き飛ぶ朗報だ。呼舷は寝間着から着替えることも無く、せっかく用意された朝餉も忘れて禍斬が待つ部屋へと早足で向かう。陽の昇り切らぬ早朝だが、婚儀の用意で従仕らはすでに動いていた。いろんな場所で彼らにぶつかりそうになりながら、その度に笑って謝罪する子供のような呼舷を、従仕らは信じられない気持ちで見送った。
「禍斬!」
「おお、来たか。この化物将軍が」
優雅に朝餉を食べていた禍斬は、顔布すら忘れて寝間着でやってきた呼舷を見てにやりと笑った。そして連れて来ていた自身の従仕に目配せし、禍斬の正面に座った呼舷の前に風呂敷に包まれた箱を置く。光沢のある真っ赤な風呂敷を解いて出て来たのは一尺(約30cm)四方の桐の箱。つい、と差し出され、呼舷は逸る気持ちを抑えてそっと箱の蓋を取った。
現れたのは、片側分しかない真っ白な仮面。
「付けてみな」
禍斬に促され、呼舷はそれを顔の右側に宛てる。触れるだけで最高級と解る面の肌触り、そこから伸びる緻密に編み込まれた柔らかいのに頑丈な面紐。四本伸びる面紐を後頭部で対角に結べばきっちりと締まり、微塵もずれる様子は無い。首を左右に振っても、仮面はまるで顔の一部のように軽く馴染んだ。
「素晴らしい。これほどとは…」
呼舷が一昨日の昼に、源龍胆の礼だとまで言って無理を通して依頼したもの。それがこの仮面だった。
崩れた右側を隠す仮面。今まで、頑なに作ることを拒んでいた。鼻から下は隠しても、崩れた右目は剥き出しにし、顔布とてふとした拍子には潰れた鼻も口元も見える状態だった。それは、他者への無意識の甘えと怯えの現れだったのだろう。
しかしそれも、焔子からの想いを信じられるようになったために必要なくなった。自身の弱さや醜さを受け入れたからこそ、それを隠すことに躊躇うことはなくなった。真実、呼舷は他者への思いやりを持ったからこそ、この面を望んだのだ。
呼舷はそっと仮面を撫でた。艶やかな白地のそれはすらりと高い鼻梁を復元し、歯の剥き出しになっている口の右端を上手く隠して輪郭へと伸びる。潰れた右目を覆う部分は左目を模した形で整えられ、色硝子がはめられているので視界が暗すぎることもない。そして目元や額には僅かに窪ませて彫ったらしいさりげない装飾が入っていた。
「まったくよぉ。職人泣かせにも程があるぜ。お陰で俺も徹夜だ」
ふぁと欠伸をした禍斬の眼の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。軍人でありながら趣味が高じて職人の真似事もする禍斬は装飾彫りに関してはすでに一級の腕前。仮面の目尻や額に彫られたこれらは、工房に泊まり込んで禍斬が施したものに違いない。
「…本当に、涙が出そうだ」
「なんだ気色悪ぃな。持ち上げてもビタ一文まけねぇぞ」
「当然だ。言い値以上を用意する」
満面の笑みで言った呼舷。しかし禍斬は呼舷の頭をスパンッと小気味良い音を立てて叩いた。
「バカか。冗談に決まってんだろ。結婚祝いだ」
「何を言うか。さすがにそこまでの無茶は…」
「あぁん?俺に恥かかす気か?」
腕を組み、むすっと唇を尖らせる禍斬。しかし、と反論したいものの、禍斬の心意気を無碍に出来るはずも無い。禍斬にこうまで言わせて食い下がるのは無粋というものだ。
「…心から、礼をいう」
「おうよ」
破顔一笑。禍斬は満足そうに頷いて、また欠伸をひとつ。そして、式の頃には起きるといって、その部屋に設けられた長椅子に横になってしまった。すぐに聞こえて来た寝息に苦笑し、呼舷はもう一度小さく礼を言い、部屋を後にした。勿論、従仕に禍斬の世話を任せるのも忘れない。
さても、望む物は最高の形で手に入った。呼舷は笑む。婚儀に向け、自身の支度に取りかかろうではないか。
:::
朝食を済ませ、湯浴みをする。普段はひとりの湯浴みだが、今日ばかりは托苑が付き添う。腰布を巻いて湯殿につかり体を温めた後は、香油を馴染ませ、剃刀をあて、さっと流してから今度は塩を揉み込む。それが一段落着いたら塩を取り除くまでの間に髪を洗う。入念に頭皮を洗ってから、腰まで伸びる真っ黒の長い髪を櫛を使って丹念に梳き整える。髪の手入れが終われば、蒸した厚手の布を当てて体の塩を取り除き、最後に冷水をかければ湯浴みは終了だ。
婚礼衣装を整えてある東の間に入れば、上品な香のかおりに出迎えられた。一晩かけて薫き染めたらしいそれは、強すぎず弱すぎず、優しい甘やかさだ。これなら焔子も気に入るだろう。
湯浴みからあがった簡素な着流しのまま、鏡台の前に座れば、髪結い師が鏡の中で一礼し、呼舷のざっくりと纏められていた髪を解いた。油をこれまた丁寧に揉み込み、少々きつめに編み込んで、綺麗に後頭部に纏められる。この時に、新婦の髪の毛を懐紙に挟み、元結――髪を纏める為の紐――で一緒に縛るのが習わしのひとつだ。
ごく薄く化粧を施され、目元に朱を差し、額に花婿の印を入れる。禍斬から贈られた仮面をつけ、礼冠を乗せ、固定されれば、これで頭部の準備は整った。首から下がまだ肌着同然なのがあまりにも滑稽だが仕方ない。
着流しを脱いで婚礼衣装に袖を通していく。まずは元衣と呼ばれる上下の下衣を身につけ、さらに襦袢を着る。どちらも絹で色は深紅だ。同じ色の糸で瑞雲の意匠が刺されている。その上から漆黒の伽藍装と呼ばれる婚礼衣装を着る。何故寺の建物を意味する名が付いているのかは不明だが、その重さや堅さ、動きにくさは伽藍と名付けられるのも納得だ。これには地色と同じく闇のように深い黒の絹糸で獅子が刺されていた。
漆黒の伽藍装には、足下まで伸びる大きな襟や袖、裾、そして背中に金の装飾が施されている。襟元と袖の重ねから見える深紅と相まって、森厳と評しても決して大袈裟ではない。
恭しく従仕や着付けに呼ばれた職人らが立ち上がり、一礼する。昼いっぱいを使い、花婿の準備が整った。少し動いてみて着心地を確かめ問題なしと頷いた時、狙ったように廊下から声がかかる。
「花嫁様、お支度整いましてございまする」
呼舷はそれに応と答える。自然と、顔に笑みが浮かんだ。
花嫁の婚礼衣装は朱に純白を重ねる。白と黒の対は、永遠に分かたれることのない光と影を意味する。真っ白の正絹に陽を浴びた雪のような絹糸で牡丹を刺した花嫁の伽藍装は、それはそれは美しく焔子を飾っていることだろう。
走り出したい気持ちを抑え、開けられた戸に向かえば、戸を開けた従仕はするりと脇に控え、呼舷に道を開ける。伽藍装に合わせて拵えた沓がひたりと廊下を踏みしめた。
ふと、呼舷は顔を上げた。視線の先には屋敷の屋根の向こうに門が見える。そこにゆったりと枝を広げる桜の大木。柔らかな陽の光に眼を細めれば、ぽつりと鮮やかな色が青空に浮かんでいることに気が付いた。
「――桜が…」
零すように呟いた呼舷に応えるように、春風に促された枝がふわりと大きくその手を振った。ちらちらと揺れる花は咲いたばかりなのか、しっかりと枝に留まって呼舷を見つめている。
呼舷は、深く頭を垂れた。古来より武人の屋敷門は北に設けられる。揺れる桜のさらに先、遥か北の地に住まう方に自然と感謝が沸き上がった。
さあ、花嫁を迎えに行こう。
頭を上げ、背を伸ばす。しゃんと鈴の音が聞こえるような佇まいで呼舷は花嫁の元へと足を踏み出した。
式はもう、間もなくである。
禁軍将婚姻譚:完
2015.09.10 改稿




